第1話
見てね!
白衣の女性——霜月零は、身分証をしまいながら、荒く息を吐いた。
さっきまで病室に満ちていた異様な冷気は、彼女の乱入によって嘘のように霧散していた。
「……特災庁……?」
声が震える。
聞いたことのない名前ではない。
ニュースで年に一度くらい、“奇妙な事件”を扱う特殊部署として報じられることがあった。
でもまさか、そんな組織の人間が自分の名前を呼ぶなんて——。
「どういう……ことですか……?」
問いかけると、零は一瞬だけ険しい顔をしたが、すぐに深い息を吐いて言った。
「説明はあと。まずは退避するわよ。ここ、もう安全じゃない。」
零は叔父……涼司の容態を確認し、ベッドの脇に備え付けられた医療カートを勝手に操作した。
「な、なにしてるんですか!?」
「臨時避難措置。あなたの叔父さんの生命維持は保つ。
問題は——“さっきの影”がまた来る可能性があること。」
影。
あの赤い目。
胸が締めつけられ、喉が乾く。
「……あれは、一体……何なんですか?」
「だから、説明は後でって言ってるでしょう。早く立って!」
「ちょ、ちょっと!?」
「茜、行こ! 私、まだ足震えてるけど!」
めぐみが必死に腕を引いてくれる。
震えているのは私も同じだ。
零は病室の扉を開け、廊下を素早く確認する。
「……よし、今のところ異常なし。行くわよ!」
「叔父さんは……!」
「私が運ぶ。あなたは前を走って。めぐみは茜の手を離さないで。」
「は、はいっ!」
零の声は軍人みたいに鋭くて、けれど不思議と逆らえない力があった。
*
真夜中の病院の廊下は、普段なら静かなはずなのに——
今は違った。
非常灯だけがぼんやり灯り、遠くから誰のものとも分からない足音が響く。
さっきの冷気の残滓が空気の奥にまだ潜んでいるようで、背筋がずっとぞわついていた。
「零さん……あれは、本当に……人じゃないんですか?」
震える声で訊くと、零は小さく舌打ちしながら答えた。
「人じゃない。“異災存在”よ。」
「い……さい……?」
「この世ならざるもの。災害のように突然現れ、人間に害をなす存在。
その中でも、あなたに付きまとっている『黒影』は最悪クラス。」
めぐみが息を呑んだ。
「じゃ、じゃあ……茜って……めっちゃヤバいやつに狙われてるってこと……?」
「ええ。少なくとも……」
零はチラリと私を見た。
「——12年前からずっとね。」
「っ……!」
全身が震えた。
零は歩きながら続ける。
「涼司さんがあなたを守ってきた。でも、あの影はしつこい。“目的”がある。」
「目的……?」
「あなたを“連れて行くこと”。」
心臓が跳ねた。
「な……んで……私……?」
「それは——」
零が言いかけた、まさにその瞬間。
\……ピチャ……/
水滴が落ちるような音が、後ろからした。
全員、同時に振り返った。
床に、黒い染み。
じわり、と広がる。
水じゃない。
光を吸い込むような、“闇”の液体。
「っ……来た!」
零が叫んだ瞬間——
影が、床から“起き上がった”。
ぐにゃりと歪んだ黒い輪郭。
赤い目が2つ。
ぬるりと、立ちあがる。
『……アカネェ……』
「ひっ……!」
めぐみが悲鳴を飲む。
膝が折れそうになる。
「後退!! 走れ!!」
零が叫び、手に銀色の札のようなものを取り出した。
「——封ッ!!」
札が光り、影に叩きつけられる。
爆ぜる閃光。
影が一瞬後退する。
「今のうち!! 走れ!!!」
その怒声は、あの日消防士が叫んだ声と重なって——
「……っ!!」
私は走った。
めぐみも手を握りしめてついてくる。
零は叔父さんのカートを押しながら後方で影を牽制しつつ、叫び続ける。
「エレベーターは禁止! 階段へ!!」
*
階段に飛び込んだ瞬間——
上から吹雪のような冷気が流れ落ちてきた。
「上にも……!? 嘘でしょ……!」
「くそ……挟み撃ち……!」
零の顔が険しくなる。
上階の陰から、赤い光がまた2つ——。
「茜!! 下がって!!」
めぐみが私を抱くように庇う。
影は2体。
12年前に見たのは1体だけだった。
じゃあ、これは——。
『……ナゼ……ニガレル……?』
『……ココデ……オワリ……』
囁き声が重なり、階段全体が凍りつくように冷たくなる。
「……いや……いやだ……」
まただ。
私はまた誰かを失うのか。
叔父さんも……めぐみも……また私のせいで——。
「茜!! こっちを見るな!!」
零が叫んだ。
「影の声を聞くな!! 奪われるぞ!!」
「……っ!」
必死に耳をふさいでも、声は頭の中に直接響いてくる。
『……アカネ……アカネ……』
足が、動かない。
*
そのとき——
階段の奥から、誰かの足音が響いた。
ズン……ズン……と、鉄板を踏み抜くような重い足音。
「っ……!?」
影たちも一瞬、動きを止めた。
足音の主は、ゆっくりと階段の影から姿を現した。
黒いコート。
雪のように白い髪。
無表情で、鋭い琥珀色の瞳。
その背中には——
“巨大な黒い棺”を背負っていた。
「……な……に……?」
めぐみが絶句する。
男は私たちを見るでもなく、ただ影たちだけを冷たく見据えた。
「——邪魔だ。」
低い声とともに、背負っていた棺がガコン、と開く音がした。
次の瞬間——
階段全体を揺らす轟音とともに、
“黒い棺から無数の鎖が放たれ、影たちを一瞬で絡め取った”。
『■■■■■■■■■■!!』
影は、聞いたことのない絶叫を上げ、引き裂かれるように掻き消えた。
男は淡々と棺を閉じると、こちらに視線を向けた。
琥珀色の瞳が、まっすぐ私を射抜く。
「……やっと見つけた。
——綾瀬茜。」
零がうめく。
「……なんであんたが……ここに……!」
男は答えず、ただ一言だけ告げた。
「茜。
おまえは……“選ばれた側”の人間だ。」
世界が、音を失った。
階段に漂っていた刺すような冷気が、影たちの消滅とともに少しだけ和らいだ。
私は肩で息をしながら、まだ震える足をなんとか踏ん張る。
黒い棺を背負った男は、無表情のままじっとこちらを見ていた。
その視線は鋭いのに、不思議と冷たくない。
……ただ、逃がす気がまったくない。
「……選ばれた……?」
やっと絞り出した声は、情けないほど震えていた。
男はゆっくりと階段を降りてくる。
「そうだ。おまえは——“境界災”に触れうる素質を持つ。12年前、黒影が嗅ぎつけた理由もそれだ。」
境界災?
また聞いたことのない言葉。
「待ちなさい、氷室。」
零が男の前に立ちふさがる。
軍人のような鋭さで、逃げるように息を吐きつつも足は迷いなく。
「勝手に介入しないで。ここは特災庁の現場よ。」
氷室と呼ばれた男は、微動だにしない。
「特災庁がどう動こうと関係ない。茜は“うち”が預かる。」
めぐみが小さく叫んだ。
「え、預かる!? え、ちょ、ちょっと待って!? なんで茜がそういう扱いに!?」
氷室はめぐみを一瞥するが、彼女の言葉には一切答えなかった。
「氷室……」
零の声が低くなる。
怒っているのか、それとも焦っているのか判断がつかない。
「上層部の許可は? こんな深夜に勝手な出動……彼らが黙っているわけ——」
「黙っている。」
氷室の声は淡々としているのに、不気味な説得力を持っていた。
「“あの人”が命じた。
綾瀬茜の確保を最優先に——とな。」
零が息を呑む。
「あの人……って……まさか……局長……?」
氷室は答えない。否定しないということは——肯定と同じだ。
零の顔から血の気が引いていく。
「……局長が動くなんて……どういう……」
私は思わず口を挟んだ。
「ま、待ってください!
“確保”って……私、犯罪者みたいに扱われてるんですか……?」
氷室はまっすぐに私を見た。
「違う。
おまえは、守られなければならない側だ。」
「守る……?」
「黒影は、また来る。
あれは下位種だが、“数”を増やす特徴がある。先ほどの二体で終わりとは限らない。」
背筋が凍る。
「でも……だからって……!」
氷室は一歩こちらへ踏み出した。
その動きだけで、階段の空気が重くなる。
「綾瀬茜。
おまえは“境界災”を引き寄せる体質だ。
放っておけば、一般人だけでなく——」
ちらりと、零とめぐみ、そして叔父のカートへ視線を走らせる。
「——おまえの周囲が全滅する。」
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
言われるまでもない。
その“最悪”を、私は十二年前に経験している。
めぐみが私の腕を強く握った。
「茜は……茜は、誰のせいにもさせない……!」
震えているのに、めぐみは私の前に立った。
その姿に涙が出そうになる。
氷室はめぐみの勇気を見ても表情ひとつ変えない。
「強がりは不要だ。
これは“運命”ではなく、“性質”だ。」
零が鋭く声を発した。
「氷室。
あなた、茜に接触するのは初めてでしょう。
勝手に“性質”なんて断言しないで。」
「データは揃っている。
十二年前の現場記録も。」
「っ……!」
零の目が揺れる。
氷室の言葉の正しさを否定できない、そんな表情。
私はたまらず叫んだ。
「じゃあ……どうすればいいの!?
私は何をすれば……みんなを巻き込まずに済むの……!」
氷室の瞳が、初めて少しだけ柔らいだ気がした。
「……ついて来い、茜。
——“自分の正体”を知るために。」
零が私の腕を掴む。
「駄目よ、茜。行かせられない。
特災庁はあなたを保護する責任がある。それに氷室は……っ」
氷室は淡々と遮った。
「零。
おまえたちでは茜を守れない。」
「……言ってくれるじゃない……!」
零のポケットの中で、光札が微かに震えた。
二人の間にバチッと火花が散るような緊張が走る。
めぐみが怯えながらも叫んだ。
「二人とも!! 茜を引っ張り合わないでよ!!」
その声が、冷えた空気に響き渡った。
そして——
階段の上から、また“あの冷気”が流れ落ちてきた。
零と氷室が、同時に顔を上げる。
「……っ、再出現か……!」
「来るのが早すぎる……!」
赤い光が、またひとつ。
階段の闇の上で“何か”が蠢く。
氷室は棺の留め具に手をかけた。
「話は後だ。
綾瀬茜——動くな。」
零も光札を構え、低く言った。
「茜、しゃがんで! めぐみ、守って!!」
ひやり、と空気が氷点下に落ちる。
赤い目が三つ、四つ——いや、それ以上。
影の群れが、音もなく階段を満たしていく。
私は思わず息を呑んだ。
(……また、誰かが……)
その瞬間——
氷室の声が、鋭く階段に響いた。
「茜。
おまえが望む未来は……どれだ?」
影が一斉に降りてくる。
零と氷室が前に出る。
私は震えながら——
それでも、逃げずにその場に立った。
──私は……どうすればいいの?
ありがとうございます!




