一番古い記憶
新章の開始です。
章題は「パンドラの箱の底には」です。
幼い頃の一番古い記憶というのは、大体いつ頃の物なのだろうか。 個人差が大きくて、私には信じられないのだけど、母親のお腹の中にいた時の記憶がある人がいるという。 中には前世の記憶を持つという人がいるらしいけど、これは確かめようもなかなか無いので、とりあえずは保留だ。
私の場合、長い間一番古い記憶は、東京オリンピックでアベベが走っている姿をテレビで見たことだと思っていた。 東京オリンピックといっても、アベベ選手の名前で判るとおり、当然だけど1964年の方だ。
これはもう鮮明に覚えていて、テレビを見ていたシチュエーションも覚えているし、何故アベベ選手が走っているのを良く覚えているかの理由も分かる。 私はアベベ選手が靴を履いて走っているのを見て、驚きとがっかり感をとても感じたのだ。 アベベ選手は裸足で走るのだと、幼い私は思い込んでいて、それが違っていたので、とても印象に残っているのだ。
東京オリンピックのことは他にも覚えている気がするのだが、他に関してはその当時にリアルにテレビで見たことか、後からテレビや記録映画で見たことなのか、はっきり区別をつけることが出来ない。 でも、アベベ選手が走っているのをテレビでその時にリアルに見たのだけは、確実なこととして記憶に残っている。 残念ながら円谷選手は、全く覚えていなかったけど。
そんな風に、確実に年月日まで分かる古い記憶なので、私の中では最も古い記憶だと思い込んでいたのだが、色々と考えてみると、どうやらそれよりも古い記憶も思い出せるようだ。
我が家では、その歳の年末12月から商売を始めたのだが、店の建設をしているのを見た記憶があるのだが、これは確実にオリンピックより前の事でなければ、建築的に間に合わない。
そしてそれよりも、私は車のついた箱に収められる積み木を父親に買ってもらって、大事にしていたのだが、父親がその積み木を買って来てくれた時の事を覚えているのだ。 今になって考えると、引綱が箱に付いていて、それを引っ張って道を歩いて来て、私にその引綱を渡してくれたのだが、きっと幼い私を見つけてから、そういう演出をしてくれたのだろう。 これはまだ店をやっていなくて、父が学校に勤めていた時の事だから、確実にオリンピックより早い。 私は余程嬉しくて、全ての事を覚えているのだろう。 家に一緒に戻った父親が、コートとベスト付きの背広を脱いで、着物に着替えたことまで覚えている。
それからすぐに廃れてしまった風習だけど、当時はまだ洋服は仕事着で、家に戻れば着物に着替えるということが、まだ行われていたのだ。
そんな記憶と共に、私にはもう一つとても古い記憶がある。 2歳下に妹がいるのだが、まだその妹が赤ん坊で部屋の片隅で布団に寝ていた気がする。
私は3人兄弟だから、もう1人兄弟がいる。 少し歳が離れている7歳上の兄だ。 その兄は身体障害者だった。 今はワクチンもあり少なくなったが、当時は大流行したらしい病気、小児麻痺に赤ん坊の時から冒されていたのだ。
夏のことだった。 兄は暑いのでむき出しになっていた脛を蚊に刺されたみたいで、幼い私に「痒いから掻いてくれ」と言った。
私はその時、もう理由は全く覚えていないが、何か兄に対して怒っていて、その兄も言葉に反抗して、掻いてあげるということをしなかった。
夏場の事で、当時は部屋の仕切りであった襖を取り外していたので、隣の部屋で何かしていた父が、その様子を見ていて激怒して、つかつかと近寄ると、私は張り倒された。
「体を動かすことが出来ない兄ちゃんが頼んでいるのに、なんで即座にやってあげない!!」
私は本気で張り倒されて、6畳間のほぼ端から端までという感じで、体が吹っ飛んだ。 大人になってから、この時のことを思い出して、幼く小さかったからコロコロ転がったのだろうとは思うが、よくも同い子供がそんなに吹っ飛ぶほどの力で張り倒せたものだと思った。
父にしてみれば、きっとそれほど激怒する事柄だったのだろう。
幼い私は、その暴力に驚きはしたのだけど、それ以上に悔しかった。
私には私なりの理由があって、兄の頼みを拒否したのだ。 普段は兄に頼まれると、すぐにそれに応えていたのに、理由があってそれを拒否したら、有無を言わせず張り倒されたということが、とても理不尽に感じたのだと今では解釈するのだけど、まだ幼い私がその時にそこまでの語彙がある訳もなく、ただ単に悔しくて泣いた。
そしてその場近くには、父が居ただけでなく、母と祖母もいたはずなのに、2人とも私を庇ってはくれなかった。
幼くとも私は、兄と私が比較される時には、誰も自分の味方はしてくれないのだと深く思った。
「お前が痒いときに、それを掻かずに我慢してみろ。 それがどんなに辛いことか」
父にはそうも言われて、私は自分が蚊に刺されて痒い時に掻かずに我慢してみた。 確かにそれは辛い。
私が、出来ないことと、出来るけどしないことは違うのだと気づいたのは、ずっと後のことだ。 出来ないことは確かに苦しい。 だけど、私の今の実感としては、出来るのに我慢してしないことは、もっと苦しい。
この出来事は、幼かった私の心に深く残り、完全にトラウマになってしまった。 悔しかった思いもずっと持ち続けていたのだけど、このことにより何はともあれ、兄に関してのことを自分よりも優先して考えることを、心の深くに植え付けられてしまった気がする。
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省と登貴の新婚生活は、最初ほんの少しだけ省の実家である、元々村長宅だった家で始まった。 しかし、その時間はとても短くて、すぐに逆に登貴の実家である繁信の家に移ることになった。
省の実家には、もう奉公人や女中が居るということはなかったのだが、そこには故村長の後妻の省の実母のあいに加えて、姉の考の一家が暮らしていた。 そこでの家族の折り合いが上手くいかなかったのだ。
ま、色々な原因は有るのだが、一番の問題は経済的な問題だ。 農地改革で土地や小作を失っていたので、わずかに残った田畑で生活の糧を得ていた姉の考としては、残された家や田畑を自分の物にして置かねば、生活が成り立たないからだ。 弟の省が嫁をもらって、完全に家の跡取りとなってしまうと、自分たちの身の置き所が無くなってしまうと考えたのだ。
大人になってからはある程度身体が普通になったが、子どもの頃は病身で半分寝て暮らしていた考には、自分で金銭を得る方法が無く、兄たちに決められた夫も奉公人あがりであったから、残された農地がなければどうにもならない、と考えてしまったのは、自分勝手な考えだけど、いくらか同情の余地もあるかも知れない。
省にしてみれば、どの口がそんなことが言えるのだ、と思うのだが、姉である考の子どもの事を考えると、仕方がないと考えた。 特に長男は、父親との血の繋がりがないから、どこか別の地で新たな生活を作るとなると、冷遇されてしまうのではないかと、勝手に心配したりもしたのだ。
省は、自分たちは2人とも教師という職についているので、少なくとも食うに困ることはないだろう、と考えて、兄2人が譲ってくれた僅かに残されていた父親の財産を、姉の考のモノとして、自分の実家を出て、妻の実家に転がり込んだのである。
この時、まだ生きていた兄の賢嗣は、「親父の残した最後の財産は、省に譲ったんであって考に譲ったのではない」と怒ったのだが、それを省が宥める形で渋々認めた。 省と登貴の夫婦が繁信の家でとりあえず暮らすことについては、「まあ、そこが一番気楽だろう」と簡単に認めた。 賢嗣の家も、そしてもう1人の兄英雄の家も、それぞれに家庭に事情を抱えていて、省夫婦を引き取れる状況にはなかったからだ。 そしてまだ簡単に借家が見つかる状況ではなかったからだ。
省の当初の心算では、少しの間だけ居候させてもらって、すぐに近くに新居を建てるつもりだった。 小さな家を建てる程度の土地ならすぐに手に入るだろうし、建てるのは義父となった繁信に頼めば簡単だと、甘く考えていたのだ。
実際には、その直後に長兄の賢嗣が急死し、病院をどうやって維持するかという問題を、次兄の英雄と共に解決に当たらねばならなかったり、兄の死で落ち込む義父の回復を待たねばならなかったりと、新居を作るという話はどんどん先送りされることになってしまった。
そんな時を過ごして、今度こそそろそろと具体化しようとしていた時に、登貴の妊娠が分かり、また先送りとなった。 出産して、そして数ヶ月くらいを置かねば、新居を建てて、そちらに移り住むどころではないだろうという判断だ。
その判断は正しかったのだが、居候の時間は想定を超えて長く続くことになってしまった。
少し早産で生まれた子は、生まれて最初の1ヶ月は乳の飲みも悪く、育つだろうかと周りを心配させていた。 しかし、その時期を過ぎると身体はとても小さいながらもきちんと乳を飲むようになり、一安心させていた。
しかし、3ヶ月になった頃、突如高熱を発した。
その高熱は数日で下がり、ホッとさせたのだが、それからまた3ヶ月が経った頃には、その子ははっきりと問題があることが明らかになって来た。 生まれて半年も経てば、首もすわっていて、寝返りが出来るようになるのが普通なのだが、その子は一向に首もすわらず、眼球を動かすのみで、まともに体のどこかを動かすことがなかったのだ。
明らかに異常が見られるので、省は兄の病院を一時的に任せている医師に相談をすると、都内の大病院での精密検査を勧められた。
日本は、朝鮮戦争の影響などもあり、やっと少し復興が本格的になり始めた頃である。そんななんだかザワつき出した東京の病院に、精密検査の為に向かう。 その結果は、覚悟していた以上に厳しいものだった。
省と登貴の長男邦仁は、重症の小児麻痺と診断されたのだ。
今ではワクチンもあって、日本では根絶している状況だが、この当時ではかなり流行した病気である。 ポリオに罹患して麻痺が出ても、ごく一時的なモノである可能性もあるし、そうでなくても半年から1年足らずでかなり回復する者も多い。 ただし、根本的な治療法はない。
とりあえず出来ることは対処療法に限られるし、熱を出していたりとかの異常がない時に出来るのはリハビリだ。 手足などの身体が動かなくても、そのまま動かさずにいたら筋肉が衰えたり、固まってしまって、より動けなくなる。 マッサージをしたり、動かしてやることで刺激すれば、病気で損傷した神経回路が復活するかも知れないし、新たな回路が作られるかも知れない。 そうして徐々に回復した例もあるらしいのだ。
登貴は、そんな希望に縋り付いてしまった。
これからの生活を考えると、その時点で教師の仕事を辞めることは出来なかったが、幸い職場の小学校は近く、狭い地域であることもあって、周りは事情を知る者ばかりである。 登貴は、可能な限り仕事時間を減らして、学校から素早く家に戻ると、息子の邦仁のリハビリに励むようになった。
良い悪いは別として、そんな生活が許されたのも、小さな狭い世界での人間関係であったからだし、何よりも登貴の実家に住んでいたということが有利に働いたのだ。
しかし現実は優しく無かった。
邦仁は手に掴まったりするようになって、登貴に希望を抱かせたが、相変わらずハイハイさえ出来なかった。 そして時に、呼吸が困難になるようなひきつけを起こし、その後は物が何も食べられなくなったりもした。
「叔父さん、俺は叔父さんが俺よりも注射なんかの処置が上手いことを知っている。 だけど、昔はともかく今では叔父さんが、それをするのは違法行為だ」
亡くなった兄の息子の祐嗣は、医大を卒業し研修を終え、実家の病院に戻って来ている。 まだ独り立ちというところまでは行かず、今は雇った医師と共に病院で働いている。
邦仁が最初の大きなひきつけを起こした時は、この実家の病院に連れて来るのがなんとか間に合い、筋弛緩剤を打つことで命を取り留めた。
省は、亡き兄の病院であることから、甥の祐嗣に無理を言って、その筋弛緩剤や、ブドウ糖液、リンゲルなどの薬剤と、それを投与するために使う注射器、点滴用具などの医療機器を手に入れた。
「そんなことは解っている。 しかし、今回は間に合ったが、次回は間に合うかどうか分からない。 用意しておかねば、この子の命が守れない。 仕方がないだろう」
「叔父さん、叔父さんも昔から医療に関わって来ているのだから、理解していると思うから、敢えて言う。
俺は違法行為までして、無理矢理命を繋ぐことが良いことだとは思わない。 間違ったことの片棒を担がされている気がするんだ」
「祐嗣、すまない。
祐嗣の言うことはもっともだと思うのだが、それでも、違法行為だと解ってはいるが、自分に我が子を助ける技術があるのに、それをしないで見殺しにする選択は出来ないんだ」
「その気持ちは理解できるから、俺もこうして用意してしまっているのだが。
いつか、この行為を後悔しちゃいそうで怖いんだ」
結果的には、その後も何回かあった危機的状況は、なんとか父である省の施術で、乗り切ることが出来た。 それが良いことだったのかどうかは別ではあるが。
邦仁が生まれてからの2-3年を生きて乗り切ることが出来たのは、父親の省が無資格だが緊急時に対処出来るだけの医療技術を持っていたのと、その為の医薬品が手に入ったおかげだった。 「普通なら死んでいる」というのが、祐嗣と祐嗣と共に病院を運営している雇われの医師の率直な意見だった。
ただし、邦仁の病状は、一時的なモノや、一年足らずである程度良い方向に向かうような簡単な事ではないことは、もう誰の目にも明らかだった。




