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第六章 ―背中合わせのダイアローグ―

 その日は朝から分厚い雲が空を覆っていた。空気も湿って生ぬるく、外に出る気力をとことん失わせるような天気だった。まだ雨でも降ってくれてるほうが良い。どっちつかずの天気だと、なんとなく気分まで落ち着かなくなってしまう。

 集合時間よりいくらか早い時間の夕方、僕が登山口の駅を降りた時には橘先輩だけはもう到着していた。僕自身かなり早く到着したから、遠くから先輩らしき人影をみとめた時には多少驚いた。

「おはよう。随分と早い到着じゃないか」

「先輩のほうが早いじゃないですか」

「まぁね。登山なんて久しぶりだから楽しみでさー。そわそわして仕方ないから早めに来ちゃったってわけさ」

 先輩は「いやー楽しみだ」などと言いながらその場で屈伸を始める。張り切りすぎだろこの人。

 それから十分ほど経って美穂が現れた。

「あれ、もしかして私時間間違えちゃった?」

 美穂は慌てた様子で駆け寄ってきた。

「いや、俺らが早過ぎるだけ」

「そっか、良かったー」

 早めに来たつもりだったのに既に二人も揃っていたから不安になったのだろう。

「これであとは小鳥遊ちゃんだけだね」

 先輩はいよいよ待ちきれないという様子で伸脚をし始める。しかし、集合時間まではまだいくらか時間があった。

 小鳥遊が現れたのは、集合時間のきっかり五分前だった。彼女の姿を見つけた美穂が嬉しそうに手を振る。

「雪乃ちゃーん、こっちこっち」

 改札を出てあたりを見回していた小鳥遊は、美穂の姿を見つけると手を振り返しながら近づいてきた。

「待ちくたびれたぞ小鳥遊ちゃん」

「あれ、もしかして私時間間違えました?」

 小鳥遊は慌てて時計に目をやる。

「ううん、みんなが早く来てただけだよー私も最初ちょっと焦っちゃった」

 美穂のフォローに小鳥遊は多少安心した様子で「良かった」と呟いた。

 こうして全員が揃うと、先輩は今日の計画を説明し始めた。

「さて、今日の予定を説明するぞ。まずアタシたちはケーブルカーで山の途中まで登る。本当は最初から登山がしたいんだけど、今回は別に登山をしに来たわけではないからね、登れるところまではケーブルカーを使うことにする」

 どうやらこの先輩も、今回の目的はきちんと理解しているらしい。僕は少しだけ安心する。

「そしてそこからは歩きで登ることになる。途中からとは言え結構体力も使うし道中には危険もあるからしっかり気を引き締めていくように」

 チラリと横を見ると、美穂がやたらと真剣な様子で「うんうん」と頷いているのが目に入った。実際このメンバーの中で一番体力的に不安があるのは彼女だろう。道中ではきちんと様子に気を配っておかなければならないかもしれない。

「目的地は頂上にほど近い神社だ。アタシの親父が既にそっちに行っているから、親父とは現地で合流することになる。神社に着いたら社務所に入って、夜まで待機することになる。結構長い時間待機することになるんだけど、日が落ちてからの登山は危険も増えるからね、日の出てる間には目的地に到着するのが目標だ。下山は明日の朝から、ケーブルカーが動く時間まで待つことになる。まぁ、どうせ疲れも残っててそう早くから下山したくはないと思うけどね」

 実際にこの山に登ったことはないが、やはりふもとから見ると結構な高さがある。途中からとは言え登るのには結構体力を消費しそうだった。

「向こうに到着してからのことは改めて親父の方から説明してもらうことにする。その方がアタシから説明するより正確で明快だろうからね。それでもいいかな?」

 僕と小鳥遊は黙って頷く。

「よし、じゃあ決まりだ。何か質問は?」

 先輩が僕らをぐるりと見回すと、美穂が恐る恐ると言った様子で手を上げた。

「あのー、夜ご飯って……」

「ああ、それなら心配ないよ。向こうで親父が用意してくれるさ」

 先輩が笑いながら答え、美穂も「良かったぁ」と胸を撫で下ろす。そんな姿を見て、うっすらとした緊張感に支配されていた僕らは少しだけ和やかな気分になった。美穂がわざわざついて来てくれたことは、案外正解だったのかもしれなかった。


 ケーブルカーを降りると、少しだけ空気が清涼に感じられた。標高が上がったことや、自然が増えたことが影響しているのかもしれなかった。ケーブルカーの乗降場の周囲にはまだいくつか施設が立ち並んでおり、思ったより人の姿も多かった。しかし、この時間になると流石に下山していく人の姿の方が圧倒的に多く、今から登山を始めようとする僕たちは自然と人の流れと逆の方向に進んでいくこととなった。

「よし、じゃあいよいよ登山の始まりだ。各自水分補給を怠らず、何かあったらすぐにアタシに言うようにね。アタシは先頭を進むから遅れずについて来るように。もし遅れそうなときには無理せずに早目に言うんだよ?アタシもあまり後ろばかり気にしてはいられないから」

 そう注意事項を述べると、先輩は先頭に立って登山道を登り始めた。僕は自然とそのあとに続き、後ろから美穂、小鳥遊も続いた。

 ケーブルカーの乗降所から離れるにつれて地面の舗装もなくなり、足場は少し不安定になっていった。登山道はある程度の道幅があり、自然と二人ずつが並んで歩く形となった。僕と先輩が並んで歩いている後ろからは、美穂と小鳥遊の楽しそうな話し声が聞こえてきていた。美穂はすっかりハイキング気分らしく非常に上機嫌だった。いつの間にやら随分と仲良くなっている二人の姿に、なぜか僕は少し居心地の悪さを感じていた。

「なぁ翔一くん、あの二人はいつの間にあんなに仲良くなったんだ?」

 先輩が隣から僕に耳打ちした。

「さぁ」

 自分でも少し、無愛想な返事になったのを感じる。それを見取った先輩は、面白そうにして僕にたずねる。

「あぁ、さては幼なじみをとられて拗ねてるのかな?」

「そんなんじゃないですよ」

「そうか」

 先輩は少し考える様子を見せ、それから「あぁ」と何か納得したような声を上げた。

「じゃあ彼女をとられて拗ねてるんだ?」

「怒りますよ?」

「もう怒ってるじゃないかー、冗談が通じないなぁ」

 唇を尖らせながら先輩は言った。それから少し改まった様子で再びたずねた。

「喧嘩でもしたか?小鳥遊ちゃんと」

「何でですか」

「だって今日、君たちは一言も言葉を交わしてないよ。目も合わせてないように見えたね。気づいてる?」

「……元々そんな感じですよ」

「そうかなぁ。ずいぶんと仲良さげに見えたけどね、体育祭の時とか」

 体育祭、その言葉は今の僕に対して妙な圧迫感を与えていた。一度はいい思い出になったはずのそれは、今の僕の心の中で最も触れたくないものの一つとなってしまっていた。

「楽しいと思ったりはしなかった?体育祭や、この一か月間さ」

 そういう風に言われて、ほぼ無意識にここ一か月の出来事を回想してしまう。考えてみれば、こんなにも躍動感に満ちた日々はいつぶりだっただろうか。僕はわずかに、先輩の言葉を否定して良いのかためらった。だが、すぐに回想は生徒会室にたどり着く。僕が一瞬だけ抱きかけたポジティブな感情は、また重たい塊となって僕の胸にのしかかった。

「もし、万が一楽しかったとしても……」

 自分の声が思った以上に悲しげなことが、僕自身にも不思議だった。

「それは全部、勘違いでしたから」

 先輩は僕の言葉に「そうか」と小さく返事をした。

「人間は本当にたくさんの勘違いをするからなぁ」

 少しだけ前を歩く先輩の表情は、今は良く見えなかった。その声色はいつものように悪戯っぽく笑っているようにも感じたし、もしかしたらしみじみと感じ入っているようにも感じられた。

「でもね、何が勘違いかなんて案外わからないものだよ」

 僕の反応を待たずに、先輩は続ける。

「こういう話を知ってるかい?この世界は現在も、過去も、記憶も、歴史も、すべて含めて全部が揃った状態で、たった五分前に創造された。その仮説を否定することは、不可能だ」

「……世界五分前仮説ですか」

「良く知ってるね」

 その話は以前本で読んだことがあった。バートランド・ラッセルの有名な思考実験だ。

「アタシたちが何よりも確実だと思ってるこの世界でさえ、勘違いであるかもしれないんだ。何が勘違いで何が勘違いでないかなんて、本当のところは誰にも分からない。何かを疑うなら他の全ても平等に疑わなくちゃいけないよ。結論を出すのは、それからでも遅くはない。そう思わない?」

「……」

 僕は答えることが出来なかった。先輩の言っていることは屁理屈だと思った。だけど、その屁理屈に対する正しい反論はどうしても思いつかなかった。

 黙ってしまった僕の顔を先輩が覗き込み、そしてまたいつもの笑顔を見せた。

「今は沢山悩みな、翔一君。人間はね、悩むことでだけ前に進める不器用な生き物なんだ」

 そう言って笑うと、先輩は僕の背中を軽くポンっと叩いた。

「先輩も、悩むこととかあるんですか?」

「当たり前じゃないか。アタシほど悩み多き女も少ないだろうねぇ。その分成長してるってわけさ」

 そう言って声を上げて笑う先輩には、悩みなんて一つもなさそうに見えた。


 どのくらい歩いただろうか、周りの景色もかなり深い木々に覆われ始めた頃、一粒の滴が僕の額を濡らした。顔を上げると空は先ほどまでに比べてもいくらか暗くなっているように感じた。上を向いた僕の顔を、一粒また一粒と雨粒が濡らしていった。僕以外も異変に気付いたようで、立ち止まって空を見上げる。

「あちゃー、遂に降ってきちゃったかぁ。みんな雨具は持ってるよね?」

 先輩はそう言いながら一度リュックを下ろすと、中から合羽を取り出してリュックの上から羽織った。

「あ、大丈夫です」

「私も大丈夫ですー」

 小鳥遊と美穂も続いて合羽を羽織る。僕もそれに続いた。

「よし、みんな雨具は大丈夫だね。これから先足場も視界も悪くなるから今以上に注意するように。それから夏だからって油断してると、思った以上に体温を奪われて風邪をひきかねないからそれにも注意するようにね。よし、それじゃあ先に進もう」

 先輩は注意事項を並べると、再び先頭に立って歩き出した。僕たちもそれに続くが、足取りは先ほどよりも明らかに鈍っていた。最初の頃は楽しそうにおしゃべりをしていた美穂と小鳥遊も、疲労と天候の悪化という悪条件の影響でだんだんと口数も少なくなっていた。

 それから雨は一気に強くなった。合羽を着ているとはいえ袖口や裾からは雨水がかなりの量侵入してきていたし、靴の中ももう完全に浸水状態だった。その上夏場で気温自体が高いこともあり合羽の内側をじっとりと汗が濡らし、不快感はかなりのものだった。

 先輩の言った通り、足場もかなり悪くなってきていた。地面がむき出しの部分はぬかるんで足がとられやすくなるし、木の足場が組んである部分や岩が表面にむき出しの部分は滑りやすく、非常に神経を使った。その上視界も悪くなっているので、これから自分たちが向かう先も良く見えず、ロープや木の柵で示された先にただただ進んでいくだけの状態となっていた。そのことは登山に慣れているらしい先輩は別として、登山の経験などほとんどない僕ら三人にとってはかなりの不安を煽ることとなっていた。

 そうしてしばらく歩いていくうちに、段々と美穂たちは先輩から遅れがちになっていった。先輩もそれに気づいて今まで以上に後ろを気にするようにはなっていたが、先輩自身もそう余裕があるわけではない。僕らの隊列は少しずつ、前後に伸びている時間が長くなっていった。

「先輩、あとどのくらいかかりそうですか?」

「このペースで行ってももうあと二十分程度だとは思うんだけどねぇ……」

 先輩も現在の状況には割と焦りを感じているようであった。周囲がどんどん暗くなっているのは、おそらく悪天候のせいだけではないのだろう。天候の悪化によってスケジュールが遅れたことは、先輩の危惧していた日が落ちてからの登山へと僕らを追い込んでいた。今のこの状況での二十分程度というのは決して短い時間だとは僕には思えなかった。

「そろそろまた休憩入れた方が良くないですか?」

 僕らは立ち止まり、後ろから歩いてくる二人が追いつくのを待ちながら話した。

「それも考えたんだけどねぇ、それであんまり遅くなるのは逆に良くないと思ってね。もう少し進んでから、最後の休憩を入れることにしようかと考えてたんだ」

 先輩は腰に手を当てて「どうしたものかなぁ」と呟いた。

 その時、少し後ろから美穂の「きゃっ」という声が聞こえて、僕と先輩は慌てて振り向いた。美穂は木の根に大きく足を取られたらしく大きく姿勢を乱し、登山道から脇の斜面へ転げ落ちそうになっていた。

「危ないっ!」

 小鳥遊が手を伸ばし、美穂の腕を引っ張る。美穂は辛うじて重心を引き戻し、登山道の内側に向かってへたり込む形となった。

「あっ――」

しかし、今度はその反動で姿勢を崩した小鳥遊が足を滑らせて大きく姿勢を崩した。そしてそのまま登山道から外れ、急な斜面を半ば転がるようにして滑り落ち始めた。

「小鳥遊!」

 僕は深いことを考えずに走り出していた。ぬかるみに足を取られそうになるが、何とか転ぶことなく小鳥遊の滑り落ちた辺りの斜面の上にたどり着く。上から見るとかなり急な斜面になってはいたが、行って戻れない程ではなかった。

 僕は「どうしよう……」と狼狽える美穂にリュックを預け、慎重に、だが急いで斜面を下って行った。背後から先輩の制止する声が聞こえていたが、僕は構わず下り続けて小鳥遊の倒れている場所まで到達した。

「大丈夫か?」

「あ、うん。一応……」

 彼女は僕がそこまで降りてきたことに驚いた様子で答えた。幸い斜面のはそう長いものではなく、あまり苦労はせずに下りられた。生い茂った背の低い木の枝や木の葉がクッションになったらしく、小鳥遊も大きなけがはないようだった。僕は倒れている小鳥遊に手を差し出す。

「立てるか?」

「うん……いたっ」

 僕の手を取って立ち上がろうとした彼女は、痛みに顔をしかめて再び地面に腰を落とした。どうやら、落ちた際に右足を痛めたらしい。

「見せてみろ」

 小鳥遊はズボンの裾を少しめくり上げた。幸い小鳥遊のけがは大きなものではなかった。ざっと見る限り骨は折れていないらしかったが、足首が腫れて熱を持っているので恐らく捻挫してるのだろう。立ち上がるのにも痛みがある状態で急斜面を登っていくのはかなり難しそうだった。

「おーい、二人とも大丈夫かー」

 顔を上げると斜面の上に辿りついた先輩が僕らの方に身を乗り出していた。

「大丈夫みたいですー。ただちょっと自力で戻るのは難しそうですー」

 僕は今の状況を先輩に伝えた。

「分かった、アタシは美穂ちゃんを連れて一回上まで登るよー。それから親父と一緒に戻ってくるから、君たちはそこで待機しておいてくれー」

 そう言うと先輩は、半べその美穂を連れて斜面の上から姿を消した。後には地面に座り込んだ小鳥遊と僕の二人が残された。妙な静寂が僕らを包み、木の葉を叩くくぐもった雨音だけがやけに大きく響いていた。


 先輩たちが助けを呼びに行った後、僕たちは雨をよけられる場所を探した。小鳥遊は一人で歩くのが難しかったので僕は彼女に肩を貸して移動した。そうして肩を組んで歩きながら、僕は少しだけ体育祭のことを思い出した。

 最初に僕らのいた地点から少しだけ歩いたところに、適度な大きさの岩を見つけた。岩の上には大きく木が張り出しており、雨やどりのできそうな場所だった。僕らはとりあえずそこに腰を下ろして助けを待つことにした。その木は雨粒を完全には防いでくれなかったが、外にいるよりはかなりマシであった。

僕と小鳥遊は、ちょうど二人くらいは座れるかというような岩の上に互いに背中合わせで座った。小鳥遊は雨に濡れないように、荷物を木の根元に下ろした。

僕らはしばらく何も言わず、ただ背中合わせに座っていた。岩はそう広くなかったので僕らの背中は少しだけ触れた状態になっており、雨具を通して小鳥遊の体温がほんのわずかに伝わってきていた。そうしてただ座っている時間は、驚くほど長く感じた。僕は視線の先に垂れ下った細い枝の先端から、一定のリズムで滴り落ちる雨の滴を数えたりして気を紛らわしていた。しかし、それも三桁に入ったあたりでやめてしまった。

 考えてみれば、僕らが同じ木の下で雨宿りをすると言う状況はあの夜と全く一緒だった。ちょうど一ヶ月前の満月の夜にも、僕らはこうして一本の木の下で気まずい時間を過ごしていた。一ヶ月という時間が長いのか短いのかはよく分からないが、今ではずいぶん昔のことに思われた。

 もしかしたら彼女もまさに同じことを考えていたかもしれない。しかし、僕らの間に会話はなかったし、背中合わせでは彼女の表情を覗くこともできなかった。

 そうして雨音だけが支配する世界で長い時間が流れた気がする。時折姿勢を変えるときの身じろぎだけがお互いの間で交換された。重苦しい空気の中で、先に口を開いたのは小鳥遊だった。

「ごめんね、私のせいで……」

 それは、うっかりすると雨音にかき消されてしまいそうな程に弱々しい声だった。

「小鳥遊は美穂を助けようとしたんだ。あんまり気にすんなよ」

「でも、結局は私が迷惑かけてるわけだから……」

「誰もそんな風には思ってねぇよ。トラブルなんて起こるときは起こるんだ。そしたら助け合うのは普通のことだろ」

「うん、ありがと……」

 小鳥遊はやけに素直に返事をした。疲れているのもあるかもしれない、今日の小鳥遊はやけにしおらしかった。

 それから少しして、再び小鳥遊が口を開いた。

「この前のこと、まだ怒ってる?」

 唐突にたずねられて、僕は少したじろいだ。

「別に、怒ってるとかじゃねぇよ」

 じゃあ何なのだろう。自分でもよく分からなかった。あの日僕を支配した感情は、失望とか、諦めとか、そういう言葉ではどうも収まりの悪い激しさを持っていたような気がした。そして、今もそれは僕の中で燻っていた。

「少しだけ、話聞いてもらえる?」

「……」

 僕は返事をしなかった。何と答えれば良いのか分からなかった。彼女は僕の沈黙を肯定だと受け取ったのか、話を続けた。

「若葉塾って言って、ピンと来るかな?」

 彼女の口から出た言葉は全く予想もしていなかったもので、僕は一瞬戸惑った。

「私は小学生の頃、そこに通っていたの。うちのお母さんは教育熱心だったから、小さい頃から私をそこに通わせてた。小学校三年生くらいのときからだったかな」

 彼女は、僕の返事を待つことなく続けた。

「自分で言うのもなんだけど、小さい頃から真面目だった私はずっとそこでトップだったの。テストの結果が出るといつもお母さんに褒めてもらってた。でも、それはいつまでもは続かなかったの。六年生になってしばらくしたころ、私は初めて二位になった。最初は信じられなかったわ。いつもと同じようにテストを受けて、いつもと同じように結果が発表されたのに、いつもと違う名前がトップにあった……トップを取ったのは、新しく入った生徒だった。それが――」

「俺だったって訳か」

 僕は被せるように言った。彼女の話を聞くまで忘れていたような話だった。

僕は小学校六年生になった頃、親に無理やり学習塾に行かされた。最初は散々嫌がったのだが、そこでいい成績を取ればその分お小遣いを増額するという条件を提示され、最終的に渋々承諾したのを覚えている。学校以外で机に向かったこともなかった僕は最初はそこまで良い成績は取れなかったが、小遣い欲しさに猛勉強を重ねた結果、見る見るうちに成績を伸ばしていった。しかし、その時同じ塾に小鳥遊がいたことなど全く記憶にはなかった。おそらく、当時は彼女の存在に気づいてもいなかったのではないだろうか。

「まさかそんな事で俺のこと恨んでたとかじゃ――」

「違うわよ」

 小鳥遊は「そんな訳ないじゃない」と少し呆れたように言う。

「確かに最初は悔しかったし、認めたくなかった。でもね、ちょっとだけ嬉しくもあったのよ。それまでは、小学生っていうのもあって誰も私と同じように勉強なんてしてなくて、そんな中でトップになるのも当然で、どこか物足りなさも感じてた。でも、それからは勉強する理由が一つ増えたの。あの人に勝ちたい、負けたくないって。そう言うのが私は少しだけ嬉しかった」

 そこで小鳥遊は一呼吸置き、それからまた続けた。

「でも、私は結局もう一度トップを取ることはなかった。どんなに頑張っても、いつも一位にはあなたの名前があったの。あの頃のあなたは、私よりずっと優秀だった。それに私はその頃ひどく引っ込み思案で、塾に行っても全然友達を作れなかった。だからね、入ってきてすぐにたくさん友達を作って、あっという間にグループの中心になっちゃったあなたが羨ましかった。あの頃のあなたは、私の持っていないものを全部持ってたの。そんなあなたに、あの頃の私は憧れてた」

 小鳥遊は、恥ずかしそうにそう言った。僕はますます戸惑った。あの頃の自分をそういう風に見ている人がいたなんて想像もしていなかった。

「小学校を卒業して、中学に入った時に私はあなたを探したの。もしかしたら中学で一緒になってるかもって。でも、あなたはいなかった。それから三年間、私はまたずっと努力を続けてトップで居続けた。そうして中学を卒業するころにはもうあなたのこともほとんど覚えてなかったわ。でも高校に入って、私はあなたを見つけたの。その時は嬉しかった。三年間、私はずっと努力していたし成長したと思ってた。あの頃とは違う自分でリベンジできるんだって思ったの」

「でも違った。」

そこで僕はまた口を挟んだ。

「俺はごく平凡な高校生になっていて、それが気に食わなかったてわけか」

「言い方は悪いけど、そうね……上手く言えないけど、そう言う感じなんだと思う。ごめんなさいね、自分でも話してて、何て幼稚で自分勝手なんだろうって……私ってバカみたい……」

 僕は何も言えなかった。聞いてみれば、本当にくだらない話だった。僕はそんな理由で、小鳥遊に嫌われていたのか。

「私はね、私の持ってないものをいくつも持ってて、それなのにそれを活かそうともしないあなたが我慢ならなかったの……」

 彼女の声が余りにも弱々しくて、僕は段々可哀想になって来た。それに小鳥遊の僕に対する感情は思いもよらなかったもので、僕は少し混乱していた。

「俺はさ、小鳥遊の言うようなものは持ってないよ。買い被りさ」

「そんな事ない。あなたはただ努力してないだけじゃない。あなたが努力してたら私なんて簡単に――」

「それは違うよ」

 僕はまくしたてるような彼女の声を遮って言った。

「努力できるのだって才能なんだ。俺にはそれがない。努力してたら、何て言うのは、おかしな話なんだ」

「そんなの言い訳じゃない!」

「分かってるよ、そんなこと」

「じゃあどうして――」

「怖いんだよ!」

「……」

 僕が急に声を荒げたことに、小鳥遊は驚いたように萎縮したようだった。僕は再び声のトーンを落として続ける。

「怖いんだ。俺は努力するのが、死ぬほど怖い」

 今まで誰にも言ったことのなかった本音が、弱みが、口を突いて出ていた。

「努力すればするほど、責任は重くなる。全力を尽くせば尽くすほど、逃げ道はなくなる。失敗の言い訳も出来なくなるし、次への希望も持てなくなる。自分の限界を見せつけられる。俺にはそれが、耐えられないんだ」

 僕らの間に、再び重たい沈黙が降りた。先ほどより少し強くなった雨が木の葉を叩く音だけが空しく響いた。少しして、僕は再び口を開いた。

「小さい頃、俺は優秀だって言われて育った。家族みんなに持ち上げられたりしてさ。それですっかり勘違いしてたんだよ、自分が優秀な人間だって。やろうと思ったら何だって出来るんだって。でも、実際はちょっと早熟なだけだったんだ。すぐに鼻っ柱をへし折られることが起きた」

 小鳥遊は黙って聞いていた。僕はそのまま続ける。

「中学で県外の私立に進学したんだ。親の言うままにやりたくもない中学受験をして、合格して進学した。周りからは凄い凄いと褒められて、俺もすっかりその気だった。でも、俺が優秀でいられたのはその時までだった」

 その先を話すのは、少しだけためらわれた。それは、誰にも話したことのない話だった。

「中学に入ったら、俺はもう平凡だった。俺はただの井の中の蛙で、世の中には本当に凄い奴がゴロゴロいたんだ。そいつらに負けたくなくて努力した。今考えても、あんなに努力したのはあれが最初で最後だよ。でも、ダメだった。自分はやれば出来ると思ってた。俺が本気を出したら、こんな奴らに負けないって。でも、違った。どんなに努力しても、必死になっても、俺は平凡を抜け出せなかった」

 その頃の事を思い出すと、今でも胸がむかついた。地獄のような日々だった。

「そうしてもう嫌だ、もう止めたいって思った時にさ、夏休みなんかで地元に帰るんだ。寮に入ってたから家族や昔の友達に会うのなんかも久々でさ、そう言うのが最初は少しだけ心の救いだった。でもすぐに温度差に気付かされた。みんなの中での俺は、未だに優秀の肩書を背負わされてた」

 期待は同時に重圧にもなる。あの頃の僕は周りの重圧に押しつぶされそうになっていた。

「俺は寮に入ってたから、みんなには普段の生活が見えなかったのもあるんだとは思う。それが分かっていても、その時の苦痛は相当なものだったよ。頑張れとか期待してるとかいう言葉は、あの頃の俺には脅迫にしか聞こえなかった。そうしてまた学校に送り返されると、今度は平凡な人間として、没落した人間としてコンプレックスに追い回される生活が始まるんだ。必死で努力をしてもやっと人並みにしかなれない生活がね。それして気づいたんだ、俺はきっと努力のチキンレースから降りそこねたんだって。いつまでも馬鹿みたいに、とっくにみんなが降りてったことにも気づかずに走り続けてたんだって。そして、何もかもどうでも良くなった」

 小鳥遊は相変わらず黙って聞いていた。どんな顔で聞いているのかはわからないし、もしそれが分かったら、それがどんな顔であれ、僕は話し続けられなかった気がする。

「俺はすべての努力をやめた。授業もまともに受けなくなった。何に対しても不真面目な自分を作った。そうすることで、劣った自分を正当化できたんだ。校則も破るようになったし、教師や他の生徒ともトラブルを起こした。そうして遂に、寮にいられなくなった。下宿先を探すって選択肢もあったけど、俺は問題児で成績も悪かったから担任に地元に帰ることをすすめた。俺は地獄から抜け出したくて、それに従った」

 これで昔話は終わりだった。小鳥遊の思っていた輝かしい僕が、小鳥遊の失望した現在の僕に至る物語。それを聞いた小鳥遊がどんな反応を示すのか、僕にはそれが怖かった。僕はまた正当化をしているのだ。いつもそうやって誤魔化して生きてきた。弱さを正当化して、正当化することを正当化して……そこには情けなさだけが厚く塗り重ねられていく。僕はいつまでこんなことを続けていくのだろうか。いつまでそれを、世間は容認してくれるのだろうか。

 僕の話が終わったのを見て、小鳥遊がまた口を開く。

「私だって、努力するのは怖いわ。失敗したらどうしよう、無駄になったらどうしようって。でもね、私は努力しない方がもっと怖いの。私から努力を取ったら何もなくなっちゃう……そしたら、みんなに失望されるんじゃないか、見放されちゃうんじゃないかって怖くて、だから努力するしかないのよ……」

 彼女の口から零れる「怖い」という言葉に、僕は最初ひどい違和感を覚えた。僕の中にあった強い小鳥遊のイメージに、そんな言葉はとても不釣合いに感じられた。

「私が頑張れば、結果を出せばみんな喜んでくれる。褒めてくれる、認めてくれる。だから私は努力してきた。でもあるときね、そうやって積み上げた私の評価が、何より私の首を絞めているって言うことに気づいたの。いつの間にか私は、よくできて当然の人間になってた。みんなが言うのよ。小鳥遊さんは凄いねとか、優秀だねとか、流石だねとか……でもね、気づいたら誰一人としてよく頑張ったねなんて言ってくれなくなってたの。どんなに頑張っても、誰もそのことに気づいてはくれない。だけど、頑張るのをやめたらきっとみんな私のことを見放すわ……だから私は、誰も気づいてくれない努力をずっと続けて、みんなの期待する小鳥遊雪乃でいるしかないのよ……」

 彼女の声はあまりに悲痛で、僕はようやく自分の愚かさに気づいた。本当は、もっと早く気付けたはずだった。だけど僕は自分のプライドを守るため、大事なことから目をそらしていた。

 いつかの橘先輩の言葉が、今になって僕の胸に突き刺さっていた。僕の目は、人間としての小鳥遊を映していない。その意味が、今になってようやく分かった。あの日生徒会室で彼女を怒らせてしまった理由が、ようやく分かった。彼女を普通とは違う、特別で規格外の存在にしたかった僕は、彼女のことを能天気に追い詰める一人だった。期待がもたらす重圧を知っていたはずの僕が、それに死ぬほど苦しめられたはずの僕が、逆の立場で彼女を苦しめていた。僕は結局、自分のこと以外何も見えてはいなかった。

「ごめんな。お前の言いたかったことがやっと分かったよ。俺は何も分かってなかった。何も分かろうとしないで、勝手なことばっかり言ってた……」

「謝らないで。強がって、分かってもらおうともしない自分も悪いんだってことは、私もわかってるの。私の方こそ、変に意地ばっかり張っててごめんなさい……」

 それから僕たちは、今までよりもずっと長いこと黙っていた。しかしその沈黙は、先ほどまでのように息の詰まるものではなかった。傷を晒し合い、許し合った僕たちの間では、今まで積み重なっていた歪みやすれ違いが、少しずつ浄化されているように感じられた。気づけば、降り注ぐ雨の勢いはずいぶんと弱くなっていた。

「思うんだけどさ、多分、割とみんな小鳥遊が努力してるの、見てくれてるんじゃないかな……」

「えっ?」

 僕の唐突な言葉に、小鳥遊の声は少し上ずっていた。

「小鳥遊が体調崩した時にさ、周りの人がみんな心配して言ってたよ。小鳥遊は頑張りすぎて無理しちゃうんだって。多分みんなさ、分かってても言えないんだよ。それだけお前が立派な人間だと思ってるから、頑張ったねなんて言ったらまるで上から目線で失礼みたいでさ」

「そんなこと……ないのに……」

 小鳥遊の声は、随分と戸惑っているようだった。

「俺だってさ、凄いと思ったのは別に才能とか、そう言うのじゃなかったんだ。今更言っても言い訳みたいに聞こえるかもしれないけど、あの時の俺は、どんなに忙しくても手を抜かないお前が素直に凄いと思ったんだ。自分でも気づいてなかったけどさ、やっとお前のことを本当に凄い奴だって認められたのは、多分それまで知らなかったそういう所が見えたからで……なんかうまく言えねぇや」

「……」

 言葉を重ねれば重ねるほど、どんどん嘘くさくなってしまうみたいで僕の言葉は上手く続いてくれなかった。しかし、今は僕の言いたいことが、全部ではなくても彼女に伝わってくれている、そう言う気がしていた。

「それにさ、あんまり思いつめなくても良いんじゃないかな。そんなに怖がったりしなくたって、誰も小鳥遊に失望したりしないよ。少なくとも俺は、優秀なんかじゃなくてもお前のことを……」

 お前のことを……、何だろうか。僕は、彼女のことをどう思っているのだろうか。良い奴だと思ってるのだろうか。立派な奴だと思っているのだろうか。信頼しているのだろうか。僕と彼女は友達なのだろうか……僕は、自分の口から出ようとした気持ちの正体が、よくわからなかった。入口を間違え、ねじれた僕らの関係を、未だに僕はよく理解できていなかった。

 その時、目の前を白い筋がサッと走った。それが僕らを探す懐中電灯の光だということを理解するのに、少しだけ時間がかかった。

「おーい!翔一くーん!小鳥遊ちゃーん!どこだー!」

 先輩の良く通る声が木々の間を通り抜けて響いてきた。僕は慌てて立ち上がると「こっちでーす!」と出来る限り大声で返事をした。そうすることで、少しでも言い澱んだ言葉の切れ端をどこかへ追いやろうとしていた。

「そこにいたか!ロープを持ってきたから、これを伝って小鳥遊ちゃんを引き上げてあげてくれー!」

 先輩はそう言うと持ってきたロープの一端を斜面の上の木に括り付け、もう一端を下に投げ下ろした。僕はそれを拾うと、先ほどまで座っていた岩のところまで戻り、小鳥遊に手を差し出した。

「ほら、立てるか?」

「うん……」

 彼女はおずおずと、僕の差し出した手を握った。彼女の手は雨にさらされ続けてひんやりとしていた。彼女は僕の手を借りて立ち上がると、僕の肩を借りながら斜面の下まで歩いて行った。その間、僕は彼女の顔を見られなかった。背中越しにかわされた会話を全て処理してしまうのには、僕らにはもう少しだけ時間が必要だった。


 僕らが神社の社務所に着いたのは、結局完全に日が落ちた後になっていた。

僕と小鳥遊が引き上げられた先には橘先輩と、彼女のお父さんである橘秀夫氏が待っていた。橘氏の見た目は神主兼学者などと聞いてイメージしていたものとはかけ離れており、プロレスラーだとか言われた方がずっとしっくりくるような屈強な肉体の持ち主だった。身長も高かったが、その巨大な身体から伸びる手足は丸太のようであり、人間より熊に近いのではないかと思われるような見た目をしていた。彼は足を怪我している小鳥遊を軽々と抱え上げると。先陣を切って山道を登って行った。人一人を抱えているというのに彼のペースは非常に速く、僕はそれについていくだけでも大変だった。

 社務所に着くと、美穂は畳の上で荷物にもたれたまま疲れて眠っていた。登山の疲れに加えてずっと僕らを心配したり、責任を感じたりで大変だったらしい。僕らが社務所に到着すると「雪乃ちゃん!無事でよかった!」と泣きながら小鳥遊に抱き付いていた。小鳥遊はそれを「よしよし」となだめすかしているものだから、横から見ていて何だかほっこりとした。

 それからは思った以上に慌ただしかった。改めて橘氏と挨拶を済ませ、順番に風呂に入り、乾いた服に着替え、夕食を済ませる頃にはすっかり夜もふけていた。橘氏は見た目とは裏腹に(という言い方は失礼だが)非常に紳士的な人だった。

夕食の片づけを終えた後、僕と小鳥遊は改めて橘氏に呼ばれて彼と座敷の机を挟んで向かい合っていた。

「さて、それでは改めて今夜の予定について話そうか」

 僕らが揃ったのを確認して、橘氏は話し始めた。彼は夕食の後に着替えてきたらしく、今は先ほどまでの洋服ではなく神主の格好をしていた。僕はこのサイズのこの服って存在したんだなぁとどうでもいいことを考えていた。

「私たちがやることは簡単だ。今夜は満月だから南中時刻は概ね深夜、夜中の十二時に桜の樹の場所まで行き、そこで簡単な儀式を行う。儀式と言っても形式的なものだ、君たちは何も特別なことをしなくても立っているだけで大丈夫だから安心してほしい。桜の樹は、もう見たかい?」

「いいえ、到着しから慌ただしくて」

「そうか。まぁ行ってみればすぐわかるよ。ふもとにあるものより少し大きいが、見た目はほとんど同じだからね」

 橘氏はそう言うと、豊かに蓄えられたあごひげを右手で撫でた。

「説明するほどのことも特にないのだけれど、君たちには一つだけやってもらうことがある。今回行うのは、形式的なことを言うと契約の解除だ。私はその仲介に過ぎない。私が合図をしたら、君たち自身が契約の解除を願うこと。それだけをお願いするよ。後のことは私に任せておきたまえ。何か質問はあるかい?」

「あの、それって口に出してってことですか?」

 僕はたずねた。

「出来れば、そうだね。形式的なものだから声に出してくれた方が儀式としては良いだろう。だけど、こういう儀式は前例もないからね正しいやり方というものはないのだよ。つまり、どういう形でもいいということだね」

 そう言うと、橘氏は少し考えるそぶりを見せて続けた。

「そうだな、では一応決めておこう。私が合図をしたら、契約を解除します。そう言ってくれればそれで良いだろう」

「分かりました」

 僕は納得し、小鳥遊も頷く。

「よし、それではあとは時間を待つだけだ。時間になったら呼びに行くから、好きなように過ごしていて構わないよ」

 そう言って橘氏はその場を後にした。そしてそれと入れ替わるように、先輩と美穂が入って来た。

「話は終わったかい?」

 先輩は尋ねながら僕らの向かい側、さっきまで橘氏の座っていたところに座り、美穂もその隣に腰を下ろした。

「はい、今終わったところです」

「よしよし、それではようやく、本日のメインイベントを開催できるって訳だ」

「メインイベント?」

 僕は先輩の言葉が何を指しているのかが分からなかった。メインイベントの儀式まではまだ結構時間が残っていた。小鳥遊も不思議そうに首をかしげる。

「メインイベントといったらこれしかないだろう!」

 先輩が取り出したのはトランプだった。

「夜更けの……大富豪大会だ」

 やけに芝居がかった声で先輩が言うと、美穂がこれ見よがしに拍手した。何だこいつら打ち合わせしていやがったな。

「あの……」

 小鳥遊が恐る恐るという様子で手を上げた。

「どうした?」

「私、大富豪ってやったことなくて……」

 小鳥遊の言葉に、先輩は大袈裟すぎるほどに驚愕してみせた。

「何だと!?小鳥遊ちゃんは大富豪を知らずに今まで生きてきたというのか!そんな味気ない人生があって良いだろうか!いや、あってはならない!」

 あんたにとって大富豪って一体何なんだ……今までに見たこともない先輩の異様な様子に、小鳥遊もドン引きしていた。

「よろしい、小鳥遊ちゃんには私が直々に、大富豪の何たるかを叩きこんであげよう!」

「は、はいっ……」

 急に手を握られて迫られ、小鳥遊は少しおびえた様に返事をする。

 こうして橘涼子による夜更けの大富豪大会が行われ、その夜は騒がしいものとなった。先輩は常に大富豪であり続け、小鳥遊もルールを覚えたらすぐに腕を上げたので僕と美穂が常に大貧民を押し付け合うゲームが展開された。最後にはいつやったのかも覚えていない久しぶりの大富豪は、思った以上に楽しかった。


 予定の時間がきて、僕と小鳥遊は橘氏の後に続いて境内を歩いていた。標高の影響もあるのだろうし、日中に降っていた雨の影響もあるのだろう、夜になると幾分か気温が下がって外は肌寒いほどだった。儀式に向かうという意識は僕らの気を自然と引き締め、僕らは一言も会話を交わすことなく黙々と歩いた。静まり返った境内には砂利を踏みしめる音と、藪の中から聞こえてくる虫の鳴き声だけが延々と鳴り響いていた。

いよいよ、僕らのこの奇妙な関係も解消される。その待ち望んでいた瞬間がもう目前に迫っているという事実は、胸のあたりに少しの圧迫感を与えていた。少しだけ鼓動が速くなっているのを感じる。確実にやってくるその時の存在感は僕の中で次第に大きくなる。しかし時を駆け足では進めないもどかしさで、僕の心はそわそわと落ち着きをなくしていた。顔を上げるとそこには、あの夜に見たのとまったく同じ満月が浮かび、明るく僕らを照らし出していた。

 神主の格好をした橘氏の巨大な後姿を追いかけてしばらく歩くと、道の先が少し開けてているのが見えて来た。そしてその場所には、僕らの良く知るものにそっくりな、しかしそれよりも更に一回り大きいであろう巨大なシダレザクラの樹が鎮座していた。その巨大に幹には古びたしめ縄が回されており、それが特別な樹であることをうかがわせた。僕は思わず息をのむ。月明かりに照らされてそびえ立つ桜の樹は、言葉にはできない荘厳さを持っていた。

「時間もちょうどいいみたいだな。さて、それでは早速儀式を始めようか」

 先頭を歩いていた橘氏が振り返って言う。僕らは「はい」と短く返事をすると、指示された通りに桜の樹の前に二人で並んだ。僕はかなり緊張している自覚があったが、小鳥遊の顔をチラリと見ると僕以上に緊張した面持ちで僕は吹き出しそうになった。お蔭で僕の緊張はいくらか和らいだ。

 僕らが桜の樹の前に並んで立ったことを確認すると、橘氏は僕らと桜の樹の間に立って何やら祝詞のようなものを上げ始めた。何といっているのかは聞き取れなかったが、いよいよ儀式が始まったという実感は僕らの背筋を伸ばさせた。祝詞は思ったより長く、数分は続いたと思う。しかし、全く内容の分からない僕は時間感覚が曖昧になり、正確な時間は良く分からなかった。祝詞は唐突に終わり、橘氏はゆっくりと僕らの方を振り向いた。そして、どうぞと身振りで示した。僕と小鳥遊の緊張は最高潮に達する。僕らは小さく息を吸い込むと、声を揃えて言った。


『契約を、解除します』


 僕らの言葉が終わると同時に、周囲の木々が一気にざわめき、強い風が足元を吹き抜けるのを感じた。風はまるで渦を巻くように桜の樹を中心に吹き込んできて、その枝を強く揺さぶった。足元から突き上げるような風に橘氏の神主衣装が強くなびき、小鳥遊の長い黒髪が舞い上がる。

「二人とも、右手を出して!」

 吹き付ける風の中で聞こえるように橘氏が叫び、僕らは揃って右手を差し出した。月の光に照らし出されて、僕らの小指を結ぶ赤い線が見えていた。橘氏は僕らの差し出した手の上で、紙の房がついた棒状の神具、大幣を左、右、左と振りそのまま僕らの手の間をゆっくりと通した。大幣が通る瞬間、そこに見えていた赤色の線は空気に溶けるように見えなくなり、それに従って吹き付けていた強烈な風も少しずつ収まって行った。

数秒後には、何事もなかったかのような静寂が再び僕たちを包んでいた。僕らの、特に小鳥遊の髪の毛が大きく乱れていなければ、それが本当に起こったことかどうかさえも自信が持てないほど、完璧に辺りは静まり返っていた。

「これで儀式は終わりだ。お疲れ様」

 橘氏の声は静かで優しいものだったが、静寂の中ではやけに大きく響いたように感じられた。僕は先ほど赤い線が見えていた右手を見つめ、ゆっくりと握っては開いてみたが、何かが変わったようには全く感じられなかった。隣を見ると小鳥遊もまた、僕と同じように実感を持っていない様子であった。

「あの、本当にこれで全て元通りになったのでしょうか?」

 僕は恐る恐るたずねた。

「ああ、君たちを結びつけていた桜の樹の力は、たった今全てが解消された。晴れて元通りだよ」

 橘氏は確認するようにゆっくりと言った。僕と小鳥遊は顔を見合わせて、どちらともなく笑っていた。何がおかしかったのかは分からないが、緊張から解き放たれた解放感で自然と笑みが溢れてきた。

 僕はもう一度桜の樹に目をやった。桜の樹は相変わらずその巨大な姿を月明かりに照らし出されていたが、どこかさっきほどの荘厳さはないように感じられた。ただそれは、緊張感から解放されたからそう見えただけかもしれなかった。

 こうして、僕らの人生で最も長い一か月は、思っていたよりも少しあっけなく幕を下ろした。

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