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第四章 ―二人の鼓動、一つのリズム―

 次の日、小鳥遊は学校を休んだ。僕の知る限り彼女が欠席したというのはこれが初めてだった。もちろん朝練も中止だったのだが、ここ最近は毎日早く起きていたせいで割と早い時間に目が覚めてしまい、時間を持て余した結果早目に学校に到着していた。

 小鳥遊がいなくとも教室はいつもの通りに回っていた。時折教師から「小鳥遊が休みか、珍しいな」等の言葉が出る以外は、いつもと変わらない日常が流れていった。昼休み、近藤が小鳥遊の席に座ってパンをかじっているという光景に何かもやもやとした違和感を感じながら僕もいつものようにパンをかじったりした。

 LHRで体育祭に向けての連絡事項や注意事項などが垂れ流されるのを欠伸をかみ殺してやり過ごす。明日は午前中が機材の運搬やテントの設営、午後に全体の流れを確認する練習で通常授業は休みだそうだ。長かった拘束からも解放されてノロノロと帰り支度をしていると、僕の隣の空き机に宮坂がやってきて机の中に溜まったプリントを回収し始めた。恐らく小鳥遊に届けてあげるのだろう。女子の友情って言うのは凄い。近藤が休んでも僕は絶対にやらないからなそんなこと。

「あ、相馬くん」

ふむふむと感心しながら横を通り過ぎようとすると、宮坂に呼び止められた。

「ん、何?」

 宮坂ときちんと会話するのなんて何か月ぶりだったかわからない。正直言うと気まずいからあまり話したくはないのだけど。

「ユキにさ、今日のプリントとノート、届けてくれない?」

「え、何で俺が」

「いやー今日私部活で遅いしさ、あんまり遅くなると迷惑かなと思ってね。どうせ暇でしょ?」

「どうせってお前、失礼な」

「じゃあよろしく頼むよ。ユキの家は知ってるよね?」

「一応知ってるけど……」

 というか、ちょうど昨日知った。

「良かった良かった。私なんかが行くよりも彼氏に来てもらった方が嬉しいだろうしねー」

「そんな事ないと思うけどな」

 というか絶対にないのだけど。彼氏じゃないし。

「いやそれにさ、最近なんか二人、ピリピリしてるような感じあったからね。ユキに聞いても何も教えてくれないしさー」

 彼女は近藤と同じことを言った。やはり周りからはそう見えているらしい。

「だから病気で気が滅入ってる時にお見舞いに行ってあげて、晴れて仲直りって感じでね」

 宮坂はアハハと笑う。こいつ、意外と友達思いで良い奴なんだな。

「そう言ってお前、厄介事押し付けようとか思ってないだろうな?」

「あ、バレた?ユキには内緒ね?」

 思ってたのかよ。

「仕方ねぇな、今日のところは俺が届けておくよ」

「サンキュー、じゃあこれよろしく」

 宮坂からクリアファイルとノートを受け取る。確かにこの体育祭関連のプリントは今日中に届けた方が良いものだろう。それに昨日実は僕と小鳥遊の家があまり離れていないことも分かっていたし、小鳥遊の様子が気になるのも事実だった。むしろいい口実が出来たのかもしれないということは否定しきれなかった。

「あ、あとそれからさ……」

 教室を後にしようとした僕に、宮坂がもう一度声をかけた。僕は黙って立ち止まり、彼女の言葉の続きを待った。

「ユキって努力家なんだけど、いつもちょっと頑張りすぎてる感じあるからさ……少し気遣ってあげて欲しいなとか……」

 宮坂は少しだけ照れくさそうにそう言った。やっぱり凄く友達思いじゃないか。

「ああ、分かったよ」

 本当は僕に言っても仕方ないことなのかもしれないけれど、今の僕は小鳥遊の彼氏として必要な返事をしておいた。

「お前良い奴だな」

「あれ、今頃気づいた?」

 彼女は照れくささを誤魔化すように冗談っぽく言った。「調子に乗るなよ」とツッコミを入れながら、僕も少しだけ笑った。

 こうやって気遣ってくれる友人を持つことが出来て、小鳥遊は幸せ者だと思った。


 改めて見ると、小鳥遊の家は一層高級感に溢れているように見えた。昨日はもう日も落ちていて薄暗かったからあまりきちんと見えていなかったが、明るい時間に見ると全体的に洋風で統一された見た目はより一層印象的だ。庭の芝は短く刈り込まれ、植え込みや花壇も綺麗に手入れが行き届いて鮮やかな花で彩られている。玄関ポーチには淡い色のタイルが敷き詰められており、玄関脇の鉢植えの観葉植物もよく手入れされていた。豪邸という類の家ではないが、住む人のセンスの良さを感じるとても雰囲気の良い家である。改めて小鳥遊をどこか住む世界が違うように感じてしまった。

 僕は玄関ポーチの段差を登り、呼び鈴を鳴らした。ドア越しに小さくインターホンの音が聞こえ、少し間を置いて人の気配が近づいてきた。ドアに縦に入ったすりガラス越しに人影が大きくなると、僕は自然と背筋が伸びていた。

「はいはーい、あら」

 中から出てきたのは小鳥遊のお母さんと思われる女性だった。家事の最中だったであろうエプロン姿の小鳥遊母は僕と同年代の娘がいるとは思えないほど若々しかった。目鼻立ちは小鳥遊とよく似ていたが、小鳥遊よりも全体的に柔らかい印象に見えるのは、内巻きのパーマのかかった髪型と泣きぼくろのせいだろうか。

「あの、雪乃さんの同級生の――」

「あーもしかして、あなたが翔一くん?」

「あ、はいそうですけど」

 思いがけず名前を知られていたことで多少ギクリとする。

「いつもお話は聞いてるわよー。お見舞いに来てくれたんでしょう?わざわざありがとうね。雪乃も今は起きてると思うからちょっと待ってね。とりあえずこんなところじゃなんだから中にどうぞ」

 立て続けにそう言うと小鳥遊母は「雪乃―」と呼びながら階段を二階上がっていってしまった。何というか、見た目とは裏腹に中身はいかにもお母さんと言う感じだ。

 しばらく階段下で待っているとまた小鳥遊母が降りてきた。

「お部屋に行って大丈夫みたいよ。二階に上がって右側の部屋だから行ってあげてちょうだい。ちゃんとノックはしてあげてね」

 うふふと笑いながら小鳥遊母は台所の方に消えていった。娘の彼氏がお見舞いに来たという状況を完全に楽しんでいるようだ。というかよく考えたら、僕は今彼女の家にお邪魔している状況に置かれていることになるんだよな……お父様がご帰宅なさる前にはお暇しないと……

 二階に上がると右側に一つ、左側にもういくつかのドアが並んでいた。右側のドアにはYUKINOと書かれた愛らしいプレートがかかっていたので、彼女の部屋はすぐに分かった。僕は深呼吸すると、その扉をコンコンと控えめにノックした。

「ちょ、ちょっと待って!」

 中から慌てたような声がする。大丈夫みたいじゃなかったのか……あの母親大丈夫だろうか。

「どうぞ!」

 再び扉の向こうから声がしたので、僕は少しだけ緊張しながら部屋に入った。

 扉を開けた途端、ふわりと女の子の部屋の香りを感じる。小鳥遊の部屋はとてもきれいに整頓されていた。美穂以外の女の子の部屋に入ったことはなかったが、あちらは全体的にファンシーでまさに女の子の部屋という感じだった。一方、小鳥遊の部屋は全体がシンプルにまとめられ、どちらかというとあまり生活感がなかった。本棚には文庫本やハードカバーがずらりと並んでおり、勉強机の上にもペン立てと小物入れ以外にほとんど物がなかった。タンスの上に並べられたかわいらしいデザインの写真立てと、その中に納まる友人と写った写真が、おそらくこの部屋に存在する中で最も女の子っぽいものなのではないかと思う。

 部屋の奥、窓の下に置かれた白いベッドの上に、小鳥遊は上半身を起こして座っていた。シンプルなTシャツの上に薄手のカーディガンを羽織っている。いつものヘアピンはしておらず、長い髪の毛は後ろで一つにまとめられていた。初めて見る部屋着の小鳥遊は妙に無防備な感じがして少しどきりとしてしまった。

「そこ、椅子あるから、座っていいよ」

 少しきまりが悪そうに小鳥遊は椅子を指さした。きまりが悪いのは僕も同じで「おぅ」と短く返事をすると、椅子を手繰り寄せて腰掛けた。

「これ、今日のプリントとノート」

 僕は宮坂から預かっていたものを鞄から取り出し、小鳥遊に手渡していく。

「わざわざありがとう……」

「礼なら宮坂に言ってくれ。用意してくれたのも、俺に届けさせたのもあいつだしな」

 その理由について、彼女が言っていた話はしないことにした。

「そっか、芳子が」

「良い友達を持ったな」

 そう言われて小鳥遊は少しだけ嬉しそうに頷いた。

 それから僕は、一通り明日以降についての連絡事項を伝えた。小鳥遊はやはりきまりが悪いのか終始しおらしくしていたので、こちらの方が余計に落ち着かなかった。

 一通り説明が終わるころにドアがコンコンとノックされ、トレイを持った小鳥遊母が現れた。

「邪魔してごめんなさいねー、はいこれ、紅茶とクッキー。お砂糖とミルクはこっちに置いておくからね」

 小鳥遊母はベッドわきに置いてある小さな机にクッキーの乗った皿とティーポット、ティーカップを二つ、それから砂糖の小瓶とミルクジャグを並べていった。一般家庭でこれが出てくるの初めて見たぞ……

「熱いから気を付けてね」

 と言いながら小鳥遊母は馴れた手つきで紅茶を注いでいく。淹れたての紅茶のいい匂いが漂った。

「それじゃあ、ゆっくりして行ってねー」

 小鳥遊母はご機嫌に鼻歌を歌いながら部屋から出ていった。彼女の足音が遠のいたのを聞いてから、僕は小声で言った。

「随分と本格的なんだな……」

「お母さんの趣味なの」

 小鳥遊は苦笑する。僕は紅茶に少しだけ口をつけてみた。

「あ、美味しい」

 普段ちゃんとした紅茶を飲んだことがないからか、小鳥遊母の淹れる紅茶はとても香りが良いと感じ、自然と感想が漏れていた。実際に茶葉から違って美味しいのだろう。母親の紅茶を褒められて、小鳥遊も嬉しそうにしながら紅茶に口をつけた。小鳥遊母の登場のおかげで少しだけ場の空気が和んだ気がした。

「そう言えば、体調はもう良いのか?」

「うん、ちょっと疲れが溜まってただけみたい。さっきまで寝てたからすっかり良くなっちゃった」

「それは良かった。それなら体育祭は大丈夫そうだな」

「そうね、明日も朝練できるし」

「いや、それはダメだ」

 予想していた通り、小鳥遊は明日朝練をやるつもりだったようだ。

「どうしてよ、もう明日くらいしか練習する時間ないのに」

「お前は自分が体調崩した原因も忘れたのか?病み上がりで朝練なんてさせるわけにはいかないよ」

「でも……」

 小鳥遊は尚も不満そうである。

「大丈夫だって、きちんと対策も考えたんだ、きっと本番は上手く行くさ」

きっと上手く行く。明確な根拠はないけれど、何となくそんな気がしていた。根拠のない自信を持つタイプではない僕であったが、今はそれで良い気がするのだ。

「それとも、小鳥遊ってリズム感無いとか?」

「そんな事ないわよ!」

「じゃあ大丈夫だ」

 思った以上の食いつきに思わず笑ってしまう。小鳥遊って意外と扱いやすいのかもしれない。

 そんなやり取りをしていると、ドアノブが静かにガチャリと回り、そろそろとためらいがちに扉が開かれた。二人して開いた扉に目を向けると、ショートヘアーの小さい女の子が、扉の隙間からこちらの様子をうかがっていた。

「あら、ハルちゃん。どうしたの?」

 小鳥遊が声をかける。どうやら妹らしい。

「クッキー……」

 どうやらクッキーに釣られてやって来たらしい。さっき小鳥遊母がこの部屋に運んでいるのを見たのかもしれない。小鳥遊が笑いながら「おいで」と言うと、恐る恐るという感じで覗いていた女の子は後ろ手に行儀よくドアを閉め、タタタタッと効果音が聞こえそうな足取りでベッドの隣に駆け寄った。そして机の上にクッキーがあるのを確認すると、小鳥遊が横にずれて作った空間に腰掛けてクッキーをかじり始めた。

「食べ過ぎたら夜ご飯食べられなくなっちゃうからね。ちょっとだけよ?」

 女の子は小鳥遊の言葉にコクコクと頷きながらクッキーをちびちびかじり続ける。小動物のようなその動きはとても愛らしかった。

「妹さん?」

「うん、妹の春花。今年でもう十歳になるんだけど、甘えん坊でね。末っ子だからって両親が甘やかしてるのよ」

 そう言いながら小鳥遊は妹の頭をよしよしと撫でていた。間違いなく彼女も、末っ子を甘やかしている一人だ。その慈しむような優しい笑顔は、僕の全く見たこともない表情だった。良いお母さんになりそうだな、などとぼんやり考えて急に気恥ずかしくなり、誤魔化すように話題を探した。

「兄弟は二人だけ?」

「ううん、あと中学生の弟もいるんだけど、あの子はもうダメ。最近反抗期で手に負えなくてね。昔はおねえちゃーん、なんて言って私の後ばっかりついて来てたのに、今では「なぁ」とか「おい」とか呼んで来たりして。あの頃は可愛かったのになぁ……」

 小鳥遊は懐かしむように溜息を漏らす。家族の話になった途端饒舌になった小鳥遊が、僕には何だか微笑ましく思えた。

「小鳥遊は、本当に家族が好きなんだな」

「な、何よ。やめてよ……」

 指摘されて急に恥ずかしくなったのか真っ赤になった小鳥遊に追い打ちをかけようと、僕は春花ちゃんに水を向けてみた。

「春花ちゃんは、お姉ちゃん好きかな?」

「うん、だいすきっ」

 春花ちゃんは隣に座っている姉に抱き付く。小鳥遊は「もぅ、ほら粉が落ちるでしょ」と妹をたしなめる。仲睦まじい姉妹の、幸福な一コマという感じだった。僕自身も自分の家族は仲のいい方だと思っていたけれど、小鳥遊家の仲の良さには到底敵わないなと思った。

 そんな光景を微笑ましい思いで見ていたら今度は春花ちゃんの無邪気さの矛先が僕に向いた。

「お兄ちゃんは、お姉ちゃんのこと好き?」

 春花ちゃんが小鳥遊の腕の中からくりくりした目で僕の顔を覗き込んでくる。藪をつついたら蛇が出た。悪意なき反撃に晒された僕はぐっと言葉に詰まる。チラリと小鳥遊を見やると、まるで僕の災難を喜ぶかのようにニヤニヤしていた。あいつめ楽しんでやがるな……

 こうなってくるともう僕は負けるわけにはいかないのである。妙な闘争心に火がついてしまった。その先に焦土しか残らないと分かっていても、男には進まなければならないときがある。

 僕は小鳥遊の目を正面から見つめ、自分にできる最大限の真剣な声をもって「好きだよ」と答えた。冗談だとは思っていても、女の子の目を見据えてそんな事を言うのは顔から火が出るほど恥ずかしかった。自分の顔が耳まで真っ赤になるのを感じる。しかしこれは小鳥遊にも効いたようで「な、やっやめてよ!」と顔を真っ赤にしながら思いっきり枕を投げつけられた。僕はいきなりクロスレンジから投げられた枕に対処できず、モロに顔面で受け止めて大きくのけぞった。危うく椅子ごと後ろに転がりそうだったがギリギリで踏みとどまる。シャンプーの良い匂いが鼻孔をくすぐった。

 視界が回復すると、顔を真っ赤にしてそっぽを向いている小鳥遊が目に入った。春花ちゃんは先ほどの僕の言葉に目をキラキラさせていた。恋愛に興味津々の年頃らしい。目の前で愛の言葉を聞けたことがとてもうれしい様子で、無邪気に質問を重ねてくる。

「ねぇ、お姉ちゃんともうちゅーしたの?」

「うっ、それは……」

 僕は再び言葉に詰まる。いや、流石の僕も小鳥遊の妹の前でお姉さんとキスしましたとは言えない。小鳥遊が「こらっ!」と制止しようとするが、春花ちゃんは身を乗り出して「したの?」と繰り返し問いかけてくる。僕が困っていると小鳥遊が遂に業を煮やし

「いい加減にしなさい!」

 と声を上げながら、春花ちゃんをくすぐり始めた。どうやら彼女はくすぐりに弱いらしく「ひゃぁっ」と声を上げると姉の手からどうにか逃れようとする。しかし、小鳥遊はそれを逃がすまいと更にくすぐりのペースを上げる。

「逃がさないからねっ!」

「ごめんなさいっ!ごめんなさいっ!もうやめてっ!やめてぇ!」

 春花ちゃんが必死で身をよじりながら声を上げるが、小鳥遊は「もう許さないから!」と一向にやめる気配はなかった。いつもの姿からは想像もできない子供っぽい小鳥遊の姿に、僕は本気で笑ってしまった。この時僕は多分初めて、小鳥遊と一緒にいる時間を「楽しい」と感じていた。


 僕が小鳥遊家を後にする頃には随分と日も傾いていた。小鳥遊は玄関まで見送りに出ようとしたが、病み上がりなのだからと僕はそれを制止した。僕が部屋を出ようとするときには、春花ちゃんがティーセットとお皿を運ぶのを手伝ってくれた。

 階段を下りて春花ちゃんの後に続くとキッチンにたどり着いた。流し台の隣にティーセットを置く。

「手伝ってくれてありがとうね」

 お礼を言うと春花ちゃんは満足そうに笑ってどこかへ走り去ってしまった。後を追うように僕もキッチンから出て玄関へ向かうと、ちょうどリビングから小鳥遊母が出てくるところだった。

「あらあら、わざわざありがとうね」

「いえ、こちらこそありがとうございました。紅茶、美味しかったです」

「良かったわ、お口に合って」

 小鳥遊母は嬉しそうに笑った。その笑顔は、さっき初めて見た小鳥遊の優しそうな笑顔とそっくりだった。

「それにしても、ハルちゃんは人見知りする子なのに翔一くんには懐いたみたいねぇ」

「あ、そうだったんですか」

 確かに言われてみれば、最後の方は初めに比べてかなり元気な印象を受けた。あれは心を開いてくれていたのか。そう言われると何だか嬉しくなった。

「とっても楽しそうだったから良かったわ。雪乃も元気になってくれたみたいだし。またいつでも遊びに来てちょうだいね」

「はい、また来ます」

 そう返事をしながら「もう来る機会はないかもしれないな」と思うと、少しだけ良心が痛んだ。呪いを解いて今の関係が終わる前に、もう一度くらい春花ちゃんに会いに来ても良いかもなと考えた。

「それじゃあ、長らくお邪魔しました」

「いいえ、気を付けて帰ってね」

 僕はドアを開けて外に出ると、改めて小鳥遊母にお辞儀をしてからドアを閉めようとした。

「あ、そう言えば」そこで一つ言っておかなければならないことを思い出した。

「あの、雪乃さんがまた無理しないように注意してあげてください。彼女、頑張りすぎるところがあるので」

小鳥遊母は一瞬不意を突かれたような表情をしたが、すぐに笑顔になると

「ええ、ありがとう。雪乃のこと、良くわかってくれてるのね」

 と嬉しそうに笑った。「あの子も良い彼を持ったわねぇ」と言う小鳥遊母はこの上ないほど上機嫌だった。一方言われた僕は妙に気恥ずかしくなって、早口で「では失礼します」と言うと逃げるようにその場を後にした。最後に余計なことを言わなければよかったかもなと後悔しながら、それを誤魔化すように夕暮れの帰り道を少し大股で歩いた。後悔しながらも、心持ちは不思議と晴れやかだった。


 それから体育祭の準備や予行は慌ただしく過ぎていき、僕と小鳥遊は結局追加で練習を出来ぬまま体育祭の当日を迎えていた。当日の天気は憎らしいほどの快晴で、絶好の体育祭日和だった。

 我が校の体育祭はクラス単位で紅白に割り振られて点数を競う方式だ。僕はあまり勝敗には興味がないタイプなのだが、やはり中には熱心に勝利を狙う人々もいる。特に運動部の連中などは部活内で対抗心を燃やしたりする上、身体能力を競うという性質上熱くなる傾向が強い。それに加えてお祭り好きの連中もここぞとばかりに盛り立てるものだから、体育祭は毎年ある種異様な熱気に包まれる。

 そんな中、点数の集計役というのは必然的に重要になってきて、生徒会の役員は忙しそうに飛び回っていた。うちの学校では体育祭を含めた全てのイベントにおいて生徒会が中心に置かれ、それぞれのイベントごとに実行委員会が追加で併設されるという形式が採用されている。必然的に生徒会役員の負担は大きくなるが、年間を通して生徒会が行事を管理することができるので指揮系統や連携も強固になって運営がスムーズに行くことも多い。

 何度か「生徒会」の腕章をつけて飛び回る小鳥遊の姿を見かけたが、声はかけないでおいた。忙しいところを邪魔しては申し訳ない。それにしても競技に出ては仕事に戻る、を繰り返す小鳥遊を見ていると、本当によくやってるなと感心してしまう。僕だったら勘弁してほしいところだ。

 そうこうしているうちに午前の部も終了して、昼の休憩に入った。午後の最初の競技が二人三脚となっているから、僕の体育祭最大の仕事も近づいているということになる。運動部に所属していない僕は、全員参加の競技以外ではこの二人三脚にしか出場しないことになっている。これさえ済ませれば後はまた適当にぶらついたり競技を眺めているだけで良い。忙しく走り回っては競技にも参加している小鳥遊と対照的な過ごし方だろう。

『午後の部、二人三脚に参加する生徒は本部テント前に集合してください』

 放送が流れるのを聞いて、僕は本部テント前へ向かった。集合場所には続々と参加者が集まってきていた。二人そろってやってくるペアも多い。参加者のほとんどがカップルで構成されているのだからそれもそう不思議なことではないだろう。

 周囲を見回すと、小鳥遊の姿はすぐに見つかった。小鳥遊は今まさに到着したという様子できょろきょろと僕の姿を探しているようだった。

「おぅ、小鳥遊。お疲れさん」

「あ、もう来てたのね。そっちこそお疲れ様」

「俺の方は全然疲れてないんだけどな」

 実際僕はほとんど休んでばっかりだったのだから疲れてなどいなかった。僕の体力の消耗している分は、ほとんどが直射日光と気温によるものだった。小鳥遊の方は走り回って疲れてはいただろうが、それ以上に楽しそうで活き活きとしていた。

「結局、あれから練習できなかったね」

「まぁ大丈夫だって。作戦は完璧さ」

「ふふ、まぁそうね」

 小鳥遊は笑う。多分彼女も今は、僕と同じように根拠のない自信を感じているのだと思う。何となくだけれど、スランプは抜け出せたのだという晴れやかな空気を僕らは感じていた。

 しばらくするとペアの足首を縛る紐が配られ始め、出走順に列が形成され始めた。僕らも誘導にしたがって列に並び、毎朝やっていたように両足を紐で縛った。横の列には同時に出走するペアが並んでいた。恐らくほとんどのペアがカップルらしく、じゃれ合っているペアの姿も目に入った。そうだ、大体この競技の参加者はお遊びなんだ。僕らみたいに朝練なんてやってた奴らはまずいないだろう。負けるはずがない。負ける気がしない。僕はますます自信を強めていった。

「ねぇちょっと、あのペア見て」

 隣の小鳥遊の示す先を見ると、同じ列の一番端に明らかに『本気』の二人組がいた。男の方には見覚えがある。確かあれは陸上部のイケメンエースとして有名な神代先輩だ。女の方には見覚えがなかったが、こちらもスラリとしたシルエットにポニーテールの美少女でいかにもスポーツ少女という感じだった。

「あの女の方も有名なのか?」

「あれは女子バスケ部のキャプテンの水原先輩よ。マドンナって有名だけど知らないの?あの二人同じクラスだったんだ……」

 そう言えば、近藤が何度かマドンナなる先輩の話をしていたのを聞いた覚えがあった。モテるモテると言われても会ったことも見たこともない人の話で興味もわかず完全に聞き流していたが、あれがマドンナだと言われると確かにモテるのも納得という感じだった。

「あの二人がいたら一位は難しいかも……」

「まぁ、無理に一位になる必要もないんじゃないか?」

「ダメよ、一位じゃないと……」

「うーん、まぁ確かに二位だと一気にポイント下がるしな」

 この競技は六チームが同時に出走し、半分の三位まではポイントを与えられることになっていた。しかし、一位が10ポイント貰えるのに対し二位だと半分の5ポイント、三位だとたったの2ポイントになる。勝敗を考えるとこの差はかなり大きい。そして神代水原のペアは白のハチマキをしており、それは僕らとは敵同士である事を示していた。

「とにかく、やってみなきゃわからないさ。勝負は時の運だ。今更うじうじ考えてても仕方ないしな。精いっぱいやろうぜ」

「そうね、とにかく頑張りましょう!」

 小鳥遊は両手で自分の頬をぱちぱちと叩いた。僕も気合を入れるために同じように自分の頬をはたいてみたりした。

 僕らの前の列が続々と出走し、少しずつ順番が近づいてくる。二人三脚という競技の性質上、どのレースも一位と六位の間はかなり開いていた。とてもスムーズに走るペアもいれば、何度も転んでやっとのことでゴールするペアもいた。僕らの前に並んでいた列が出走し、それにつれて僕らの緊張感も高まっていく。ついにスタートラインに立った時には緊張が最高潮に達していた。恐らくこの場に立って、ここまで緊張している人間というのもいないだろう。それでも、僕らは真剣だった。少なくとも僕ら二人は、同じくらいには本気だった。

 前のレースが終わるのと同じくらいのタイミングで、流れている音楽が切り替わった。ハチャトリアンの天国と地獄が流れ始める。体育祭では定番のテンポの良い曲だ。僕は作戦を確認するように、小鳥遊の肩に回した手で、彼女の肩をトントンとリズミカルに叩いた。小鳥遊はチラリとこちらを見やり、確かめるようにゆっくりと頷いた。

 スタートの合図をする役員が合図のピストルを高く掲げる。一瞬ののち、パンッと白煙が上がって、僕らは一斉に飛び出す。視界の端で、隣のペアが足をもつれさせて早速転倒したのを捉えた。一方打ち合わせ通りに内足から踏み出した僕らは、そのままテンポよく走り始めることに成功した。今までのどの練習よりも快調な走り出しだった。ふらふらと不安定そうに走る他のペアがどんどん後ろに離れていく。音楽に合わせて走る作戦は、今のところ思った以上に大成功していた。

 しかし、スタート直後に弾丸のように飛び出してからずっと、神代水原ペアは僕らの前を走っていた。僕らがこんなにも絶好調で走っているのに、それでも彼らの背中は少しずつ少しずつ離れていっていた。その時僕は初めて「勝ちたい」と思った。あの背中に追いつきたい。追い越して、先にゴールテープを切りたい。

 初めは完走できればいいと思っていた。ビリにはなりたくないと。それからそれなりに速く走りたいと思った。周りよりも速く走りたいとも思った。でも、彼らに勝って一位になりたい、誰にも負けたくないと思ったのはこれが初めてだった。

 それは、思ったより上手に走れたからかもしれない。もしかしたら、体調を崩すほどに練習をした小鳥遊の思いを無駄にしたくないと思ったからかもしれない。毎日辛い早起きを重ねた日々を無駄にしたくないと思ったからかもしれない。明確な理由は分からない。でも、僕の中で確かに闘志が燃え上がるのを感じた。

 勝ちたいという気持ちの強さは、小鳥遊も同じだった。僕にはそれが分かっていた。表情を覗き込むような余裕はなかったが、肩に回した腕から、その力強さから、確かにそれが伝わって来た。彼女も確かに今、目の前の背中を睨みつけている。

 僕らはペースを上げた。テンポは上げられないから、一歩一歩をより大きく。いつの間にか音楽は聞こえていなかった。それでもテンポが狂うことはない。腕から彼女の鼓動が、息遣いが、リズムが伝わってきていた。こんなにはっきり聞こえるリズムを、見失うわけがない。

 今や同じテンポで走ろうなどと考える必要はなかった。僕ら二人は、一つのリズムの上を走っていた。ありえないことなのかもしれないが、僕らの鼓動までぴったりと重なっているようにさえ感じた。

 ペースを上げた僕たちは前を走るペアとの間を着実に縮めていた。離れていた背中が少しずつ少しずつ近づいてくる。しかし、ゴールテープはさらに速いスピードで迫ってきていた。

 それでも、僕らは諦めることはなかった。今の僕らにできることは、ただただ少しでも速く走る事だけだった。1秒でも早く、1ミリでも前へ……最早それ以外は何一つ頭にはなかった。

 ゴールテープがすぐ近くに迫る。しかし、まだ僕らは前のペアに追いつけてはいない。あと一歩、おそらく手を伸ばせば触れられる距離まで彼らの背中も迫っていた。しかしその最後の一歩は、恐ろしいほどに長く感じられた。

 その時、すぐ後ろまで迫ってきた僕らの気配を感じてか、神代先輩がチラリと後ろの様子を伺った。それは一瞬の出来事だった。ほんの一瞬、少しだけ彼の身体の軸がブレたのが見えた。その瞬間、かなりのペースで走っていた彼らの内足が、微妙なブレに翻弄されてバランスを崩す。リズムが乱れる。二人は大きくよろめいたが、流石の運動神経で転ぶのだけは踏みとどまり、一瞬あとにはきちんとペースを取り戻していた。しかし、その一瞬で僕たちには十分だった。極限までペースを上げていた僕らは、その一瞬の間に神代ペアと位置を入れ替えていた。あれだけ遠かった背中は、今では僕らの後ろにあった。そして僕らは、誰よりも先に、一番に、ゴールテープに飛び込んでいた。

 全力で走り抜けてきた僕らは、そのままどちらともなく地面に膝をついた。はっと気が付くと、相変わらず響き続ける天国と地獄の音楽とは別に、周囲から大歓声が聞こえていた。

『まさか二人三脚でこれほどまでの名勝負が見られるとは思いませんでした!なんというドラマチックな逆転劇でしょう!手に汗握る白熱のレースを見事に制したのは、相馬小鳥遊ペアです!みなさん拍手を!』

 放送委員の大げさ過ぎるアナウンスが聞こえてくる。もしかしたら気づかなかっただけで、走ってる最中もこんな具合に盛り上がっていたのかもしれない。

 僕は早鐘を打つ胸を押さえ、乱れた息を整えながら隣の相棒の方に目を向けた。同じように息を整えようとする彼女と目が合った。僕らは何だかおかしくて、嬉しくて、二人して大声で笑ってしまった。

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