重慶攻防戦
1939年8月15日、中華民国重慶。遂に大日本帝国陸軍が重慶包囲網を完成させた。第3方面軍と第4方面軍を一時的に統合した司令官松井石根大将率いる北中派遣軍、上海上陸作戦以後第2方面軍全てを派遣した司令官畑俊六大将率いる上海派遣軍、第7方面軍を主力とする司令官小磯国昭大将率いる南中派遣軍、それぞれが中華民国首都重慶を完全に包囲した。
ただでさえ皇軍戦略情報局による破壊工作で交通インフラを破壊され、そこに大日本帝国空軍による空襲を受けており、重慶は孤立状態であった。その為に大日本帝国による攻撃は、そのまま重慶の孤立を強めるものになっていた。
その中華民国はというと実は、国家としては崩壊状態だった。大日本帝国陸軍の北中派遣軍・上海派遣軍・南中派遣軍の全面侵攻を受け、軍事力は壊滅状態であり首都重慶以外も占領されていた。重慶には生き延びた兵士達が着の身着のまま逃げ込んだだけであり、まともな戦力にはなり得なかった。
占領地域は大日本帝国が民生支援を行い、不足する食料・燃料・医薬品等を占領地域の中華民国国民に提供し、占領地域での安定を図っていた。それは医療支援や各種宗教団体の祈りの場も設営され、中華民国国民の民心は安定していた。というよりそもそも中華民国では国民党の支持が地方の農村部では低く、その地域での大日本帝国への支持が占領者でありながら国民党を上回っていたのだ。
国民党の支持基盤である都市部でも、大日本帝国の民生支援により支持は逆転していたのだ。これにより大日本帝国は中華民国という広大な占領地域を、安定して統治する事が出来ていたのである。そんな状況での重慶包囲網の完成は、中華民国制圧の最終段階ともいえた。
重慶は完全に包囲されており、中華民国の終焉は近かった。大日本帝国陸軍北中派遣軍・上海派遣軍・南中派遣軍の全兵力は重慶に照準を合わせていた。そして午前9時。大日本帝国空軍が大挙して重慶に飛来してきた。
遂に大日本帝国による中華民国占領の総仕上げである、重慶攻撃が開始されたのである。




