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鉄と海の帝国  作者: 007
第0章 巨艦の胎動

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日清戦争

1894年8月1日に日清両国が宣戦布告をし、遂に日清戦争が開戦したが開戦から1ヶ月間は何事も起こらなかった。しかしそれは大日本帝国と清国共に、兵力の派遣と展開を行っていたからであり、大規模な衝突の下準備であった。

大日本帝国は皇軍統合作戦司令本部が、『大海令』と『大陸令』のそれぞれ第1号を、海軍と陸軍に出した。大海令第1号は『連合艦隊は清国海軍北洋艦隊を撃滅し、制海権を確固たるものにせよ。』であり、大陸令第1号は『陸軍総軍は李氏朝鮮から清国陸軍を撃滅し、朝鮮半島を確保せよ。』であった。これにより大日本帝国の日清戦争に於いての初期目標は、朝鮮半島からの清国の影響力の排除と朝鮮半島を大日本帝国の傘下に入れる事であった。

こうして皇軍統合作戦司令本部では勝海舟総長の下で、陸海軍による会議が行われ大日本帝国史上初の大規模な海外展開が決定した。大日本帝国陸軍総軍は先に朝鮮半島に展開している第5師団に加え、更に4個師団の派遣を決定した。大日本帝国海軍連合艦隊は、2個艦隊全てを派遣して清国海軍北洋艦隊を撃滅する事を決定した。

海軍連合艦隊が全艦隊を派遣するのに対して、陸軍総軍が保有する15師団から合計5個師団だけの派遣なのは、朝鮮半島での補給兵站線が現状では確立出来ていないのと、後の作戦で遼東半島上陸を計画していたからであった。清国も陸軍と海軍の戦力を展開する事を決定し、その為に両国は開戦から1ヶ月の間まともに戦うことは無かった。

だが両国が戦力を整えている間に大日本帝国は、李氏朝鮮と外交交渉を行い8月26日に大日本帝国は、李氏朝鮮と『大日本大朝鮮両国盟約』を締結した。

大日本大朝鮮両国盟約は全3条から成り内容は、

『この盟約は、清国の軍隊を朝鮮国外に撤退させ、朝鮮国の独立自主を強固にして両国の利益を増進することを目的とする。

大日本帝国は清国に対し攻守の戦争をおこない、朝鮮国は大日本帝国軍兵士の進退や兵糧準備のために便宜をはかる。

この盟約は対清平和条約が成立したら破棄すること。』というものであった。これにより大日本帝国は朝鮮半島に於いての補給兵站線を確保し、大日本帝国本土から輸送船団による大量の補給物資の輸送を開始した。海軍連合艦隊の第1第2艦隊が出撃したが、清国海軍北洋艦隊は未だに出撃して来ず日本海における制海権は絶対的であり、海上輸送路は完璧に機能していた。

そんな中で1894年9月15日、遂に大日本帝国陸軍と清国陸軍の大規模戦闘である『平壌の戦い』が勃発した。双方2個師団を投入する大規模な陸戦となった。清国陸軍としては平壌占領以後からガトリングガン陣地や野砲陣地を構築し絶対的な自信を持っていたが、大日本帝国陸軍は師団長自らの『将校斥候』により清国陸軍陣地の弱点を突き止めた。

そうして1894年9月15日の大日本帝国陸軍による総攻撃が開始された。大日本帝国陸軍の主力火砲である、八九式75ミリ野砲(射程6000m)は清国陸軍の野砲の射程外から大量に降り注いだ。それらは清国陸軍のガトリングガン陣地と野砲陣地を的確に捉え、次々と破壊していった。防御の要である陣地が破壊されると、まずは大日本帝国陸軍騎兵隊が突撃してきた。九十式歩兵銃は馬上からにも関わらず的確に命中し、ボルトアクション式ながらも8発弾倉を備える為に弾幕も激しかった。

それら大日本帝国陸軍騎兵連隊が接近してくると、九式輪胴式拳銃(6連発式リボルバー)と騎兵軍刀を駆使して、大日本帝国陸軍騎兵連隊は近接戦を行った。こうなると清国陸軍は大混乱に陥った。そしてそこに大日本帝国陸軍歩兵連隊が追い討ちをかけるように突撃してきたのである。これにより戦闘は決定的になった。だが清国陸軍は撤退しようにもそこに八八式ガトリングガン(発射速度200発/分)が弾幕を浴びせ、一切の逃走を許さなかった。

その為に最終的には大日本帝国陸軍は死者180人、負傷者506人を出したが、清国陸軍は死者約2万人、負傷者約9000人、捕虜約1万人という大敗北を喫した。だが清国の大敗北は陸軍だけに留まらず海軍にも及んだ。平壌の戦いから僅か2日後の、1894年9月17日に勃発した『黄海海戦』であった。黄海海戦は大日本帝国海軍、清国海軍共に近代的な装甲艦を投入した、人類史上初めての海戦として記録される事になった。

大日本帝国海軍連合艦隊は大海令により、清国海軍北洋艦隊撃滅と制海権確保を目指したが北洋艦隊が出撃しなかった為に、なかなか海戦に持ち込めずにいた。朝鮮半島沿岸部にまで出撃したが、北洋艦隊は一向に出撃しなかったのである。だが

皇軍戦略情報局が北洋艦隊が陸軍を朝鮮半島に輸送する為に、陸軍4000人が分乗する輸送船5隻を護衛するため大連湾にて総力をあげて準備を行い、出港した情報を掴んだ。

それを仮根拠地(朝鮮半島最西端の長山串(チョッペク岬)の北東)に停泊していた大日本帝国海軍連合艦隊は北洋艦隊出撃の情報を得て艦隊決戦を目指し、出港した。そうして出撃した大日本帝国海軍連合艦隊は1894年9月17日に黄海海上で、清国海軍北洋艦隊を捕捉し黄海海戦が勃発したのである。

大日本帝国海軍連合艦隊は連合艦隊司令長官伊東祐亨大将直属の第1艦隊と、坪井航三中将率いる第2艦隊に分かれていた。海軍拡張計画の六六艦隊は戦艦を配備した主力艦隊たる第1艦隊と、装甲巡洋艦を配備した遊撃隊を担う第2艦隊に分かれていた。対する北洋艦隊は丁汝昌提督が統率し、清国海軍の誇りをかけて黄海海戦に臨んだ。丁汝昌提督にしても光緒17年(1891年)7月から8月にかけて艦隊を率いて大日本帝国を訪問した際に受けた、屈辱を晴らす機会だとして気合が入っていた。この大日本帝国訪問は最新鋭の巨大戦艦を率いて大日本帝国を恫喝することが目的の1つだったが、大日本帝国は1890年に六六艦隊計画を完遂しており逆に連合艦隊が北洋艦隊をエスコートという形で威圧し、丁汝昌提督に屈辱を与えていた。

宿命のライバルともいえる関係の連合艦隊と北洋艦隊であったが、海戦は僅か1時間で勝敗が喫した。

つまりは清国海軍北洋艦隊は、大日本帝国海軍連合艦隊により全滅したのである。それは軍事用語で言うところの『全滅』では無く、一般的な意味での『全滅』だった。戦術面ではこの黄海海戦で大日本帝国海軍連合艦隊は、単縦陣による速射砲を主体とした砲撃戦術の有効性を世界に知らしめ、以後海戦の基本として定着した。大日本帝国海軍では低速・重火力主体の部隊(第1艦隊)と、高速・速射主体の部隊(第2艦隊)とに分けて運用する形がこの黄海海戦以降基本形となった。

それほどまでに圧倒的な勝利だった。大日本帝国海軍連合艦隊の戦艦天照級と松島級の32センチ砲は驚異的な威力を誇り、装甲巡洋艦千代田級の15センチ砲は圧倒的な速射性能を誇った。加えて大日本帝国海軍連合艦隊は士気と練度が極めて高く、圧倒的な命中率を誇った。

それに対して清国海軍北洋艦隊は慢性的な予算不足から訓練が行えず練度不足であり、それに付随して士気も低かった。その為に丁汝昌提督の意気込みは空回りするばかりだった。その結果として大日本帝国海軍連合艦隊は勝利を収め、清国海軍北洋艦隊は黄海に消えたのである。

だが大日本帝国海軍連合艦隊も無傷では無く、装甲巡洋艦千代田級浪速が艦橋に被弾し艦長の東郷平八郎大佐以下、幹部要員が全滅する被害を受けていた。


平壌の戦いと黄海海戦の大勝利により大日本帝国は、制海権と朝鮮半島での優位を確固たるものにした。そして皇軍統合作戦司令本部はその優位性を活かすべく、朝鮮半島全域を確保するべく『大連上陸作戦』を立案した。その大連上陸作戦は1894年10月28日に大日本帝国陸海軍共同作戦で実行されたのである。

大日本帝国海軍連合艦隊による圧倒的な艦砲射撃は、清国の防衛部隊を殲滅した。そして大日本帝国陸軍は新たに本土から5個師団を上陸作戦に投入し、見事に大連を占領したのである。大連を占領した大日本帝国陸軍5個師団はそのまま遼東半島全域も占領した。そして平壌の戦いで勝利した5個師団は北上を開始し、遼東半島を占領した5個師団は鴨緑江を渡河し南下した。これにより朝鮮半島北部にいた清国陸軍8個師団は挟撃され、大日本帝国陸軍は全滅させる戦果を挙げた。

立て続けの大勝利は大日本帝国の国民世論を大いに刺激した。連日提灯行列により皇軍勝利が祝われた。それに対して清国は連敗続きで、継戦能力は低下していた。それは清国政府内での政争という形に表れた。

その事を大日本帝国は皇軍戦略情報局の諜報活動で知ることになった。そして皇軍統合作戦司令本部は清国政府への直接的恫喝を行う事にし、『天津上陸作戦』を立案した。朝鮮半島が事実上大日本帝国の勢力圏に入った事で、清国政府に直接的恫喝を行うべく北京に隣接する天津に上陸作戦を行う内容だった。

こうして1895年1月19日、大日本帝国陸海軍は再び共同作戦を実行し天津上陸作戦を敢行した。大日本帝国が覚悟していたよりも遥かに下回る被害で、天津上陸作戦は成功した。そして天津上陸作戦を完了させた大日本帝国陸海軍はそれぞれ動き出した。大日本帝国海軍連合艦隊は沿岸部一帯に艦砲射撃を行い、大日本帝国陸軍は天津に上陸した5個師団を全て北京に向けて進軍させた。

海軍連合艦隊の艦砲射撃で打撃を与えながら、陸軍5個師団で北京を包囲したのである。そして大日本帝国は坂本龍馬総理が帝国議会に於いて演説し、清国に対して降伏勧告を行ったのである。それは清国が降伏しない場合は海軍連合艦隊は沿岸部全域を艦砲射撃により徹底的に破壊し、陸軍は北京に対して総攻撃を開始するというものだった。

明らかな恫喝であり、清国政府はその降伏勧告を受け入れるしかなかった。1895年2月5日、清国は大日本帝国に対して降伏すると表明した。こうして日清戦争は大日本帝国の、一方的勝利となったのである。

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