日露戦争前夜
1895年10月1日、坂本龍馬総理は帝国議会に『戦後経営計画』を提出した。日清戦争の賠償金4億テール(約6億円)の活用を定めたものだった。大日本帝国は日清戦争の戦費として約2億4000万円を使用していた。国家予算3億円の大日本帝国としてはまだ財政負担としては多少はゆとりがあったが、国家基盤が未だに弱体であるのは紛れもない事実だった。
そんな中で大日本帝国は下関講和条約と朝鮮半島併合により、総領土面積約370万km² (史実の約10倍)もの大帝国となっていた。人口も約9000万人となっており、朝鮮半島・満州地方・遼東半島・山東半島・台湾・澎湖島・海南島の住民も『日本人』として加算されていた。領土面積では世界5位、人口は世界4位という数字を誇った。
併合された地域は朝鮮道・満州府・遼東県・山東県・台湾府(澎湖島は台湾府に編入)・海南道として、大日本帝国の都道府県(1893年に法改正により帝都東京府を東京都に改正)に編入した。
坂本龍馬総理が提示した戦後経営計画は、その拡大した大日本帝国の経済力と軍事力を大規模に拡大させるのを目標にしていた。その為に坂本龍馬総理は経済成長五カ年計画、軍備拡張三カ年計画を立案したのである。それらは帝国議会で可決され、大日本帝国は経済力と軍事力の大規模な拡大を目指した。
大日本帝国の経済成長五カ年計画に於いての経済政策は、明治維新以来の殖産興業であった。そしてそれは領土が10倍に拡大した大日本帝国にとっては、全国規模での製鉄所建設となった。八幡・広畑・アンカレッジ・平壌・新竹(台湾)・大連・青島・撫順(満州)・東方(海南島)に大規模製鉄所が建設された。そして経済成長の為に国鉄の予算を大量に増額し、併合した地域の鉄道敷設と既存の鉄道網の更なる拡充を行った。
更に欧米列強から皇軍戦略情報局がガソリン自動車の設計図を奪取し、国内企業に設計図を配り自動車産業が新たに誕生した。坂本龍馬総理は国内の移動インフラを鉄道依存から、多様化する事を目指しガソリン自動車の普及を支援した。未だに流れ作業による大量生産体制が整っていない為に販売価格が高く富裕層にしか普及しなかったが、建設省主導により大日本帝国全土の道路をアスファルト塗装で整備する事になった。
それは都市部では片側3車線最低でも片側2車線で整備し、基本的には片側1車線で全土に整備された。どう考えても自動車の普及に対して過大な道路整備だったが、坂本龍馬総理は将来自動車が普及してから道路整備を行っても遅い、と断言し道路整備を敢行した。
こうした経済政策は実を結び大日本帝国は広大な領土内の資源・製品の流通を円滑に行い、大規模な工業化と金融力・海運力を飛躍的に向上させた。それは新たに併合された朝鮮半島・満州地方・遼東半島・山東半島・台湾・澎湖島・海南島に対しても、一切の差別無く同等に工業化が推し進められた。大日本帝国はそれら地域にも『大日本帝国』としての制度を整備した。
この大日本帝国の行動は賛否の分かれるものであった。肯定派は当時の欧米列強の帝国主義による植民地政策とは一線を画す画期的で先進的であり、船中八策の男女平等と同じくらいの先進的な方針だとしていた。
否定派は植民地ではないにしろ大日本帝国への『同化』であり民族自決を否定し、ある種植民地政策より悪質であるとしていた。
その言い分はどちらも正しかった。大日本帝国は欧米列強の植民地政策を否定しロシア帝国からアラスカを購入した時から、『領土の併合』という形を採用していた。その為に併合された地域は言語は『方言』に、文化は『風習』に、等の扱いになり基本的には大日本帝国の『日本語』と『日本文化』に同化された。
だが扱いにされた、というだけで全て否定された訳では無いので大日本帝国は保護にも努めた。それ以外の社会保障制度や国家としての制度は全て大日本帝国として、統一されたものだった。その為に大日本帝国憲法により『全て臣民は天皇陛下の下に性別に関係なく、大日本帝国臣民は平等である。』と保障されているとの条文は、特に朝鮮半島の人々に衝撃を与えた。
李氏朝鮮の時代ではあり得なかったからである。だが大日本帝国は帝国であるのを逆手に取り、天皇陛下の下に大日本帝国臣民は性別に関係なく平等だと、憲法に明記したのだ。全てに於いて扱いは同じだったのだ。大日本帝国にしてみればアラスカ・北海道・沖縄も完全なる同化政策により成功していた為に、朝鮮半島・満州地方・遼東半島・山東半島・台湾・澎湖島・海南島の同化政策も成功すると判断していた。
事実経済成長五カ年計画に於いて併合地域含め大日本帝国全土が同じ扱い政策を受ける事が分かり、朝鮮半島での反日活動は完全に終息したのである。そして年々各地域は大日本帝国へと同化されていった。
大日本帝国は経済成長五カ年計画を成し遂げ、軍備拡張三カ年計画を開始した年である1900年は半ばを過ぎた時である6月20日に、清国に於いて『義和団の乱』が発生した。
乱の主体となった義和団はもともとは山東半島で発生した。下関講和条約により山東半島は大日本帝国に併合されたが、当然ながら全員が全員それを受け入れた訳では無かった。大日本帝国流の諸制度が整備され神道による神社が山東半島に建立されるに至り、明確に『義和団』として山東半島で反日活動が始まった。
そして義和団は神社を襲撃し神社の破壊や神主の殺害を行った。ここに至り大日本帝国は陸海軍を派遣し、本格的に義和団の制圧に乗り出した。義和団にとって意外だったのは大日本帝国の経済政策により、山東半島の経済力も向上した事から『日本人』への同化を大多数の住民が受け入れた事だった。
神道の進出にしても大日本帝国にしてみれば宗教を押し付けるつもりは毛頭なく、男女平等と同じく信教に対しても世界的にみて寛容な国だった。その為に義和団はある意味で山東半島で『浮いた存在』になっていた。そのような事もあり義和団は活動の拠点を清国に移す事にし、大日本帝国の隙を突き海路で天津に脱出した。
大日本帝国にしてみれば厄介者がいなくなった訳だが、これが欧米列強を巻き込んだ大騒動に発展するのである。天津に移動した義和団は清国に於いてその勢力を拡大させた。『扶清滅洋』を掲げそれに賛同する者が続々と集まり、20万人に達する規模になっていた。清国内では欧米列強のキリスト教徒や施設を襲撃する義和団は、清国の暗黙の了解を得ていた。
そして1900年6月10日、20万人の義和団が北京に入城する。ここに至り清国の西太后は欧米列強に対して宣戦布告を行った。だが清国にしては予想外の事態が発生する。翌日11日に大日本帝国が宣戦布告したのである。世にいう『第二次日清戦争』が勃発した瞬間だった。
大日本帝国は義和団が山東半島を脱出してから皇軍戦略情報局を動員し、義和団と清国政府の動きを探っていた。そこで皇軍戦略情報局は清国政府が義和団の動きを黙認しているのと、それを利用して欧米列強に宣戦布告を行おうとしているのを特定した。
そこで大日本帝国は義和団を脱出させてしまった事の責任を取るとして、欧米列強各国に大日本帝国が再び清国と戦争をすると伝えた。それは表向きは欧米列強に恩を売るのと、ロシア帝国が義和団の乱を利用して満州に侵入してくる口実を与えない為だった。
その大日本帝国の責任感ある行動を大英帝国とアメリカ合衆国は支持し、ロシア帝国・フランス共和国・ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・イタリア王国も了承した。こうして大日本帝国は清国の宣戦布告の翌日に、早くも宣戦布告を行った。
そうなると後は一方的であった。山東半島と満州から大日本帝国陸軍は清国に侵攻し、大日本帝国海軍連合艦隊は天津に対して徹底的な艦砲射撃を行った。清国は第一次日清戦争の敗戦で巨額の賠償金を支払った事から、軍の再建が出来ておらず大日本帝国陸海軍を迎撃出来なかった。
その為に清国と義和団は圧倒的戦力差により大日本帝国により制圧された。義和団は大日本帝国陸海軍により壊滅させられ、1900年7月22日第一次日清戦争では北京包囲に留めた大日本帝国陸軍は北京入城を果たした。そして即日清国は大日本帝国に降伏を伝えた。
こうして大日本帝国陸軍の直接的威圧により清国は大日本帝国の提示した『北京議定書』を、一切の修正を認められず一方的に調印させられた。北京議定書は大英帝国・アメリカ合衆国・ロシア帝国・フランス共和国・ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・イタリア王国の北京と天津・上海での租界地拡大新設を認める内容だった。
大日本帝国は第一次日清戦争で大量の領土を割譲させた為に、租界地は求めずに5000万テールの賠償金を要求した。こうして第二次日清戦争は短期戦により終結したのである。
このように義和団の乱を終息させた大日本帝国を大英帝国は評価し、更には清国での権益を守る為に大日本帝国に期待を示すようになり、栄光ある孤立を捨て1902年に日英同盟を締結するに至った。これには日本軍を賞賛したモリソンの後押しもあった。日英同盟の内容は締結国が他国(1国)の侵略的行動に対応して交戦に至った場合は、同盟国は中立を守ることで、それ以上の他国の参戦を防止する。更に2国以上との交戦となった場合には同盟国は締結国を助けて参戦することを義務づけたものであった。また秘密交渉では大日本帝国は単独で対露戦争に臨む方針が伝えられ、大英帝国は好意的中立を約束したのである。このように大日本帝国はもはやロシア帝国との戦争は避けられないと判断していた。
何せロシア帝国はシベリア鉄道建設を加速させ、1902年末には全線開通を果たしていた。そのシベリア鉄道を使い満州府国境沿いに、続々と陸軍を派遣していた。この時点で大日本帝国は開戦か和平か政府でも意見が統一されていなかった。1901年から内閣総理大臣に就任していた中沢琴は、枢密院議長坂本龍馬と元老勝海舟の2人と協議を行った。
そこで枢密院議長坂本龍馬はロシア帝国との戦争は極力避けるべきだが、現状では明確な軍事的圧力をかけている以上は開戦もやむ無しと語った。元老勝海舟もアラスカ購入時の日露友好は過去のものであり、開戦やむ無しと語った。
中沢琴総理は枢密院議長坂本龍馬の軍備拡張三カ年計画が来年には完遂するとして、訓練による練度向上をきたして1904年の開戦を決意した。
そして翌1903年は大日本帝国とロシア帝国は双方が戦争準備を行った為に、東アジアの軍事的緊張は極限までに高まった。
そして1904年2月6日、大日本帝国の外務大臣小村寿太郎はロシア帝国のローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。同日駐露公使栗野慎一郎は、ラムスドルフ外相に国交断絶を通知した。
そして大日本帝国はロシア帝国に対して宣戦布告を行ったのである。




