第五章 ―夕焼けのシュークリーム―
波乱の体育祭も終わり、僕らはまた日常の中に戻っていた。体育祭の結果はわずか4ポイントの差で僕ら赤組の勝ちだった。普段勝ち負けにはあまり頓着しない僕であったが、自分が必死でもぎ取ったポイントが勝利につながったというのは、やはり嬉しいものだった。
僕らの演じた大逆転劇は自分で思っていた以上に反響が大きかったらしい。あれから何人かの知らない人に「二人三脚、凄かったね」などとまで言われてしまった。僕はそのたびに「あ、どうも」等とお茶を濁して逃げることとなった。ただでさえそう言うことに慣れていないのに、競技が二人三脚ということでどうも恥ずかしくてやりきれないのだった。
その日の放課後、僕は日直の仕事のために少しだけ遅くまで教室に残っていた。窓閉めや黒板消しの清掃など、毎日必要な雑務は日直の仕事になっている。全ての仕事を終えて帰宅できる頃には、教室に残っている生徒はもうまばらだった。多くの生徒が部活動に行ったり帰ったりした後なので、残っているのは暇を持て余して世間話に花を咲かせる帰宅部の生徒だけである。
僕は荷物をまとめると教室を出ようと扉に手を伸ばした。しかし、僕の手が届くより一瞬だけ早く扉が開かれた。僕は一瞬ビクッとしてしまう。反対側から扉を開いたのは数学教師の松本だった。
「おお、すまんな相馬。小鳥遊はまだ残ってるか?」
「小鳥遊ですか?もういませんけど」
「そうか、しまったなぁ」
松本は困ったように最近ひときわ薄くなった頭頂部をポリポリと掻いた。
「どうかしたんですか?」
「うむ、今日返そうと思っていたノートを渡しそびれてしまってな」
彼の手には小鳥遊のものらしきノートが握られていた。
「それじゃあ、もし小鳥遊を見かけたら私が探していたと伝えておいてくれ」
そう言うと松本は、とぼとぼと来た道を引き返して行った。
「あの、先生」
僕に呼び止められて、松本は大きな図体をくるりと反転させた。その動きは巨体の割にやけに軽快で、妙に滑稽に見えた。
「何だ?」
「小鳥遊なら生徒会室にいるはずなので、帰りに渡しておきましょうか?」
「おお、本当か。それは助かるよ」
松本は嬉しそうに僕にノートを手渡すと、意気揚々と職員室に引き上げていった。
生徒会室の前は何度か通ったことがあったが、入ったことは一度もなかった。生徒会と無縁な生活をしていたら普通はそうだろう。「生徒会室」と書かれたプラスチックのプレートがはめ込まれた扉の前に立つと妙な緊張感があった。生徒会というとこう、いかにも厳粛で神聖な雰囲気をまとっている印象がある。その本拠地たる生徒会室は、僕のようないい加減な輩が足を踏み入れるのはなんとなく躊躇われる空間なのだ。
しかし、こうして突っ立っていても始まらない。僕は思い切ってドアをノックした。
「はい、どうぞ」
幸い扉の中から帰ってきた声は馴染み深いものだった。僕は安心して扉を開ける。
「あれ、どうしたの?」
小鳥遊は予想外の来訪者を認めると不思議そうな声を上げた。
「ちょっと届け物があってさ。それより、一人なのか?」
部屋の中を見渡すとそこにいるのは彼女一人だけで、広い生徒会室の長机に腰掛けて大量の書類と向き合っていた。
「今はね。さっきまで他の役員もいたんだけど、みんな用事があって今日はもう帰っちゃったの。いつもは四、五人は揃うんだけどね」
「そうか」
どうやら今しがた一人になったところらしい。
「今日は一人でその量処理するのか?」
「ああ、いやこれはもう終わった分。今日はあとこれだけで終わり」
小鳥遊は今ちょうど作業していたらしい書類を指差した。何かの部活動の関係の書類のようだ。
「そうか、お疲れさん」
「どうも。それで、届け物って?」
「ああそうだった」
僕は忘れかけていた目的を思い出し、預かっていたノートを小鳥遊に差し出した。
「これ、松本が渡しそびれたって」
「ああ、ありがとう!」
小鳥遊は喜んでノートを受け取るとパラパラとめくり始めた。中にはびっしりと問題を解いたあとがあり、そこにところどころ赤でチェックが入っていた。彼女はそのチェックを見ながら「あー……」とか「うんうん」とか呟いていた。
「それ、何のノートなんだ?」
「これ?これは解いた問題を松本先生に添削してもらってたの」
「へぇ、そんなことまでしてたのか……」
よく見ていなかったがその∫とかいう記号はまだ習ってないものではないですかね……個人的に授業の進度よりも先まで進めているのだろう。僕なんかは試験範囲を何とかするだけで手一杯だと言うのに、本当に頭が下がる。
「やっぱりすごいな、小鳥遊は」
僕は素直な感想を口にした。今までは、あまり認めたくなかったことを、きちんと認めようと思っていた。僕は誰もが誉めそやす小鳥遊に対して一種の反感を持っていたのだ。自分も高く評価すると、まるで自分までがそういう一般大衆の感覚に同化してしまうような不快感もあった。そして何でも持っている彼女に対する単純な嫉妬心もあった。僕が小鳥遊に対して持っていた苦手意識というものは、つまるところそういう非常に子供じみた、ひねくれたものだった。
だけど、僕は今やそういう態度をとることはできなかった。小鳥遊のことを間近で見て、努力を見て、そして今まで見たこともなかった素顔を見た。そう言うもの全てに目をつむってまで自分の幼稚なプライドを貫き通すことは、僕にはもはやできなかった。
橘先輩にいつか言われた言葉を思い出す。僕は確かに、人間としての小鳥遊雪乃を見ていなかったのかもしれない。僕の中の彼女は、初めから否定されるべきアイコンとしてのみ存在していたのだ。だけど、今はもう違う、そう思った。もう違うからこそ、僕はその自分のこじらせてしまった関係性を、きちんと清算したかった。
「正直言うと俺は、小鳥遊のことをみんなに人気の優等生ってくらいにしか思ってなかったんだ。そういう風潮に乗っかるのも、なんか嫌だった」
「な、何よいきなり……」
小鳥遊は戸惑ったような様子を見せる。僕は構わず続けた。
「だけどそう言うのじゃないなって。ここ数日で、小鳥遊は本当に凄いと思った。勉強も出来て、生徒会でも活躍して、この前なんか毎日朝練まで、全部こなしちゃうんだもんな。普通はそこまで出来ないよ」
「そんなこと……」
俯き気味で小さな声を漏らす小鳥遊を、僕は単純に照れているのだと思った。
「少なくとも俺なんかには到底出来な――」
「やめて!」
彼女は突然立ち上がり、僕の言葉を遮った。全く予想していなかった彼女の反応に、僕は一瞬事態が飲み込めなかった。さっきまで彼女の座っていたパイプ椅子が勢い良く弾き飛ばされ、ガシャンと転がる音がやけに大きく響き渡った。きれいに積まれていた書類が、何枚か零れ落ちていくのが目に入った。まとまった数枚の紙片がゆっくりと落下し、途中でバラけて放射状に散らばるのがやけにはっきりと見えた。
「どうしたんだよ……」
「私のことなんか何も分かってないくせに、いい加減な事言わないで!」
「何だよそれ……」
何も分かってない、その意味が僕にはわからなかった。確かに今までの僕は何も分かってなかったかもしれない。自分のことばかり考えていたことくらい自覚している。でも、ようやく少しは彼女の事を分かったと思ったからこうして話をしようと思ったのだ。
「そうやって褒めてれば私が喜ぶと思ったわけ?」
「そういうわけじゃねぇよ……」
彼女の言い草は気分の良いものではなかったが、同時に「褒められて嫌な気持ちになる人などいるわけない」というような安易な気持ちがあったことは否定しきれず、僕の語尾は少しだけ弱々しくなる。
しかし、僕には小鳥遊が何故怒っているのかは理解できなかった。たとえ僕の言葉が陳腐で月並みな褒め言葉でしかなかったとしても、そのようなことは彼女は言われ馴れているはずなのだ。僕は自分が何を言ったのか、何が彼女を怒らせたのか、その原因を考えようとしていた。しかし、そう言う気持ちも次の瞬間には消えてしまっていた。
「あなたなんかに、分かるわけない……!」
あなたなんか、その言葉が心のどこかひび割れた部分にカチリと収まったような気がした。今まで漠然と抱えていた苦手意識の一端に、明確な形が与えられる。必死で原因探しなんかしていたのが馬鹿らしくなった。やっぱりな。そういう事じゃないか。僕らの間には元々わかり合う余地などなかったのだ。馬鹿げた恋人ごっこのせいで、何か妙な勘違いをしていた。きっと感覚が麻痺していた。そもそも僕たちは、住む世界が違っていた。
「確かに小鳥遊の言う通りだ。悪かったな」
「えっ?」
「俺みたいな平凡な人間に、超一流の人間のことなんて理解できるはずないよな」
「別に、そういう意味じゃ……」
「そういう意味じゃないか。他にどういう意味があるんだよ」
「それは……」
小鳥遊は言葉を探すように目を伏せる。それはつまり、僕の言葉が正しいことを認めたも同然だった。
元々の僕らの関係が正しかったのだ。分かり合えない僕たちは、適度に距離を取って生きていた。そうやって平和な日々を守って来たし、余計な衝突も避けていた。それなのにあの日から全てがおかしくなっていたんだ。水と油の僕たちを無理やりに結びつける、桜の樹が引き起こしたことはまさに”呪い”だった。
「俺はもう小鳥遊には干渉しないし、余計なことも言わないよ。出過ぎた真似して悪かった」
「……」
小鳥遊は何も言わなかった。僕は既に彼女に背を向けて扉に向かって歩き出していたから、彼女がどのような表情をしていたかまではわからなかった。
僕は今度はためらうことなく扉に手をかけると、もう二度と立ち入ることのないであろう生徒会室を後にした。最後に小鳥遊が何か言った気がしたが、扉が閉まるガシャンという冷たい音にかき消されて何を言ったかは分からなかった。しかしまさか戻って聞き返すわけにもいかないし、もとよりそうしようとも思わなかった。僕らがこれ以上言葉を交わすことに意味など見いだせなかったから。
こうして僕と小鳥遊の間に芽生えかけていた友情にも似た温かい関係は、完全に砕け散った。そして後には、冷たく重苦しいとばりが下ろされた。しかしそれは、言ってみれば元の関係に戻っただけの話だった。あと数日で呪いも解けて、本当の意味で僕たちの関係はすっかり元通りになるだろう。
帰り道を歩きながら、呪いを解きに行く日まであと何日あるのかを数えた。予定の日はもう四日後に迫っていた。待ち望んでいた日は、僕が気付かないうちにもうすぐそこまで来ていた。数えてみるまでそんなことにも気づかなかった自分が、少し滑稽だった。
翌日から僕らの関係は、目に見えて冷え込んでいた。顔を合わせても言葉を交わすことはなかった。以前と同じその距離感は、今は不思議なほど居心地が悪かった。
「あれ、もしかして小鳥遊さん?」
後ろから声をかけられて小鳥遊雪乃が振り返ると、美穂が手を振りながら近寄ってきていた。
「やっぱり小鳥遊さんだー」
「あら、久しぶりね一之瀬さん」
二人が顔を合わせるのは最後にオカルト研を訪れて以来だった。
「今帰り?」
「うん。一之瀬さんはこんな時間にどうしたの?」
生徒会で遅くまで学校に残っていた雪乃の帰宅時間は、一般生徒の下校時間としてはかなり遅かった。それに美穂は制服ではなく私服であったし、大きめの手提げ袋を提げていた。
「私はね、いとこのお姉ちゃんのお店をお手伝いしに行ってたの。これお土産でもらちゃった」
美穂は手に提げていた袋を差し出す。よく見るとそれはケーキ屋の袋だった。
「小鳥遊さんはシュークリーム好き?いっぱい貰っちゃったから良かったら一緒に食べない?」
「え、良いの?」
「うん。それに私ね、前からもっと小鳥遊さんとお話したいと思ってたの。そこの公園に寄って行こっ」
美穂ははしゃぐ子供のように雪乃の手を引いて近くの公園に入っていった。そこはブランコと滑り台程度しか置いていない小さな公園で、その時間は誰もいなかった。美穂は二つ並んだブランコの片方に腰掛けると、いそいそと手提げ袋の中からシュークリームの包みを取り出していた。雪乃が遠慮がちに隣のブランコに腰掛けると、美穂は「はいっ」とシュークリームを手渡した。
「あ、ありがとう」
雪乃が受け取ると、美穂は今度は自分の分を取り出して包みを開いた。そして一口食べると、幸せそうに「うん、美味しい」と言った。
「小鳥遊さんもどうぞ、遠慮しないで」
そう言われて雪乃も一口食べると「ほんとだ、美味しい」と呟いた。
「でしょう。私ね、ここのシュークリーム大好きなの」
美穂は嬉しそうに言った。
「バイト、してるの?」
「ううん、人手が足りないときだけだよ。お土産ももらえるし、お菓子作りも覚えられるし、みんな良い人たちだからたまにお手伝いに行くんだ」
「そうなんだ。何だか楽しそう」
雪乃はどこか羨ましそうに言った。
「小鳥遊さんもお菓子作りとか好き?」
「私?ううん、お菓子とか作ったことないんだ……」
「そっかー。今度私がお手伝いに行くときに一緒に行かない?」
「良いの?邪魔じゃないかな?」
「全然大丈夫だよー小さいお店だしね。今度私が行くときに声かけてあげる!」
美穂は仲間を見つけたことが嬉しそうに言った。
「うーんどうしよう、もう一個食べちゃおうかな……でもダイエットするって決めたのに……でも一個くらいなら……」
話しているうちに美穂はシュークリームを食べ終え、とても深刻そうに悩み始めた。その姿が余りに真剣で、雪乃は思わず吹き出してしまった。
「もぅ、何で笑うのー」
「ごめんなさい、あんまり深刻そうなものだからつい」
「深刻な問題だよ!この一個が結構カロリーあるんだもん……小鳥遊さんはカロリーとか気にしないの?」
「うーん気にしたことないかな。私は食べても太らない体質だし……」
「それでそのスタイルはずるいよー」
美穂は不服そうに頬を膨らませた。コロコロと変わる彼女の表情がおかしくて、雪乃はまた笑ってしまった。
「それじゃあ、半分ずつにしない?私が残り半分貰うから」
「あ、ホントに?それならぎりぎりセーフだよ!」
雪乃の提案に美穂は嬉しそうに手を打つと、二つ目のシュークリームを取り出して慎重に慎重に二つに分けた。
「はい、小鳥遊さん」
「ありがとう」
美穂は嬉しそうに、半分になったシュークリームを雪乃に差し出した。
「でも良かった、小鳥遊さん少しは元気になってくれたみたいで」
「えっ?」
雪乃は新しいシュークリームを口に運ぼうとしていた手を止めた。
「今日会った時からね、何だか元気ないなって思ってたの。そういうときは美味しいものを食べるのが一番だよー」
美穂はご機嫌そうにブランコをプラプラと揺らした。高校生の彼女には低すぎるブランコがゆっくりと前後に揺れ、さび付いたチェーンをキーキーと音を立てた。美穂は近すぎる地面を靴がこすらないように両脚を丁寧に折り曲げていた。
「もしかして、翔ちゃんと喧嘩したとか?」
「……」
雪乃は黙って美穂の切ってくれたシュークリームの、少しぎざぎざになった切り口を見つめていた。
「やっぱりそうかー」
美穂は納得したように「やっぱりねー」と繰り返した。
「やっぱりって?」
雪乃は不思議そうにたずねた。
「翔ちゃんもそんな感じだったから。ずーっとブスッとしててわけも話してくれないし」
美穂は拗ねたように頬を膨らませ、ブランコを更に大きく揺らした。キーキーという音が大きくなる。
「ごめんなさい……」
「どうして小鳥遊さんが謝るの?」
「私のせいで、一之瀬さんにまで迷惑かけて……」
「そんな事ないよー喧嘩なんて誰でもするんだし、どっちが悪いとかじゃないんだから」
優しく諭すような声で、美穂は言った。
「喧嘩をしてもね、仲直りしたら良いんだよ。それで全部解決しちゃうんだから」
「仲直り……出来ないと思うの」
雪乃は小さく漏らした。
「もうすぐ呪いも解けて、そしたらもう話すこともなくなって、前みたいにまた疎遠になって、もうそれっきりなんだろうなって」
「ダメだよ、それは」
美穂は揺らしていたブランコをピタリと止めた。揺れ続けようとしたチェーンがガチャリと音を立てる。
「伝えることをやめたら、ダメだよ」
そう言う彼女の目は、今までになく真剣に雪乃を見据えていた。彼女の力強い声に、雪乃は思わず息をのんだ。
「前に翔ちゃんが言ってたんだ。自分は小鳥遊さんに嫌われてるって。何もしてないのに嫌われてるんだって」
雪乃はバツが悪そうに目を伏せる。
「だからね、はじめは私、小鳥遊さんって怖い人なのかなぁって思ってた。でもね、実際に小鳥遊さんと話してみてそんな人じゃないって思ったの。何か誤解があるんだろうなって」
「……」
依然として黙ったままの雪乃に、美穂は続けて言った。
「喧嘩できるってことは、それだけ近づいたってことだと思うの。今までは遠すぎて届きもしなかった気持ちが、ぶつかっちゃうくらいまで近づいたってことでしょう?」
「……」
「それなのにここで逃げたら、また元通りだよ。それって寂しいと思う……」
雪乃はしばらく何も言わなかった。しばらくそのまま何か考え込むようにじっとしていた。美穂も同じようにそのまま黙って座っていた。
「私は……」
先に口を開いたのは雪乃だった。
「私はどうしたらいいか分からないの。私が彼を傷つけたってことも、謝らなきゃってことも分かってるつもり。でも、多分彼は聞いてくれない……」
雪乃はローファーの先で、ブランコの下の窪んだ地面を引っ掻いた。カリカリと小さい音を立てて地面に一本の線が残る。そして彼女はまるで探し物でもするように、その線をじっと見つめていた。
「小鳥遊さんはさ、翔ちゃんと仲直りしたい?」
美穂の問いに少し考えて、雪乃は口を開く。
「分からないの……だって私たちは、元々友達でもなかったんだもの」
「友達かー」
再びブランコを揺らし始めた美穂は、しばらく何やら考えている様子で黙っていた。そして、思い出したかのように口を開く。
「私はね、翔ちゃんのことが大好きなの」
「へっ?」
唐突な言葉に、雪乃は驚いたように目を上げた。
「あはは、もちろん異性としてじゃないんだけどね」
美穂は悪戯っぽく笑う。
「翔ちゃんのことは小さい頃から知ってて、ずっと仲良しで、これからも仲良しでいたいと思うの。だから喧嘩したら辛いし、仲直りしたいって思う。でもそれって友達だからとか、幼なじみだからとか、そう言うのじゃないよ。ただ辛いから仲直りしたいの。それで良いと思うんだ」
そこで一度言葉を切り、今度は雪乃の顔を覗き込むようにして尋ねる。
「小鳥遊さんは今、辛いんでしょ?」
「……うん」
ためらいがちだが、はっきりとした答えだった。
「だったらやっぱり、仲直りしたほうが良いよ。まぁ、こういう時の翔ちゃんって本当にめんどくさいんだけどねぇ」
美穂は呆れたように笑った。
「一之瀬さんも、彼と喧嘩なんてするの?」
「そんなのしょっちゅうだよー最近は流石に少なくなったけどね。一時期なんか酷かったんだから」
そう言う美穂の口調は、どこか懐かしむようでもあった。
「そうなんだ……なんか想像できないかも」
雪乃は意外そうな顔をした。確かにまるで熟年夫婦のようにお互いのことを理解し、仲良くやっている彼女たちの姿は、周囲からは喧嘩とは無縁のように見えていた。
いまひとつ信じていないような表情の雪乃を見て、美穂は再び口を開いた。
「ねぇ小鳥遊さん。秘密、守れる?」
「えっ?」
「私が話したって翔ちゃんに絶対言わないなら、一つだけ昔話してあげる」
そう言うと美穂はブランコから勢いをつけて立ち上がった。まだいくつかシュークリームの残った手提げ袋がカサリと音を立てた。
「どう、聞きたい?」
美穂はその場でくるりと回ると、再び雪乃に向き直ってたずねた。たずねられた雪乃は黙ってコクコクと頷く。
それを見て美穂は「そっかー」と小さくつぶやき、少しの後に昔話を語り始めた。
「実はね、私と翔ちゃんって中学は別々だったの。翔ちゃんは県外の私立に行っちゃったし、寮に入っちゃったからほとんど会うこともなかったかな」
美穂の口にした名前は雪乃ももちろん知っている名門校だった。
「でもあそこって、確か中高一貫じゃなかった?」
「うん。翔ちゃんね、そこをやめて三年生の時にこの町に戻ってきたの」
「えっ、どうして?」
雪乃は不思議そうにたずねた。中高一貫校はエスカレーター式に進学できることが大きな魅力なのだ。それにせっかく入った名門校を捨ててしまうと言うのは彼女には理解し難かった。それに今彼が通っている自分と同じ高校も地元の進学校であるという事実が、雪乃を更に混乱させた。
「それは私にも分からないの。翔ちゃんは話してくれなかったし、お母さん達は先輩と問題起こしたらしいとか言ってたけど、詳しいことは知らないみたいだったし……」
事情を話してもらえないことは本人も気にしているらしく、美穂は多少言葉を詰まらせる。
「でもとにかく、翔ちゃんは帰ってきたの。三年生の、ちょうど今くらいの時期だったかな。それで、大変だったのはそのあと」
「そのあと?」
「うん。その頃の翔ちゃんってすっごく荒れてて、本当に手に負えなかったの。暴力的だとかそういう感じじゃなかったんだけどね。あのときの翔ちゃんは何ていうか、世界中を敵だと思ってるみたいにずっとピリピリしてた」
彼女の語る相馬翔一の姿は、雪乃には想像するのが難しいものだった。普段の彼はどちらかというとそのような緊張感とは無縁の存在であるように感じられた。
「私はね、初めはあんまり深く考えたりしてなくて、ただ単純に翔ちゃんが帰ってきてくれたことが嬉しかったの。これでまた昔みたいに仲良くできるんだって簡単に考えてた。でも、翔ちゃんは昔みたいに心を開いてはくれなかった……」
話しながら当時を思い出しているのか、声のトーンがどんどん暗くなっていく。雪乃は、今にも美穂が泣き出してしまうんじゃないかと気が気でなかった。
「最初はね、私のこと忘れちゃったのかと思っちゃうくらい冷たかったの。それから機嫌悪いのかなとか、体調が悪いのかなとか、それとも私が嫌われるようなことしちゃったのかなとか色々考えた。元気出してーとか、どこか遊びに行こうよーとか言って励まそうとしてみたりもしたなぁ。でもとことんだめだった。私があんまり付きまとうものだから、大声で怒鳴られたこともあった。悲しくて、辛くて、あとちょっぴり怖くて、あの頃は何度も泣いちゃった」
美穂は恥ずかしそうに、そして少し悲しげに笑った。
「放っておこうとは思わなかったの?」
「正直言うと、ちょっとだけそう思ったりもしたの。友達からも放っておきなよとか言われたりしたし、小学校を出た直後の二年間ってとっても長い時間だったから、翔ちゃんももう変わっちゃったのかなーなんて思ったりもして……」
美穂は話しながらまた元のブランコに腰を下ろした。今度は手提げ袋を膝の上に載せて大事そうに抱えた。
「それでも、諦めなかったの?」
「うん。ときどきは心が折れそうにもなったけど、それでも絶対にあきらめたくない思ってた。あの頃の私はね、翔ちゃんのことが好きだったんだ……男の子として」
膝に抱えた手提げ袋に半ば顔を埋めるようにして、ぎりぎり聞こえるくらいの小さな声で美穂は言った。彼女の顔は恥ずかしそうに紅潮していた。
「絶対に翔ちゃんに言っちゃだめだからね!?絶対だよ!?」
「い、言わない言わない!」
雪乃は慌てて答える。さっきはあっけらかんと大好きとか言っていたくせに急に恥じらいだす美穂を見て、彼女の方までやけに恥ずかしくなってしまっていた。
「とにかくね!私はそれでも諦めなかったの。今考えると自分でもよく頑張ったなって思うなぁ。そんなことを冬頃まで続けて、途中からは翔ちゃんからももう勝手にしろって呆れられてた」
「そんなに……」
「でもね、そうしてるうちに翔ちゃんも少しずつ変わっていったの。というより、昔の翔ちゃんに戻っていったって言うのかなぁ。少しずつ友達もできて、クラスにもちゃんと馴染めるようになった。でももしかしたらそれって時間の問題で、私のお蔭なんかじゃないかもしれないんだけどね」
美穂は照れ隠しをするように笑った。
「はい、これで昔話はおしまい!」
そう言いながら彼女はパチンと手を叩き、気分を入れ替えるように深呼吸をした。
「ちょっと意外だった?」
「うん。ちょっとって言うか、かなり……かな」
「そっかー、そりゃそうかなー」
そう言う美穂の表情にはもう先ほどまでの影はなく、すっかり明るさを取り戻していた。
「あ、ちなみにね。最初に翔ちゃんの友達になってくれたのは近藤くんなんだよ」
「え、そうなの?なんか意外かも」
「近藤くんはとっても良い人なんだよー」
「結構良いところあるんだ、ああ見えて」
「ああ見えて、ね」
二人は一緒になってクスクスと笑った。ひとしきり笑うと、美穂はまた真面目なトーンに戻って続けた。
「とにかくね、ぶつかり続けないとダメなんだと思うの。私もあの時期はとっても辛かったけど、でもあのとき私が諦めてたら今の関係はないかもしれないなって」
「そっか……」
「でもね、諦めたくなっちゃう気持ちも分かるなぁって。こういう時の翔ちゃんって本当に頑固なんだもん」
そう言うと彼女は不満そうに頬を膨らませた。それを見て雪乃は笑う。
「一之瀬さんって、まるで彼のお母さんみたい」
「お母さんかぁ、そっか。そうかもね」
美穂はちょっと考えるようにしてから
「向こうは妹みたいだとか思ってるんだろうけどね」
と言ってまた呆れたように笑った。雪乃もそれにつられて笑った。先ほどまでの陰鬱とした空気は、もうどこかに消えてしまっていた。
「あ、もうこんな時間か。すっかり暗くなっちゃったね」
時計を見た美穂は慌てたように立ち上がる。乗り手を失ったブランコが所在なさげにぶらぶらと揺れた。話し込んでいるうちにすっかり日も暮れて、公園を照らし出すのは夕日ではなく街灯の光に変わっていた。雪乃も美穂に合わせるように立ち上がった。
「今日はどうもありがとう、一之瀬さん」
「美穂って呼んで。その代わり、私も雪乃ちゃんって呼んでいい?」
「うん、もちろんよ、美穂ちゃん」
そう話しながら、二人は公園を後にした。
「あ、そう言えば」
思い出したように雪乃が口を開く。
「シュークリーム、もう少し余ってる?」
「うん、まだいっぱいあるよー」
「もう一個だけ貰って帰っていい?」
「もちろんだよー雪乃ちゃんもやっぱり甘いものには勝てないよね」
何やらとても嬉しそうに美穂は笑った。
「あ、いや私の分じゃないの。妹にも持って帰ってあげたくて。あの子シュークリーム大好きだから」
「妹さんにかぁ。良いお姉ちゃんだね」
「ふふ、ありがとう。あ、私こっちだから」
「そっかー。じゃあまたね。頑張るんだよ!」
美穂は握り拳を胸の前に持ち上げて「ファイト」と言った。
「うん、ありがとう。じゃあまたね」
「ばいばーい」
そう言って二人は別れると、それぞれの帰り道を歩き始めた。
さっきまでの身体の重さが嘘のように、雪乃の足取りは軽やかだった。




