今宵、猫といっしょに
気が付けば私は、どこかなつかしい街並みを見下ろしていたのです。
公園の横を駆けていく小学生たち。
だるそうに自転車をこいでいる高校生の男の子。
ジョギングしているお爺さん。
買い物帰りのおばさん。
信号待ちの車。
みんな、おもちゃのように小さく見えました。
空は浅黄色から瑠璃色へと変わりつつありました。
細い細い三日月と、少し離れた場所にとても明るい星がぽつんと浮かんでいました。
「夜と昼の境目なんだわ」
あまりに綺麗だったので、つい私は声に出してしまいました。
まぁ、構わないでしょう。
誰にも聞こえてないでしょうから。
その時になって、私は自分がどこに居るのか気になりました。
私は鉄塔の上に座っていました。
一番てっぺんじゃないけれど、かなり高い所でした。
たわんだ電線が風に揺れていました。
けっこう太いものなんだなと思いました。
「どうしよう」
私はまた独り言を言いました。
どうやって登ったんでしょう。
見つかったら絶対に怒られます。
ならば、まだ暫くここに居よう。もっと暗くなってから降りたほうがいい。
そう結論を出すと、私はホッとして、ぶらぶらと足を揺らしました。
ちっとも怖くありませんでした。
何だかわくわくして、声を上げて笑ってしまいました。
「オッホン」
とてもわざとらしい咳ばらいが頭の上から聞こえてきて、私はびっくりしました。
見上げた先には不思議な事なのですが、真っ白な猫がふわふわ飛んでいたのです。
見れば見るほど不思議な猫でした。
真っ白な体から、コウモリのような黒い翼が生えていて、パタパタとはばたいていました。
猫は緑色の目を細めると、ふっ、と髭を震わせました。
「マヌケな顔」
「えっ」
私は知らずに口を開けていたみたいです。
私は慌てて両手で口を押さえました。
「ご、ごめんなさい」
「べつに」
猫は優雅な身のこなしで私の横にストンと降りてきました。
私は再び唖然として、顔を洗いはじめた猫を見つめていました。
翼が生えて喋る猫が目の前にいるのです。
私はほっぺたをつねってみました。
普通に痛くて涙が滲みました。
そんな私を見て、猫がため息をつきました。
「あのさぁ。俺からしたら、こんな時間にこんな所に居るアンタの方が驚きなんだけど」
猫が長いしっぽを自分の前足に絡めながら言いました。
「え、あ、そうですよね。ごめんなさい」
私はぺこりと頭を下げました。
何だか謝ってばかりな気がします。
「ま、いいや。アンタなんでここにいるの?」
「え?えーと…」
「いつからここに居るの?」
「…」
なぜでしょう。
何も思い出すことができませんでした。
頭の中にモヤがかかったみたいでした。
そこで私は一番恐ろしい事に気が付きました。
私は私が何者なのかすら思い出せなかったのです。
「私は…」
体温がすっと下がった気がしました。
言葉に詰まった私の顔を、猫が覗き込みました。
猫の緑色の目がキラキラ、キラキラ輝いていました。まるで暖かい陽射しを浴びる春の湖みたいでした。
「君は、どちらにも行けなくなっちゃったんだね」
急に、とても、とても優しく、猫が言いました。
私は泣いていました。
ひざに落ちなかった涙の粒が、風に流されながらもっ
と下へ落ちて行きました。
猫のふかふかしたしっぽが、なぐさめるように私の頬を撫でてくれました。
「思い出せないのは、君が望んでいないからだよ」
「じゃあ、いつか思い出せる?」
「それは、君次第だな。思い出す事が君にとっての幸せならば」
しあわせ。
私は口の中で繰り返しました。
「必要ならいつか思い出すよ。それまで一緒にいよう」
猫がバサリと翼を広げて飛び立ちました。
「おいで」
猫がこっちを振り向いてウインクしました。
「無理よ」
私には翼がありません。
「大丈夫。今の君は飛べるんだよ」
私は迷いました。
あたりはすっかり夜になっていました。
街には小さな明かりが灯り始めていました。
空には細い細い三日月と、銀の砂をばらまいたようなたくさんの星と、私をじっと見下ろす緑の目がふたつ、輝いていました。
そして私はぎゅっ、と目をつむると、一歩、踏み出したのです。
私達はどこまでも飛びました。
夜の街を抜けて。
高く、高く。
髪を乱す風が心地好くて、私は思いきり笑いました。
「ねえ、エマ」
それが猫の名前でした。
「なんだい、ツキ」
ツキ。
これはエマが私に付けてくれた、かりそめの名でした。
「思い出したら、私はどうなるの?」
「その時になったらわかるよ」
「じゃあ、思い出せなかったら?」
「このままさ」
私達は気まぐれに飛び回って、人の良い夢を悪夢に変えたり、その反対の事をして遊びます。
たかが夢に一喜一憂する人の姿はとても面白いものです。
それに飽きると、月を眺めながら私はエマを抱き寄せます。
暖かいエマを撫でながら、私は言います。
「私、全部忘れてしまう前、幸せじゃなかった気がするの」
そんな気が、するのです。
「今は、幸せ…」
私はエマの柔らかい背中に頬を寄せます。
エマは黙って緑の目を細めると、ゴロゴロと喉を鳴らします。
私達は今宵も飛び回ります。あなたがもし悪夢を見たら、私達のせいかもね。
読んで下さってありがとうございました。
エマの肉球ぷにぷにしたい…。