プロローグ ―ある日桜に呪われて―
元々一般文芸向けに温めていたネタを、ライトノベル調に寄せて再構成した作品です。
内容としてはライトノベルにはなりきれず、少し重めかもしれないです。
僕は、小鳥遊雪乃に嫌われている。才色兼備文武両道、いつもクラスの中心にいる彼女は誰とも分け隔てなく接するとても良くできた人間だ。僕以外の誰とでも、というのが正確な表現になるのだが。特に何かした覚えはない。全くもって納得はいかないのも事実だが、嫌われたものは仕方ない。人生ってそういうことたまにあるからね。
昼休み直前の授業の最後の十分、世界で一番長いこの時間を僕はたいてい窓の外を眺めてやり過ごしていた。つい先日の席替えで窓側の席になったのだ。夏の日差しが強くなってきたこの時期には、やれカーテンを閉めろだとかやれ窓を開けろだとかこき使われることも多いが、暇な時間に外を眺められるこの席は案外気に入っている。どこかのクラスが体育などをやっていると意外に退屈しなかったりする。スポーツ観戦が好きな方ではないが、体育教師の目を盗んでサボっている生徒や派手な珍プレーが生まれる瞬間を見る事もあるし、汗を流してスポーツに勤しむ女の子を眺めるのも悪くない。
この時間はどのクラスも体育をやっていないようで、校庭は閑散としていた。僕ら二年生の教室は三階に位置しているので、外の景色を多少遠くまで見渡すことが出来る。校門を出て坂を下った先の小さな公園で、この町の名物でもあるシダレザクラが揺れるのが見えていた。もっともこの時期にはもう花も散っているのだけど、樹齢数百年ともいわれる巨大なシダレザクラが鷹揚と揺れる姿は風情がある。この桜は毎年春になると満開になり、小さな公園も花見客で賑わうことになる。
あの桜の樹がこの町の名物であるのにはもう一つ理由がある。あの桜の樹には「満月の夜、桜の樹の下でキスをした男女は永遠に結ばれる」という何ともロマンチックな言い伝えがあるのだ。地元の人間ですら忘れ去っていたような古びた言い伝えだったのだが、数年前にどこかの情報誌が特集を組んだとかで一時期カップルの観光客が増えたりした。最近ではそれも大分落ち着いたみたいだが、桜の樹をテコにした町おこしらしきものの残骸は今でもちらほら見かける。何だよ桜の樹煎餅って。売れたのかそれ。言い伝えとか言うものに全く興味が持てない僕からすると、地元にある慣れ親しんだ公園がいつの間にかそういう場所になってしまっていたことは何とも言えない感覚だった。
そもそも、言い伝えってものにはある程度の合理的な成立経緯があると思っている。夜に口笛を吹くと蛇が来るなんて言うのは「迷惑だからやめろ」という戒めが発端だろうし、四葉のクローバーを見つけると幸運になるなんてのは、四葉のクローバーが珍しいという事実と、幸福は連続するのだという考え方に従うと順当に導かれる。それに、わざわざそんなものを探している人はいかにも幸せそうだし納得だ。桜の木の言い伝えだって、わざわざ満月の夜に桜の木の下でキスしちゃうようなバカップルなんてそうそう別れないみたいなそんな話だろうと思っている。末永くお幸せに。
そうこうしているうちにチャイムが鳴った。幸運にも延長なしで授業は終わり、解放された生徒たちは待ち構えていたかのように席を立ち始める。僕も空腹だ。今日は購買でパンでも買おうと思っていた。
「うぉーい翔一―購買行こうぜー」
僕が顔を上げると、明らかに寝起きの近藤が寝癖でいつもの二割増しになった天パ頭をボリボリ掻つつ近づいてきていた。
「今行こうとしてたところだよ」
そう答えると、僕らは二人連れだって購買に向かった。腐れ縁の僕らはなんだかんだでこうやって一緒に過ごすことも多い。気の知れた友人というのは気楽で良い。
教室を出たところで反対側から華やかな女子グループが近づいてくる気配を察し、さりげなく廊下の反対側を通り抜ける。すれちがいざまに小鳥遊雪乃がちらりとこちらを見た気がした。あからさまに避けすぎたかな?などとも思うが、今はそれより購買だ。購買のパンはあまり出遅れると酷い売れ残りにしかありつけないこともある。人気の惣菜パン争奪戦に参加する気はないが、流石にイチゴチーズカレー蒸しパンは二度と食べたくない。
「いやーやっぱ良いよな、小鳥遊さんたちのグループ」
案の定近藤が食いつく。だからその話は良いんだって。問題はパンなんだって。
「俺はちょっと苦手だけど」
「それが分かんねぇんだよなぁ。みんな可愛いじゃん。そりゃ小鳥遊さんがずば抜けてるんだけどさ、こう周りも華やかだしさ」
「その小鳥遊から嫌われてるみたいなんだよね、俺」
「え、何だよそれ。あの性格の良い小鳥遊にか?」
「俺にはそうは思えないんだけどなぁ。八方美人というか……」
「いやいや、あの人柄の良さはそんなんじゃないぜ。お前何かしたのか?」
「いやそれは俺が聞きたいくらいだよ」
「絶対お前が何かやったんだって。あの小鳥遊を怒らせるって相当だぞ?」
少しむっとする。何だよ僕よりあっちの肩を持ったりしてさ。そんなに聖人君子みたいな人間なのかあいつは。だったらどうして何の罪もない人間を一方的に嫌ったりするんだ。
「あ、分かったわ。お前去年宮坂のこと振っただろ?あいつ小鳥遊と特に仲良いからさ、ある事ないこと吹き込まれたんじゃねぇの?」
「何だよそれ」
確かに僕は一年のころにクラスメイトの宮坂芳子に告白されて、それを振ったことがある。でもそんなことで直接知りもしない僕のことを嫌うっていうのなら、それこそ小鳥遊は聖人君子でも何でもないじゃないか。
「いやあるよそういうこと。女子ってやたらと連帯感ってか、仲間意識みたいなの強いじゃん?女の子泣かせたら友達が出てきてビンタされたなんて話、よく聞くじゃんか」
「実際にされた奴に会ったことはないけどな。あれってホントにある事なのか?」
「さあな。それにしても、何で振ったりしたのよ?宮坂結構人気あるんだぜ。他に好きな人でもいたのか?それともやっぱり美穂ちゃんと……」
「あいつはそんなんじゃないって。知ってんだろ」 一之瀬美穂は僕の幼なじみだ。小さい頃から家族ぐるみの付き合いをしているが、幼なじみってのは良くも悪くもい関係性が変わることはない。
「そうか……じゃあまさかお前ホモ……」
近藤がわざとらしく距離をとる。ケツを守るなケツを。
「やめろって気持ち悪い。俺だってちゃんと女が好きだよ」
「とてもそうは見えないけどなぁ。うわっ、今日も混んでんな」
購買はいつものごとく大盛況だった。最前線では人気のパンを求める戦士たちによる阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられている。彼らのバイタリティには頭が下がるが、僕は普通のパンで空腹を満たせればそれで満足だ。イチゴチーズカレー蒸しパンでなければ何でもいい。二度と入荷するな。
二人とも何とか昼食を確保し、いつもと変わらないくだらない会話をしながらくだらない昼休みを過ごした。僕が嫌がっていることを察してか、近藤はもう先ほどの話を蒸し返すことはなかった。こういう距離感の取り方を心得てくれているのはとても助かる。中庭のベンチでパンをかじりながら厳しい教師の愚痴だとか、くだらないゴシップ話に花を咲かせる。こういう日常が続くことを、人は平和と呼ぶのである。
「あ、終わった」
そろそろ明日の宿題をやらなきゃなという時間になって初めて鞄を開いた僕は、必要な教科書を教室に忘れたことにやっと気づいた。もう十時を回ったところ、今から取りに行くのは死ぬほど面倒だが「よーし、宿題は明日の朝やるぞ!」と思って寝た翌日にきちんと起きられたことはない。一度もない。人間、出来ないことはやるものではないのだ。やっていかないと面倒な教師の課題だ、帰宅後すぐにやらなかった自分を呪いながら渋々と玄関に向かう。
「教室の鍵開いてるかな……」
まぁ、開いていなければ廊下側の上の窓を開けて侵入するという裏技もあるが、極力使いたくはない裏技である。危ないしね。
この時期になっても夜はまだ幾分か涼しかった。空を見上げてみても、分厚い雲にさえぎられて全く星が見えていなかった。昼間は快晴だったのだけど。雨でも降らなきゃいいけどなと思いながら僕は早足で学校へ向かった。
「うっわ最悪だ……」
今日に限って教室は見事に施錠されていた。「傘を忘れた日に限って雨が降る」って誰かが言ってた。うちの学校は管理がずさんらしく、割と高い確率で教室が施錠されていないことがあるのだ。恐らく、警備員が回ってきたときにまだ教室に残っている生徒がいた時などに後回しにしてそのまま忘れているようなことが多いのだろうと思う。それに助けられたこともしばしばあるのだが、セキュリティー面大丈夫かよって思っている。
渋々廊下の端から放置されている机を持ってくる。もともと鍵のついていない上の窓を開け、よじ登って教室に侵入する。しかしこれが意外に大変だ。窓は高いところにある上に人が一人やっと通れるくらいの大きさしかない。しかも、窓の下には生徒の机が並んでいるので着地も慎重にしなければならない。一歩間違えば普通に怪我するような大技なのだ。だが、この時間にわざわざ家を出てきたのだ、手ぶらで帰るわけにはいかないという意地が僕を突き動かした。
多少手間取ったが、何とか無事に着地を決める。教科書は思った通り机の中にあった。終礼の時間に少しでも進めようと思って残しておいたのだ。もちろん一度も開かなかったのだが。
教室を出るときには普通にドアの鍵を開けて出る。外から閉められないが、たまに開いているのだから別にかまわないだろう。何だかんだで結構時間を取ってしまった。早く帰って宿題済まして寝ようと思いつつ昇降口に向かう。
「おいマジかよ……」
ツイてない日はとことんツイてないもので、外に出るとパラパラと雨が降っていた。そう酷い雨ではなかったが、何より手ぶらで来たので教科書がむき出しだ。とりあえず濡れないように背を丸めて教科書を守りつつ小走りで家路を急いだ。
しかし、現実は無情なもので一気に雨脚が強まった。急いで校庭を抜ける。坂道を駆け下りる。これはもうダメだ、教科書がダメだ。誰かに傘持ってきてもらうか。ダメだ、ケータイも持ってきてない。終わった。とりあえず走るしかない。
公園をショートカットしようとしたところで、大きな桜の木が目に入った。とりあえずここで雨宿りしよう。急いで桜の木の下に駆け込む。完全には雨は防げないが、このまま家まで走るよりはかなりましだろう。少し待てば雨も弱まるかもしれない。ここまでの間にもTシャツ一枚の僕はかなり濡れてしまっていて、教科書も結構湿っている。こりゃフチからしわしわになっていくパターンだ。最悪だな。
「何であなたがここにいるわけ?」
こっちのセリフだった。桜の木の下には先客がいた。まだ家に帰っていなかったのか制服姿のままの小鳥遊雪乃が街灯の薄明かりの中、切れ長の鋭い目でこちらを睨んでいた。長く伸ばしたストレートの黒髪が結構濡れているところを見ると、どうやら僕と同じでにわか雨に遭ってここに逃げ込んだのだろう。華奢な肩が微かに上下していて、つい今しがた走ってきたということがうかがえた。
「小鳥遊こそ、何してんだよ」
「私は生徒会の帰りよ。体育祭前で色々忙しいの」
あなたと違ってね。と言われた気がしたが、流石に僕の自意識が過剰なのだろうか。
彼女がちらりと教科書を見る。
「教室に忍び込んだの?」
「いや、まぁ」
「それ、バレたら大問題になるって分かってる?」
「分かってるよそれくらい。どうせバレないだろ」
「どうだか……」
沈黙が流れる。本当に最悪だ。どうしてこんなに悪いことは続くのか。不運は群れを成してやってくる。しかもこれから何とか家に帰り着いたとして、それから宿題をやらなければならないのだ。湿ってしわくちゃの教科書を使って。これで疲れて寝たりしたら、それこそ雨に打たれたことさえ無駄になる。無駄にするわけにはいかない。考えただけでどっと疲れを感じる。その上に、よりにもよって何故か僕を嫌っているクラスメイトと一緒に雨宿りなんて、本当にうんざりする。
考えているうちにやけに腹が立ってきた。どうして僕がこんな目に遭わないといけないのか。それは完全に自分の怠惰のせいなのだが、重なりすぎた不運の理不尽さには無性に腹が立ってしまう。そのせいで、普段なら絶対に言わないことを言ってしまった。
「あのさ、どうして俺のこと嫌ってんの?」
「……別に」
彼女は不機嫌そうに顔をそむける。伏せた目の長い睫が微かに震える。彼女の表情は僕に腹を立てているというより、むしろ僕から逃げたがっているかのように感じた。
「別にってことはないだろ。他の奴らにはあんなに愛想良いんだからさ」
「……」
「俺、何かした?」
「……」
小鳥遊は何も答えようとしなかった。
「あのさぁ、宮坂から何を吹き込まれたのか知らないけど、直接知りもしない――」
「そんなんじゃ――あっ」
彼女の言葉は途中から悲鳴に変わっていた。唐突にこちらに向き直った彼女の左足が、地面に半ば埋もれた岩の表面をとらえていた。雨風で表面を削られた岩は、彼女の濡れた靴底を容易に跳ね返す。途端、支えを失った彼女の重心は大きく傾き、もつれた足を置き去りに濡れた地面に倒れこむ。
「危ないっ」
口に出していたかはわからない。咄嗟に身体が動いて彼女の体重を受け止める。いや、受け止めようとした。
「うおっ」
何度も言うが不幸というものは群れを成してやってくるもので、今度は僕の踏み出した左足がぬかるみを捉えた。泥のしぶきをあげて左足が滑る。世界が回る。脇に抱えた教科書が宙を舞い、開いたページから水溜りにダイブする。彼女を支えるつもりで突き出した両腕は軌道が乱れて彼女の脇を素通りする。彼女の目が大きく見開かれているのが見える。恐らく僕も同じ目をしている。彼女の顔がグイと近づく。ぶつかる。唇に柔らかい感触。瞬間、夜空に稲妻が走る。パッと明るくなった空を背景に、不気味に広がったシダレザクラの枝がざわざわと揺れる。次の瞬間、歯がガチリと鳴る。痛い。身体同士がぶつかる。女の子の身体って柔らかいな等と考えていると、背中が固い地面を捉える。勢い余った頭はワンテンポ遅れて地面に激突し、とどめの衝撃が後頭部を襲う。幸い水溜りには倒れなかったらしいが、雨で抜かるんだ地面を背中に感じる。最悪だ。髪の毛とか絶対ジャリジャリになってる。あと重い。小鳥遊意外と重い。女の子は羽のように軽いというのは幻想で、小鳥遊のようにある程度の身長があるとやっぱりそれなりに重いのだ。言わないけど。
しかし、動揺しているのか小鳥遊はなかなかどいてはくれなかった。僕の身体の後ろ半分が、二人分の体重を受けてどんどんぬかるんだ地面に馴染んでいく。
「あの……重いんだけど……」
思わず言ってしまった。
「ご、ごめんっ!」
やっと我に返ったのか、小鳥遊が慌てて立ち上がる。不幸中の幸いというか、きれいに僕が下敷きになったおかげで彼女の制服は思いの外汚れていなかった。流石にローファーには泥が跳ねていたみたいだけれど、暗い中で見るとそれ以外に目立った汚れはない。
ようやく解放された僕もゆっくりと立ち上がる。見事な転び方をしたのか、全身がくまなく痛い。それから背中を中心に泥だらけで気持ち悪い。教科書を拾いに行ったが、完全にご臨終だった。これで、今夜の僕の奮闘は全てが無駄になった。流石にこの教科書で宿題をやろうとは思わない。というか文字読めるのかこれ?教科書って普通の本屋で買いなおせるのかな……
咄嗟に身体が動いてしまったものの、どうして苦手な、僕のことを嫌っているクラスメイトのためにこんな目に遭っているのだろうかと考えると何ともやるせない。まぁ僕の運動神経がもっと良ければらこんなことにはならなかったのだろうけど。
「あの……ごめんなさい……あと、ありがと」
彼女が俯き、顔を背けながら言う。まぁこうしてお礼を言われれば、それこそ悪い気はしないわけで、僕も
「いやこっちこそ、ごめん」
とか言ってしまうものだ。僕がもう少しスマートに助けていれば、いやそもそもあんな意地悪なことを言わなければ、あんな事故は起こらなかったのだから。
「あのさ……ノーカン、だよね?」
「あぁ、ノーカンだろ」
気まずい。最高に気まずい。今の僕ら以上に気まずい関係ってのもなかなかないだろう。あそこで彼女を華麗に助けてでもいれば少しは関係性が改善できたかもしれないのに……
それからはひたすら沈黙だった。強く打ったり、擦りむいたところはないだろうか?僕は念入りに、身体中をチェックする。強く打った後頭部が一定のリズムでズキズキと痛んだが、大きなけがはしていないようだった。彼女は何をしているか見えないが、おそらく似たようなものではないだろうか。何かをしている人にならないことには、この空気は耐えられなかった。
僕は身体も教科書もボロボロで今更雨宿りなど必要もなかったが、今すぐここを立ち去るのは逃げ出しているようで嫌だった。かと言って「教科書が濡れるのが嫌で雨宿りしてたけど、もう教科書も服も濡れちゃったから雨にぬれるとか今更だしこのまま雨に濡れて帰るわ」等と長ったらしい説明をするのも、言い訳じみてて嫌だった。そういうことが無性に気になってしまうくらい、場の空気が非常に気まずかった。
そうしてどれくらいの時間が経ったのか分からない、三分程度だったかもしれないし二、三十分は過ぎていたかもしれないがとにかく気まずさを紛らわすことしか考えられなかったので時間の感覚が麻痺していた。桜の木を挟んでほぼ反対側に立ち尽くす僕らの間を、車のヘッドライトがサッと照らした。光の筋の中に浮かぶ雨粒の細かさを見て、雨がいくらか小降りになっていることに初めて気づいた。銀色の趣味の良いセダンは公園の前に停まり、鞄を傘代わりにした小鳥遊が逃げるように車へと駆け寄った。彼女はチラリとこちらに目をやると、素早く後部座席へと乗り込む。おそらくケータイで連絡をしてここで迎えを待っていたのだろう。彼女が乗り込んだ車は素早くその場を立ち去る。車は彼女の立っていた側から走ってきたし、まさかこんな時間にこんな場所で雨宿りしている人間がいるとは思っていないだろうから僕には気づかずに走り去ってくれたようだ。見つかっていたら気まずかったので僕はほっと胸をなでおろす。
彼女の乗った車が角を曲がって見えなくなってから、僕も家路についた。今となっては雨に濡れるのも全く問題ではなかった。もうどうにでもなれという感じだ。色々なことがありすぎて、僕は妙に楽しくさえなってきていた。雨に唄えば。タップダンスでも踊りだしそうな勢いだ。
家に着くころにはすっかり雨も上がっていた。さっきのどしゃ降りが嘘だったかのように、夜空には行きには見えなかった星さえ見え始めていた。雨が通り過ぎた後の澄んだ空気の中、虫の鳴く声が妙に鮮明に聞こえてくる。家に入ろうとドアに手を伸ばした瞬間、あたりがスッとと明るくなった気がした。思わず見上げると、雲の切れ間から綺麗な満月が僕を照らしていた。




