薩長連合軍の終焉
鹿児島城を包囲した幕府陸軍は、指揮官の中沢琴により総攻撃の準備を完了した。幕府海軍も指揮官勝海舟により、全砲門を鹿児島城に合わせた。
後は総攻撃の開始を待つばかりであったが、中沢琴は自らが先頭に立ち鹿児島城に立て籠もる、薩長連合軍に対して降伏勧告を行った。
「薩長の志士たちよ!既に勝敗は決した!大人しく幕府に降伏せよ!もはやこれ以上の戦いは無意味である!」
中沢琴は幕府陸軍のみならず、江戸幕府を代表して降伏勧告を行った。しかし鹿児島城の城門は固く閉ざされたままだった。中沢琴は暫く動きを待ったが、薩長連合軍は降伏勧告を黙殺した。諦めて陣地に戻ろうとした中沢琴だが、そこに銃撃が加えられた。中沢琴には命中せずに地面に命中したが、この銃撃が薩長連合軍の命運を決めた。陣地に戻った中沢琴は無事だったが、薩長連合軍の暴挙に兵士達が怒りに震えた。
女性指揮官に懐疑的だった兵士達も、中沢琴の先頭に立っての陣頭指揮に感銘を受けていたのである。そしてこれからは男女差別無く、男女平等の新たな国を作る幕府の先見性にも感銘を受けていた。そんな中で降伏勧告を拒否するどころか、銃撃を加えてきたのである。これに怒った兵士達を中沢琴は、ある種利用し総攻撃を命じた。
幕府海軍の勝海舟にも総攻撃は伝えられ、鹿児島城には鋼鉄船大龍級以下幕府海軍の壮絶な艦砲射撃が開始された。勝海舟と榎本武揚にしても、中沢琴への銃撃は衝撃だった。その為に鹿児島城への砲撃は熾烈なものとなった。
それは幕府陸軍の他の司令官も同じで、第2師団近藤勇、第3師団土方歳三、第4師団沖田総司、第5師団斎藤一の各司令官も衝撃を受け、砲兵隊に徹底的な砲撃を命じた。
これにより鹿児島城は薩長連合軍が想像しなかった規模の、砲撃にさらされる事になった。それを眺めていた幕府陸軍、幕府海軍それぞれに随伴する観戦武官達は、呆然と見つめていた。近代軍として史上初めて実戦を行う幕府軍が、自分達のこれまでの戦争以上の火力投射量をみせたのである。
この戦いを以て各国は、海軍の大艦巨砲主義を加速させ、陸軍も砲兵戦力の充実を図る事になった。
熾烈な砲撃が終わり鹿児島城に突入した幕府陸軍は、焼け焦げた死体を目の当たりにした。その大多数が蹲る形になっており、切腹をして息絶えたと判断された。そして2人の人物の死体は、1体は愛刀の『安芸国佐伯荘住藤原貞安』から高杉晋作、もう1体は愛刀の『山城信国』から西郷隆盛とそれぞれ判断された。
こうして薩長連合軍は幕府軍により討伐され、薩摩藩は天璋院篤姫により幕府へ降伏が伝えられ、長州藩もそれに続き幕府へ降伏した。これにより江戸幕府は、新政府樹立の障害を実力で排除したのである。




