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第三章 ―小鳥遊雪乃は、人間だ―

「じゃあ、男女二人三脚のペアに異論のない人は拍手を」

 体育委員が言うと同時に、クラス全体から盛大な拍手が沸き起こる。体育祭に向けた選手決めのLHRは、概ね予想通りの悲劇を予想通りの理不尽さで僕らに降り注がせていた。呪いがかかったまま体育祭を迎えることへの大きな懸念の一つが現実になったのだ。

 黒板には各種リレーや大玉ころがし等の種目名と、その下に生徒の名前がずらりと並んでいる。そしてその一番左端、最後に残された空間に小鳥遊と僕の名前が並んで記入される。

 男女ペアの二人三脚は我が校の体育祭では名物競技の一つだ。生徒の自主性を重んじる校風ゆえに、我が校の体育祭の競技は生徒によって決定されている。基本的に前年の競技を踏襲する形で決定するが、その中でおかしな競技が生まれたり消えたりしていくという。この男女ペア二人三脚はその中からいつの間にか定番競技として決定されたものであるらしい。去年も存在していたし、どうやら結構昔から毎年行われているという。

 名物競技ではあるがお遊びというわけではない。順位はしっかりと点数に計上されるため、勝つための人選を行うクラスも少なくないのだ。しかしこの人選はとても難しい。何よりもまず、みな男女二人三脚など恥ずかしい年頃なのだ。選手決めは自然と押し付け合いの様相を呈することとなる。そしてクラス内にカップルが存在すると「妥当だ」という文言の下に民主主義的なプロセスを経て二人分の人権が黙殺される。うちのクラスの場合は特に、足を引っ張りがちな女子が運動神経の良い小鳥遊になるというわけであるから、選出理由は十分すぎるほどに揃っていた。それゆえ、僕らが生贄にされることは容易に予想されることであった。

「はぁ……」

 貧乏くじを押し付けられた小鳥遊が諦めたような溜息を漏らす。不満はあっても言えないのだろう。それは僕も同じだ。もし本気で抗議し、拒否すればおそらくこの役目を逃れることは可能だろう。しかしそれによって話し合いを長引かせることや、何より自分の我がままを通して他の誰かに厄介事を押し付けるくらいなら、黙って一時の恥に耐える方が楽なのだ。それが世の言う“協調性”とか言う奴だ。

「頑張ってね!」

「応援してるぜ!」

 クラスメイト達は口々に無責任な応援を口にする。こうして明るい雰囲気を作り出すことは、それだけ罪悪感やうしろめたさを軽減させるのに役立つ。

「ま、適当にやり過ごそうぜ」

 僕は半分慰め、半分は保身のためにそう言った。

「いいえ」

しかし、小鳥遊は決意を秘めたような目を上げる。

「やるからには、絶対に勝つわ」

 もしかしたら、本当の敵はこの不幸な相棒だったのかもしれない。

「勘弁してくれ……」

 僕は泣きたい気持ちで机に突っ伏した。そのまま固く冷たい机の表面に額を押し付け、重く曇った頭が少しでも軽くなるのを願った。


「だから!もっとリズムを合わせてって言ってるでしょ!」

「やってるだろ!そっちこそリズム乱れてるんじゃないのか?」

「そんな訳ないでしょ!」

 早朝の体育館裏で、いつものように僕らは罵り合っていた。

 二人三脚のペアに指名されてから今日で三日目、僕は毎朝小鳥遊によって練習に駆り出されていた。そもそも僕は練習などというものには断固反対したのだが、彼女の強気な姿勢に結局根負けしてしまった。それに大勢の前で恥をかく可能性を考えると少しくらいは練習しておいた方が無難なのかもしれないと一瞬考えてしまったのだ。それが間違いだった。

 正直言うと少し練習すればすぐに息が合うようになり、練習も終わりにできると思っていた。しかし、現実はそう甘くはなかった。僕らは絶望的に息が合わなかった。結果として毎日毎日、熱心な運動部しかいない時間に朝練に駆り出されているというわけだ。

 しかし、これでも多少は進歩した方なのだ。最初の頃はまず、互いの足首を紐で結んだ状態に耐えることからが戦いだった。お互いの肩に手を回すなどという行為自体が僕らにとっては恐ろしく乗り越えがたい壁だったのだ。今やそれには馴れてしまった。感覚は思った以上に簡単に麻痺するらしい。

 それにしても、二人三脚の技量は全く向上しなかった。ゆっくりと歩く程度なら、僕らでもきちんと合わせて行うことが出来るのだ。しかし、少しテンポを上げて走るとなると途端に僕らの連携はガタガタになり、足が縺れて転んでしまう事になった。このままだと当日はぶっちぎりの最下位をゆっくり歩いてゴールすることになる。僕も流石にそんな情けない姿を晒すのは御免だった。

「げ、もうこんな時間だ」

「あ、本当……」

 時計を見やると、そろそろ教室に向かわないとまずい時間になっていた。朝の時間は無駄に流れるのが早いのだ。ああでもないこうでもないと言い争っているうちに、結構時間がたってしまっていたようだ。僕たちは忌々しい足の拘束を解くと、それぞれ荷物をまとめはじめる。

「分かってると思うけど、明日も――」

「分かってる、分かってるよ。同じ時間に来ればいいんだろ」

 一体いつになったら二人三脚程度の事が出来るようになるのか、考えるだけでうんざりしながら教室へ向かった。

 

今日も収穫はゼロ。失われていく朝の時間。ただただ授業中の眠気だけが倍増していく。今までは居眠りをすることなどそう多くはなかったのだが、最近はその回数が一気に増えている。減っている睡眠時間は一時間にも満たないのに、増える眠気は無限大だ。早起きって割に合わないよね。いつも爆睡している近藤の気持ちが最近よくわかって来た。朝練ってこんなにきつかったんだな。今度何かおごってやろう。

しかし授業中に隣を見ても、小鳥遊が居眠りしているような光景は一度として見たことがなかった。どんな授業でも真剣に教師を見つめ、丁寧な字でノートを綺麗に色分けしていく。朝が早いのは同じはずなのに何故だ……これが習慣の違いと言う奴か。そういう所は心から凄いと思う。僕には真似出来ない。

昼休みが訪れると、僕はすぐに机に突っ伏した。最後の授業のラスト十分は完全に記憶が欠落している。ダメだ、人間は睡魔にあらがってはいけないんだ。勝ち目がない戦いに挑むのは愚か者のすることなんだ。

「おーい翔一―昼飯――」

「うるせぇ!」

「ひぃっ」

 人様の貴重な睡眠時間を、無神経に奪いにやって来た愚か者を厳しく叱責する。しかし、おびえた目で後ずさった近藤が可哀想に見えてきて僕は結局「冗談だよ、飯行こうぜ」と言ってしまうのである。実際空腹だ。

「どうしたんだよ翔一、やけに気が立ってるじゃん」

「寝不足なんだよ」

「寝不足?何でまた」

「それがさ、小鳥遊が――」

「なに!小鳥遊が毎晩寝かせてくれなぐふぉっ」

 僕は迷うことなく近藤の延髄に手刀を振り下ろす。我ながら会心の一撃だった。

「んなわけねぇだろ。朝練だよ。朝練」

「げほっげほっ……朝練?げほっ、朝練って何の?」

 近藤はせき込みながらも必死に問いかける。なんだこいつ凄く良い奴だな。

「二人三脚だよ。みんなに押し付けられたね」

「へ?二人三脚って練習なんているの?」

 近藤はへらへらと笑っていたが、僕の右手が再び手刀を形成するのを見るとキッと顔を引き締め「申し訳ございませんでした」と言った。これが条件付けである。

「いや俺もね、要らないだろって思ってたんだよ。だけどこれがやってみると絶望的にできない」

「そんなにか?あんなもん足をそろえて前に出しゃあそれでどうにでもなると思ってたんだけどなぁ」

「それがそう簡単にもいかねぇんだよ。ゆっくり歩く分には問題ないんだけどさ、走り始めると全然だめだ」

「へぇ、そんなもんなのか。小鳥遊はスポーツ万能だし、お前もお前でセンスがないわけじゃないんだから結構良い結果期待してたんだけどな。どこのクラスもカップル出場優先して女子の方が足を引っ張るってパターン多いじゃん?」

 確かに、男女での二人三脚となると体格差や運動能力の差がネックになることも少なくない。その点、身長もそこそこあって運動神経の良い小鳥遊は男子と組むにはおあつらえ向きの人選であって、僕らが選手に選ばれることに全く異論が出なかった理由でもあった。

「てことは、やっぱり俺の方に問題があるのかもな……」

「いやそう決めてかかるなって。結局二人三脚なんてのはチームプレイよ。どんなに速く走れるコンビだって一人で走るのにくらべりゃあかなり遅い速度でしか走ってねぇんだからさ。強いて言うならばコンビネーション」

「コンビネーションか……」

 むしろそっちの方が頭が痛い問題なのだ。

「え、もしかしてまだ喧嘩してるのか?そういえば最近席近いのにあんまり仲良くしてる印象ないしな」

「いやまぁ、喧嘩っていうわけじゃあないんだけど」

「喧嘩にしろ何にしろ、早めに仲直りしろって。くじ引きで隣になったのだって、多分神様がそう言ってるって事だろ」

「神様、ねぇ……」

 あの桜の樹も神様みたいなものなのだろうか。随分融通の利かない神様もいたものである。

「いや、マジにとるなって。言葉の綾だよ」

 近藤は呆れたように笑う。

「やっぱり何か最近調子悪そうだしよ。何かあったら相談にも乗るし。ま、触れてほしくない事ならあんまり突っ込んだこと聞くのもやめとくけどな」

「ああ、ありがとよ」

 なんだかんだで近藤は非常に良い奴なのだ。

「まぁでもとにかく、俺は睡眠が欲しい。朝練がキツイ。なんだってあんな早朝から二人三脚なんてさ……」

「でもそれを言うとよ、小鳥遊も条件一緒だろ?」

「まぁそうなんだけどさ」

「しかも小鳥遊ってさ、最近生徒会の仕事で夜遅くまで残ってるしな。この前部活帰りに一緒になったんだよ。俺が帰る時間にまだ生徒会室の電気ついてたりする時も、まだ残って仕事してんじゃないかな」

「え、生徒会ってそんなにハードなのかよ」

 予想外だった。生徒会の仕事なんてちょっとした雑務処理とかだと思っていた。小鳥遊がどうして放課後ではなく早朝に練習することを頑として譲らなかったのかがやっと分かった。

「お前彼氏のくせに何も知らないのか?いやー俺も予想外だったけどさ、うちの学校の生徒の自主性がどうとか言う校訓、思った以上に本格的みたいだな。俺らみたいな一般生徒はあんまり実感しないで生きてるけどな」

「そうだったのな」

 生返事をしながらぼんやりと小鳥遊の事を思い出していた。そんなハードな生活をしながら、僕の見ていた限りで課題や予習をおろそかにしている様子はなかった。むしろ人一倍良くやっている。そして授業中に居眠りすることなんて勿論ない。まるで鉄人だ。隣で盛大に居眠りしていた自分が妙にみじめに感じられる。同じ人間だとは思えない。多分、どんなに努力しても彼女には敵わないんだ。そういう漫然とした絶望感が、また彼女への苦手意識を上塗りした。

 僕はいつも以上に大げさに、適当に、近藤の馬鹿話に茶々を入れながら歩いた。馬鹿みたいな日常を送ることがこんなにも素晴らしいことなのだと、世界に対して主張せずにはいられなかった。


「おー、翔一くんじゃないか」

 ようやく終礼から解放されて家路についていた僕は、校門前の坂を下りきったあたりで橘先輩に呼び止められた。振り返ると巨大なリュックサックを背負い、両手に大きな紙袋をぶら下げた先輩が「良いものを見つけた」という顔で立っていた。

「あ、どうも先輩。あー……」

 何ですかそれ?って聞きたい。聞きたいのだけれど、もの凄く聞かない方が良い予感がする。というかこの人も今終礼終わったばっかりのはずだろ。この時間に外から帰って来られるはずがないのだが……

「あはは、これか。これは資料さ」

 僕の視線に気づいた先輩が先手を打って答える。ということはアレ全部本なのか?恐ろしい重さをあの人は顔色一つ変えずに持ち運んでるのか……

「す、凄い量ですね」

「そうなんだよ。それにしてもだ、ここまで来たは良いけどこの先の坂と階段はアタシにも流石にキツくってさ。ちょっと運ぶの手伝ってくれないかな?」

「あ、はぁ」

 とまぁ、こうなることは分かっていたわけで、先輩には恩があるし断ることもできない。というか、目の前で女性がこれだけの荷物を持っていて手伝わないのは流石に気が引けるというものだ。

「じゃあ君はこっち、この紙袋を持ってくれ」

「あれ、一つだけで良いんですか?」

「あー大丈夫大丈夫。残りくらいならアタシ一人で運べるし、リュックの分は楽だからさ」

 そういうと先輩は紙袋を片方だけ置いてスタスタと坂道を登っていく。この人もしかして一人でも全然大丈夫だったんじゃないか?と思いながら、渋々と残された紙袋に手を伸ばす。

「おっも!」

 紙袋は僕の予想していたのよりもはるかに重かった。あの人こんなの一人で運んでたのかよ!化け物か!

「どうした翔一君―置いていくぞー」

 少し先から汗一つかいていない先輩が振り返る。もうあんなところまで登ったのかよ……

「今行きます!」

 僕は男の意地で、紙袋を抱えて先輩の後を追う。ただでさえ強くなってきた日差しに焼かれて汗ばんでいた肌を、噴き出した汗が流れるのを感じた。それでもやせ我慢で先輩についていく僕に、下校中の生徒たちが好奇の目を向ける。やめてくれ。そんな目で見ないでくれ。僕が情けないんじゃなくてあの人が異常なんだ……

 部室等に着くころには僕は全身汗まみれで、前髪から流れた汗が目に入り非常に情けない様相を呈していた。僕の名誉のために弁明しておくと、僕だって重い荷物を持ったからってこうすぐにヘロヘロになったりはしない。先輩の歩くペースが異常なのだ。僕以上の荷物を持っていながらにして何も持っていなくても十分に速いと言えるスピードで歩くものだから、ついていくだけでも必死だったのだ。早く帰ってシャワー浴びたい……

「いやーご苦労様だったね翔一君。すっごく助かったよ」

「それは、良かった、です……」

 相変わらず汗一つかいていない先輩があっけらかんと言う。多分大して助かってないでしょあなた……

 先輩は扇風機を回して僕の方に向けてくれた。これで少しは生き返る。僕は汗を拭きながら空いている椅子に座った。

「ほらっ」

 先輩は冷蔵庫を開けると中から冷えた水のペットボトルを放って寄越した。僕は片手でそれをキャッチする。

「ナイスキャッチ」

「あ、ありがとうございます」

 てか何で冷蔵庫なんかあるんだよ。この部室は本当に謎の空間だった。僕はペットボトルを開けると一気に喉に流し込む。火照った身体の内側を冷たい水が流れ落ちるのを感じる。それだけでも幾分か楽になった気がした。

「で、その後どうなの?」

 先輩はいつもの定位置に収まると、扇風機越しにたずねてきた。

「どう、と言うと?」

「決まってるじゃないか、小鳥遊ちゃんと仲良くなれたかい?」

「決まってませんよ。それに、何で僕が小鳥遊と仲良くならないといけないんですか」

「何でってそりゃあ、恋人なんだからさー」

 恋人……最近はもう彼氏とか彼女とか言われることには慣れてきた気がするが、恋人なんて言葉を使われると流石に激しい違和感と羞恥を覚える。

「表向きだけですよ、そんなの」

 僕はもう一度喉を鳴らして水を飲み下す。

「表向きねぇ……」

 先輩は眩しいものを見るように少し目を細めた。

「前から気になってたんだ、本人の前では聞きにくかったんだけどね。翔一君は小鳥遊ちゃんと本当の意味で付き合いたいとか思わないの?あんなに可愛くて良くできた子はいないよ。きっと君と同じ状況になったら男子の多くは飛び上るほど喜ぶと負うんだけどなぁ」

 確かに先輩の言うことも理解できる。実際小鳥遊は人気があるし、この状況からなし崩し的に付き合うのでなくとも、仲良くなるためにこれ以上のチャンスなんてまずないだろう。

「付き合いたいとかは、全く思わないです」

「他に好きな子でもいるのかい?」

「いいえ、そういうんじゃないですけど……苦手なんですよね、彼女」

「苦手、か……何が苦手なんだい?」

 先輩は尚も問いかけてくる。普段の僕なら多分、のらりくらりとかわしていたのだろう。だけど、この時の僕は暑さと疲労で頭がボーっとしていた。朝練の疲れも影響していたかもしれない。

「彼女は完璧すぎるんです。何でも持ってる。文武両道才色兼備、友達もが多くて人望も厚い。本当は誰もが彼女のようになりたいんだと思います。でも、そうしようとしても決してなれない。やろうと思ってできる事じゃない。彼女が完璧なことは誰でも認めると思うし、僕も認めます。でも、だからこそ僕はあまり近くにいたくはないんです。自分が酷く惨めに思えて」

 ぼんやりした頭でも、そんな事を語る自分が何より惨めだなと感じる。それでも、何故だか言葉が止められなかった。さっきの近藤との会話のせいかもしれない。最近小鳥遊の近くにいすぎたのかもしれない。とにかく僕の中で溜まっていた鬱屈としたものが、出口を求めて燻っていた。

 考えてみれば橘先輩という人間は、それを吐き出すことのできる唯一の相手だったのかもしれない。もっと親しくても、もっと疎遠でも話せない。秘密を共有したという共犯関係でのみ結ばれた僕らの関係は、奇妙な連帯感と適度な距離感の絶妙なバランスの間に成り立っていた。その上、先輩の懐の深さは何でも受け入れてくれそうな安定感を感じさせる。もしかしたら、先輩はそういうことを見越して僕をここに連れてきたのだろうか?などと考えるのは流石に考えすぎか。結構適当な人なのだ。

「なるほどね」

 先輩はゆっくりと、飲み下すように頷いた。僕の言葉をどういう風に受け取ったのか、どう感じたのか、全く感じさせないその表情に僕は微かな不安を覚えた。

「君に良いことを教えてあげようか」

「良いこと、ですか?」

「あぁ、とても良いことだ」

 先輩はニコリと笑う。

「小鳥遊雪乃は、人間だ」

 先輩の笑顔はいつものような悪戯っぽいものではなく、子供に微笑みかけるように優しいものだった。そして今の僕にはそれが、とても居心地が悪かった。

「分かってますよ、そのくらい」

僕は半ば投げ出すように、ほぼ空になったペットボトルを机に置いた。

「いや、君は分かってないよ。分かったつもりかもしれないけどね。いやもしかしたら、頭では本当に分かってるのかも。でもね、少なくとも君の目は、人間としての小鳥遊ちゃんを映してないってことさ」

「人間としての小鳥遊……」

 人間としての小鳥遊って、何だろう。今の僕の目に映っている小鳥遊って、何者なんだ。小鳥遊は出会った時から人間だ。人間だからクラスメイトだし、人間だから苦手なんだ。

「やっぱりわかりませんよ」

「そうかい?それじゃあきいてみよう、君は小鳥遊ちゃんの何を知ってる?」

「何をってそりゃ、凄く真面目で、責任感が強くて、優秀で、人当たりが良くて、妙なところで義理堅くて……」そしてなぜか僕の事を嫌ってて……

「確かに」先輩は僕の声を遮る「それも大事な小鳥遊ちゃんの性質だね」

 それから右手人差し指をぴんと立てて、僕に突きつけた。

「それじゃあ、彼女の好きな食べ物は?」

「えっ」

 そんなことは知るはずもない。

「知りません……」

「じゃあ、好きな俳優」

「知りません……」

「好きな音楽」

「知りません……」

「犬派?猫派?」

「知りません……」

確かに、僕は小鳥遊の趣味嗜好なんて全く知らない。

「でも、そんなことが今関係あるんですか?」

「いや、関係ない」

 先輩はあっけらかんと言う。僕は拍子抜けした。

「だけど問題は彼女の趣味嗜好なんかじゃないんだよ。もし今彼女のそういうプロフィールが詰まった書類を君が渡されて、その全てに目を通したとしてもそれは何にもならない。君の目に映る小鳥遊ちゃんは相変わらずある種のアイコンなんだ。今までよりもちょっとだけ色彩豊かになった、無機質なアイコンさ」

 先輩は、すらりと長い脚を組み替えた。

「つまり今問題なのは、君が未だに何も知らないという事実、それ自体さ。どうして翔一君はそれを知らないんだと思う?」

「興味がないから、ですか?」

「それも一つの答えだね。でも、全部じゃない」

 僕は黙り込む。興味がないから知らない、それは僕にとっては完璧な答えだと思われた。

「君は、知ろうとしていない。いや、もっと言おう。君は小鳥遊ちゃんから逃げてるんだ。君が彼女を知ることで、彼女が人間になることを恐れてる。君がそう願い続ける限り、彼女はいつまでも人間にはなれないさ」

 僕が逃げてる?納得できない言葉だった。確かに僕は小鳥遊が苦手だからあまり関わらないように生きてきた。だけど逃げてきたつもりなんてない。もしも、そりの合わない人間ともべたべた仲良くすることが逃げないっていう事だったら、逃げていない人間なんてごく一部の暑苦しい人種だけじゃないか。僕はそういう生き方をしたくはない。

 だけど、そういう考えはきちんとした形で言葉になってはくれなかった。

「分からないですね……」

「まぁ良いさ。今はただ、今日の話を覚えておいてくれればね。さぁ、そろそろお開きにするか。アタシはこの資料の山を片付けなくっちゃね!」

 先輩は勢いよく椅子から立ち上がると、リュックサックと紙袋の開封に取り掛かった。

 僕も重い腰を上げると、床においていた鞄を肩にかけた。あれだけ流れていた汗もすっかり引いていて、窓の外はうっすらオレンジ色に染まり始めていた。思った以上に長い間話し込んでいたらしい。

「随分と長く引き留めて悪かったね。気を付けて帰りなよ」

「いえ、どうせ暇人ですから。先輩こそ、帰り遅いんでしょうし気を付けて」

 そう言って、僕は部室を後にする。

「青春しなよー」

 後ろ手にドアを閉める僕に、先輩が言葉を投げかけた。どう反応して良いのか分からず、肯定とも否定とも取れる微妙な返事をしながら、僕は扉をガチャンと閉めた。


 数日後、僕と小鳥遊は相変わらず早朝から練習していた。しかし、昨日と変わらず全く成果は上がらないままだった。体育祭の本番はもう三日後に迫っていた。にもかかわらず、僕らの二人三脚は未だにまともな距離を走ることが出来ず、流石に焦りを感じ始めていた。

「今日の放課後、特訓をやりましょう」

 教室へ向かう支度をしながら小鳥遊が呟いた。

「特訓?」

「ええ、特訓よ。朝練じゃ時間が短すぎるわ」

「短すぎるって、一体どれだけ本気なんだよ……」

 僕は流石に呆れてしまう。これだけ毎日朝練に付き合ってきた自分も凄いとは思うが、小鳥遊の情熱は並々ならぬものがあるようだ。というより、もはや病的だ。

「だってあなた、全校生徒の前でのろのろと、みんなに応援されながら何度も転んでは起き上がって走り続けるのなんて耐えられる?きっとゴールするときにはもう一度ゴールテープが張られて、たくさんのクラスメイトがその周りに集まって「頑張れ!頑張れ!」なんて声援を送られながら、拍手喝采の中でゴールすることになるのよ?そんなのに耐えられるの?」

「悪夢だ……」

 実際小鳥遊の想像には極端なところがあるだろうとは思う。しかし、当日の情景を思い浮かべると確かに恐怖心は湧いてくる。何せ、当日は生徒だけではなく保護者の目さえ存在するのだ。下手に目立つようなことは地獄の苦しみを生みかねない。

「だから、やっぱり特訓が必要なの」

「とは言ってもよ、これだけ練習して全然上達しないんだ。これ以上練習時間を取ったからってそう簡単にどうにかなるとは思えないけどな……」

 正直言ってこれ以上擦り傷ばかりを増やしていくのはそう賢い選択だとは思えない。

「いいえ、朝練って言ってもそう長い時間は確保できてないでしょう?これだと毎日、少し上達しても翌日には抜けて……の繰り返しだと思うの。でも、長時間まとめて練習すればもっと何か見えてくるものがあるはずよ」

「そんな根性論みたいな……」

「じゃあ何、他に練習法なんてあるの?」

「うーん……」

 そもそも二人三脚の効率的な練習法なんて存在しているのだろうか?

「じゃあ決まりよ。つべこべ言ってないで、やるしかないんだから」

「仕方ねぇな……」

 僕も渋々了承する。

「それじゃあ、六時にまたここに集合ね」

「ちょっと待て、六時だと?」

「ええ、申し訳ないけど、流石にそれより早くはちょっと厳しいわ」

「ああ、そうか生徒会か」

 よくよく考えたら僕より小鳥遊の方がよっぽど忙しいのだ。むしろそうして長時間の練習を時間を捻出する負担は比べ物にならないはずだ。そう考えると、今までごねていた自分が恥ずかしくなった。

「しょうがないな、俺は一旦帰ってからまた来るかなぁ」

 家までの往復時間を考慮しても、だらだら学校に残っているよりその方が有意義に感じた。

「じゃあ決まりね」

 そう言うと、小鳥遊は教室に向けて歩き出す。

「あのさぁ」

「何?」

 歩き出したところを呼び止められた小鳥遊は上半身だけをくるりとこちらに向けた。

「あんまり無理すんなよ?」

 僕の脳裏には、昨日の近藤や橘先輩との会話がぐるぐると回っていた。小鳥遊も人間なら、疲れもするだろう。

 小鳥遊は一瞬キョトンとしたが、すぐにいつものように表情を引き締める。

「何よいきなり。多少無理してでも、特訓は中止にしないからねっ」

「いや別にそういう意味じゃ……」

 特訓を逃れようとしたと勘違いされたのかと思い訂正しようと思ったが、小鳥遊の頬に微妙に朱がさしているように見えて、言葉が途切れた。

 小鳥遊はぷいとそっぽを向くとさっきよりも少し早足で教室へと向かっていった。もしかしてあれ、照れていたのだろうか?照れ隠し?意外と可愛いところあるじゃないか。

 僕は小鳥遊に一矢報いたような気がして、何故だか妙に気分がよかった。自分でも、この程度のことで上機嫌になるというのは、何だか妙な気分だった。


『ごめん、少し遅くなりそう集合時間二十分くらい遅らせてもらえる?』

 ベッドから起き上がり、読んでいたマンガを本棚に戻したところで小鳥遊からメールが来た。それならば家を出る時間も少し遅くなるな、などと考えながらベッドに戻りつつ『了解』とだけ書いた短いメールを返信した。それから短い時間マンガに戻ろうかと思ったが、微妙な時間しかないというのが妙に居心地が悪く、必要もないのに部屋をあちこちいじくりまわしたりした。

 それでも手持無沙汰だったのもあり、僕は少し早目に家を出て、ゆっくりと学校に向かった。まだ辺りが暗くなるほどではないが、最近落ちるのが遅くなってきた太陽も流石に傾いてきていた。下校中であろう学生の姿や、家路についているであろう人々の姿が目に付くその中で、一人学校に向かっているというのもまた妙な気分だった。

 いつもの体育館裏に着いたのは約束の時間の三分ほど前だった。僕はコンクリートの段差に腰掛けて小鳥遊を待つことにした。もともとこの場所は日陰になっておりこの時期でも比較的涼しいのだが、この時間になると気温も下がってきて更に過ごしやすくなってくる。風が吹き抜けると周囲の木の葉がさらさらと鳴り、グラウンドから聞こえる運動部の声が少し遠くに感じられる。毎日通っている学校にいるにもかかわらず、どこか全く違う場所に来てしまったかのような不思議な感覚に襲われた。

 しばらく待つと小鳥遊がやって来た。約束の時間より数分遅かった。小鳥遊らしくないな、と思う。約束の時間を遅らせたのもだし、何より彼女は約束事を過剰なくらい生真面目に守るタイプだ。朝練に遅れたことも一度もないどころか、いつも僕より必ず早く来ていたのだ。生徒会がよっぽど忙しかったのだろうか。まぁ、数分の遅刻など僕はまったく気にしないたちなので良いのだけれど。

「ごめん!遅くなって……」

 生徒会室から急いで飛んできたのだろう。彼女の肩は激しく上下していた。

「忙しいんだろうし、気にすんな」

「思うように仕事が片付かなくて……」

 小鳥遊はふらふらと僕から少し離れたところに腰を下ろす。こんなに息が上がっている状態でいきなり練習など無理だろう。僕はそのまま小鳥遊が落ち着くのを待った。

「大丈夫かよ」

「ごめんなさい、大丈夫。ちょっと急いできたものだから……」

 彼女は額ににじんだ汗をぬぐうと、顔の火照りを取ろうとするかのように両手を頬に当てながら背を丸めて深呼吸を繰り返した。

「さ、練習を始めましょ。遅くなっちゃったし急がないと」

 息が整ったのか、彼女は勢いをつけて立ち上がる。鞄から足を縛る紐を取り出し、僕の方に歩いてくるのだが、どうも足取りが覚束ない。

「おい、大丈夫なのか?」

「もう大丈夫だって……あっ」

 危うかった彼女の足がもつれ、前のめりに倒れかける。危うさを予期していた僕は、咄嗟に肩を支えることが出来た。今度は前のようにしくじらなかったことに少しホッとする。

「全然大丈夫じゃないじゃないか」

「ちょっとつまずいちゃっただけだから!」

 彼女はあわてて体勢を立て直すが、やはりどうにも危なっかしい。初めは走って来たからかとも思っていたが、どう見ても顔も赤い。呼吸だって全然整っていなかった。

 僕は小鳥遊の額に手を伸ばす。不意を突かれた小鳥遊はかわすことがかなわず、僕のてのひらが小鳥遊の額に触れた。

「お前、熱あるじゃんか」

「そんな事ないっ」

 小鳥遊は慌てて僕の手を払いのける。

「これは、今……走って来たから……」

 反論するも、息も絶え絶えだった。小鳥遊は必死で誤魔化そうとしていたが、どう見ても今の小鳥遊の体調がすぐれないのは明らかだった。

「今日の練習は中止だ」

「ダメよ!」

「ダメじゃない」

「でも!」

「いい加減にしろ!」

 つい声が大きくなる。小鳥遊はびくっと首をすくめた。思ったより大声が出てしまったのも事実だが、小鳥遊のおびえたような様子が予想外で、僕は少したじろいだ。

「ご、ごめん……」

 僕は慌てて謝る。小鳥遊はよろよろと、鞄の隣に腰を下ろした。膝を抱えるように腕を回し、そこに顔をうずめてしまう。そうして身体を丸めた小鳥遊は、いつもより一回り小さい存在に見えた。僕は鞄を挟んで反対側に腰を下ろした。

「無理するなって、言っただろ?」

「……」

「具合悪いのに、生徒会の仕事してきたんだろ?」

「……」

「もしかして、泣いてんのか?」

「泣いてない!」

 頑丈な砦の中から、くぐもった声が飛んでくる。

「そっか」

 僕はちょっと笑ってしまう。こんなに幼い小鳥遊は初めて見た。笑っているのを見咎めればきっと小鳥遊は怒っていただろうから、腕に顔を埋めてくれていて助かったな、と思う。

「どっちにしろさ、そんな様子じゃ練習も無理だろうしさ、練習したって身にならないさ」

「でも、練習しないと……」

「身体を休める方が先だ。無理しても後に響くだけだよ」

 小鳥遊自身も、僕の言うのが正論だと分かっているのだろう。強くは否定できていなかった。ただ、彼女の責任感が、プライドが、練習の中止を容認できないのだ。問題を抱えたまま休息をとることを。

「俺考えたんだよね、上手く走る方法」

「えっ」

 小鳥遊が顔を上げる。少し目が赤い。やっぱ泣いてたろお前。

「当日ってさ、音楽流れてるだろ?あれに合わせて走ればいいんだよ」

「音楽に……?」

「問題はテンポが合わない事だけなんだ。お互いがお互いのテンポに合わせられない。どっちもが相手に合わせようとしてるうちにお互いが噛み合わなくなって、ずれてぐちゃぐちゃになる」

 そう、僕らは相手に合わせる気がなかった訳ではなかった。お互いが合わせようとしていたのだ。だけど、最初からずれていたリズムを一つに束ねようとするやり方が、どうしても噛み合っていなかった。歩み寄ってはぶつかり、距離を取っては離れすぎるを繰り返すようなちぐはぐなやり取りが、無意識のうちに行われていた。

「だからさ、もうどっちにも合わせないんだ。どっちかに合わせるんじゃない、外で流れる音楽に二人ともが合わせれば、自然と上手く行くはずじゃない?」

 小鳥遊はしばらく驚いたように僕の顔を見ていたが、ぷいと顔をそむけると「そうかも……」とつぶやいた。

「試してみても、良いかもね」

「ただし、次の練習の時にな。今日はとにかく解散だ」

 小鳥遊はようやく、そうするしかないことを認めたようであった。

「でももし」小鳥遊は不安そうに顔を上げる「それでもダメだったら?」

「その時はその時だよ。諦めてみんなの前で恥をかこうじゃん。それだって、過ぎ去ったらいい思い出だ。俺らは十分努力したんだ、それで良い」

 小鳥遊は尚も不満そうではあったが、もう何も反論しなかった。


 僕はすっかり日も落ちた帰り道を、小鳥遊の鞄をぶら下げて歩いていた。車で迎えに来てもらうように言ったのだが、今日は彼女のお父さんが仕事から帰るのが遅く、車はないらしいのだ。そのまま帰らせるのも忍びないので、家まで送っていくことにした。送っていくと言ってもなかなか聞かないので、説き伏せるのに苦労した。

 小鳥遊の足取りは隣から見ていてもふらふらとして危うかった。よくここまでふらふらで練習すると言い張ったものだ。その根性は本当に並ではないと思う。

しばらく僕らは無言で歩いた。歩くだけで精いっぱいの小鳥遊に、会話まで強要するのは酷に思えたのだ。それに、僕らは今更会話がないから気まずいというような関係性でもなかった。それは会話などなくても心地よい時を共有できる、などというポジティブな性質のものとは全く違う性質のものだったが、相手に気を使わせないように腹を探り合うような緊迫感は僕らの間には存在していなかった。

 僕に鞄を強奪された小鳥遊は、手持無沙汰になった両手を意味もなく揺らしたり、右手で左手を握ったり、腕を握ったり、そしてまたそれを解いたりしてみていた。そんな様子を何となく眺めていると、ゆらゆらと揺れていた小鳥遊が地面の凹凸を拾ったのか、ぐらりと体勢を崩した。

「あっ」

 短く声を漏らした小鳥遊の肩を僕はまた咄嗟に支える。ほとんど体重がかからなかったところを見ると、おそらく僕の助けなどなくても倒れるようなことはなかったのだろうが、この調子だといつ転んでもおかしくない。

「小鳥遊、家まであとどのくらいだ?」

「もう少しかかる……」

 もう少しがどれくらいかは分からなかったが、このまま歩かせるのは気が引けた。

「わかった、ほら」

 僕は小鳥遊の前にしゃがんで、手を後ろに差し出した。背負ってやるのジェスチャーだ。

「なっ、嫌よ!」

 小鳥遊は慌てたように拒否する。

「良いから」

「自分で歩けるわ!」

「歩けてないだろ。見てるこっちがハラハラするんだからさ」

 実際ふらふらと歩く小鳥遊は、見ているだけで疲れるのだ。それだったらもう、いっそのこと家まで背負って行ってやった方が楽だというものだ。何より、目の前で転んで怪我でもされたら困る。

しかし、小鳥遊は一向に言うことをきこうとしなかった。むしろこの体勢で放置され続ける方が辛いのだけれど……

「じゃあわかった。これは俺からのお願いだ。俺のわがまま。頼むから背負わせてくれ」

「うう、何よそれ……わかったわよ、勝手にしてちょうだい……」

 小鳥遊はようやく諦めると「変なところ触らないでよね」と言いながら僕におぶさって来た。背中全体に小鳥遊の高過ぎる体温が広がる。首筋をくすぐる彼女の長い黒髪や肩から回された華奢な両腕から女の子特有の良い香りを感じ、不覚にもドキリとしてしまった。特に意識などしていなかったが、思った以上の柔らかい膨らみを背中に感じて顔が赤くなるのを感じる。密着している背中からは小鳥遊の少し早足の鼓動が伝わってきて、自分の鼓動も同じように伝わってしまっているのではないかと思うと余計に鼓動は早まった。僕は誤魔化すように「じゃあ、行くぞ」とぶっきらぼうに言うと、足早に歩き始めた。

「思ったより軽いんだな」

「前、重いって言った」

「覚えてたのかよ」

 実際小鳥遊は軽かった。例の事故の時は急にのしかかられる形だったから重いと感じたが、こうして背負ってみると彼女が身長の割に華奢な身体をしていることがよくわかる。熱を出して弱々しい姿と相まって背中の彼女を脆く儚い存在のように感じ、言いようのない不安のようなものを感じた。

「ねぇ、どうしてここまでしてくれるわけ?」

 僕の肩に額を乗せるようにして、彼女は弱々しく訊いてきた。

「お前が無理するからだろ」

「そういう事じゃない」

 彼女の声に、少し怒ったような調子が混じる。

「あんな状態で放っておける訳ないだろ。第一、それでお前に何かあったら後味も悪いだろうが」

「じゃあ、誰にでも同じことするわけ?赤の他人でも?」

「赤の他人には流石にしねぇよ。少なくとも今の俺らは、赤の他人ではないだろ」

「じゃあ……私たちって、友達?」

「……よくわからん」

 友達、というのは正しいのだろうか。そもそも僕は、彼女の事が苦手だった。彼女だって僕のことを嫌っていたはずなのだ。呪いにかかるより前は僕らの間には明確な距離があって、僕らは多分意図的にそれを作り出していた。そういう距離に隔てられた二人は少なくとも友達ではなかったし、知り合いというよりも赤の他人に近かったのかもしれない。でも、呪いにかかってからの僕らは世間的には恋人関係にあり、呪いを解くための協力関係にもある。そして、二人三脚のペアに選出されてからは毎日一緒に練習をしてきた。僕は、僕らの奇妙な関係を何と呼べばよいのか全く分からなかった。

「もしもさ」小鳥遊がまた背中で、弱々しい声で話し出す「きちんと呪いが解けて、みんなの記憶も元に戻って、協力関係も終って、そしたら……それでも今と同じことするの?」

 僕は黙って、交互に地面を捉える両足を見つめていた。そのリズムに合わせて背中で揺れる小鳥遊の、必要以上に熱を持った吐息が規則的に首筋を撫でた。彼女は黙って、僕の返事を待っていた。

「そんなことは、その時にでもなってみないとわからん」

「……」

「そもそも、前みたいな関係に戻ったら、俺とお前の間で今日みたいな状況は起こらないだろ?だから世界ではそう言う難しい問題は生まれないようになっているんだ。多分そうやって物事は上手く回ってるんだよ」

 僕は適当に誤魔化して、彼女の質問から逃げた。今のような難しい状況に真正面から向き合いたくはないのだ。僕らのこの奇妙な関係もどうせあと半月と待たずに終わりを迎える。僕らはただその間、なるべく深く考えず、立ち止まらず、穏便にやり過ごせば良いのだ。そうすればまた平和な日々が戻って来て、奇妙な一か月はなかったことと同じに出来る。解けることのない、そして解く必要もない難問に進んで挑みかける必要などどこにもないのだ。

 僕は彼女が、僕がただ逃げていることを指摘することを覚悟していたが、彼女はそれきり黙ってしまい僕が糾弾を受けることはなかった。もしかしたら呆れられたのかもしれないし、怒らせたのかもしれない。ただ、背中で彼女がどういう顔をしていたのか、僕には確かめる術は一つもなかった。


「そこ、左に曲がったらすぐにうちだから」

 小鳥遊の指示に従い左に曲がり、少し歩くと小鳥遊という表札のついた家が見つかった。小鳥遊の家は綺麗な庭を備えた洋風のオシャレな一戸建てで、豪邸というほどではないがかなり立派な家だった。

「お前、良い家に住んでんだな」

 そう言えば、小鳥遊を迎えに来た車も外車だったなとぼんやりと思い出す。確かに小鳥遊はいかにも育ちが良さそうだし、良い家のお嬢さんだと言うことに今更違和感はなかった。

「ここで良い」

 小鳥遊は門の前で僕の背中から降りると、乱れた制服の裾を恥ずかしげにちょこちょこと伸ばし、僕から鞄を受け取った。

「じゃあ、早く良くなれよ」

「うん……」

 妙に気恥ずかしかった僕らはうつむきがちに短い会話を交わす。街灯の薄暗い光の中で互いの表情が良く見えないのが今の僕らにはありがたかった。彼女はくるりと踵を返すと玄関へと逃げるように駆けて行った。彼女が玄関ポーチに足をかけるのを見て、僕も踵を返してもと来た道を引き返し始めた。

「あの……」

 歩き始めた僕を後ろから呼び止める、聞き漏らしそうな小さな声に振り返る。玄関脇に設置されたオレンジ色の淡いライトに照らされ、扉を半開きにした小鳥遊が上半身だけをこちらに向けている姿が見えた。そのライトの光で、先ほどまでと違って彼女の表情はあらわになっていた。

「……ありがとう」

 短くやっと絞り出したかのようにそう言うと、彼女は滑り込ませるようにドアの内側へと姿を消した。彼女の頬は発熱と羞恥で真っ赤に染まっていたように見えた。僕は少しの間そのまま彼女の消えたドアを見つめていたが、再び来た道に向き直り帰り道を歩き始めた。

 時刻は既にかなり遅くなっており、空はすっかり星空に覆われていた。僕は歩きながら、やたらとしおらしい小鳥遊を思い出してはなんだかおかしくて少し笑った。

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