書いてみたかった恋愛小説の最初の方
アパートの一室。生活感の染み付いた六畳一間の低い天井をわたしはぼんやりと目に移した。深くこびり付いた滲みが、このくたびれたアパートの歴史をゆらゆらと語る。
『最初にやってきたのは、ひとりの女だったよ』
『それはそれは、綺麗な、女性だった』
『よく覚えている。よく、覚えているよ』
『でも、一つだけ……』
『はて、あれはいつのことだったか……』
『思い出せないねぇ』
『はて……、はて……』
『ごめんねぇ』と続くのかと思っていたが、それは少し前に他界したおばあちゃんの口癖であることを思い出した。気が付くと、声の主は煙のように消えている。
静寂が訪れ、
いくつかの時間が流れて、
シーリングライトの落とす柔らかな光の中で、
瞼は徐々に力を失い、
ちっぽけな世界は影と混じりやがて深い暗闇に飲み込まれていった。
感覚が一つ消え、
背中を預ける床材がより一層冷たく感じられた。
今は夏の入り口に過ぎないが、
それでもここの床は冬の最中のように冷たい。
その温度は皮膚と肉と血液を凍らせ、
心までをも侵食する。
体の感覚は徐々に鈍くなり、
思考する事が酷く億劫になった。
ひとり歩きする意識に、
心だけが取り残される。
この部屋の一部として、
ゆっくり溶けこんでいく。
寒さは感じず、
色もない。
ただただ、ここは、寂しい。
頭上では時計の針がちかちかと時を刻み、開いた窓の側では扇風機が初夏の生暖かい空気を扇いでいる。街のざわめきが薄い壁を伝い肌を擦った。ぽつり、ぽつり、とシンクのアルミを叩く水の音に耳を傾ける。こつ、こつ、と鉄骨を踏む足音が距離を縮めた。
電話が鳴る。
わたしはその音が鳴り止むのを静かに待った。身を隠すように、息を潜めて。それでも鳴り止む気配のしないコールに苛立ちを感じた。「はやく、はやく」耳を塞いで、念じるように繰り返す。――次の瞬間にはコールだけではない、様々な雑音がぱっと途絶えていた。欠伸を一つ噛み殺した瞬間のように。
気づくと、わたしは瞼を持ち上げている。目元を擦り、浅い眠りについていたことを実感した。
そう、あれは夢だ。
漠然とした答えを一つ。そしてこっちが現実。体を大きく伸ばした。遠くの方で電話が鳴っている。錆びた鉄骨を軋ませる一つの足音が、その歩みを止めた。ドアノブがゆっくりと廻る。電話のコールはまだ、止みそうにない。――わたしはゆっくりと体を起こした。
感想はこまめにチェックするよう心がけます(T_T)