感謝を告げる、桜の舞う壊れたセカイで
あのね、わたしは悪くないよ。悪いのはぜーんぶ『あの子』。
――――『あの子』がセカイを壊したんだから。
◇◇◇
街路樹として植えられている桜の木の、桃色の花弁が舞い散る街。春の暖かなそよ風が、大通りに面した歩道を歩く少女の髪を揺らした。茶髪の細い毛先が顎をくすぐる。
少女の名は桜川星来。十七歳の、どこにでもいそうな女子高生。
朝の八時五分。星来は『高校』に登校していた。
「あ」
歩道に散乱したコンクリートの瓦礫につま先を引っかけるが、不揃いな身体ながらも、星来はボロボロのローファーで踏み留まる。機能を失いかけた左足を重そうに引きずりながら、彼女は『高校』に続く道を進んだ。
砂埃が舞うので、生気の薄れた瞳には痛みが走った。梅や桃の甘い匂いとともに、風に運ばれた生臭さが鼻をつく。朱色のリボンが飾られた星来の着る白いブラウスには、赤黒い染みがまだらに、糊のようにべっとり滲んでいた。
いつものように正面の『校門』を通り、二年二組の『教室』に着いた星来。着席して『一時限目の授業』の準備をしていたら、
「おはよ」
あいさつをしてくれたクラスメイトの女子が、背負っていたスクールバッグを机に置いて前の席に座った。犬とペンギンの羊毛フェルトがバッグに飾られている。
茶髪ショートのボブヘア。童顔で、くりっとキュートな瞳が際立つ彼女は、ベージュ色のスクールセーター越しに主張する巨乳も相まって、密かにクラスの男子の視線を集めている。庇護欲をそそられる小動物のような雰囲気に加え、見え隠れする仕草のあざとさには、同性の星来も虜にされてしまいそうになるほど。
優しくて親しみやすいと評判の、クラスの人気者。
星来は「おはよ」と返して、
「数学の宿題はやってきた? わかんないとこがあったから見せてほしいんだけど」
「ん? どうせほとんどわかんなかったでしょ」
「そ、そんなことないし」
「ごめん、わたしもわかんなかったです」
「むぅ、そんな」
と、ホームルーム前に他愛もない会話をしていたら、
「じー」
「へ?」
クラスメイトの彼女はセーターの袖で萌え袖を作り、机に両肘を乗せて顔を支え、星来にじーっと視線を送ってくるのだ。濡れたビー玉のような青い瞳に見つめられ、星来は思わず吸い込まれそうになる。そういう魔力めいたものが彼女の瞳には備わっているのだ。
「じー」
「どしたの? 様子おかしいけど大丈夫?」
ちょっぴり変なクラスメイトに星来が心配したら、
「こら、わたしを心配してるどころの話じゃないでしょ」
「どういうこと?」
「どういうことって……、あのさ。こっちが聞きたいくらいなんですけど」
そしたら彼女は熱い視線を星来から外し、ぐるりと周囲を見通して、
「これ、どうなってるの?」
「どうなってる、って……?」
星来はつられて周囲を見回した。
見回してから。
血で固まりかけた口の端を、小刻みに震わせる。
「あ……あっ」
気づき。――否、気づかされてしまい、声がうわずった。
状況のあり様を前に、ストレートに聞かれる。
「なんで、街も高校もグチャグチャになってるの?」
「あぁ……あっ……あ。あ……っ」
土のグラウンドには無骨なコンクリートや割れたガラスが散乱して、かつて校舎だった三階建ての建物は廃墟のように断面が露出している。壮絶な戦争の痕のように、あらゆる箇所に弾痕があった。寸前まで青春を謳歌していた、とても死が想像できないような高校生たちの、おびただしい数の死体も無残に、ゴミのように転がっている。
教室だって、ない。
瓦礫と死体の中に転がっていた椅子に、今はただ座っているだけ。
そういう事実に、今さらながらに星来は気づかされた。
「ていうか」
クラスメイトの彼女は周囲を見たのちに、星来に心配そうな眼差しを向けて、
「身体もボロボロじゃん。大丈夫?」
「だ、大丈夫……」
「それなら……いいけど。何があったか知ってる?」
「う、うん……」
「教えて」
「その……あまり話したくない、かな。嫌われたくないし」
「嫌われるとか気にしてられるレベルの話じゃないでしょ。教えてよ」
尻が椅子から離れ、前のめりに顔を近づかれて迫られたので、
「わかった。だけど信じて、ね? 約束してくれたら話すよ」
「うん、信じてみる」
親身に頷いてくれる彼女。星来はほんの少しだけ心がほぐれる。
そうして星来は、
「わたしね、好きな人がいたんだ」
そういう導入で経緯を語った。
「どんな人なの?」
「小学生の頃から仲のよかった幼なじみの女の子。すっごくかわいいんだよ」
「女の子かぁ。好きって、ライクの意味? それとも、ラブ?」
「あまり聞かないで。察して」
「ごめんね」
「話を戻すけどその子、三か月前に彼氏ができたんだ。それを本人から聞いたときはおめでとうって、愛想笑いしちゃったなぁ。はぁ、悔しかった」
「叶わない恋ってやつか。つらかったね、同情するよ」
よしよしと、星来の頭を撫でてくれるクラスメイトだが、それと同時に頭の上にクエスチョンマークを浮かべて、
「でも、ここまでは恋愛の話だよね? この状況には繋がらないような気がするけど……。まあ、続きを聞くとしますか。それで?」
「そしたら《ネコガミ》っていう猫耳の女の子が現れたんだ。神様を自称した子だったんだけど、わたしが悩んでることを知ってたみたいで。それで力になりたいから、《神様代行権》っていう力をわたしに授けてくれた。なんでも叶えるすごい力だよ」
クラスメイトの彼女は親身な顔つきから一転し、難しい顔で、右手で頭を抱えて、
「お、おお……。ネコガミ……さんね。にゃーってカンジで猫耳付いてるの……?」
頭の上で、手と手で耳を作ると、にゃーっとかわいく鳴いた。
「絶対バカにしてるでしょ。かわいいからって許されると思わないで。続き、話さないよ?」
「ごめん。で、《神様代行権》をもらったわけで。それを利用したの?」
「うん、いいことを考えちゃったんだ。『彼氏を選べばセカイを壊す。わたしを選べばセカイはそのまま』って、『あの子』に迫っちゃえって。それならわたしを選んでくれるよね、そう思って」
「それ、脅迫じゃない……? で、結果はというと?」
「負けちゃった」
「負けたんかい! 彼氏かセカイかで、彼氏を選ばれたの!? なんかもう、その子が主人公じゃん。まあ、わたしは好きだけどなぁ、そういう物語。あ、ごめん」
星来は頬にぷっくり空気を含み、クラスメイトをキッと睨んだ。
「ああ、そういうこと。だから《神様代行権》でセカイを――……」
「そう、壊したんだ。力は本物で、ピカッて空が光ったらマシンガンの雨が降ってきて、みんな撃たれちゃって。ほんとにセカイが壊れちゃった、てワケ」
「《神様代行権》はどうなったの? まさかわたし、神様の力を持った女子高生と会話してる? はっ、ごめんなさい! 先ほどの無礼はどうか勘弁を!」
「安心して。いろいろ満足したネコガミに取り上げられちゃったから」
「ほ、よかった」
安心したクラスメイトに星来は顔を近づけ、食い入るように見つめて、
「あのね、わたしは悪くないよ。悪いのはぜーんぶ『あの子』。『あの子』がセカイを壊したんだから。わかって……うっ……ゲホッ……ゲホッ。わかって……くれるよね?」
同意を求めるも、苦しそうにむせて吐血した。膨らみのある胸元のブラウスをいっそう赤く汚す。
星来が経緯を語り終えたら、
「はぁ」
クラスメイトはため息をつくと、やれやれと肩をすくめて、
「嘘みたいな話、というのが正直な感想。ネコガミ? 恋かセカイか? アニメみたい」
「そんな……っ、信じて……!」
「電波ちゃん?」
仕舞にはちょこんと首を傾げられる。
「だから信じてよ……っ」
星来は泣きそうな顔で訴えた。
するとクラスメイトは眉間にしわを寄せて、星来の右肩を見つめ、
「そういえば、右腕……」
――二の腕から先が空っぽで、千切れた血染めの袖がそよ風に虚しく靡いて、血がぽたぽたと滴り落ちている。切断ではなく、毟り取られたような痕だ。
「これは……撃たれて……吹き飛んじゃって……」
「ふぅん。それじゃあ羊毛フェルトは作れないなぁ。せっかくの趣味なのに……残念」
「ひ、左手で作れるもんっ」
「綺麗な字でポエムも書けない」
「パソコンで作るからっ」
「あざとい萌え袖もできないねぇ」
「あざとくないしっ。左手でできるしっ」
苦笑いを童顔に浮かべ、左右の手で萌え袖を見せびらかすクラスメイトに、星来は声を荒らげて反論した。
だが、星来はふと眉をひそめて、
「なんでポエムの趣味を知ってるの? 話したことないんだけど」
「ん? 知ってるよ。あなたのことはなんでも。そうだね。趣味以外にも、たとえば――……」
そう言ってのけたクラスメイトは、大口を叩いているわけではないことを示すように、知っていることを次々に口にしたのだ。
男の子に何度か告られてるけど、女の子が好きだからいつも受け取る気ゼロだよね。
学力が中の下で、それがコンプレックスになってたり。
クラスメイトと話を合わせてるけど、流行りの芸能人には興味ナシだよね。
この世の誰よりも自分が一番かわいいと思ってる、でしょ?
それ以外にも、いろいろと。彼女は得意げに言ってのける。
「……」
すべて当たっている。
そして、
「周りからよく思われたくて優しく振る舞ってるけど、その本性は嫉妬深くて、彼氏くんの死を心から望んじゃってる。――どう、当たってるでしょ?」
「消えて」
「ん?」
星来は小刻みに唇を震わせ、右の瞳から一筋の涙を頬に流して、
「消えてよ。気づいてるから。――あなたがわたしだってこと」
目の前で自分を見澄ます、『壊れる前の桜川星来』に告げた。
「あなたを見ると罪悪感で死にたくなるんだけど。嫌なことも、前の自分も思い出しちゃうし。だからお願い。せめてこのまま、壊れたフリをさせてよ」
頬に付着する鮮血に溶けた温かな涙が、荒れたブラウスに落ちて染みになる。
「そっか」
それだけを言い残し、壊れる前の星来は立ち上がると、どこかへと去っていく。
そのとき。
「あっ」
身体から力が抜け、ふらっと椅子から崩れた星来。仰向けで倒れる。
砂埃が晴れてきた天空では、空の青さを背景に、春の訪れを知らせるように桜の花弁がひらひら舞っている。
「ごめんなさい……、ごめん……なさい……っ」
口から出たのは謝罪の言葉。
「ごめん……なさいっ。ごめんなさい……ッ!」
壊れかけのロボットのように、星来は幾度も謝罪を口にする。
「こんなの……夢だよねぇ? 嘘だよ……ねぇ? ……あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ」
駄々をこねる子どものように頭を振った星来。残った左手で、胸元のポケットからスマホを取り出し、ある一枚の写真を画面に映す。ロングの黒髪が美麗な、首輪にも似た黒いチョーカーを首に巻く、紅い瞳が輝く猫耳の少女が、一匹の生魚をおいしそうに咥えている写真だ。
『生で食べたらおなか壊さない?』
『だいじょうぶだニャ。ぼくは神様だから』
そんな会話をしながら、生魚を咥える様子がかわいくて撮影した。そんな些細な思い出が、薄れゆく記憶の片隅にあった。
そして。
「これ……」
スマホを握る左手の手首には、白いリストバンドが付けてある。
星来の私物ではない。『あの子』の形見だ。
肌に付く感覚が生々しい。
「やっぱり……、夢じゃない」
ぽつりと呟くと、胸の苦しさはいっそう増して、
「ほら、嘘じゃないよ! 電波ちゃんじゃない! 嘘ついてない! 本当にセカイは壊れた! 壊れたァ!!」
今までに出したことのない声を張り上げて、星来は喚き散らした。
声の大きい女の子は引かれる。これまで細心の注意を払ってきたことが、今この瞬間になって崩れていた。
「あああああああああああああああッ!! ああああああああああああああああああああッ!!」
不完全な手足をみっともなくジタバタさせて、ごほごほ吐血しながら星来は喚き散らした。
そうして。
喚き疲れた星来はおもむろに目を歪めて、
「どうしよう……。どうしよおぉ……」
血まみれの口を開き、蚊の鳴くような声を漏らした、そのときのこと。
仰向けの星来に一筋の影が差し込む、そんな気がした。
星来はガリッと鳴るくらいに、奥歯を強く噛みしめて、
「消えてって、言ったよね?」
「……」
傍で立っていたのは、壊れる前の桜川星来。
男は恋愛対象にならないのに、チヤホヤされたいから男ウケを狙って、ボブヘアの髪はしっかり手入れがされている。爪だって教師にバレないよう、ちゃっかり薄めにネイルしている。スカート丈だってかわいさを狙って、膝丈より短めをキープしている。
彼女は、
「あのさ」
そんな問いかけとともに、壊れた星来に尋ねる。
「あなたがセカイを壊す前に、『あの子』はなんて言ってくれたの?」
「『あの子』が……わたしに?」
問いを受け取った星来はしばし沈黙し、やがて小さく口を開いて、
『ごめんね。やっぱわたし、■■が好きなんだ。それだけは譲れない』
声に出した瞬間、腹の底から沸々と、マグマのように悔しさが湧き出した。ねじ切れるような胸の痛みに星来は、豊満な胸を潰すように左手で握りしめて、
「ムカツクッ! もうっ! もうっ!!」
心に篭った悔しさを怒号で吐き出した。
しかし、我を忘れて怒り狂う星来に恐れず、壊れる前の彼女は涼しく問いかけた。
「その次は?」
「は?」
「その次は、なんて言ってくれたの?」
「……」
「教えてよ」
「……」
しばらくの沈黙を挟んで。
星来は可憐な目元をくしゃくしゃに歪めると、溢れる涙を流して、
『――――けどね。それで星来ちゃんが苦しむセカイならね。壊れちゃってもいいよ。わたし、星来ちゃんが“好き”だから』
とても優しい一言だった。
「そう言って……くれたよっ」
最期を目の前にしていたはずなのに、女神のように穏やかな顔つきだった。
自分が教室で示していた偽りのものではない、本当の優しさ。
すると壊れる前の星来は、
「だったらさ」
壊れた自分を強い眼差しで見下ろし、感情的に声を振り絞って、
「自分のした選択を後悔しないでよ! 責任取れよ! それを『あの子』が許してくれたならさ! 『あの子』のためにさ!!」
「……ッ」
壊れた星来ははっと目を見開いた。
壊れる前の自分と、その青い瞳の色が一瞬だけ重なる。
「……」
もう、取り返しがつかないことは、やっぱりわかっている。
それでも。
それでも、星来は。
「……うん」
自分を見つめてくれた『あの子』の、春の暖かさにも通じる顔が目に浮かぶ。
「そう……だねっ」
『あの子』の優しさは裏切りたくない。
心に決めた星来は、
「わたし、後悔しないよ」
もう一人の桜川星来に伝えた。
そのとき。
地鳴りのような銃声が響き始める。
遠い場所から、近い場所へと。
最期は近い。
十七歳の女子高生は悟った。
視界に広がる、桜の花弁に彩られた晴天も、次第に霞み始める。
星来はすっと肩の力を抜いて、涙を流しながらも頬を緩めて笑む。
そうして『あの子』へと、
「好きだよ」
感謝を告げた。