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想いはいつまで憶えられているのだろう?  作者: 並矢美樹
国番匠
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蔵の中

 高い身分の家でも、三男・四男となれば、上手い婿養子の口でも見つからなければ、部屋住みで無為の日々を過ごすことになる。

 それだから男子を授からずに娘しかいない家や、子が授からなかった家の当主の目に入ろうと、そういった者たちは色々と努力をする。

 剣術や学問に対する熱意は、長男・次男の比ではないのだ。 武士の家の三男以降は物心がつけば、それをヒシヒシと感じるのだ。


 時の殿様は、人物としてはかなり有能なのだろうが、家臣の中での評価は微妙だ。

 時勢が厳しいからだろうが、気苦労が絶えず、昔の殿様のようにとてものほほんと暮らしていられはしない。

 その気苦労解消の先が、今の殿様は女子の数を増やすことに向かってしまったらしく、お手付きの人数が多いのだ。 つまり妾腹の子の数も多い。

 すると有力な家臣の家が婿を取る必要が出てきても、そういったところには妾腹の若君が入ったりすることがある。

 つまり家臣の三男以降が狙える所は確実に減るのだ。


 それでも身分の高い家柄の者はまだ良くて、下の家柄の家では上との繋がりを重視して、婿養子や養子として上の家柄出の者を欲しがる。

 身分の高くない家の三男以降こそ、どうにも身の振り方に困るのだ。


 その意味では私の父は、良く子供の将来を考えてくれていたのだろうと思う。

 三男である私を長く手元に置くことなく、農家とはいえ子のない庄屋の家の跡取りとして私を養子に送り込むことに成功したのだから。

 物心ついて、下級武士の跡取りとその予備以外の子として生まれた自分の境遇を知ったのち、その不遇をよくよく考える時間もないままに、私の行く末を決めてくれたのだから。


 武士として生まれた者が、庄屋とはいえ農民になることは、ほんの少しだけ寂しさのような気持ちがない訳ではなかったのだけど、私には武士としての才がなかった。

 貧しき下級藩士の家の子といえども、物心ついた時から武士の子として厳しく躾けられた。 言葉使いや姿勢、挨拶の仕方、礼儀作法、食事の仕方、肉体的・精神的苦痛を態度に表さないで我慢することなど、武士としての体面を汚さないことを教え込まれる。

 そして6歳になった時からは、8歳で進む藩校入学の為に、本格的な教育が始まった。 剣の稽古と学問だ。

 私はそこで躓いた。


 剣の稽古は、まだ単に自分の背丈に合わせた木刀を只管振るという基礎訓練だけで、誰かと打ち合ったりという本格的なモノではなかった。

 きっとまだ幼いから危険を考慮したり、体力、筋力をつけることが目的だったからだろう。

 剣の稽古は1人でする訳ではなく、近所の同じ位の子どもが集められて、誰かしら大人が見守るという形だった。

 ただ剣というか、形だけの木刀を振るだけのことで、自分にとっては疲れるだけで早く終われば良いと思う時間でしかなかった。

 でも、一緒に振るう周りの子の中には、とても真剣に嬉々としてその稽古をする者もいた。 当然同じことをしていても、すぐに自分とは振るう木刀の鋭さに違いが生まれるのが幼いながらにも解った。


 学問は字を書いて覚えることと、素読である。

 字を書いて覚えるといっても貧乏な下級士族の家の子だったから、墨を使うことはなく、紙に水だけを含ませた筆で書く。 手本を見て、その通りに書いて、父に見せるのだ。

 紙は乾かして何度も使うのだが、そのうちにヨレヨレになってしまう。 そうしたら全体を軽く濡らし、板に貼り付けて乾かして、乾いたら破らないように慎重に剥がして、そうして何度も繰り返して使った。

 こうして字を覚えることは嫌いではなかった。

 問題は素読の方だ。

 素読といっても私の家では本を目の前にして読む訳でなく、父が発する難しい漢文の言葉を、意味も分からないまま復唱して、一言一句間違わないように暗記していくのだ。

 その後年齢が上がってから、文字も見ながらその覚えた漢文を読んだ時には、その意味することの深さもある程度は理解出来たのだが、当時は訳も分からず言葉を繰り返すのみで、私は覚えが悪かった。


 私はそんな訳で刀を振ったり、漢文を覚えるといった武士としての素養は駄目であったのだけど、その頃に所持が許された小さな刃物で、物を削ったり細工をしたりということは好きだったし、その才能はあるようだった。

 下級藩士なんてのは、それだけでは食べていくことは出来なくて、畑に作物を作ったり、ちょっとした小間物を作って売ったりといった作業もこなさねばならない。

 私はそういった作業は、苦にならずに行うことが出来たし、器用に何でもこなせた気がする。

 父はそんな私を見て、ガッカリしたのかというとそんなこともなく、一つの個性として見ていてくれたようだ。 もしかすると、武士としては必要とする適正に欠ける私を、逆に良かったと思っていたのかもしれない。


 藩士の子弟の教育に力を入れ始めていた藩は、8歳の春からは藩士の全ての子弟を藩校に通わせることにして、そこで優秀な成績を修める者はその父兄の身分に拘らず抜擢していく改革が進められていた。

 だが私はその歳に、藩校に通う前に養子へと出されることになった。

 優秀ならば身分に拘らずとはいっても、余程優秀であるならば別なのだろうが、同程度ならば当然身分が上の者が仕えることになるのは当然のことだ。 そして私は武士の子弟として優秀ではなく、並広しに含まれるだろう。

 ならば藩政が時勢で変化してきていても、私自身の行く末は以前と変わることはないだろうというのが父の判断だったのだろう。

 こうして私は、割と早期に、つまり幼いうちに、繋がりのあった庄屋を務める農家の養子となったのだ。


 「お前が母の腹の中にいる時に、各地で地の鳴動が続き、生まれた年にはとうとう江戸に大きな地揺れが起こり、多くの人が亡くなった。

  それを考えるに、お前は平穏な生を歩むのは難しい星の下に生まれたのかも知れない。

  最近の時勢には不穏な気配も漂う。 それを好機と捉える向きがあることも承知しているが、それには才が必要であろう。

  残念ながらお前には武士としての才はあまり感じられない。 だが他の才はあるのではないかと思う。

  そこでお前は武士としての生き方は捨てて、違う道を歩むが良かろう。 なに、こんな貧乏な武士の家、捨てるのに躊躇う必要がある程のモノではない」

 実父にこの様に言われて、私は養家へと向かったのだ。


 庄屋の家に養子に入ったからといっても、10歳にもならない子供がすぐに変われる訳がない。

 私は今まで通りに腰に木刀を下げ、それを振る鍛錬を続けた。

 学問も教わるのが父から養父に変わっただけで、内容に大きな差はなかった。 かえって養家にはきちんと私の為の本があったことに逆に驚いた。

 ただし、今まではあまり教わらなかった算盤や計算、数の記帳が習うことに加わった。 これらは庄屋という立場に必要な事柄なのだろうということは、当然ながらすぐに推測できたので、しっかりと覚えなければならないとは思った。


 木刀を振る鍛錬を続けていることを奇異の目で見られるかとも思ったが、この当時は段々と物騒な雰囲気が漂っていたからか、農民とはいえ少し裕福な家の男は剣術を習っている者も多かったので、少しも浮いた存在にはならなかった。

 剣術道場から教えに来る者がいた程なので、中にはなかなかの腕だと私には思える様な者もいて、私が木刀を振る鍛錬をすることが逆に親しみを生む様な有り様だった。



 京の都で何やら大変なことが起こっているとか、流れてくる噂は、その都から遠く離れ江戸からもかなり距離があるこんな地でも、大人たちはかなり真剣に話し合う出来事の様だった。

 もう物心がついた歳とはいえ、まだまだ子供の私はなんだか忙しくなっている養父たちの様子をそれとなく伺ってはいたが、その情勢が自分に何らかの変化をもたらすとは思ってもいなかった。

 そんな時、元の実家の実父が死んだ。


 まだ私が実家に住んでいた頃、巷ではコロリが流行り、多くの人が亡くなった。

 私の実家は、身分が低いから城下の町から少し離れた位置にあったことが良かったのか、誰かがその病に罹ることもなく、家族無事にやり過ごすことが出来たのだった。

 それなのに、実父は病であっという間に死んだ。 体調が悪くなって、ほんの2・3日でのことだ。

 実父の死ということで、その葬儀には行かねばならないと考えたのだが、実家からは「こちらに戻り来ることまかりならん」と、通達が来た。 実父が死んだだけでなく、まだ実母も体調が悪いから、病が移る可能性があるかららしい。

 他家の者となった私が、元の家から病をもし感染してしまったら面目に関わるということのようだ。

 結局、実家で流行った病はその後、長兄まで巻き込んでしまうことになり、私の実家は生き残った次兄が後を継ぐこととなった。

 私と兄2人とは少しだけ歳が離れていたので、その時次兄も元服はしていたのだけど、次兄自身も予想していなかった事態だっただろう。


 それから程なく、私は理由も分からずに、家の蔵の奥深くに隠れる様に養父に言われて、半日程隠れていた。

 何事かと驚いたのだが、養父は説明してくれることはなく、その後10日程すると、今度は違う場所へと移動して、本格的に蔵の中に作られた隠れ部屋で生活することとなった。

 完全な幽閉生活で、昼間はほぼ完全に閉ざされた薄暗い蔵の中で過ごし、外に出るのも周りに誰もいないことを確認して、夜に少しの間だけ体を伸ばす程度のことだった。

 蔵の中の部屋では、出来ることもほとんどないので、灯りを頼りにある限りの書物を読むのことと、暇潰しに小刀で木を彫るくらいのことしか出来なかった。


 当初私の存在は、その蔵がある集落の者にも秘されていたのだが、すぐに集落の者には私の存在は知られるようになってしまった。

 まあそれはそうだ。 蔵に隣接して厠が作られいて、それを利用する者をほとんど見かけないのに、肥溜めの処理はきちんと定期的にされるのだ。 いやそれ以前に、朝晩に食事が蔵に運ばれているのは、いくら気をつけていても、集落の者は気がつくだろう。


 私はこの事態をどう考えていたかというと、養父がこの様な処置を命じるだけで、その理由を説明してはくれなかったので、その理由を自分で推測するしかなかった。

 もうこの頃にはある程度の年齢になっていたので、自分が不自由な身となれば、その理由を懸命に考える。 そしてある程度は推測する。

 しっかりと理由は分からないが、自分の存在が養父にとっては問題となるのだろう。

 亡き者にしてしまうのが手っ取り早いのだろうが、それでは可哀想だと慈悲の心で、押し込めることだけで済ましているのだろう、と。

 私はまだ死にたくはなかったので、その状態を受け入れるしかなかった。 情勢は必ず変化するはずだと、希望が持てていたこともある。

 当時の私でもそう思えるほど、時世の動きは激しかったのだ。


 私は夜暗くなってからの少しの時間だけだけど、集落の者数人と話を交わすまでになったのだが、基本的にはほぼ完全に存在を秘密にされていた。

 一番困ったのは、高熱を発してしまった時だ。

 さすがにどうにもならず、毎日の食事を運んでくれていた女が看病してくれたのだが、隠れている蔵に医者を呼ぶ訳にもいかず、その女が持ってきてくれた解熱の薬をいくらか服用するだけで、あとは井戸水で冷やした手拭いで頭を冷やしてもらうだけだった。

 幸いにも、耳から膿が流れ出て、その後数日で熱は下がり、私は命を失わずに済んだのだが、膿が出た右耳はそれ以来聞こえなくなってしまった。


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