身の毛のよだつ笑顔のママが、泣きじゃくる僕の頭を優しく撫でる
「小腹がすいたわ。ねえ、ナオト。一緒にデパートに行って、クレープでも食べない?」
テスト期間中で、午前中に中学から帰宅している僕に向かい、ママがそう言った。
「でも、ママ、もうすぐパートの時間じゃない?」
ママは、六畳一間のアパートでコタツに寝転がり、ぽかんと口を開いてずっとテレビを観ている。僕は、その横でテスト勉強をしている。
「大丈夫。今日は夜勤だから」
ママは、口元のヨダレを手でぬぐい、コタツから這い出る。どうしようかな、勉強の途中だしな、と少し考えたが、大嫌いな数学の問題に煮詰まっていたところだったし、ちょっとだけお腹も減っていたので、僕はノートを閉じてママと一緒にデパートに行くことにした。
それぞれの自転車に乗ってデパートに着く。平日の午後とはいえ、店内はとても賑わっていた。フードコートでママと一緒にクレープを食べる。それから、僕たちは、デパート内にある本屋に立ち寄り、立ち読みをした。
僕は、そこでたまたま手に取った文庫本が思いのほか面白く、しばらく夢中で読みふけってしまった。
ふと我に返って、店内を見渡す。あれ? ママがいない。
ちっ。ママったら、また僕を見捨てて、先に家に帰ったな。
――――
昔から、ママによく見捨てられた。
保育園の頃からそうだった。ママがデパートに出かける時、行きは自転車の後部座席に乗っけられ、そして、帰りは同じ道のりを一人で歩いて帰ってくることがしばしばだった。ママは、僕が店内のお菓子やオモチャに気を取られていると、僕を置き去りにして一人で家に帰ってしまうのだ。
幼児が、店内で保護者を見失ったのだ。大声で泣いて周りの大人に助けてもらえばいい。でも、そんな幼児にとって当たり前の行動が僕には出来なかった。見捨てられたという厳しい現実を前にすると、不思議と感情が冷めていくのだ。極度の緊張状態に置かれると、人間の五感は差し当たって鈍くなるものなのだろう。
大人に頼る、という選択肢を見出せず、僕は、自転車で三十分以上かかる距離を、一人ぼっちで歩いて帰った。
え~と、たしか、この銭湯の角を曲がったぞ。あれ、このお寺の横は、通っていないような……。あっ、あの自動販売機は憶えている。ふくらはぎと足の裏が痛い。アスファルトの照り返しで頭がクラクラする。このまま、家に辿り着けなかったらどうしよう。気を付けろ。ガードレールに座ってガムを噛んでいるあのおじさんは、きっと人さらいで、連れ違いざまに僕をさらってサーカスに売り飛ばすに違いない。
次々に襲いかかる不安のなか、何度も道に迷い、夕暮れ時にやっとの思いで家に辿り着く。すると、ママは、何事もなかったかのように、アパートの入り口にしゃがみこんで、小さな花壇に咲いているアジサイを剪定バサミで摘んでいたりする。
「ほら、ナオトちゃん。こちらに、いらっしゃい。アジサイが、きれいに咲いているわ。たくさん咲いたから、明日保育園に持って行って、教室に飾ってもらいましょうね」
僕をデパートに置き去りにしたことを、本当に憶えていないのだろうか。それとも、いちいち面倒臭いから、置き去りにしたという事実には一切触れてくれるな、という抑制なのだろうか。どちらにせよ、僕はこういう時のママがたまらなく怖かった。なんというか、この世のものとは思えない、身の毛のよだつ笑顔を見せるのだ。そんなママの笑顔を見た途端、僕の五感は最大限に解放をされる。
「ごめんなさい。僕、オモチャに夢中になっちゃって。僕、はぐれちゃって」
「本当に、今年のアジサイは、でっぷりと肥えて元気がいいわね」
「ごめんなさい。僕、これからは、ちゃんとついて行きますから」
「なぜ元気がいいかと言うと、だってそれは、今年は雨が多いから」
ごめんなさい。許して下さい。家に辿り着いた安堵と、それに勝るママへの恐怖で、僕は泣きじゃくった。
――――
小学六年生の夏に、川で溺れて死にかけた時も、僕はママに見捨てられた。
町内会の行事で、川遊びに行った際、僕は、川の流れと流れがぶつかり合う渦のようなポイントにはまり、溺れてしまった。もがいても、もがいても、沈んで行くのだ。その時、岩場にいた水着姿のママが、異変に気が付き、平泳ぎで僕を救出に来てくれた。
助かったあああ。僕は、ママの体に無我夢中でしがみつく。でも、あれれ? せっかく助けに来てくれたはずの、ママの様子が変だぞ? 手足を激しくばたつかせて、もがいている。やばい。最悪。救出に来たママが、僕と一緒に溺れているじゃんか。
次の瞬間、信じられないことが起こった。ママは、僕の頭を右手で掴んで無理矢理水中に深く沈めたのだ。子供を救出して岩場に戻るのは、自分の泳力では無理であると、冷静に判断をしたのだろう。さらには、僕の胸部を両足で力いっぱい蹴り、その反動を利用して、自分だけ渦から脱出し、速やかに岩場に戻って行った。
激しい渦に呑まれて行く僕を、岩場からママが見ている。冷たい目。溺れて苦しんでいる我が子を、そんな目で見るかね。
生きようとすることが、アホらしくなった。全身の力を抜いて、渦の回転に身を委ねる。水面を裏側から見る。幾千の光の粒がうごめいて、万華鏡を覗いているみたい。なんだか、万華鏡の色ガラスの一粒になったみたい。はい、それでは、みなさん、ごきげんよう。さようなら――
――見おぼえのない太い腕が僕を掴んだ。気が付くと、僕は岩場に横たわっていた。その場に居合わせた見知らぬ父兄に救出され、僕は、なんとか一命を取り留めたのだった。
ママが、身の毛のよだつ笑顔で、僕の顔を覗き込んでいる。
「ごめんなさい。僕、溺れちゃって」
「また、産めばいい、そう思ったのよ」
「ごめんなさい。僕、泳ぎが下手で」
「男の子をね、また一人産めばいい、そう思ったの」
僕は、自分を見捨てたママを恨まなかった。このころには、この人は恨む以前の人間なのだと、なんとなく気付き始めていた。そんなことより、あの時僕に自力で渦から脱出する泳力さえあればママに迷惑を掛けなかったのだ、という反省が先立った。泳ぎが上手くなりたい。心の底から、マグマのような熱い思いが湧き上がった。ちなみに、そんなこんなで、僕は、中学校では水泳部に入部をした。
――――
立ち読みしていた本を本棚に戻し、深い溜息をひとつ。それから、自転車に乗って一人で家に帰る。
「あら、お帰り。どこへ行っていたの?」
家の扉を開けると、ママが、なにやら旅行カバンにせっせと荷物を詰め込んでいる。
「……クレープを食べてきた」
「あら、奇遇ね、私も今日、デパートでクレープを食べたわ」
「……ママ、忘れたの? 僕と一緒に食べたんだよ」
「私は、イチゴとバナナがたっぷり入ったクレープを食べましたよ」
「ママ、大丈夫かい? 昔から時々様子がおかしくなることはあったけれど、最近はあきらかにひどいよ。僕はママのことが心配だよ。ていうか、さっきから何で旅行の支度なんかしているのさ」
「パパのところへ行かないと……」
「しっかりしてくれよママ。何度言ったら分かるんだ。パパなんて、僕が生まれた時からどこにもいないだろう」
「パパが呼んでいるの。ママが行ってあげないと、パパ寂しがっちゃうの。お留守番お願いね、ナオト」
「ママ!」
「なあに?」
虫歯がうずく。ダニに噛まれた膝ががゆい。西日がまぶしい。窓ガラスに蛾がへばりついている。火傷の痕がなかなか消えない。将来が不安。明日が怖い。怖い。ママが怖い。怖い。愛されたい。
「……僕を見捨てないでほしいよ。お願いだよ。僕を置き去りにするのは、もうやめてくれよ」
「私は、イチゴとバナナがたっぷり入ったクレープを食べましたよ」
身の毛のよだつ笑顔のママが、泣きじゃくる僕の頭を優しく撫でる。