1.1 『出会いは劇的――悲劇的』
不意に猪が動いた。
足音なのか呼吸音なのか、何が原因で何がきっかけだったのか不明だが、猪はゆっくりとミズノの方に狙いを定めた。
「……あ?えっ、うわうわ、ヤバイヤバイヤバイ」
そのときに俺の口から漏れたのは、なんとも情けない――言ってしまえば、ほうけたようなやる気の感じられない声だった。
多分焦りすぎてどこかおかしくなっていだのだと思う。
どう希望的に解釈したとしても、あの猪は絶対にこっちに向かってくる。
そんなことは馬鹿でも分かる状況だった。
どこぞの国の勇者であったとしても、とてもではないがあんなものと戦おうなんていう気は起こさないだろう。
ゆえに一般人の俺に残された選択肢は、当然『逃げる』の一択である。
ビビリだなんて思わない。むしろ一般的にみてもかなり利口な判断だと思う、褒めて欲しいくらいだ。
そうしてミズノは、この猪モンスターと距離を取るために真後ろ――ではなく、真横に向かって走り始めた。
なぜ後ろではなく横に逃げたのかは、語る必要もないだろう。
単にあのモンスターが本当に猪だというのならば、猪を前にして真後ろに戦力疾走で逃げたところで、とんでもない速度で距離を詰められるだけだと思ったからである。
ちなみにもうこの時点で、さっきまでミズノの中や辺りを取り巻いていたはずの、センチメンタルで幻想的雰囲気は、どこかへ霧散してしまっていた。
モンスターからの逃走作戦。
結論だけ言うと、予想は見事に的中した。
しかし――
「まぁ、そんなに簡単にはいかないよな……」
それなりの速度で地面を疾走しつつ、軽く後ろを盗み見る。
ミズノが振り向いた視界の先、さっきまでミズノ自身が特に意味もなく突っ立っていた地点。そこには――
すでに突進し終えた猪が、ミズノの代わりのように立っていた。
……速いよ、いくらなんでも速すぎるよ。
時間に換算してもまだ数十秒もたってなかったはずで、それなのにミズノが元いた地点には既に猪が立っていて……。
―――逃げ切れる気がしないんだが。
危機的過ぎて謎の笑いが込み上げてくるのを押さえながら、唐突にミズノは一気に進行方向を右に曲げた。
ほぼ直角。
突然の負荷に、両足の筋肉が悲鳴を上げたがここは我慢する。こっちは命掛けてるのだから、これくらいの無理は許容して欲しい。
方向転換を終えるとそのままさらに加速に入る。
――数秒後――
既に息も切れ始めている中、走りつつほんの少しの祈りを込めて後ろを振り向く。
しかしそこには、まるでミズノの頑張りそのものをあざ笑うかのごとく、さも当然とばかりに二度目の突進を終えた猪が立っていた。
呆然。
つまりはそういうことである。
どんなに様々な方向へジグザグに逃げて相手との距離を離したとしても、向こうの脚力によって開いた差は一瞬で埋められてしまう。
終わりのない『いたちごっこ』だった。
逃げられない。
そんな答えは、本当は最初の時点で出ていた。
もちろん向こうの体力切れを待つという選択肢もあるにはあるが、その前にこんな無茶な逃げ方をしているミズノの方が先に体力の限界を迎えてしまうだろう。……というか実は、この時点でもうすでに限界である。
仕方なくミズノは、走るのを止めて後ろを振り返った。
そこにはすでに、こちらに目的を定めて攻撃態勢に入っている猪――もといモンスターがいて――
逃げられないのなら、倒すしかない。
覚悟は決めた。
それは同時にミズノが、モンスターから逃げるのを止めた瞬間だった。
背中にぶら下げている剣を引き抜きながら叫ぶ。
「……ッ!!あんまり馬鹿にしてんじゃねぇぞ!!」
それは、モンスターに対する威嚇というより、むしろモンスターに脅える自分を叱咤するようなそんな叫びだった。
張り詰めるのは、優しい木洩れ日などではなくピリリとした冷たい空気。
上体を落としつつ、背中に吊るしていた剣を引き抜き、柄を両手で軽く握り――
「…………?」
そこで、ある違和感を覚えた。
先ほど背中の鞘から引き抜いた剣をまじまじと見る。
ミズノの両手に力強く握られているのは、銀色に光輝く剣――ではなく、
ただの木の棒だった。