下関講和条約
1895年3月19日の朝に清国から欽差頭等全権大臣(特命全権大使)として北洋大臣直隷総督の李鴻章と、過去に駐日公使を務めていたことがある李経方が来日した。李鴻章と李経方は大日本帝国が指定した山口県赤間関市(現、下関市)に到着。大日本帝国側の代表として坂本龍馬総理と陸奥宗光外務大臣が出迎え、その翌日から割烹旅館春帆楼において講和会議が開催されたのである。その間も大日本帝国陸軍は北京包囲を続け、大日本帝国海軍連合艦隊は天津沖に停泊し威圧を続けていた。その為に大日本帝国は清国に対して一切譲歩せず、強圧的な内容の講和条約を提示した。
清国はその内容に難色を示したが、大日本帝国陸海軍が威圧を続けているのは紛れもない事実だった。その為に欽差頭等全権大臣(特命全権大使)たる李鴻章と李経方は、大日本帝国の提示した講和条約に一切の修正を求めずに調印した。1895年4月1日の事であった。
『下関講和条約
1.清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。
2.清国は遼東半島・山東半島・台湾・澎湖諸島・海南島など付属諸島嶼の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に大日本帝国に割与する。
3.清国は賠償金4億テールを日本に支払う。
4.割与された土地の住人は自由に所有不動産を売却して居住地を選択することができ、条約批准2年後も割与地に住んでいる住人は大日本帝国の都合で大日本帝国臣民と見なすことができる。
5.清国は沙市、重慶、蘇州、杭州を大日本帝国に開放する。大日本帝国臣民は清国の各開市・開港場において自由に製造業に従事することができる。
6.大日本帝国は3か月以内に清国領土内の大日本帝国軍を引き揚げる。
7.清国は大日本帝国軍による上海の一時占領を認める。賠償金の支払いに不備があれば大日本帝国軍は引き揚げない。
8.清国にいる日本人俘虜を返還し、虐待もしくは処刑してはいけない。日本軍に協力した清国人にいかなる処刑もしてはいけないし、させてはいけない。
9.条約批准の日から戦闘を停止する。
10.条約は大日本帝国天皇陛下及び大清国皇帝が批准し、批准は北京にて明治28年5月8日、すなわち光緒21年4月14日に交換される。』
このような内容であった。まさに大日本帝国の軍事的威圧の賜物と言える内容だった。清国の欽差頭等全権大臣(特命全権大使)たる李鴻章と李経方は、講和条約の内容に概ね了承したがやはり2項目目の内容に難色を示した。
遼東半島・山東半島・台湾・澎湖諸島・海南島の割譲である。喪失領土が広過ぎた。だが大日本帝国は一切譲歩しなかった。日清戦争のそもそもの勃発理由が清国側の偶発的攻撃によるものであり、坂本龍馬総理はその点を厳しく追及したのである。そうなると清国としては反論出来ず、軍事的威圧が続いているのは紛れもない事実である為に調印するしか無かった。
これにより日清戦争は両国の講和条約調印により正式に終結となり、東アジアにおける『地域覇権国』の地位は大日本帝国のものになったのである。
大日本帝国の日清戦争における一方的な完全勝利は、欧米列強の注目を集めた。かつてはサムライの近代軍を保有する不思議な国、との印象であったが立憲君主制の帝国に生まれ変わり欧米列強にしてみれば、帝国主義に目覚めた新たな国だとの認識だった。
その国が『眠れる獅子』と言われた清国に対して一方的な完全勝利を納めたのである。しかも講和条約も北京を完全包囲している為に、一方的な内容での調印を成し遂げた。清国が眠れる獅子なら大日本帝国はその弧状列島から『昇り龍』だと例えられた。だがその大日本帝国に下関講和条約調印直後に、早速試練が訪れた。
ロシア帝国・ドイツ帝国・フランス共和国の3国が(中心となったのはロシア帝国)、大日本帝国に対して遼東半島と山東半島の清国への返還を勧告したのである。1895年4月23日の事であり、一般的に『三国干渉』と呼ばれる出来事だった。
三国干渉の勧告の趣旨は『大日本帝国による遼東半島と山東半島所有は、清国の首都北京を脅かすだけでなく、朝鮮の独立を有名無実にし、極東の平和の妨げとなる。従って、領有の放棄を勧告し誠実な友好の意を表する』というものだった。だがこれは表向きの趣旨どあり、本音はロシア帝国の南下政策にあった。ロシア帝国は極東進出のために不凍港が必要であり、南下政策を取り満州における権益拡大を図っていた。
そのロシア帝国にとって遼東半島と山東半島を大日本帝国に奪われる事は南満州の海への出口を失うことになった。その為に大日本帝国の満州進出阻止を目論んだのである。当初は大日本帝国が朝鮮の独立を尊重するならば、遼東半島と山東半島は大日本帝国に割譲されてもよいと考えたが、セルゲイ・ウィッテの登場により大日本帝国への干渉に乗り出したのである。
だがこの三国干渉は大日本帝国にとっては、想定されたものだった。皇軍戦略情報局の諜報員は欧米列強に大使館職員や各種民間人を装い、大量に潜伏していた。それはかつての江戸幕府御庭番の流れを汲む為に忍術が継承されており、世界最大規模のヒューミント能力を誇る諜報機関だった。その為にロシア帝国の南下政策による大日本帝国への干渉、ドイツ帝国の黄禍論による大日本帝国への危機感、露仏同盟によるフランス共和国のロシア帝国支持、以上から三国干渉が行われると予測していた。
そこで大日本帝国は三国干渉前から先手を打ち、大英帝国とアメリカ合衆国に接触していた。大英帝国とアメリカ合衆国には清国での権益がロシア帝国の南下政策により脅かされると説明し、両国の関心を得る事に成功していた。大日本帝国は大英帝国とアメリカ合衆国の清国での権益は保護すると表明し、大日本帝国が東アジアに於いて両国の権益の守護者になると語ったのである。
これにより1895年4月23日の三国干渉発生の2日後には、大英帝国とアメリカ合衆国が三国干渉は不当だと表明した。ロシア帝国・ドイツ帝国・フランス共和国にとっては予想外の事態だった。更に大日本帝国は先手を打ち、朝鮮半島に展開していた陸軍10個師団を満州地方に展開させた。海軍連合艦隊もロシア帝国沿海州への軍事的威圧を行う為に、日本海に移動した。
こうなるとロシア帝国・ドイツ帝国・フランス共和国は三国干渉どころでは無かった。大日本帝国がここまでの動きを見せるとは思わず、大英帝国とアメリカ合衆国が大日本帝国側に付くのも予想外だった。その為にロシア帝国・ドイツ帝国・フランス共和国は早々に三国干渉を撤回した。
これにより下関講和条約の批准を妨げる障害は無くなった。だが大日本帝国は大英帝国とアメリカ合衆国の賛同を得て、清国に下関講和条約の条項追加を通告し『満州地方の譲渡』も迫ったのである。これはロシア帝国の南下政策を大日本帝国が身を挺して阻止する事の証明であり、大英帝国とアメリカ合衆国が権益保護の為に賛同した結果だった。
三国干渉を撤回したロシア帝国・ドイツ帝国・フランス共和国はもはや何も反応せず、欧米列強に見捨てられた清国は大人しく大日本帝国の通告を受け入れるしか無かった。
これにより明治28年5月8日の下関講和条約批准により、大日本帝国領土は大幅に拡大する事になった。大日本帝国は三国干渉により満州地方に展開させた陸軍10個師団から8個師団をそのまま満州地方平定に使い、残る2個師団は1個師団ずつを遼東半島と山東半島平定に派遣し、北京を包囲していた5個師団は1個師団を下関講和条約の内容により上海の一時的占領に派遣し、2個師団ずつを台湾と海南島平定に派遣した。
大日本帝国は下関講和条約により割譲させた地域を全て植民地では無く、併合すると宣言し地域平定を成し遂げた。そして大日本帝国は全地域平定を1895年9月5日に完了した。
これで東アジアは安定すると思われたが1895年9月8日、大日本帝国は李氏朝鮮に宣戦布告を行った。予想外の事態だった。だがこれは大英帝国とアメリカ合衆国に大日本帝国が、ロシア帝国の南下政策を阻止する為の施策だと説明し了承を得ていた。驚いたのは清国と李氏朝鮮だった。
清国にしてみれば下関講和条約で朝鮮半島の独立を確認したばかりの侵攻であり、李氏朝鮮は清国への属国から独立出来ると思った矢先の出来事だった。その為に李氏朝鮮の反撃は全く行われず、大日本帝国陸軍は李氏朝鮮の政府首脳陣を抹殺し、政府中枢を消滅させ汎ゆる政治家を殺害した。
その一方で民間人には一切危害を加えず、大日本帝国は朝鮮半島を大日本帝国の一地方にさせ汎ゆる権利を大日本帝国憲法で保障し、近代化を推し進めると発表した。これにより反日活動は皆無とはいかないが、予想以上に低く抑えられた。
こうして大日本帝国は1895年9月20日に朝鮮半島併合を宣言し、大日本帝国は地域覇権国の地位を占めると共に領土を大幅に拡大させた。




