妹に何もかも譲れと言われたので、実家の借金も譲ってみました
派手なざまぁはないけど、こういうのもよいよね
「お姉ちゃんのもの、全部ちょうだい」
妹がそう言ったとき、私は豆の煮込みを口に運ぼうとしていた。
六時間働いたあとの、冷めた夕食である。
「全部って?」
「商会も、お母様の宝石も、アルベルト様も。お姉ちゃん、もう十分持ってるでしょう?」
まだ何も失っていない者のような言い方だった。
母の宝石は、すでに妹の首にある。婚約者のアルベルトは、その隣で妹の手を握っている。私の夕食だけが豆で、二人の皿には仔牛肉が載っていた。
「セラ」
父が、私の返事を待たずに言った。
「お前には商才がある。どこへ行っても食えるだろう。リリアにはこの家が必要なんだ」
「あの子は繊細なの。お姉さんなら、わかってあげて」
継母が妹の肩を抱く。
十年間、何かを譲らされるたびに見た姿だった。
私は匙を置いた。
「承知しました。書類を作ります」
妹の笑顔が、ほんの少しだけ引きつった。
泣いたり、怒ったりしてほしかったのだろう。
でも私は、豆を食べる時間さえ惜しかった。
アルベルトとは、十六の年に婚約した。
初めて会ったころ、彼は私の計算の速さを褒めてくれた。帳簿を開く私の横に腰掛け、「君がいれば、どんな商売だって成功しそうだ」と笑った。
あの言葉が嬉しかったから、私は十年も頑張れたのかもしれない。
けれど去年、私が熱を出して寝込んだ日、彼は見舞いに来なかった。代わりに妹と観劇へ行き、帰ってくるなり「リリアが寂しがっていたから」と言った。
そのとき胸に刺さったものを、私はずっと見ないふりをしていた。
今夜、二人の手が重なっているのを見ても、もう涙は出なかった。
「セラ、婚約の件は円満に済ませたい」
アルベルトが気まずそうに言う。
「もちろん。贈り物は一覧にして返却します。婚約解消の書類も明日お渡しします」
「……本当に、それだけか?」
「何か不足が?」
彼は答えなかった。私に引き留めてほしかったのだろうか。
十年かけて築いたものが終わるとき、私が心配していたのは、明日の支払期日だけだった。
◇
翌朝、商会の応接室へ行くと、見知らぬ青年が私の椅子に座っていた。
銀縁眼鏡。濃紺の上着。折り目の鋭い手袋。
机の上には、私が昨夜つけた帳簿が開かれている。
「勝手に見ないでください」
「貸した金の行方ですから」
青年は名刺を差し出した。
ユリウス・ヴァイス。ヴァイス金融商会代表。
我が家の最大の債権者だった。
「お父上がお留守だそうで」
「仕入れです」
「馬車は劇場へ向かいましたが」
「では、感性の仕入れでしょう」
彼の口角が動いた。
私は父の代わりに謝るのをやめ、向かいに座った。
「返済日は来月です」
「ええ。ところが、経営者が変わると伺いまして」
誰に聞いたのかは尋ねなかった。ここで隠すほうが、よほどまずい。
私は鞄から譲渡契約の草案を出した。
青年は二枚目で目を止めた。
「債務承継について、太字で三か所」
「読み落とされると困るので」
「ご親切ですね」
「説明もします」
彼は帳簿と私を見比べた。
「あなたが連帯保証をしている借金は?」
「ありません。父に署名を求められたとき、断りました」
「なぜ?」
「あの人は、私が断ったことを覚えていません。でも債権者は覚えていますから」
ユリウスは、そこで初めて声を出して笑った。
商会そのものには価値がある。
私が開拓した仕入れ先と、納期を守ることで得た信用。毎月の利益も、父たちの遊興費さえなければ借入金を返せる額だった。
ただし、主人が替われば取引を見直すという契約は多い。
「そのことも、ご説明を?」
「もちろん」
「それでも受け取るなら?」
「妹のものです」
言い切ると、胸の奥がひどく軽くなった。
青年は名刺の裏に数字を書いた。
「では、当商会で働きませんか」
「借金の取り立てに来たのでは?」
「優良な働き手の引き抜きも、仕事のうちです」
提示された月給は、私がこれまで父から受け取った金の三倍だった。
年間ではない。十年分の、三倍である。
「間違っていませんか」
「住居手当は別です」
「そこではなく」
「不満なら交渉を」
私は名刺を、もう一度よく見た。
自分についた値段というものを、初めて見た気がした。
◇
譲渡の日、父は公証人を呼んでいた。
私の気が変わらないうちに終えたかったらしい。
「リリアさんが引き継ぐのは資産だけではありません」
公証人が、私の用意した一覧を読み上げる。
倉庫。商品。在庫品。売掛金。
そのあとに、仕入れ債務と借入金。
「ずいぶん細かいのね」
妹が退屈そうに爪を眺めた。
「要するに、お店が丸ごと私のものになるんでしょう?」
「そうです。借金も含めて」
「商売に借金はつきものだ」
父が胸を張る。
返す人間が私だったときには、もっともだった。
「お父様の個人債務は残ります。こちらは譲渡されません」
「わかっている」
「私の雇用は、本日限りです」
そこでやっと、アルベルトが顔を上げた。
「帳簿はどうするんだ?」
「お渡しします。引き継ぎの手順も書きました」
「いや、書く人間の話だ」
「お雇いになれば?」
彼は妹を見た。妹は笑った。
「大丈夫よ。お姉ちゃんにできたんだもの」
全員が署名した。
ヴァイス商会を含む債権者の承諾書も添えられ、公証人が封をする。
署名のあと、アルベルトが廊下で私を呼び止めた。
「リリアはまだ若い。君なら、少しくらい支えてやれるだろう」
「……どんな立場で?雇用されるということですか?わざわざ追い出した姉を?」
「いや、その……」
「商会の前任者としてなら、引き継ぎは済ませました。あなたの元婚約者としてなら、私にできることはありません」
彼は唇を結んだ。
「君は昔、もっと優しかった」
「昔の私なら、あなたが私の誕生日を忘れても、リリアの誕生日の贈り物を一緒に選んでいましたね」
「そんな昔のことを」
「ええ。もう昔のことです」
私は家の鍵を机に置いた。
「今まで、ありがとうございました」
礼を言うのは癖だった。
戸口で振り返ると、妹はもう私を見ていなかった。
母の指輪を光にかざし、自分の左手に似合うか確かめていた。
◇
「どうして、こんなに窓があるんですか」
新しい下宿で最初に言った言葉が、それだった。
案内してくれたユリウスが窓を見る。
「建物の角だからでは」
「そういう意味では……」
以前の私の部屋は、窓が一つしかなかった。
妹が日当たりのいい部屋を欲しがって以来、ずっと。
寝台には白い掛布。椅子が二脚。机には新品の筆記具があった。
「費用は、給料から引いてください」
「机は備品です。寝具は下宿代に含まれています」
「お茶まで」
「それは私の飲みかけなので、返してください」
私は危うく奪いかけた茶碗を置いた。
彼は澄ました顔で飲み干した。
仕事は忙しかった。
しかし夕刻になると、隣の席の婦人が私の帳簿を閉じる。
「続きは明日」
「あと二枚だけ」
「二枚やったら、次の二枚が見えるのよ」
ユリウスまで時計を指した。
「当商会は、給料を払っていない時間に働かれると困ります」
「儲かるのでは?」
「あなたが倒れたら損です」
なるほど、と私は頷いた。
気遣いとして受け取るより、ずっと納得しやすかった。
ある雨の日、私は残業を申し出た。大口の融資先が倒産しそうだと聞いたからだ。
「その件は私が引き受けます」
ユリウスは書類を引き寄せた。
「ですが、私なら資金繰りの表を今夜中に」
「あなたが有能なのは知っています。でも、休みを取る権利まで買った覚えはありません」
「……働かせてもらえないと、落ち着かないんです」
思わず本音が出た。彼は少し考え、帳簿を閉じた。
「では、私の頼みを一つ聞いてください」
「何でしょう」
「今日は夕食を食べて、八時間眠ること。明日の朝、元気な頭で私の計算を検算してください」
「それは仕事ですか?」
「私には重要な仕事です」
窓の外で雨が強くなった。
帰り際、彼は自分の傘を差し出した。
「あなたは?」
「馬車を呼びます」
「それなら一緒に馬車に乗れば」
言ってから、私は顔が熱くなった。
彼は眼鏡の位置を直し、「それが最も合理的ですね」と答えた。
馬車の中では、二人とも妙に黙っていた。肩が触れるたび、雨音ばかり大きく聞こえた。
初めての給金で、菓子を買った。
苺の焼き菓子を一つ頼み、店員に「以上ですか」と聞かれて、思わず二つに増やした。
誰かの分を買わないと、罰が当たりそうだったのだ。
帰り道、商会へ戻って彼の机に包みを置いた。
「利息ですか?」
「お茶のお礼です」
「高くつきましたね」
彼は一つを皿に載せ、残りを私の前に押した。
二人で食べる菓子は、少しも罰の味がしなかった。
◇
実家から最初の手紙が来たのは、その三日後だった。
『帳簿の場所がわからない』
場所を書いて返した。
翌日は『計算が合わない』。
帳簿係を雇うよう返した。
次は『人を雇う金がない』。
私は紙の前で手を止めた。
以前なら、ここで帰っていた。
家族が困れば、私の予定は全部なくなった。
「便箋代がもったいないですよ」
背後からユリウスの声がした。
私は慌てて手紙を伏せた。
「すみません。仕事中に」
「昼休みです。何を書こうと自由です」
彼は見なかったふりで、私の机に注文書を置いた。
私が選定した染料の買い付けが、正式に通った知らせだった。
「先方が、あなたを担当にと」
「私を?」
「嫌なら断れます」
「嫌では、ありません」
声が弾んだ。
ユリウスは一瞬だけ、眼鏡の向こうの目を細めた。
「では、その返事を先に」
実家への返信は、そのまま引き出しにしまった。
仕事が増え、顔を覚えてくれる人も増えた。
染料商の若旦那に食事へ誘われたときは、何の相談だろうと予定を確認した。
その日の昼、ユリウスが劇場の切符を二枚持ってきた。
「商談の参考になります」
「歌劇が?」
「舞台衣装には染料を使いますから」
筋は通っている。私は頷いた。
隣の席の婦人が、咳払いで笑いを隠していた。
染料商の若旦那には、食事の誘いを断るときに事情を尋ねられた。
「ほかにお約束が?」
「はい。代表と歌劇へ」
「なるほど。あの堅物がねえ」
「堅物?」
「ヴァイス代表が女性を劇場へ誘ったなんて初耳です。投資先の調査より珍しい」
そう言って若旦那は笑った。
その夜、鏡の前で私は何度も髪を結い直した。仕事の参考なら普段着でもいいはずなのに、なぜか青いリボンを選んだ。
劇場の席は驚くほど前だった。
衣装の参考なら遠くでもよかったのでは、と言うと、ユリウスは「近いほうがよく見えます」と答えた。
幕間に、隣席の老婦人が私たちを見て微笑んだ。
「お似合いのお二人ね。ご婚約中?」
「いいえ!」
私の声が大きすぎて、ユリウスが咳き込んだ。
「仕事の関係でして」
「そうなの。失礼したわ」
老婦人は去ったが、私の胸はしばらく騒がしかった。
「……嫌でしたか」
ユリウスが小声で尋ねた。
「何がです?」
「勘違いをされたことです」
「驚いただけです。嫌では、ありません」
言い終えて、私は手元の番組表に目を落とした。
彼が小さく息を吐くのが聞こえた。
そのあと彼は舞台の筋を一つも覚えていなかった。翌朝、仕事の参考資料を求めると、真面目な顔で「主人公は赤い服でした」と答えた。
主人公は最後まで白い服だった。
彼は途中から、舞台より私の顔を見ていた。
気づくと目を逸らすので、私も何も言えなくなった。
◇
染料の最初の納品で、問題が起きた。
届いた樽の半分が、見本より薄い。
先方の工房長は私の顔を見るなり、「お嬢さんに色の違いがわかるのか」と鼻を鳴らした。
私は持参した白布を、机に三枚並べた。
見本で染めた布。納品された染料で染めた布。濃度を倍にした布。
「三枚目なら同じ色です。ただし、布一反あたりの費用も倍になります」
「水の質だろう」
「同じ桶の水を使いました」
工房長は黙った。
私は交換を要求した。難しいなら、不足分の追加納品を。
父がいたら、得意先の機嫌を損ねるなと言っただろう。
喉が乾いた。
ここで間違えれば、せっかく雇ってくれた人に損をさせる。
隣にいたユリウスが、懐中時計を開いた。
「私はこのあと予定があります。判断は担当者にお任せしますので」
逃げた、と思った。
でも彼は立たなかった。
私の横で時計を閉じ、静かに待った。
結局、残りの代金は交換品を確認してから支払うことになった。
工房を出ると、膝が少し震えた。
「任せると言って、ずっといましたね」
「いてほしくなかったですか」
「……いてほしかったです」
「では、いて正解でした」
彼は、道の向こうの果物屋へ私を連れていった。
乾いた喉に冷たい梨の果汁が沁みた。
失敗しなかった安心と、隣に誰かがいた安心は、別のものらしかった。
「私が間違っていたら、どうしましたか」
「訂正します」
「怒りませんか」
「程度によります。私だって、たまには」
私は梨を持ったまま、彼を見上げた。
何があっても怒らないと言われるより、ずっと信用できた。
「では、私も。あなたが間違ったら言います」
「お手柔らかに」
ユリウスは自分の梨を一口齧り、ひどく顔をしかめた。
そちらだけ、まだ熟していなかったらしい。
私が半分を差し出すと、彼は驚いた顔で受け取った。
「安いですよ」
「何がですか」
「あなたの分の梨くらい、買います」
そう言ったのに、彼は交換を断った。
私からもらった半分を、大事そうに食べていた。
それから、私たちは何度か一緒に外へ出た。
市場で値段を調べ、工房で布を選び、帰り道には季節の菓子を買う。ユリウスは誰より細かく損益を計算するくせに、私の好物だけは値札を見ずに買った。
「甘やかすと、つけ上がりますよ」
「つけ上がったあなたを見てみたいですね」
「では、明日から社長の椅子をいただきます」
「椅子だけでいいんですか」
私たちは笑った。
そのころ私は、彼の足音を聞き分けられるようになっていた。廊下の向こうから近づくと、帳簿の数字が一瞬読めなくなる。
ある日、隣席の婦人が私の顔を見て言った。
「セラさん。代表が来るたび、耳が赤くなっているわよ」
「室内が暑いので」
「冬だけどね」
返事に困っていると、当の本人が扉を開けた。
「暖房を弱めましょうか」
婦人はとうとう机に突っ伏した。
一か月後、妹が商会へ来た。
母の指輪は、もうつけていなかった。
「お姉ちゃん、ひどいわ」
応接室に通すなり、妹は泣いた。
仕入れ先から現金払いを要求されたこと。売掛金の回収が遅れていること。アルベルトが経営に口を出すばかりで働かないこと。
聞き慣れた問題だった。
「手順書は読んだ?」
「あんなに多いもの、読めないわよ」
「帳簿係は?」
「お姉ちゃんが戻れば雇わずに済むでしょう」
私は膝の上で手を握った。
戻ると言えば、この場は簡単に収まる。
妹は笑い、父は当然だと言い、私だけが夜中まで働く。
「戻りません」
小さな声だった。
言った本人にしか聞こえなかったかと思った。
しかし妹は、ぴたりと涙を止めた。
「家族なのに?」
「仕事があるの」
「そんなの辞めればいいじゃない」
扉が二度、鳴った。
ユリウスが顔を出す。
「失礼。次のお約束まで、あと五分です」
私の予定表にそんな約束はなかった。
彼は妹を見た。
「ヴァイス商会代表、ユリウスです。御社の返済計画については、別途面談を」
妹の表情が変わった。
涙の残った顔で、彼を見上げる。
「お姉ちゃんばかり、ずるい」
その言葉で、何が来るかわかった。
「私、この方とお話ししたいわ。お姉ちゃん、席を外して」
昔から、妹は私の隣に何かを見つけると欲しがった。
私が大事にしているとわかるほど、欲しがった。
立ち上がりかけた私の前に、ユリウスが書類を置く。
「お話はこちらです。第一回返済額と、期限を過ぎた場合の取り扱いについて」
「そんなことじゃなくて」
「では、当商会へのご用件はありませんね」
彼は微笑んだまま、扉を開けた。
妹が帰ってからも、私はしばらく動けなかった。
「本当に、次の約束が?」
「あります。あなたの昼食です」
「それは約束とは」
「昨日、明日は一緒にと仰いました」
確かに言った。
書類を運びながら、何気なく。
「覚えていたんですか」
「ええ」
青年は、それ以上言わなかった。
私も立ち上がらなかった。
目にたまったものが落ち着くまで、少しだけ待っていたかった。
◇
妹が帰った翌日、私はユリウスに尋ねた。
「昨日は、助けてくださってありがとうございました」
「あなたの仕事を守っただけです」
「……それだけですか」
彼のペンが止まった。
「それだけでは、ありません」
心臓が跳ねた。
「あなたがあの方の言葉で傷つくのを見るのが、嫌でした」
「どうして?」
「今は、答えないほうがいいと思います」
「なぜ?」
「私はあなたの雇い主です。あなたが断りにくい立場のまま、私の気持ちを押しつけたくない」
私は初めて、彼がいつも半歩引いている理由を知った。
「私、自分で選べます」
「知っています。だから、あなたが選べるようにしたい」
それ以上、彼は言わなかった。
けれど私の胸には、その沈黙のほうが長く残った。
◇
父が乗り込んできたのは、その翌週だった。
私が金持ちの商人に取り入って家族を見捨てた、と受付で怒鳴ったらしい。
応接室には継母と妹、アルベルトまでそろっていた。
「お前が借金を押しつけたんだ!」
父は私を見るなり机を叩いた。
私は持参した契約書を、その拳の脇に置いた。
「説明しました。公証人の前で」
「娘が父親を騙すとは思わんだろう!」
「騙していません。借金だけを渡したのでもありません」
資産一覧を開く。
現金化できる商品。倉庫。馬車。
妹が受け取ったあとに売り払った在庫と、その金で買った宝飾品の記録。
「返済用に残していた積立金もあります。使わなければ、今月分は払えました」
「婚礼の準備に必要だったのよ!」
継母が声を尖らせた。
「私の給料も、必要です」
口にしたら、思いのほか簡単な言葉だった。
「家賃を払って、ご飯を食べて、冬には外套を買います。お金が必要なんです」
「私たちが暮らせなくなってもいいの?」
「暮らし方を変えてください」
妹が私を睨んだ。
その隣で、アルベルトだけがユリウスを窺っていた。
「彼女の能力は認めています。ただ、家族の揉め事に乗じて引き抜くというのは、商人としていかがなものかと」
「労働条件を提示し、彼女が選びました」
「いくら払っているんです?」
私が止めるより早く、ユリウスは金額を答えた。
四人の顔が変わった。
「そんなに?」
父の目が、ようやく私を見た。
「なら半分を家へ――」
「お断りします」
今度は、はっきり言えた。
「私は妹に、商会を譲りました。婚約者も、この家での暮らしも。望まれたものは全部、お渡ししました」
「だったら最後まで面倒を見なさいよ!」
妹が叫ぶ。
私は契約書を閉じた。
「あなたの商会よ。私が勝手に取り返すわけにはいかないでしょう」
ところが、父たちはまだ帰ろうとしなかった。
「そもそも、セラが帳簿を細工したんじゃないのか!」
父の一言で、部屋の空気が変わった。
「証拠はありますか」
ユリウスの声が冷えた。
「この娘がいなくなってから売上が落ちた。おかしいだろう!」
「むしろ自然です。取引先の三社から、納期遅延と品質不良の報告を受けています」
彼は封筒を開いた。
「さらに、御社が当商会に提出した先月の売上報告には、架空の売掛金が含まれていました」
妹の顔から血の気が引いた。
「だ、だって、アルベルト様がそうすれば融資が通るって」
「リリア!」
アルベルトが叫ぶ。
「君が数字を良く見せろと言ったんだろう!」
「私、帳簿なんてわからないもの!」
「だからこそ、わかる者を雇うべきでした」
私は言った。
「私が残した手順書の一枚目にも、そう書いてあります」
ユリウスは淡々と続けた。
「虚偽の報告は信用問題です。追加融資は停止。既存の返済は契約どおり履行していただきます。帳簿は第三者の会計士に確認させます」
「そんな!」
継母が立ち上がった。
「貴族の家を潰す気ですか!」
「家を潰すのは私どもではありません。資金の使途を決めた方々です」
私は父を見た。
「商会の利益で借金を返せたはずです。婚礼の馬車を買わなければ。新しい宝石を買わなければ。帳簿係を雇っていれば」
妹が唇を震わせる。
「お姉ちゃんは、私が困るってわかっていたんでしょう!」
「ええ。だから説明したわ。借金も、取引先との契約も、必要な仕事も」
「だったら止めてよ!」
「あなたは、私に全部譲れと言ったのよ」
妹の目から涙が落ちた。
「商会を持つということは、利益だけじゃなく責任も持つことなの」
私が立ち上がると、アルベルトが追いすがった。
「セラ、待ってくれ。僕たちは十年も一緒にいた。君ならわかってくれるだろう?」
「わかります。あなたは、私が働いている間にリリアと観劇をしていた」
「それは……」
「私の誕生日を忘れても、彼女の好物は覚えていた」
彼は目を伏せた。
「私はあなたの恋人ではなく、便利な帳簿係だったのね」
「違う! 君がいないと、僕は……」
「困るでしょうね」
私は微笑んだ。
「でも、もう私には関係ない話です。」
彼の手をそっと外す。驚くほど簡単だった。
そのあとの返済交渉には、同席しなかった。
父たちは屋敷を売って規模を縮小し、商会を続けることになった。
妹の婚礼は延期され、アルベルトとの婚約はほどなく解消されたと聞いた。
借金は消えない。
私が夜中につけていた帳簿も、誰かがつける必要がある。
今度は、持ち主たちが相談していた。
◇
数週間後、商業組合の集まりで妹と再会した。
かつて母の宝石を飾っていた首には、細い紐だけがあった。父の商会は取引先への支払いを優先するため、屋敷と馬車を手放していた。
妹は私を見つけると、いつものように駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん! 組合の人に、昔の商会の売上を作ったのは私だって言ってくれない?」
「なぜ?」
「新しい仕入れ先に信用してもらいたいの」
私は少し考えた。
「嘘は言えないわ」
「一言くらい、いいじゃない!」
周囲の商人たちが振り返る。
そこへ、以前から付き合いのある染料商の主人が来た。
「セラさん! 新しい契約、おめでとうございます。あなたが前の商会を辞めてから、あちらとの取引は大変でしてね」
「ご迷惑をおかけしました」
「あなたのせいではありません。約束を守る人と商売をしたい、それだけです」
主人は妹に軽く会釈し、私に新しい注文書を渡した。
妹はその紙を見つめていた。
「……ずるい。」
「ずるいかしら。ただ当たり前に仕事をしてるだけよ。」
妹は何も言い返せなかった。
会場の向こうではアルベルトが、かつて私に見せたことのない真剣な顔で、取引先に頭を下げていた。彼もようやく、自分で働かなければならないと知ったのだろう。
◇
春の決算が終わった日、ユリウスが深刻な顔で帳簿を見ていた。
当商会の利益は、昨年より増えているはずだった。
「問題が?」
「個人的な支出に」
差し出された帳簿には、歌劇、菓子、花、また歌劇、と並んでいた。
全部、私と出かけた日のものだった。
「経費ではなかったんですか」
「経理に却下されました」
隣の席から、婦人の誇らしげな咳払いが聞こえた。
「それで、今後の方針を決めたいのですが」
ユリウスが眼鏡を外した。
いつもより、少しだけ若く見える。
「商談にかこつけてお誘いするのは、やめようと思います」
私は頷きかけて、止まった。
胸の奥が、すっと冷たくなる。
「そうですか」
「セラ」
名前を呼ばれた。
役職も敬称もつかない声で。
「今度の休日、私と食事に行っていただけませんか。仕事の話は、抜きで」
彼は帳簿の端を押さえていた。
難しい融資の交渉でも見たことがないくらい、指に力が入っていた。
「……私、たくさん食べますよ」
「承知しています」
「菓子も」
「存じています」
「今度は、私にも払わせてください」
彼が少し困った顔をした。
私は机の引き出しから、自分の財布を出した。
「あなたにご馳走したいんです。私のお金で」
ユリウスは、しばらく財布を見ていた。
それから諦めたように笑った。
「では、次は私に」
「はい」
「その次も」
「交互です」
即答すると、彼は肩を落とした。
商談では一度も負けない人が、私の前ではときどきこうなる。
私はそれが、ずいぶん好きだった。
休日、私たちは小さな食堂で昼食を取った。
仕事の話をしないと決めた途端、二人とも何を話せばいいのかわからなくなった。
「あなたの好きなものを、まだほとんど知りません」
私が言うと、ユリウスは真剣に考えた。
「雨上がりの匂い。古い地図。甘くない紅茶」
「私は、焼きたてのパン。晴れた朝。……それから」
「それから?」
「あなたが、私に負けて困った顔をするところ」
彼は本当に困った顔をした。
「それは、かなり頻繁に見られますね」
「ええ。お得です」
食事のあと、川沿いを歩いた。
「セラ」
彼が足を止める。
「あなたに、好きな人がいるか尋ねても?」
「います」
即答すると、彼は眼鏡を押し上げた。
「……そうですか」
「とても仕事ができるのに、たまに変な言い訳をする人です」
彼が顔を上げる。
「歌劇を染料の研究だと言ったり、私の菓子を利息と呼んだり」
「それは、随分と不器用な男ですね」
「そう思います」
私は自分から彼の手を取った。
「でも、好きなんです」
ユリウスの手が、恐る恐る握り返してきた。
「私も、あなたが好きです。雇用契約とは無関係に」
「知っています」
「いつから?」
「主人公の衣装の色を間違えた日から、少しずつ」
彼は天を仰いだ。
「もっと早く言えばよかった」
「私は今がいいです。ちゃんと、自分で選べたから」
川面を渡る風が、頬を撫でた。
初めての口づけは、彼が尋ね、私が頷いてからだった。
誰かに奪われるのではなく、誰かに譲るのでもない。私が望んで手を伸ばした、初めての恋だった。
窓の外は明るかった。
明日の仕事も、休日の約束もある。
財布の中には、私が稼いだお金が入っている。
「それから、花はもう買わなくていいです」
「お嫌いでしたか」
「部屋の花瓶が足りません」
彼は真剣に考え込んだ。
「では、次は花瓶を」
「そういうことではありません」
隣の席で、ついに婦人が噴き出した。
私も笑った。
誰にも譲らない休日を、数えながら。
すこしでもおもしろかったら、評価をお願いいたします




