日清戦争前夜
1869年。大日本帝国が明治維新を完遂させた年、世界も動き続けていた。ヨーロッパでは スエズ運河が開通した。(11月17日)。フランス主導でエジプトに建設され、地中海と紅海が直結されアフリカ周りより約1万キロ、航路が短縮された。そしてこれが列強の帝国主義を加速させ、アフリカ分割の前兆となった。
アメリカ合衆国は初の大陸横断鉄道を完成させた(5月10日、ユタ州プロモントリー)。東海岸と西海岸を結び、西部開拓が加速された。移民も増大し、経済成長を更に推し進めた。そして隣国清国が天津条約により港を開港し、イギリスとフランスが進出した。
これを坂本龍馬総理は、帝国議会で強く訴え大日本帝国は、『殖産興業』と『富国強兵』を強力に推し進めた。目の前で清国が西洋列強に侵略されるのを見せ付けられており、大日本帝国の危機感は強かった。その為に何としても国土を守り抜く必要があり、それには経済力拡大による軍備増強が絶対であった。坂本龍馬総理の経済発展政策は、かつての江戸幕府の教訓を反映し、大日本帝国全土に於いて格差を生み出さない経済発展政策が行われた。
江戸幕府が開国政策を採用してからの経済発展政策は、江戸と長崎に富が集中し過ぎた事により、結果的に薩長の反乱を招いてしまった。それを江戸幕府側の人間として目撃した坂本龍馬総理は、経済発展を大日本帝国全土に拡散させて全国規模で経済力の底上げを図るものだった。
その為に坂本龍馬総理は、『大日本帝国国有鉄道機構設置法案』を帝国議会に提出し、建設省所管だった鉄道を『鉄道省』を新設し完全国有化を行った。更に坂本龍馬総理は「人命を預かるものが利益を求めてはならない」として、全ての鉄道を国有化による『無料化』を宣言した。
それは『私鉄建設禁止令』と併用され、大日本帝国全土の鉄道は国有化により国鉄のみとなり、大日本帝国全土隅々にまで鉄道が整備され、無料で利用可能となった。そして鉄道も『旅客線』『貨物線』に路線毎に分けられ、『貨客分離』による効率化と輸送力増大を成し遂げた。
一部議員は赤字が増大すると、国有化による無料化を批判したが坂本龍馬総理は一笑に付した。「それなら軍隊も赤字であり、警察や消防も赤字だ。国鉄は単に予算として運用されるのである。それは赤字では無く、必要経費となる。」と断言した。そう言われては、反対議員も黙るしか無かったのである。
そんな中で大日本帝国は1873年5月に行われたウィーン万国博覧会に参加した。産業革命の展示が行われ、大日本帝国も国産の蒸気機関や鉄鋼を展示しその品質の高さから、更なる輸出先を確保する事になった。
そして1874年。大日本帝国は連合艦隊を派遣し、軍事的圧力をかけながら『日朝修好条規』を締結する。それまで李氏朝鮮とは隣国でありながら、大日本帝国は江戸幕府の時代から国交を結んでいなかった。それは李氏朝鮮がかつての江戸幕府のようにある種『鎖国』状態だった事が大きかった。だが新生大日本帝国としては、隣国との関係を決定的なものにする必要があった。
そこで大日本帝国は『砲艦外交』を行う事にした。海軍連合艦隊を派遣し、陸軍も上陸させての軍事的圧力をかけながら『日朝修好条規』を締結させたのである。その内容は全ての港を開け放ち、大日本帝国との貿易を行うとの内容だった。そして更に清国の影響力を削ぐ為に、清国からの自主独立を宣言させたのである。
これに清国や西洋列強は驚いた。『最恵国待遇』や『領事裁判権』等は大日本帝国は要求しなかったが、軍事的圧力をかけての強圧的な外交を行ったからである。大日本帝国は清国とは1871年に『日清修好条規』を締結したが、それは正式な外交によるものだった。だが日朝修好条規は大日本帝国の軍事的圧力により強圧的に締結された。
清国としては大日本帝国が李氏朝鮮を狙っていると判断する出来事であり、 それは台湾出兵(1874年)での大日本帝国の清国にたいする高圧的態度から、決定的だと清国は確信した。
その後大日本帝国と清国は、互いを仮想敵国に指定し、軍拡を行う事になる。
以下日清戦争開戦までの世界の流れ。
1875年
欧州: 英国がスエズ運河株式取得(44%、400万ポンド)。エジプト支配強化。
米国: シヴィル・ライツ法(黒人権利保護)。
その他: 国際度量衡局設立(メートル条約)。
1876年
欧州: バルカン危機、オスマン帝国の衰退。ロシアの南下政策。
米国: コロラド州成立。電話発明。
アジア: 清国で鉄道建設開始(英国影響)。
1877年
欧州: 露土戦争(1877-1878年)。ロシア勝利、バルカン独立進む。
米国: 再建時代終了、南部の人種差別復活。
1878年
欧州: ベルリン会議(6-7月)。バルカン再編、ロシアの領土縮小。
その他: 米でエジソン電球発明(1879年)。
1879年
欧州: 二重同盟(ドイツ、オーストリア)。
米国: 女性参政権運動活発化。
アジア: 清国で北洋艦隊整備(ドイツ製定遠)。
1880年
欧州:ボーア戦争(1880-1881年、英国vsボーア人)。
米国: ガーフィールド大統領選出。
その他: 米で初の鉄筋コンクリートビル。
1881年
欧州: ロシア皇帝アレクサンドル2世暗殺。
米国: ガーフィールド暗殺、チェスター・アーサー大統領。
アジア: 清国でフランスとベトナム争奪。
1882年
欧州: 三国同盟(ドイツ、オーストリア、イタリア)。
アフリカ: 英国がエジプト占領。
米国: 移民制限法(中国人排除)。
1883年
欧州: ドイツでビスマルクが社会保険法。
アジア: 清仏戦争(1884-1885年)開始の前兆。
その他: 米でブルックリン橋完成。
1884年
欧州: ベルリン会議(1884-1885年)。アフリカ分割正式化。
米国: グローバー・クリーブランド大統領選出。
アジア: 清仏戦争(1884-1885年)。フランス勝利、ベトナム保護国化。
1885年
欧州: ブルガリア危機、ロシアの影響拡大。
アジア: 清国で北洋艦隊強化(定遠、7,000トン)。
1886年
欧州: ロンドン暴動、社会主義運動。
米国: ヘイマーケット事件、労働運動。
アジア: ビルマ戦争終了、英国併合。
1887年
欧州: ロシアでテロ増加。
米国: インターステート・コマース法(鉄道規制)。
その他: エジプトでスエズ運河拡張。
1888年
欧州: ヴィルヘルム2世ドイツ皇帝即位。
米国: ベンジャミン・ハリソン大統領選出。
アジア: 清国で李鴻章が北洋艦隊指揮。
1889年
欧州: ロンドン・ドックストライキ、労働法改正。
米国: オクラホマ・ラッシュ、西部開拓。
その他: エッフェル塔完成(パリ万博)。
1890年
欧州: ビスマルク辞任、ドイツ軍拡。
米国: シャーマン反トラスト法。
1891年
欧州: 露仏同盟の基盤(1892年正式)。
米国: ポピュリズム運動。
1892年
欧州: 露仏同盟成立。
米国: ホームステッドストライキ。
アジア: 清国で義和団の前兆。
1893年
欧州: フランスでパナマ運河スキャンダル。
米国: 金融パニック。
1894年
欧州: ドレフュス事件(フランス、反ユダヤ主義)。
米国: プルマンストライキ。
背景: 列強の帝国主義(アフリカ分割完了、1890年頃)。産業革命の第2波(電気、石油)で経済成長。
1894年1月10日。李氏朝鮮で甲午農民戦争が発生。そして5月31日、農民軍が全羅道首都全州を占領する事態になった。これにより李氏朝鮮は、清への援兵を決める一方、農民軍の宣撫にあたった。
当時の第2次坂本龍馬内閣は、経済発展のために3月に解散総選挙(第3回)を行い、坂本龍馬率いる自由党は圧倒的大勝利を収めていた。それにより安定した政権運営が可能となり、坂本龍馬総理の経済発展政策は新たに可決する事になった。だがその頃、朝鮮では民乱が甲午農民戦争と呼ばれる規模にまで拡大しつつあり、外務大臣陸奥宗光が坂本龍馬総理に「今後の模様により……軍艦派出の必要がある」と進言した。
5月31日、文部大臣井上毅が坂本龍馬総理に対し、天津条約に基づく朝鮮出兵の事前通知方法と、出兵目的確定について手紙を送っており、坂本龍馬総理周辺で出兵が研究されていた。帝国議会開会から18日後の6月2日、坂本龍馬内閣は、枢密院議長徳川慶喜(公武合体を成し遂げた徳川家を坂本龍馬総理は尊重し、帝国議会貴族院の勅撰議員として推挙した。これを受けて徳川家は大日本帝国華族として、皇室を支える存在となる。)を交えた閣議で、清が朝鮮に出兵した場合、公使館と居留民を保護するために陸軍を派遣する方針を決定した。そして1894年6月5日大日本帝国は敏速に対応する為に、『皇軍統合作戦司令本部』が陸軍第5師団に動員(充員召集)を下命した。これにより大日本帝国陸軍海軍は、全戦力を動員した戦時体制に突入した。
その同じ6月5日、清国の巡洋艦2隻が仁川沖に到着。日清両国は、天津条約に基づき、6日に清国が大日本帝国に対し、翌7日に大日本帝国が清国に対して朝鮮出兵を通告した。清は、8日から12日にかけて上陸させた陸兵2400人を牙山に集結させ、25日に400人を増派した。
対する大日本帝国は10日、帰国していた公使大鳥圭介に海軍陸戦隊・警察官430人をつけ、首都漢城に入らせた。更に16日大日本帝国陸軍第5師団が仁川に上陸した。しかし既に李氏朝鮮と東学農民軍が停戦しており、天津条約上も大日本帝国の派兵理由がなくなった。軍を増派していた清も、漢城に入ることを控え、牙山を動かなかった。
ここで両国は撤兵すれば何事も起きなかったが、清国陸軍が偶発的に大日本帝国陸軍に対して攻撃を仕掛けてきたのである。突然の攻撃であったが、幕府陸軍以来の近代化が進んでいた大日本帝国陸軍により清国陸軍は全滅したのである。
この時の大日本帝国陸軍は単射だが連発式の歩兵銃に、軍馬牽引式の大砲とガトリングガンを装備していた。これにより偶発的な戦闘ながら、圧倒的戦力差により清国陸軍は瞬殺されたのである。
慌てたのは清国であった。
生存者がいない為に、大日本帝国による騙し討ちだと非難したのである。大日本帝国は坂本龍馬総理と国防大臣が毅然と反論し、大日本帝国陸軍参謀総長中沢琴大将も清国陸軍による偶発的攻撃による事故、だと反論した。
だが清国世論は急速に反日に傾いた。事態を重く見た大英帝国とロシア帝国が、仲介し大日本帝国と清国の平和的解決を目指したが清国はそれらを全て拒否した。大日本帝国世論も清国の横暴に怒りに震え、戦争機運が高まった。そして坂本龍馬総理は閣議に於いて、清国との戦争は避けられないと結論付けた。そして宮城に於いて御前会議が行われ、大日本帝国は明治天皇の御聖断により清国開戦を決定する。
そして大日本帝国は戦争の開戦準備を始める。大日本帝国と清国両国が戦争準備の整った、1894年8月1日に日清両国が宣戦布告をし、遂に日清戦争が開戦したのである。
この戦争は東アジアに於いて、『地域覇権国家』を決める重要な戦争であった。




