縁日と晴れ着
「浴衣着たかったなぁ」
最近同棲を始めた彼女がそう言った。
「そんなん言っても、家に浴衣なんて無いからなぁ」
僕がそう言うと、彼女は不承不承に顔を前に向けた。
夕冷えを誘う生温い風が、アスファルトから梅雨の香りを運んで来る。
「祭りに来るなんて何年振りやろ」
何年か振りに祭りへ行こうと思った理由は、仕事から帰宅する道すがら遠くの方で神輿と太鼓の音がするのを聞いて気が向いたからだった。
夕暮れの薄暗さの遠くの方から、屋台の明かりと人々の喧騒を感じる。普段通った事のある神社までの道が何処か非日常な、ハレの場へと繋がっているのを懐かしく思った。
「子どもの頃は、こんな感覚がよくあった気がする」
僕がそう呟く頃には、ギラギラと極彩色に輝く屋台の明かりの中へと飲み込まれていた。
「東京コロッケか、懐かしいなぁ」
東京コロッケとは、タレの染みた一口サイズの丸いコロッケが幾つか串に刺さっている物だった。
射的や輪投げ、当たりもしないくじを引いてみたりして童心に帰って遊ぶ僕を横目に、彼女は輪ゴムで閉じたプラスチック容器に入った東京コロッケを二人分持って立っていた。
「私も久しぶりに食べるわぁ」
その味は、昔よく両親と一緒に食べていた東京コロッケと同じ様に感じた。
「あぁ、これこれ」
懐かしさを感じる程変わらない東京コロッケの味と、今やアラサーの仲間入りをした自分を思うと何だか不思議な感覚を抱いた。今日遊んだ射的や輪投げだって、やってる事はあの頃と変わらない筈なのに何処か新鮮味を感じなくなっていた。
自分の中の童心が、自分が思っていたよりも、もうずっと遠くに居る事に気が付いた。
東京コロッケを食べ終え、残ったプラスチック容器と串をゴミ箱へ捨てに行く。その時彼女がチラチラと周りの浴衣を着たカップルに視線をやっている。
(そんなに浴衣が着たいものなのか)
彼女の浴衣姿はそれはそれで綺麗だろうなと思う。だが僕は正直、スーツを着た仕事帰りに浴衣に着替えてまで祭りへ行こうという気力は微塵も無かった。
「神輿が通りまーす。皆さん端の方へ寄って下さーい」
そんな考え事をしている内に、法被姿の男性の声が響いた。そして暫くすると、僕達が歩いている通りを太鼓と活気溢れる掛け声と共に神輿が駆け抜けて行った。
「ご協力ありがとうございまーす」
そう言って向うへと歩いていく法被姿の男性を見ていると、自分が子どもの頃地元の団体で神輿を担いだ時の事を思い出した。その時僕は祭りの当日に着た法被に強く感動した事を覚えている。
「そんな事も忘れていたんだなぁ」
そう考えると、自分が浴衣を着たいかどうかよりも彼女に浴衣を着させてあげたかったと思える様になった。そして今自分がスーツを着る時に何の特別な思い入れが無い事にも気が付いた。
それに比べてあの法被姿の男性には強い意志を感じられ、格好の良い様に見えた。するとその時、周りのカップルの内の一組の会話がうっすら聞こえて来た。
「法被ってよく見たら無いよね」
「まぁお洒落かどうかで言ったらね」
成程、確かにファッション的に言えば一理あるのかもしれない。それでも自分が子どもの頃、自己形成の時期に感じた価値観はあの法被姿の男を魅力的に見せるのだった。
「私は法被って凄く、カッコイイと思うけどなぁ」
彼女は僕に聞こえるか聞こえない位の声で、そう呟いた。
その時何故か僕は、この人と一緒に居て良かったなぁと感じた。
そうして一通り祭りを満喫した後、ミーハーな僕達はこんな時にだけ神様に礼拝する事にした。賽銭箱に五円玉を投げ入れ知った様に二拍手一礼をする。
(彼女と一緒に晴れ着が着れますように)
僕の何年か振りの神様へのお願いはそんな感じだった。
「ねぇ、何お願いしたん?」
彼女の言葉に、お前が浴衣を着れる様にお願いしたんだよ。と答えると「何それ」と怪訝な顔をされた。
*** *** ***
「いってきます」
「いってらっしゃい」
妻と何時もの様に言葉を交わし玄関を後にする。
電車に乗ると僕と同じ様にスーツ姿の人々がつり革を掴んでいる。
子どもの頃、何時かこのつり革に掴まれる位に大きくなりたいと思っていた。
そして今。つり革を掴める様になった僕を、子どもの頃の僕はどう思うだろう。
童心は遠ざかって行くけれど、妻と子どもの為にスーツを着る今の僕をきっと喜んでくれていると思う。