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チルナ国物語集 ~王女と脱衣遊戯~

作者: おるにゃん

 『チルナ(くに)物語(ものがたり)集』は現チルナ連合王の市井(しせい)で語り継がれてきた伝承のうち、特に官能めいた響きを含む逸話を中心に編纂した私撰集である。

 吟遊詩人に伝わる英雄譚・冒険譚・恋物語はもちろん、怪談、奇譚、談話、絵本、民謡、童謡に至るまで幅広く蒐集し、同一事象の話を統合したうえで注釈を加えている。

 本稿で紹介するのはその一編で、古チルナ王国における伝説的将軍『オルドゥ公爵』に纏わる逸話である。

 チルナ王国の第四王子オルドゥは妾腹ながら眉目秀麗の貴公子として国内外にその名を轟かせていた。

 浅黒い肌と癖の強い黒髪は誇り高き遊牧民の血をひく証であり、彼の端正な顔立ちとスラッとした立姿は幼少期から人々の目を引いていた。

 さらに、成長に伴って王族の気品と教養まで備わってしまえば、その風采は解語の芸術として完成し、老若男女問わず心を射抜かれぬ者はないと謳われるまでになった。


 25歳のとき。

 オルドゥは隣国セレフィーネに外遊し、その王都である城塞都市セレフィスに2週間あまり逗留した。

 この隣り合った二国の関係、表立っては「友好」とされているが、実のところ因縁めいた外交問題を保留し、早急に距離を縮めようとしている状況であった。

 戦禍が迫っていたのだ。

 急速に領土を広げてきた軍事大国バッデスがついにセレフィーネの隣国さえ滅ぼしてしまったのである。

 後世の歴史書に赤黒い血文字でその悪名を刻まれることになる軍事帝国がセレフィーネ侵攻を目論んでいることは明白であり、もはや事態は一刻の猶予もなかった。

 脅威に対抗すべく、チルナ王国は近隣国に連合の結成を呼びかけ、セレフィーネもそれに応じた。

 しかし、チルナ王国とバッデスに挟まれた位置にあるセレフィーネにとっては、これも手放しに賛同できない動きだったのである。


 当時のセレフィーネ国民はチルナ王国に対し「あいつらは俺達を盾として利用するつもりだ」という猜疑を少なからず抱いていた。

 それでも最終的に敵国を退けられるならまだ良いが、総力戦で国土を焼き尽くされた挙げ句、戦局がどちらに転ぶにせよ、その勝者によって国を奪われてしまうのではないかという悲観さえ充満していたのである。


 『そうだとも、チルナ王国が焦土と化したセレフィーネを掠めとろうとしている可能性だって十分にある』


 また、こう考える者たちもいた。

 最悪の展開は同盟の甲斐なく敗れ、バッデスに破壊と略奪の限りを尽くされることである。

 勝ち目がないとなれば、あの連中はどうせ途中でセレフィーネに「見切り」をつけ、自国の防衛に舵を切る。

 ならばいっそ、余計な犠牲を払う前に侵略者に帰順し、国力を維持しつつ捲土重来の機会を窺うというのも、かの軍事国家の勢いを鑑みれば現実的な選択なのではないか。


 同盟国に対する不信と、悲壮極まる展望がセレフィーネ国民を神経質にさせていた。

 いかにして独立を維持するか。

 大いなる決断の期日が間近に迫っていたのである。


 事実、オルドゥの来訪はバッデスに対する強い牽制の意図があった。

 未来の伝説的将軍はすでに美丈夫としてはもとより、恐るべき軍略家としても雷名を轟かせていたのである。

 セレフィーネ国民は美貌の王族を歓迎したが、その煌びやかな正装にはすでに煙の臭いが纏わりついていた。



 オルドゥはセレフィーネ中を飛び回って、前線視察や地方豪族との会談に明け暮れた。

 首都セレフィスに戻らず、各地のマナハウスや駐屯所に泊まる日も珍しくなかった。

 それでも都での社交パーティや上層部との軍議に参加した日の夜には、王宮に用意された国賓用の客室で心身を休めることができた。


 セレフィス王宮の豪壮さは、一国の王子であるオルドゥさえ目を見張るほどであった。

 あてがわれた客室の広さはマナハウスのリビングにも比肩し、意匠をこらした調度品・芸術品の数々がセレフィーネの国力を誇示するように飾られていた。

 テーブルの置かれた広間とベッドはオーロラのような(とばり)で仕切られ、石造りの床は鏡のように磨きあげられている。

 ベッドには豪奢な天蓋が被さっており、下に敷かれた赤いカーペットは新雪のように柔らかである。

 壁にかかる金縁の鏡には曇り一つない。

 飾り立てられた装飾から机の翅ペンに至るまで一切の妥協なく整頓されている。

 本国の王室だってここまで絢爛な装いではない。

 オルドゥはセレフィーネが非常にプライドの高い国であることを再認識する。

 部屋全体から国の威信をかけた緊張感がみなぎっているし、自分を通してチルナの真意を見定めようとしている決意が感じられる。

 気を抜くわけにはいかない。

 オルドゥは客室においても、チルナ王の名代としての振る舞いを崩さなかった。


 オルドゥが客室にいる間は常に数名の若い侍女が傍らに控えていた。

 彼女たちは全員、統一された清潔なエプロンドレスを纏い、目許にシックな装飾のオペラマスクをつけている。

 彼女たちの仮面には明確な意図がある。

 王宮の侍女のなかには、社交界の修行のため奉公に出された貴族令嬢も多く紛れている。

 彼女たちが家名による選民意識を持たぬよう、侍女は平民を含めて全員、素顔と本名を隠して奉仕する体制になっているのである。

 もっとも、実態は全く異なる。

 同じ職場にいる以上、半月もすれば互いの情報は筒抜けになるのが普通だ。

 しかし、実際はバレバレだとしても、仮面をつけている間は誰だかわからないし、関心も無いという建前で振る舞わなければならない。

 それもまたチルナ・セレフィーネ両国の社交界に共通するルールの一つなのである。


「オルドゥ様。僭越ながら、少々気を張り過ぎではございませんか?」


 夜、公務を終えたオルドゥが正装のまま客室で軍議資料に目を通していると、一人の侍女が歩み寄って進言してきた。

 礼を失するとまでは言わないが、侍女が自発的に声をかけてくるのは非常に珍しい。

 オルドゥは資料を閉じて苦笑してみせた。


「そうかな。君達がいてくれるから、気兼ねなく仕事に勤しめているよ」

「そうおっしゃられますが、少し楽しまれてもよろしいのでは? もし望まれるのでしたら、[[rb:私 > わたくし]]どもが夜のセレフィスをご案内いたしますよ?」

「申し出は嬉しいが、大名行列を率いて夜遊びに繰り出すつもりはないな」

「では、(わたくし)と余興などいかがです?」

「余興?」

「オルドゥ様は『ボッサ』の名人と聞き及んでおります」

「なに……?」


 オルドゥは制止の意を含んだ低い声で訊き返した。

 明らかに場の空気が変わった。

 オルドゥは、その侍女の仮面から覗くブルーの瞳に、鋭い光が灯っているのを見た。

 視線を他の侍女に移すと、彼女たちは無言のまま二人に全ての判断を委ねているようだ。

 話を切り出してきた侍女は、真っ直ぐオルドゥを見あげ唇を開いた。


「実は、私も少々ボッサを嗜んでいるのです。オルドゥ様に望んでいただけるのでしたら、是非とも対局を……今宵のお相手を務める栄誉を賜りたく存じます」

「むぅ……」


 常勝の戦略家は低く呻き、即答を避けた。


 『ボッサ』は1対1で行う戦略的要素の強いボードゲームである。

 様々な戦士の上半身を象った駒を用いて互いに【王の駒】を奪い合う遊戯。

 大枠としてはチェスや将棋、チャトランガのようなもので、オルドゥはその遊戯を幼少期から得意としてきた。

 しかし、この『ボッサ』という卓上遊戯には単なる勝負ごと以上の意味が含まれる場合がある。

 特に、男と女が競う場合には。


「君が、私と……?」

「はい」


 侍女は射抜くような眼ではっきりと頷く。

 オルドゥはその真意を見定めようと、直立で彼女を見下ろした。


 あくまで、チルナ・セレフィーネ両国に共通して存在する、不文律の倫理観として。

 ホストが客人に若い女を手配するのはごく一般的なもてなしであるし、客人が侍女に手を出したところで大した問題にならない。

 さすがに、雇い主の所有物である侍女に手を出せば、「詫び」や「対価」をホストに支払う必要は生じるが、狼藉にはあたらない。

 むしろホストの方が、それだけの器量を備えた『適任』を世話役に据えるのが当然とされる場合さえある。


 だがさて、今回侍女からなされた『ボッサ』の提案は、つまり、「そういうこと」の婉曲表現なのだろうか。

 事実、室内遊戯を隠語として用いる風習は存在している。

 が、今回のケースにそれを当て嵌められるかは、決定打に欠ける。

 彼女が純粋に、ボッサの達人として名をはせたオルドゥとゲームに興じたがっている可能性もある。

 また一方、世話役を任された侍女として、「特別な奉仕」を婉曲的に提案してきた可能性も捨てきれない。

 実のところ、公共性の強い場面でボッサを隠語として用いることはあまりないのだが、可能性を捨てきるのは軽率であった。


 もっとも、本来、どちらだろうとオルドゥにさしたる不都合はない。

 彼は過度な貞操感によって天性の漢ぶりを遊ばせる性分ではないし、マスクの下から覗く侍女の器量にも全く不服ない。

 もちろん、本当に単なる遊戯に終始したところで不満をもつほど狭量でもない。

 しかし、ただ一点、侍女としての献身的な態度でも隠しきれていない、抜き身の刀のような緊張感がオルドゥを躊躇わせた。


「……わかった。異国の地でボッサを楽しむのも一興か」

「では、お相手させていただくのに恥じぬよう、身なりを整えてまいります。準備もこちらに運びますので、オルドゥ様はどうか、このままくつろいでお待ちください。お時間はいただきませんわ」


 碧眼の侍女は軽く会釈すると踵を返して客室を出ていった。

 他の侍女も彼女の背中に続いて離席する。

 その付き従うような仕草、とても同僚に対するものと思われない。

 客室に残った侍女は伝言役の一人だけ。

 オルドゥは彼女を客室の入口に退けさせると、正装を解き、襟元にフリルのついたシャツと木綿のズボンに着替えた。


 やがて廊下からコロコロと小さなタイヤを転がす音が聞こえてきた。

 オルドゥは入口からすぐの位置に立って出迎える姿勢を取る。

 やってきたのは2人の侍女。

 彼女たちはローラーのついた小型のチェストを客室に運び入れてきた。

 これもまた煌びやかな装飾のなされた見事な調度品だ。

 その天板は簡易のトレーになっていて、その上に薄いカーペットのような大きな布が丸められて置かれている。

 2人の侍女はチェストをテーブルの横に付けると、丸まっていた布を机上に広げた。

 オルドゥは興味深げにそれを見下ろす。

 正六角形のマスの敷き詰められたボッサの盤面。

 マスの下にはレンガや街道、建物、岩場といったものを表す精巧な模様が描かれていて、盤面全体が一つの大きな地図になっている。

 それがボッサの舞台であり、一般的に『ボッサシート』や『シート』と呼ばれているものである。


「素晴らしい」


 オルドゥは、自分の見慣れた盤面よりずっと芸術的趣向の凝らされたシートを眺め感嘆を漏らした。



 本稿で『ボッサ』のルールを詳しく解説するわけにはいかないが、いくつか特筆すべき点について簡単な注釈を添える。


 『ボッサ』のもつ大きな特徴の一つとして、対局の非対称性が挙げられる。

 つまり、プレイヤーの置かれる状況が平等でないのである。

 チェスや将棋といった盤上遊戯は、等しい戦力を有する両者が、知略を尽くしてそれを運用する「合戦」を模した勝負と言える。厳密には先手後手の差が生じるとはいえ、極力公平を期したルールとなっている。

 それに対し、『ボッサ』では「攻城戦」や「撤退戦」といった、互いに異なる状況を設定したうえで、どちらが目標を達成できるかを競うのである。


 ボッサの盤面には地形や高さの概念が存在し、シート職人たちはその表現のために自身の技巧を結集する。

 ゆえに同じ地形でも職人によって全くシートの造型が変わってくる。

 腕利きの職人の作るシートは非常に高価で、芸術的価値さえ見出されることもしばしばだ。


 さらにシートに表される地形配置も一律ではない。

 「●●城攻防戦」「××軍撤退戦」といった、過去の大戦をモチーフにしたシートがメジャーではあるが、理論上、シートに表現される舞台のバリエーションは無限大である。

 プレイヤーはシートによって臨機応変に戦術を組み立てなければならない。


 そのような不平等と不確定要素をルールの根幹に内包していることからも察せられる通り、当時のボッサは十分な競技性を備えているとは言い難かった。

 ルールが洗練され、公式シートが生み出され、競技性の確立された『新ボッサ』が誕生するまで、さらに20年ほど待たなければならない。

 遠い将来、公式のルール制定に最も深く寄与することになる人物こそオルドゥ王子――後のオルドゥ公爵――なのだが、それはまた別の話である。



「ふぅむ、これは……」


 テーブルに敷かれた精巧なシートを眺め、オルドゥは興味深げに顎を撫でた。

 円型の城塞をメインに据えた地形。

 大規模な攻城戦を想定しているのが一目で察せられる。

 見たことのないシートだが、そこに描かれた地形自体には覚えがあった。


「すでにお気づきでしょう? それはここ、城塞都市セルフィスを舞台としたボッサシート。ここまで精緻を極めたシートは2枚とありませんわ。現国王戴冠のおり、城下町の職人ギルドより献上されし一点モノ。オルドゥ様でしたらその価値がお分かりになりましょう?」

「むっ……」


 入口からの声に応じ、視線を移したオルドゥは息を呑んだ。

 そこには先ほどボッサを提案してきた侍女が口元に微笑を浮かべて立っている。

 いや、彼女はすでに侍女ではない。

 エプロンドレスから一転、真っ赤なオフショルダーのカクテルドレスに身を包み、その上にシースルーのストールを羽織る姿は高貴な令嬢そのものである。

 色素の薄いブロンドを後頭部に束ね、煌びやかな装飾の(かんざし)でそれを留めている。

 髪をあげて露わになった両耳には赤いイヤリング。

 サテンの手袋を嵌め、V字に開いた胸元には首から提げたルビーブローチを輝かせている。

 ただし、着飾っても目許だけは変わらずオペラマスクで覆ったままである。

 彼女は踵の高い靴の音を響かせ近づいてきた。

 2人の侍女はチェストの棚からアルコールのボトルやグラス、アイスボックスといった嗜好品を出して黙々と天板に並べている。

 ドレスの美女は足を止め、テーブルをはさんでオルドゥと正対してきた。


「お待たせいたしました」

「失礼、こちらはすっかり着替えてしまって」

「私が勝手に着飾ったまでのことです。こちらも正装というほどではありませんし、オルドゥ様にくつろいでいただけなければ本末転倒でございましょう?」


 オルドゥが着崩した服装を詫びると、ドレスの美女は口元を緩めて答えた。

 嗜好品の準備を終え、駒や小道具の入った小箱をテーブルに置いた侍女たちは、2人のグラスにアルコールを注いで一礼すると、人形のように無駄のない振る舞いで客室を出ていってしまう。

 美女から漂うコロンの柔らかな芳香とアルコールの臭いが混ざりあってオルドゥの鼻腔をくすぐった。


「お席を」

「恐れ入ります」


 2人きりになると、オルドゥは、赤いドレスの美女の椅子をひき、席に座らせた。

 来賓であるはずの王子が、そこに働く一介のメイドをエスコートしたのである。

 美女もまた楚々とした振る舞いでそれを受けた。

 彼女は確かに仮面で素顔を隠している。

 しかしそれは『オルドゥに素性を覚られたくない』からではない。

 真意はまったく逆であったし、その意図を汲めぬほどオルドゥも朴念仁ではなかった。


「さて……ボッサを始める前に。私はあなたをどうお呼びすべきでしょうか」


 対面に座りながらオルドゥは慎重に尋ねたという。

 オルドゥは洞察に優れた稀代の軍人である。

 この時点で、赤いドレスを纏う美女の正体がセレフィーネの第一王女クローディアであることを看破していないはずがなかった。

 それでも、王女が仮面で素顔を隠している限り彼女を姫君として扱うわけにはいかない。

 それが無言のうちになされた彼女の要求なのである。

 「王女」や「姫」と呼ぶわけにもいかないし、「クローディア殿下」など言語道断。

 そうはいっても、呼び名も無いのではカンバセーションは成立しない。

 いかに機微に通じたオルドゥでも、単刀直入、本人に尋ねるしかなかった。


 ここでクローディアがなんと名乗ったのかについては諸説あり、語り手による違いが特に出るくだりの一つである。

 幼少期の愛称である「ディア」と呼ばせたという説も根強いが、本稿では、後の出奔時代に使うことになる「ディーネ」という通り名をここで初めて用いたという説を()る。


「攻城戦でよろしいですか?」

「ええ」

「こちらが統治者(モナー)、そちらが侵攻者(レイド)?」

「いいえ。私が統治者、オルドゥ様が侵攻者で」


 オルドゥはボッサの開始前に行われる形式的な確認をした。

 毅然と答えるディーネの声音には緊張と切迫が滲んでいる。

 とても遊戯に興じようとしている令嬢の姿には見えなかった。


 (クローディア姫はやはり、何か重大な決意を胸に秘めてきたのだ)


 確信を深めつつ、オルドゥは彼女とゲームの細則を確認していく。

 当時、ボッサのルールは地域ごとに少しずつ異なっており、その差異が混乱の温床となっていた。

 ゆえに事前確認が必須であり、その煩わしさがボッサ普及の妨げとなっていたことは否めない。

 もっとも、「衝突の事例群」さえ知悉するオルドゥは、解きかけのパズルを埋めるように手際よく不安要素を排除していった。

 ディーネもまたボッサにかなり精通しており、相手の質問の意図を心得た様子で淀みなく応答する。

 彼女はオルドゥの過不足ない、整然とした進行に、流麗な音楽を聴くような心地よささえ感じているようであった。


「これくらいでしょうか。他に何か気になることは?」

「特には」

「よろしい。では、始めましょう」


 オルドゥは駒を手にとり、シートの上に陣を敷いていった。

 ボッサでは、駒の初期配置は特に定められていない。

 その代わりシートに陣地が設けられており、プレイヤーは自陣内に駒をある程度自由に配置できる。

 使用する駒の種類と数についても、勝敗を決する【王の駒】以外はルール上、絶対に置かなければならないものはない。

 極論、【王】単騎で始めることさえ可能である。

 これもまたチェスや将棋との大きな相違点と言えるだろう。


 オルドゥの駒を置いていく手際には全く淀みがなかった。

 初めて見るシートだったが、戦略自体はルール確認と並行して練り続けていたし、何より視察によってセレフィスのもつ軍事的性質は頭に叩き込まれていた。

 その軍略を、元々軍議を落としこんだ遊戯であるボッサの環境に適用すれば良かったのである。

 ディーネは唇にグラスを運びながら貴公子の手つきを黙然と見据えていた。



「差し当たっては、これでよかろう。【トークン】は34。確認を」

「確かに」

「では」


 城壁から離れた平地に設定された自陣に駒を並べ終えたオルドゥは、場に出した駒を勘定し、自分の小箱からチップを取り出してシート外に積んだ。



 本稿の目的はあくまで現チルナ連合王国に(まつ)わる説話の編纂であり、当時の『ボッサ』、いわゆる『旧ボッサ』についての解説は最低限に留める方針であるが、その最も特筆すべきルールである【トークン】については後の展開にも大いに関わってくるため、紙幅を割く。次の『☆』まで注釈が続く。


 【トークン】は戦争における『軍資金・兵糧』の概念を『チップ』という形で一元的にまとめたシステムである。

 プレイヤーは開始時から予め所持しているトークンを、戦況に応じて消費していく。

 例えば、シートに駒を配置する際にはその駒に応じたトークンを支払う。

 歩兵なら1、弓兵なら2、騎兵なら3といった具合である。

 また、定められた手数ごとにやってくる【俸禄】のたびに、プレイヤーは維持費としてシート上に展開している駒に応じたトークンを支払わなければならない。

 トークンが尽きた場合、そのプレイヤーは負けとなる。

 兵士は飲まず食わずで戦うことはできないのである。


 【俸禄】に関連したシステムとして、ボッサでは自陣に置かれた駒を適宜撤去したり、自陣に駒を追加したりできる。

 手持ち無沙汰になった駒には暇を出して俸禄を節約するというわけである。

 また逆に、必要になればトークンを支払い、戦力を追加投入する。

 もちろん一手で行える駒の入れ替えには上限が存在するが、その数はプレイヤー同士の合意によって大きく変動したようだ。

 この『駒の投入と撤去』は勝敗を左右する非常に大きな駆け引きの一つである。


 【トークン】を解説するなら【陣地】との兼ね合いについても触れなければならない。

 シートは太枠でいくつかの「地域」に区分けされており、開始時、それらは「自陣」「敵陣」「中立地帯」のいずれかに属した状態になっている。

 プレイヤーは「地域」を占拠することで「自陣」を広げることができる。

 前述の通り、駒の投入・撤去は自陣でのみ可能であるため、自陣拡大の戦略的重要性は言うまでもないが、さらにプレイヤーはトークン関連でも2つの恩恵を受けることができる。

 1つ目は「略奪」。地域を占拠したタイミングで、その地域に設定された量のトークンを手元に加えることができる。占拠した地域が「敵陣」であった場合は相手のトークンを奪える。これは戦局に非常に大きな影響を及ぼす要素である。なお、略奪が起きるのは初めて占拠した際の1度きりである。

 2つ目は「徴収」。【俸禄】のタイミングで「自陣」の地域ごとに設定された量のトークンを得ることができる。支配下の地域で私財や作物を税として徴収していると考えればよいだろう。ただし、よほど極端な駒運用をしない限り、収益が支出を上回ることはない。ボッサは多くの場合消耗戦となる。


 ボッサの勝敗の決し方は『【王の駒】を奪われる』場合と『トークンが尽きる』場合の2通りある。

 しかし実際には『トークンが尽きる』ことによる決着が大半だった。

 敵陣の最奥に控える王を引き摺り出す頃にはとっくに相手のトークンが枯渇しているのである。

 ゆえに、ボッサの本質は陣取り合戦であると言うことができ、敵陣への侵攻と自陣の維持が戦略の要となる。

 多彩な駒の特性を生かした攻防からはチェスや将棋が想起されがちなものの、陣取りというゲーム性にはむしろ囲碁との共通点を強く見出す者もいるかもしれない。



「では、次は私が」


 オルドゥがトークンを払い終えると、ディーネはグラスをチェストに置き、城塞の内外や胸壁を中心に駒を配置していった。

 相手の陣を確認してから駒を置ける分、統治者側が有利だが、攻城戦の場合、先に侵略者側が陣を敷くのが当時の慣例だった。


 「一筋縄ではいかんな」と、オルドゥは彼女の手際を眺めながら思った。

 そこに築かれつつあるのは、彼の想定していたなかで最も()()陣形。

 几帳面なまでに堅実で、細部にディーネの手腕の高さが窺える。

 しかも、堅牢なセルフィスを舞台にしたシートはただでさえ、かなり防衛有利に作られている。

 芸術、もしくは見取り図としては一級品に違いないが、ゲームシートとしては地形に優劣が付き過ぎていて競技性を成立させられているかさえ怪しい。

 それも、セルフィス近郊を忠実に再現しているがゆえである。


 (面白いじゃないか……)


 鉄壁の布陣を前にしたオルドゥは、逆境に満ちた戦局にむしろ気分を高揚させた。

 同時に、彼はディーネの真意を読み取ろうとする。


――「こちらが統治者、そちらが侵攻者 ?」――

――「いいえ。私が統治者、オルドゥ様が侵攻者で」――


 ディーネは攻防の割り当てにこだわりを見せた。

 身分を隠しているという建前とはいえ、一国の王女が来賓に不利を強いる対局を持ちかけたからには、そこに何かしらの意味が込められているはずである。


「敷き終えました。【トークン】は48。ご確認ください」

「確かに」


 オルドゥが相手の駒の勘定を確認すると、ディーネもまたチップを取り出してシートの横に積んだ。

 彼女の配置した駒はオルドゥより多く、そのぶん支払うトークンも多額だが、彼女の陣地に広がる城壁内の城下町は高い生産力を有する地域であり、その支出を十分に補える。

 むしろオルドゥの方が城壁外に点在する中立地帯を押さえねばジリ貧になってしまうこと必至であった。


「よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」


 対局の挨拶を交わし、ボッサがスタートする。

 慣例に従い先手は侵攻者のオルドゥ。

 ボッサでは一手のうちに複数個の駒を動かせるのだが、2人が具体的にいくつに決めたかは定かではない。

 オルドゥは定石通り、中立地帯の確保から取りかかった。



 対局は静かなもので、駒を動かしたり、チップを摘んだりする音だけが客室の静寂に染み込んでいった。

 局面は城壁外に広がる中立地帯の所有権を巡る衝突がいくつか並行して起こっている状態で、それらがさらに激しさを増していく兆候を見せている。

 ディーネは圧倒的有利な状況からスタートしたというのに全く慢心する様子がない。

 高圧的なまでの駒運びで城壁を堅守しつつ、城外での戦いに打って出ている。


 (気丈な王女だ)


 オルドゥは対局を通して、ディーネの胸中に渦巻く苛烈なまでの激情を感じ取っていた。

 ディーネの布陣。

 【王の駒】の隣に【王女の駒】を配置していながら、より融通の利く【王子の駒】を採用していないことに彼女の想いがひときわ強く反映されているようである。

 クローディアには年の離れた幼い弟がいる。

 つまり、セレフィーネの王位継承者である。


 お呼びじゃないのだ。

 幼い王子は。

 弟は。

 戦争に。


 オルドゥは仮面の奥の眼差しに王族としての矜持と責任を見た。

 ディーネは盤面に現実のセレフィーネを重ねている。


 強大なるセレフィーネ。

 誇り高きセレフィーネ。

 あらゆる脅威を跳ね除け、泰然とこの地に君臨する一つの王国。


 国の危機に臨む王女の鬼気迫る決意が鉄壁の駒運びに乗って伝わってくる。


 セレフィーネは断じてチルナの盾などではない。

 手を結ぶも、それは我が国がチルナに庇護されるのを意味しない。

 セレフィーネは何色にも染まらぬ孤高の国。

 セレフィーネは決して負けない。

 セレフィーネは決して屈しない。

 [[rb:此度 > こたび]]の同盟はあくまで対等なもの。

 バッデスだろうと、チルナだろうと、城壁の向こうを穢させはしない。


 それはオルドゥに対して自国を誇示しているようでもあり、自身にそうだと言い聞かせているようでもあった。


「オルドゥ様」


 ディーネは駒を操る手を緩め、絞り出すような声で切り出した。


「人払いは済んでおります。どうかお立場を取り払ったうえで、率直な見解をお聞かせください」

「……見解?」

「はい。もしご自身で兵を率いるとして。オルドゥ様ならば、この城塞都市セレフィスを落とせるとお考えですか?」

「ふむ。もちろん、何事も絶対はありませんが……」


 オルドゥは言葉を切って思案した。

 とても『王子と王女』の関係では聞けない大胆な、それでいて切迫した質問である。

 もっとも、結論自体は即座にくだせている。

 このときオルドゥが考えたのはディーネの胸の内であった。

 クローディアもまた、問いかけながら自分のうちに渦巻く激情になんとか論理的筋道を見出そうと足掻いていた。


 クローディアはセルフィーネの気高き王女。

 城塞都市セルフィスの防衛力にも信頼を置いている。

 しかし同時に、自分の抱いている矜持や信頼が「虚構」なのではないかという疑惑にも囚われているのである。


 それはもはや恐怖に近い。

 オルドゥが何気なく言った「何事も絶対はない」という言葉がまさにクローディアの精神の急所なのであった。

 17歳の王女・クローディアは戦場に赴いたことがない。

 セルフィーネ自体、外敵からの侵攻に晒されるのは数十年ぶりである。

 己の抱いている自信の根拠が貧弱であることをクローディアは自覚していた。

 「何事にも絶対はない」が、自分たちは「絶対に勝利しなくてはならない」。

 クローディアは敗北の代償の大きさを知っているし、王族の傲りによる敗北ですべてを失うことを恐れていた。


 側近に見解を述べさせても満足のいく返答は返ってこない。

 勇猛で頼もしく、忠誠心に溢れた甘辞は酷く空々しいものに聞こえた。

 しかし、それも当然のこと。臣下を怨むはお門違い。

 王女に悲観的な言葉を吹き込む側近など存在しないのである。


 クローディアは「冷徹な観察眼」を、「生きた証言」を欲した。

 もちろん、確かな人物に太鼓判を押してもらって安心できるならそれに越したことはない。

 鉄壁のセルフィーネを称賛して欲しい。

 でも、それ以上に真実の言葉が欲しい。

 根拠が欲しい。

 諫言が欲しい。

 叱責が欲しい。

 批判が欲しい。

 納得が欲しい。

 厳しいものでも構わない。それが[[rb:誠 > まこと]]の言葉ならば。

 プライドという霧を晴らして真実と向き合いたい。

 運命の時は間近に迫っている。

 王族としての判断に、全国民の運命がかかっている。


 オルドゥとボッサに興じようと思い立ったのも、「この方ならば」と感じたから。

 そしてクローディアにとってボッサは、彼女の知る限りもっとも真実に近い鏡であった。

 相手のもつ真実を引き出すためには、盤面に矜持の全てを曝け出して真偽を問うしかないと決意したのである。


 (もはや舌先で躱すわけにはいくまい)


 ディーネの決意を肌で感じ取ったオルドゥは観念するしかなかった。

 彼はこれから自分の発する言葉が棘となってディーネを蝕むことを知っていた。

 しかし、例えはぐらかしたとしても自分の操る駒が真実を語ってしまうだろう。

 ディーネは一歩を踏み出してきた。

 こちらもその決意に応えなければならない。


「私ならば打ち破れるでしょう。もちろん相応の兵力は必要ですが」

「『相応の兵力』とは?」

「セレフィス近郊にまで侵攻してこられる兵力ならば」

「それは、言ってくれますね……」


 ディーネは小さく呻き、手に持った駒を緩慢に揺らした。

 仮面の奥に輝く碧眼に狼狽と憔悴の色が滲む。

 彼女は当惑しながらシートを見下ろした。

 オルドゥの布陣が城壁外に展開されている。

 そこに現実のセルフィスを重ね合わせれば、傷つけられた矜持から憤慨という名の血潮が滲みだしてきた。


 (本当に、打ち破られるというの? まさか、とてもそうとは……)


 ディーネは、オルドゥの見解に対する軽視が胸の内から沸きあがるのを自覚し苦悶する。


 (この昂ぶりは、私の[[rb:傲 > おご]]りか、はてまた愚か者の楽観視か。ボッサは所詮、遊戯と言えばそう。実際の戦争は盤面通りにいかない。それは事実なのでしょう。だけど……私はまだ納得できていない)


 ディーネは駒を移動させ相手を見据えた。

 彼女の徹底抗戦の構えは、オルドゥに対する『発言の証明要求』であった。

 オルドゥもまた、彼女の意思を肌で感じ取っている。

 自分の番になると、彼は駒を追加投入し、布陣を強化した。



 ディーネの腕前も卓越していたが、駒捌きにおいては後に『新ボッサ』の構想に至るオルドゥの方がより洗練されていた。

 城壁の攻防は伯仲しているものの、城壁外の地上戦ではオルドゥの妙計・奇策を巧みに織り交ぜた戦術によってディーネの軍勢はたびたび打撃を被った。

 大軍を跳ね除けられることが続き、ディーネはトークンを消耗してしまう。

 城壁外の中立地帯をほとんど相手に押さえられ、【徴収】での収益差もかなり縮まっている状況。

 ディーネの駒運びが緩慢になり、美しい唇に苦悶が滲む。

 城壁という絶対防衛線が存在しているとはいえ、オルドゥに絶えず波状攻撃を仕掛けられれば布陣を立て直すことさえままならない。

 相手はディーネの動きを牽制しつつ城壁攻略に入る動きを見せている。

 みすみす攻城兵器を用意させるわけにはいかない。

 ボッサは消耗戦であり、早めに動かねば大規模な行軍が不可能になってしまうのである。

 ディーネは駒を大胆に補強し、城壁外に打って出た。


 すぐに両軍入り乱れての大混戦となった。

 騎馬隊、白兵部隊、攻城部隊、弓兵、砲台。

 目まぐるしく躍動する駒たちは一手ごとに役割が変化していく。

 城壁のすぐ外側を巡る攻防。

 オルドゥはディーネの不意を見逃さなかった。

 混戦地帯を飛び出したオルドゥの駒たちは城壁に迫ると、破城槌を組みあげて城門の一つに強烈な一撃を加えた。


「あっ……」


 ディーネが痛恨の声を漏らす。

 破砕した城門にすかさずオルドゥの騎兵が殺到し、城壁内への侵入を果たした。


「なんて、こと……」


 ディーネは鉄壁と信じていた城壁が破られた衝撃に打ちのめされ、身体を小さく震わせた。

 突破されたという事実は、彼女に一つの明確な答えを提示している。

 自分の番が回ってきても、ディーネは太腿の上に掌を組んだまま動けず、驚嘆の目でシートを見下ろしていた。


「無様ですね、あまりにも。どうぞ、お嗤いください……」


 ディーネは感極まった声で、独り呟くように言った。


「私、感謝しております。こんな不公平な対局、オルドゥ様のお怒りを頂戴し断られても当然だと考えておりました。お受けいただけただけでも身に余る光栄でしたのに、聞きしに(まさ)る妙技、感服いたします」

「まだ勝敗が決したわけではないでしょう」

「えぇ……その通りです。私は、ここで勝負を終えるわけにはいかないのです。セルフィスの行く末を見届けなければ」


 ディーネはゆっくり頷くと、駒を大量に補充して城壁内への侵入に対処するだけでなく、外側にも駒を配置して侵入者を挟撃する陣形を取った。

 その選択は少なからずオルドゥを驚かせた。

 一度にこれほど大量の駒を並べればすぐにトークンが尽きてしまう。

 彼女ほどの巧者がそれに気づかぬはずがない。

 眉間に皺を寄せるオルドゥの前でディーネはストールを脱いだ。


「オルドゥ様、もし許されるなら、これをトークンに換金して勝負を続けていただけませんか?」

「あなたが望むのならば」

「ありがとうございます。レートはオルドゥ様がお決めください」

「重責ですな」


 オルドゥは口元だけで笑みを作ると、ストールをテーブルの横に置かせ、チェスト側に積んだチップを一山、ディーネの方に移動させた。

 さらに彼は立ちあがると壁際の箪笥を開け、なかからずっしりと膨れた皮袋を取り出した。

 そのなかには小石ほどの金塊が何百と入っている。

 平時、オルドゥはそれをチップ代わりとして世話役に渡していたのである。


「それほどのトークンの変動があれば戦術も変わりますからね。私は足りない分をこれで補うことにしましょう」

「かしこまりました」


 テーブルに戻ってくるオルドゥにディーネは恭しく頷いた。

 2人は再び腰を据えてボッサを再開した。



 後世、「新ボッサ」が広まっていくなかで「オル・ディア」という楽しみ方が生まれた。

 これは貴族と彼らを客に取る娼妓(しょうぎ)によって考案されたもので、呼び名はオルドゥとクローディアの逸話にちなんで付けられたとされている。

 客と娼妓は長夜の余興としてボッサを楽しむのだが、トークンが尽きても「オル・ディア」が終わることはない。

 娼妓は纏っているものを一枚ずつ脱いでそれをトークンに換金していくのである。

 趣向としてはストリップポーカーや脱衣麻雀に近い。

 客側は脱ぐ代わりに現金を積んでトークンを補填する。

 オル・ディアで補填に費やした現金は娼妓への()()()()になる。

 時折、鬼のように腕の立つ娼妓が客の財布を貪り尽くす事態も起こったようだが、オル・ディアはあくまで余興。

 娼妓は客の顔色と財布事情、そしてボッサシートを総合的に見ながら駒運びを巧みに調整していったようである。

 ボッサの対局が長時間に及ぶため余興としてはすぐに廃れたが、消えることはなく定期的にちょっとした流行になったりしている。


 逸話での対局で、ディーネが黄金石を受け取ったかについて言及する伝承はほとんどない。

 そもそもオルドゥが黄金石の使用に至ったのかさえ記述がまちまちで、一本に絞りがたい。

 本稿では代表的な展開として革袋の登場にのみ触れることとする。



 攻城戦から侵略戦に移行すると、オルドゥはいよいよ冷徹な戦術家としての手腕を発揮しセルフィスの居住区を舐めるように蹂躙した。

 陣形を流水のように変化させながら、オルドゥの駒は相手の隙に流れ込んでいく。

ディーネは奮戦するも、変幻自在な戦術に翻弄され、敵軍の侵攻を許してしまった。


 オルドゥの駒運用はますます激しさを増していく。

 ディーネはトークンが尽きるたび、身に着けているものを差し出してトークンに換えていった。

 それが愛する首都を侵略された王族のなすべき献身であると彼女は信じて疑わない。

 いや、本来ならば命に代えてでも、絶対に避けなければならなかったこと。

 ディーネはボッソシートの上に燃えあがる首都の幻影を見ている。


 まずは白い手袋を。

 次に赤いイヤリングを。

 それから輝くブローチのついたネックレスを。

 さらに踵の高い靴を。

 ついには髪を留めた簪まで差し出して美しいブロンドをはだけさせた。


 もはや捧げられる物など無くなってしまったというのに、対局はなおも続いた。

 オルドゥの侵攻は激しさを増し居住区のほぼ全域を占拠してしまう。

 勝利のためだけならば不必要に感じられるほど徹底した侵攻ぶりである。

 トークンの尽きたディーネはキュッと唇を噛み締め、やおら立ちあがると、カクテルスカートの裾に手を入れてスルスルと下着を脱いだ。


「お見苦しいものをお見せしてしまい恐縮です」


 下着をストールの上に置いたディーネは平坦な声音で非礼を詫びた。

 しかし、泰然と振る舞おうとするも、さすがに恥辱に耐えかね、ディーネは顔をあげて仮面越しにオルドゥの顔を覗き見た。

 オルドゥは眉一つ動かすことなく、ボッサを始めた時と同じ表情で彼女を見据えている。

 「続けるか、やめるか」、ディーネはその判断を自分に委ねられていることを意識した。


「続けましょう」


 ディーネは短く言って駒に指をかけた。

 宙に浮かせた駒が微かに震える。

 ボッソにおいても、戦争においても明らかに勝敗の決した盤面にあってさえ、オルドゥの陣には全く煩雑さがない。

 すでに何手も前から事実上の投了状態であり、対局はもはやディーネの自虐と化していた。

 それでもディーネの手は止まらない。

 まるで驕った自分自身の粉砕を望んでいるかのような戦いぶりである。

 オルドゥもまた、非道なまでの几帳面さでセルフィスを破壊していく。

 普段の対局では行わないような、戦略上必要ではない徹底した殲滅を彼は敢行した。


 やがて宗教区やギルドの密集する商業区まで完全に制圧し、残すは王宮とその周辺のみとなったところでディーネのトークンが尽きた。

 ディーネには、まだカクテルドレスの他にも目許を覆う仮面が残っていた。

 それでも、彼女はドレスを選んだ。

 気丈な王女は顔を強張らせながらも立ちあがり、椅子から離れると、オルドゥの眼前でドレスを脱いだ。

 赤い布が長い脚を滑って石造りの床に落ち、新雪のような柔肌が露わになる。

 きめ細かな肌が酒気と羞恥で桃色に色づいている。

 ディーネはドレスを拾って前に垂らすと、テーブルに戻って下着を隠すように置いた。

 オルドゥは、乳房の頂を腕で隠して座るディーネの前に、換金分のトークンを運んだ。

 乙女の裸体まで晒したというのに、その対価は白い手袋の片方分にも満たない。

 ディーネはその意図を汲み取り、唇を噛んだ。

 もはや、彼女にトークンなど大して必要ないのである。

 勝負はそれまでに決するのだから。


「ありがとうございます。続けましょう」


 ディーネは敢えて乳房から腕を除け、全てを曝け出しながら駒を動かした。

 後世に描かれた絵画『密談』はこのシーンを[[rb:主題 > モチーフ]]にしている。

 オルドゥの駒は王宮へと侵攻し、冷酷なまでの精密さで領土を制圧していく。

 対局はついに決着の時を迎えた。

 オルドゥの軍勢が【王の駒】の陣取る本丸を包囲したとき、ディーネの手元にトークンはもう残っていなかった。


 ディーネの身体がカタカタと小刻みに震える。

 残された装飾は目許を覆う仮面のみ。

 しかしディーネはそれを外すつもりはなかった。

 仮面はこの儀式を成立させるための法具なのである。

 しかし、まだ手段が完全に潰えたわけでもない。

 ディーネはシートに配置した駒の一つを見据えていた。


「いかがなさいますか?」


 彼女の考えを知るオルドゥは、ようやく口を開き、平坦な声音で尋ねた。

 ディーネは唇を震わせ、何か言おうとしたが、すぐに言葉が出なかった。


 ディーネの視線の先にあるのは【王女の駒】であった。

 【王女の駒】はその駒をシートから除くことで大量のトークンを補充できる。

 自らの分身である駒に指先で触れ、達磨のようにクルクルと揺らしながら彼女は語りかけた。


「王女の駒に宿る機能の意味……オルドゥ様ならばご存知でありましょう? すなわち、それは同盟国と血の(えにし)を結び助力を得るということ」

「えぇ。存じております」

「しかし、オルドゥ様の率いるチルナ王国軍に対抗しうる軍勢となりますと……」


 ディーネは【王女の駒】を優しく摘まみあげ、軽く握りしめた。

 細かく震える駒が彼女の激情のほどを表わしている。

 初めて、仮面の奥に輝く碧眼が歪んだ。


「バッデスしかございません。おぞましい、暴虐のバッデスと結ぶなど! しかし……あぁ、私はどうしたら……セルフィーネのため、国交の駒となる覚悟はあるのです。幸い、王女はバッデス皇帝の覚えめでたい。この身を献上することによって開戦を避けられるのならば、それこそが王女としての使命であるという考えが頭をよぎるのです。婚姻によって平和が護れるのならば……王族としての責務を果たし、国民を守りたい。しかし、バッデスがなお野望を抱き続けるならば……そんな仮定も愚かしいのですが……セルフィーネはやはり戦場になりますわ。あいつらに、チルナ王国への尖兵として、矢盾として利用されることになる。死にも勝る屈辱。そして、そうなれば……この地にオルドゥ様がやってくる。恐るべき精鋭を連れて。盤面が再現される。セレフィーネは滅びる。そうでございましょう?」

「手段はどうあれ、バッデスは王女もセレフィーネも手中に収めるつもりです。連中と結ぶことで掴める未来はございません。奴らはセレフィーネの男を奴隷として連れ去り、女を犯すでしょう」

「あぁ! やはり……やはり!」


 ディーネは喘ぎ、大きく天を仰いだ。


「今、私は自分がわかりました。私はその言葉を望んでいたのです。迷いを打ち払う確信が欲しかった。浅ましい幻惑に囚われていたのだと、今、はっきりわかりました。かの国を野放しにしてはならない。ましてや、暴虐の帝国に靡くなど愚かなこと」


 彼女は悲痛な面持ちで立ちあがると、身体を隠すことさえせずオルドゥの方に回り込み、足元に跪いた。


「オルドゥ様、どうかお手を」


 言葉に従ってオルドゥが腕を伸ばすと、ディーネは彼に【王女の駒】を握らせ、両掌でそれをしっかり包み込んで懇願した。


「どうか仮面をつけて申しあげねばならぬ私のもどかしさをお察しください。セレフィーネには必ず、オルドゥ様のお力を必要とするときが参ります。滅ぶも残るもあなた様の御心にかかっております。どうかセレフィーネに慈悲の心をお傾けください。もし望まれるのならば、私は心から、あなた様に私の全てを捧げる覚悟でございます」


 仮面の裸婦は震える手でオルドゥの手を握りしめた。

 しばしの沈黙を経て、オルドゥはやおら立ちあがった。



 酒場を盛り立てる吟遊詩人の唄や歴史小説においてはこの続きが語られる場合も多いが、往々にして卑俗な潤色(じゅんしょく)甚だしく、しかもそれぞれが奔放な展開を見せており撰集として内容を一つにまとめることが極めて困難である。

 ゆえに本稿も蒐集した多くの伝承と同様、ここで叙述を締める。

 チルナ連合王国史において特に人気を博す王族2名に纏わる逸話である。成立は連合王国樹立の前後とされる。王位簒奪の難を機転によって逃れ、幼年のラフライ王子を連れてチルナ王国への亡命を成功させた賢姫クローディアと、チルナ・セレフィーネ連合軍を率いてセレフィス奪還を果たしたオルドゥ王子。セレフィーネの争乱において輝かしい戦果をあげ、美男美女としても名を遺した2人の英雄女傑にロマンスを求める国民心情により生み出されたものと推測される。物語としては、逸話の成立時に盟主であったチルナ王国の出であるオルドゥ王子がセレフィーネの王女より一枚上手であったという内容で華をもたされているものの、事実上、話の主役はクローディア王女である。

 王女の懊悩は当時のセレフィーネの世情と、王威簒奪に端を発する争乱を暗示するものとなっている。簒奪者ザフザは姪のクローディアにバッデスの王族と婚姻を結ばせようと画策していたことが知られており、それが逸話中で否定されていることから国民の激しい嫌悪が窺える。

 オルドゥとクローディアにロマンスを見出す芸術・文学作品は多いが、史実が悲恋を保証している。

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