第三話 父との距離 2
父のアパートは割と新しく、マンションのようにモダンな感じだった。その二階。
「ここに入っている人たちは、皆、同じ病院の医師や職員なんだ」
父はドアを開け、少しオーバーアクションで、さあ、どうぞと私を中へ招き入れた。
広いダイニングキッチンがあった。
「広いんですね。それにすごく片付いてる」
私は遠慮なく、見て回る。
黒のレザーのソファが二つ、籐のコーヒーテーブル。そして、薄型のテレビがあるだけだ。余り生活感がないな、と思う。
「ここは今年の春に入居したんだ。適当に家具を選んで、このソファもゆっくり座ったこと、ないかもな」
父はそれを眺めながら、他人事のように話す。
「ほんと、新品のレザーの匂いもします」
「あまり帰らないし、帰ったとしても着替えを取りに来るだけ。散らかりようがない」
床に埃ひとつない。散らかっていないのと、埃が落ちていないというのは同じことではないだろうと思った。フローリングは埃が目立つからだ。きちんと掃除がされているのがうかがえた。病院勤務が終わってから掃除をしたのだろうか。
「お父さんは、掃除魔ですか」
そう、言ってみた。
父はギョッとした顔をした。
「え? なんでそう思うの?」
なんだろう、この反応は。そんなところを突かれるとは思ってもみなかった様子だ。
「だって、すごくきれいだから」
「ああ・・・・・・」
台所も見る。流しの中もきれいだ。いや、きれいすぎるだろう。これは流しを洗い、さらに水けをふき取ったと思われる。こんなことを男性がするのか。普段、家に帰らない人が、ここまできれいにできるってあり得ない。
父は私の気を他に紛らすように、自分の寝室を開ける。
「ここが僕の部屋。昼過ぎまで寝てたから、ちょっと乱れてるけどね」
チラリと覗くと、ちょっと毛布がめくれていたり、枕がまがっていたりして、確かにここに寝ていたことがわかる。起きて、パッパと簡単に布団を直しただけらしい。そうそう、こういうことがここに暮らしているということだと思う。
普通なら、リビングにも読みかけの雑誌がおいてあったり、コーヒーテーブルの上にはコップを置いた跡が少し残り、それを拭いた後も光の加減で見えたりするものだ。
父はすぐに自分の部屋を閉め、私の顔を見た。どう思っているか探るようにも見える。
「見せたいのはこっち」
父はその隣の部屋のドアを開け放す。
その部屋は、どう見ても女の子向けの装飾だった。ベッドやタンス、パソコンデスクなどの家具は白で統一されているが、ベッドカバーやカーテンなどは少し濃いめのワインレッド。
「わあ、かわいい」
と思わず、口に出していた。まるでモデルハウスの一室のようだ。
「そう? 気に入ったみたいでよかった。由紀乃の部屋だよ」
その言葉に、後ろにいる父を振り返った。
「え、私の部屋って・・・・」
そうだよ、と、父がうなづく。
「今までこの部屋は、パソコンを置くだけで殆ど使ってなかったけど、由紀乃が娘だとわかってから、ここを由紀乃専用の部屋にしようと考えてたんだ」
再び、部屋を眺める。
父がここを私の部屋として用意していた。それは私がここに住むともう決めていたのか。
私は混乱していた。
そういうことは、今から話し合うのだとばかり思っていたからだ。父はもう、私をここへ住まわせることを決めているのか。学校のこともだが、あのシェアハウスから出ることはまだ決心がつかないでいる。でも、私はまだ未成年なんだから、やはり父親と一緒に住むことが当たり前なのか。
「あのう、私の部屋って・・・・」
父は、私の声にさっきの驚きの声とは違う、戸惑いの響きがあることを感じ取っていた。
「うん、どうしたの?」
「私、もう少しあのシェアハウスにいるつもりなんですけど・・・・・・」
こんなことを言っていいのか。でも、それが私の本音だ。せめて今年いっぱいは、あそこにいたい。
今度は父が、私の言葉にきょとんとする番だった。
「ん、いいよ、それで」
「え? でも、この部屋を私のために用意してくれたって、今・・・・」
父はじっと私を見ていた。二人の食い違いの原因を考えている様子だった。そして、やっと何かに思いあたったらしく、にっこり笑う。
「ごめん。最初にそういうことをきちんと説明するべきだった」
説明? 何の説明だろう。
「あのね、アメリカだと両親が別れて暮らしていることが多い。まあ、いわゆる離婚ってことだけど」
「はい」
アメリカとか、離婚率が高いことは知っている。
「子供に取っては離婚していても父親であり、母親であることは変わりない。だから、普段でも二人の家を行ったり来たりする子供たちが多いんだ。週末だけ父親のところへ泊ったり、週のうち、四日を父親、残りの三日を母親とかよく行き来してる。別れた夫婦の住む場所、仕事の都合、子供の学校のことをじっくり話し合って、子供が両方の家を渡り歩くんだ」
「それって大変ですね」
そんなにあちこち行っていたら落ち着かないだろう。
「でもね、双方の家にその子供の部屋がちゃんと設けられているんだよ。いつでも帰ってきていいようにね。その子の居場所が確保されている。子供は学校の物だけを持って移動すればいいだけなんだ。皆、今日はお父さんのところに行くって淡々と話しているよ」
「ああ、じゃあ、家が二つある、みたいな感じですか」
「そう。割り切っているだろ」
私はそんな状況を考えてみた。
別々の家に自分の部屋がある。そこには父親か母親が住んでいていつでも歓迎してくれる。二人が同じ屋根の下で暮らせないからそうなる。それでも子供は双方に会えるから幸せなのだろうか。
私にはそういう状況はわからないが、いがみ合っている夫婦のところにいるよりはいいのかもしれない。
「じゃあ、この部屋は私がここへ来た時、泊まれる場所ってこと?」
「そう、そういうつもりで用意した。別に泊まらなくてもいい。ここに来たかったら僕がいなくても来ていいよ。自分の部屋なんだから。本当はここに住んでもらいたいけど、僕も病院勤務の方を優先しがちだから、終電間際になるとつい、帰るのが億劫になる。でも、由紀乃がここへ来ることがわかっていればちゃんと帰るから」
肩の力が抜けた感じだ。
「わかりました。どうもありがとう」
父もいろいろと考えてくれていた。無理やり私があの家を出なくてもいいように、それでいて気兼ねなく、ここへも来られるようにしてくれた。
部屋に入って、持ってきたカバンをベッドのそばに置く。ベッドに腰掛けてみた。なんか、ホテルに泊まるかのような感覚の真新しい私の部屋。うれしいけど、こんなことしてもらっていいのかという戸惑いもある。
私達は早速夕飯の準備をすることにした。
「何があるか、冷蔵庫を見てもいいですか」
「もちろん。言ってくれれば今度から由紀乃の好きな物、買って用意しておく」
冷蔵庫を開いた。中には、バター、卵、牛乳、オレンジジュースなど少量だが開封されていないものばかりが用意されていた。
再び、違和感を感じた。
父は、ここではあまり料理をしない。今日のために買い揃えたのだろうか。掃除もそうだ。
絶対に、誰か第三者の手が入っている。掃除サービスの人なのかと思ったが、それならそう言えばいい。最近のサービスは食品の買出しまでしてくれる? 掃除のことで父はちょっと動揺していた気がする。
冷凍庫を開ける。いきなり食パンが袋ごと入っているのを見て、面食らったが、その横の小さなタッパーウェアに目がいった。きちんと並んでいて中身がわかるように、ひじきの煮物、鶏そぼろ、シチューなどのメモ書きも貼られていた。その字を見て、今まで感じていた違和感が何なのかわかった。
その字は明らかに女性のものだ。父の手書きは以前に手紙を見ているから知っている。それとはまったく違う女性らしいきれいな字だった。
流しで米をといでいる父を見た。
今は私の父親だが、ついこの間までは私という娘の存在もあやふやな独身者だった。
そんな父に恋人がいてもおかしくはない。それに母と結婚していたわけでもないし、他の女性とつきあっていたとしてもなんの不思議もないのだ。
しかし、この瞬間から、私の中のこの空間はさっと色が抜け落ちて、セピア色の世界に変わっていた。
それで説明がついた。昨日帰ってこられなかった父のために、この部屋を掃除し、買出しに行ってくれた人。そしてたぶん、私の部屋のコーディネートもその人がアドバイスしたんだと思う。それを買い、ベッドルームを作ってくれたのもその人かもしれない。
なんだか胸がモヤモヤしていた。
どんな人なんだろう。お母さんよりもきれいな人なのか、魅力的なのか。そんなに親しい人がいるのに、私のような大きな娘の出現、迷惑に思わないのか。いや、もうすでにお荷物になっている。だって、わざわざ父の場所に私という存在が入り込んでいる。部屋まで作ってもらった。父はあまり気にしていないのかもしれないが、いつかはそれが重くのしかかってくるのではないか、と考えていた。
私が急に黙って、淡々と調理をしていたから、父が私の異変に気づいたようだった。
「どうしたの? 元気がないけど」
すぐに返事ができないでいた。
なんでもないから、と言ってしまえばそれで済む。しかし、それが言えない。
嫉妬? これはやっと巡り会えた父親を誰か知らない人にとられる、そんな感情から生まれた嫉妬なのだろうか。ずっと顔も知らなかった父。その人がこんなに優しく、話しやすい人だった。この人が、生前母が愛した人なのだ。私の中では、父がずっと母のことを思っていてくれるんだとそう願っていた。そんなこと、無理なのに。
父は一度、離婚している。そのこと事態には私の感情は動かされなかった。要するに私の心の中でうごめくモヤモヤは、今の父が誰かに惹かれているということが嫌なのだ。それはやはり嫉妬なのだろう。
「由紀乃?」
そう、たぶん、もうしばらくは私だけの父親でいてほしかった。父の横で笑う人は私だけでいたかったのだ。父は父、私は私なのだと必死で言い聞かせた。笑顔を向けなければいけないと思う。こんな子供っぽい感情、父に悟られたくはない。
「あ、なんでもないから」
やっとそう言うと平気そうな顔をした。
でも、父の顔が真剣になったから、うまく隠せなかったのかもしれない。
「由紀乃? どうした」
私はさっと顔を背けた。
父がガスの火を止めた。手元のフライパンだけがまだ、ジュージューと音を立てていた。両肩をつかまれ、父の正面を向かされる。
「由紀乃。僕たちは父娘だけど、今までお互いのことを知らず、全く違う所で暮らしていたんだよ。同じものを見て、共感してきた間柄と違う。新しく始まった家族なんだ。何か思うことがあったら遠慮なく言ってもらいたい。それがたとえ、言いにくいことでもね。言わないと相手の心は見えてこないよ」
わかる。それはわかるのだ。私もそうしたい。けど、そんな子供じみたことを考えている私に気づいてもらいたくないのだ。父にがっかりされたくないのだ。
私が何も言わないでいると、父はにっこり笑い、私の顔を覗き込んでくる。
「じゃあ、イエスだったらうなづいてくれる?」
私はこっくりとうなづいた。
「僕の家が気に入らない?」
首を振る。
「勝手に部屋を作ったことを怒ってる?」
これにも首を振る。
「あまり家に帰ってこないことをだらしなく思っているとか、あ、病院にはね、当直室の隣にシャワールームがあったりするんだよ。だから、ちゃんときれいにしているつもりなんだけど」
これにはちょっと笑ってしまった。そんな事、全然気にしないのに。
「全部外れてます。ただ・・・・・・」
「ただ? なんだろう」
そうだ、こんなことをウジウジ考えていても始まらない。はっきりと言わないこと事態が問題なんだ。
私は勇気を出して、口に出すことにした。
離婚した父親と母親のところへ行ったり来たりするのは、特別なことではありません。週末になると、フェリーに乗って父親のところへ行く高校生も知っています。親は子供に会う権利があるし、子供も少し距離をおいて、親と向き合えるのかもしれません。




