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妹に何もかも譲れと言われたので、実家の借金も譲ってみました

作者: みやこ
掲載日:2026/10/28

派手なざまぁはないけど、こういうのもよいよね









「お姉ちゃんのもの、全部ちょうだい」


 妹がそう言ったとき、私は豆の煮込みを口に運ぼうとしていた。

 六時間働いたあとの、冷めた夕食である。


「全部って?」

「商会も、お母様の宝石も、アルベルト様も。お姉ちゃん、もう十分持ってるでしょう?」


 まだ何も失っていない者のような言い方だった。

 母の宝石は、すでに妹の首にある。婚約者のアルベルトは、その隣で妹の手を握っている。私の夕食だけが豆で、二人の皿には仔牛肉が載っていた。


「セラ」

 父が、私の返事を待たずに言った。

「お前には商才がある。どこへ行っても食えるだろう。リリアにはこの家が必要なんだ」

「あの子は繊細なの。お姉さんなら、わかってあげて」


 継母が妹の肩を抱く。

 十年間、何かを譲らされるたびに見た姿だった。


 私は匙を置いた。

「承知しました。書類を作ります」


 妹の笑顔が、ほんの少しだけ引きつった。

 泣いたり、怒ったりしてほしかったのだろう。

 でも私は、豆を食べる時間さえ惜しかった。


 アルベルトとは、十六の年に婚約した。

 初めて会ったころ、彼は私の計算の速さを褒めてくれた。帳簿を開く私の横に腰掛け、「君がいれば、どんな商売だって成功しそうだ」と笑った。

 あの言葉が嬉しかったから、私は十年も頑張れたのかもしれない。

 けれど去年、私が熱を出して寝込んだ日、彼は見舞いに来なかった。代わりに妹と観劇へ行き、帰ってくるなり「リリアが寂しがっていたから」と言った。

 そのとき胸に刺さったものを、私はずっと見ないふりをしていた。

 今夜、二人の手が重なっているのを見ても、もう涙は出なかった。

「セラ、婚約の件は円満に済ませたい」

 アルベルトが気まずそうに言う。

「もちろん。贈り物は一覧にして返却します。婚約解消の書類も明日お渡しします」

「……本当に、それだけか?」

「何か不足が?」

 彼は答えなかった。私に引き留めてほしかったのだろうか。

 十年かけて築いたものが終わるとき、私が心配していたのは、明日の支払期日だけだった。


     ◇


 翌朝、商会の応接室へ行くと、見知らぬ青年が私の椅子に座っていた。

 銀縁眼鏡。濃紺の上着。折り目の鋭い手袋。

 机の上には、私が昨夜つけた帳簿が開かれている。


「勝手に見ないでください」

「貸した金の行方ですから」


 青年は名刺を差し出した。

 ユリウス・ヴァイス。ヴァイス金融商会代表。

 我が家の最大の債権者だった。


「お父上がお留守だそうで」

「仕入れです」

「馬車は劇場へ向かいましたが」

「では、感性の仕入れでしょう」


 彼の口角が動いた。

 私は父の代わりに謝るのをやめ、向かいに座った。


「返済日は来月です」

「ええ。ところが、経営者が変わると伺いまして」


 誰に聞いたのかは尋ねなかった。ここで隠すほうが、よほどまずい。

 私は鞄から譲渡契約の草案を出した。

 青年は二枚目で目を止めた。


「債務承継について、太字で三か所」

「読み落とされると困るので」

「ご親切ですね」

「説明もします」


 彼は帳簿と私を見比べた。


「あなたが連帯保証をしている借金は?」

「ありません。父に署名を求められたとき、断りました」

「なぜ?」

「あの人は、私が断ったことを覚えていません。でも債権者は覚えていますから」


 ユリウスは、そこで初めて声を出して笑った。


 商会そのものには価値がある。

 私が開拓した仕入れ先と、納期を守ることで得た信用。毎月の利益も、父たちの遊興費さえなければ借入金を返せる額だった。

 ただし、主人が替われば取引を見直すという契約は多い。


「そのことも、ご説明を?」

「もちろん」

「それでも受け取るなら?」

「妹のものです」


 言い切ると、胸の奥がひどく軽くなった。

 青年は名刺の裏に数字を書いた。


「では、当商会で働きませんか」

「借金の取り立てに来たのでは?」

「優良な働き手の引き抜きも、仕事のうちです」


 提示された月給は、私がこれまで父から受け取った金の三倍だった。

 年間ではない。十年分の、三倍である。


「間違っていませんか」

「住居手当は別です」

「そこではなく」

「不満なら交渉を」


 私は名刺を、もう一度よく見た。

 自分についた値段というものを、初めて見た気がした。


     ◇


 譲渡の日、父は公証人を呼んでいた。

 私の気が変わらないうちに終えたかったらしい。


「リリアさんが引き継ぐのは資産だけではありません」


 公証人が、私の用意した一覧を読み上げる。

 倉庫。商品。在庫品。売掛金。

 そのあとに、仕入れ債務と借入金。


「ずいぶん細かいのね」

 妹が退屈そうに爪を眺めた。

「要するに、お店が丸ごと私のものになるんでしょう?」

「そうです。借金も含めて」

「商売に借金はつきものだ」


 父が胸を張る。

 返す人間が私だったときには、もっともだった。


「お父様の個人債務は残ります。こちらは譲渡されません」

「わかっている」

「私の雇用は、本日限りです」


 そこでやっと、アルベルトが顔を上げた。


「帳簿はどうするんだ?」

「お渡しします。引き継ぎの手順も書きました」

「いや、書く人間の話だ」

「お雇いになれば?」


 彼は妹を見た。妹は笑った。


「大丈夫よ。お姉ちゃんにできたんだもの」


 全員が署名した。

 ヴァイス商会を含む債権者の承諾書も添えられ、公証人が封をする。

 署名のあと、アルベルトが廊下で私を呼び止めた。

「リリアはまだ若い。君なら、少しくらい支えてやれるだろう」

「……どんな立場で?雇用されるということですか?わざわざ追い出した姉を?」

「いや、その……」

「商会の前任者としてなら、引き継ぎは済ませました。あなたの元婚約者としてなら、私にできることはありません」

 彼は唇を結んだ。

「君は昔、もっと優しかった」

「昔の私なら、あなたが私の誕生日を忘れても、リリアの誕生日の贈り物を一緒に選んでいましたね」

「そんな昔のことを」

「ええ。もう昔のことです」

 私は家の鍵を机に置いた。


「今まで、ありがとうございました」


 礼を言うのは癖だった。

 戸口で振り返ると、妹はもう私を見ていなかった。

 母の指輪を光にかざし、自分の左手に似合うか確かめていた。


     ◇


「どうして、こんなに窓があるんですか」


 新しい下宿で最初に言った言葉が、それだった。

 案内してくれたユリウスが窓を見る。


「建物の角だからでは」

「そういう意味では……」


 以前の私の部屋は、窓が一つしかなかった。

 妹が日当たりのいい部屋を欲しがって以来、ずっと。

 寝台には白い掛布。椅子が二脚。机には新品の筆記具があった。


「費用は、給料から引いてください」

「机は備品です。寝具は下宿代に含まれています」

「お茶まで」

「それは私の飲みかけなので、返してください」


 私は危うく奪いかけた茶碗を置いた。

 彼は澄ました顔で飲み干した。


 仕事は忙しかった。

 しかし夕刻になると、隣の席の婦人が私の帳簿を閉じる。


「続きは明日」

「あと二枚だけ」

「二枚やったら、次の二枚が見えるのよ」


 ユリウスまで時計を指した。

「当商会は、給料を払っていない時間に働かれると困ります」

「儲かるのでは?」

「あなたが倒れたら損です」


 なるほど、と私は頷いた。

 気遣いとして受け取るより、ずっと納得しやすかった。


 ある雨の日、私は残業を申し出た。大口の融資先が倒産しそうだと聞いたからだ。

「その件は私が引き受けます」

 ユリウスは書類を引き寄せた。

「ですが、私なら資金繰りの表を今夜中に」

「あなたが有能なのは知っています。でも、休みを取る権利まで買った覚えはありません」

「……働かせてもらえないと、落ち着かないんです」

 思わず本音が出た。彼は少し考え、帳簿を閉じた。

「では、私の頼みを一つ聞いてください」

「何でしょう」

「今日は夕食を食べて、八時間眠ること。明日の朝、元気な頭で私の計算を検算してください」

「それは仕事ですか?」

「私には重要な仕事です」

 窓の外で雨が強くなった。

 帰り際、彼は自分の傘を差し出した。

「あなたは?」

「馬車を呼びます」

「それなら一緒に馬車に乗れば」

 言ってから、私は顔が熱くなった。

 彼は眼鏡の位置を直し、「それが最も合理的ですね」と答えた。

 馬車の中では、二人とも妙に黙っていた。肩が触れるたび、雨音ばかり大きく聞こえた。


 初めての給金で、菓子を買った。

 苺の焼き菓子を一つ頼み、店員に「以上ですか」と聞かれて、思わず二つに増やした。

 誰かの分を買わないと、罰が当たりそうだったのだ。


 帰り道、商会へ戻って彼の机に包みを置いた。


「利息ですか?」

「お茶のお礼です」

「高くつきましたね」


 彼は一つを皿に載せ、残りを私の前に押した。

 二人で食べる菓子は、少しも罰の味がしなかった。


     ◇


 実家から最初の手紙が来たのは、その三日後だった。


『帳簿の場所がわからない』


 場所を書いて返した。

 翌日は『計算が合わない』。

 帳簿係を雇うよう返した。

 次は『人を雇う金がない』。

 私は紙の前で手を止めた。


 以前なら、ここで帰っていた。

 家族が困れば、私の予定は全部なくなった。


「便箋代がもったいないですよ」


 背後からユリウスの声がした。

 私は慌てて手紙を伏せた。


「すみません。仕事中に」

「昼休みです。何を書こうと自由です」


 彼は見なかったふりで、私の机に注文書を置いた。

 私が選定した染料の買い付けが、正式に通った知らせだった。


「先方が、あなたを担当にと」

「私を?」

「嫌なら断れます」

「嫌では、ありません」


 声が弾んだ。

 ユリウスは一瞬だけ、眼鏡の向こうの目を細めた。


「では、その返事を先に」


 実家への返信は、そのまま引き出しにしまった。


 仕事が増え、顔を覚えてくれる人も増えた。

 染料商の若旦那に食事へ誘われたときは、何の相談だろうと予定を確認した。

 その日の昼、ユリウスが劇場の切符を二枚持ってきた。


「商談の参考になります」

「歌劇が?」

「舞台衣装には染料を使いますから」


 筋は通っている。私は頷いた。

 隣の席の婦人が、咳払いで笑いを隠していた。


 染料商の若旦那には、食事の誘いを断るときに事情を尋ねられた。

「ほかにお約束が?」

「はい。代表と歌劇へ」

「なるほど。あの堅物がねえ」

「堅物?」

「ヴァイス代表が女性を劇場へ誘ったなんて初耳です。投資先の調査より珍しい」

 そう言って若旦那は笑った。

 その夜、鏡の前で私は何度も髪を結い直した。仕事の参考なら普段着でもいいはずなのに、なぜか青いリボンを選んだ。


 劇場の席は驚くほど前だった。

 衣装の参考なら遠くでもよかったのでは、と言うと、ユリウスは「近いほうがよく見えます」と答えた。

 幕間に、隣席の老婦人が私たちを見て微笑んだ。

「お似合いのお二人ね。ご婚約中?」

「いいえ!」

 私の声が大きすぎて、ユリウスが咳き込んだ。

「仕事の関係でして」

「そうなの。失礼したわ」

 老婦人は去ったが、私の胸はしばらく騒がしかった。

「……嫌でしたか」

 ユリウスが小声で尋ねた。

「何がです?」

「勘違いをされたことです」

「驚いただけです。嫌では、ありません」

 言い終えて、私は手元の番組表に目を落とした。

 彼が小さく息を吐くのが聞こえた。

 そのあと彼は舞台の筋を一つも覚えていなかった。翌朝、仕事の参考資料を求めると、真面目な顔で「主人公は赤い服でした」と答えた。

 主人公は最後まで白い服だった。


 彼は途中から、舞台より私の顔を見ていた。

 気づくと目を逸らすので、私も何も言えなくなった。


     ◇


 染料の最初の納品で、問題が起きた。

 届いた樽の半分が、見本より薄い。

 先方の工房長は私の顔を見るなり、「お嬢さんに色の違いがわかるのか」と鼻を鳴らした。


 私は持参した白布を、机に三枚並べた。

 見本で染めた布。納品された染料で染めた布。濃度を倍にした布。


「三枚目なら同じ色です。ただし、布一反あたりの費用も倍になります」

「水の質だろう」

「同じ桶の水を使いました」


 工房長は黙った。

 私は交換を要求した。難しいなら、不足分の追加納品を。

 父がいたら、得意先の機嫌を損ねるなと言っただろう。

 喉が乾いた。

 ここで間違えれば、せっかく雇ってくれた人に損をさせる。


 隣にいたユリウスが、懐中時計を開いた。


「私はこのあと予定があります。判断は担当者にお任せしますので」


 逃げた、と思った。

 でも彼は立たなかった。

 私の横で時計を閉じ、静かに待った。


 結局、残りの代金は交換品を確認してから支払うことになった。

 工房を出ると、膝が少し震えた。


「任せると言って、ずっといましたね」

「いてほしくなかったですか」

「……いてほしかったです」

「では、いて正解でした」


 彼は、道の向こうの果物屋へ私を連れていった。

 乾いた喉に冷たい梨の果汁が沁みた。

 失敗しなかった安心と、隣に誰かがいた安心は、別のものらしかった。


「私が間違っていたら、どうしましたか」

「訂正します」

「怒りませんか」

「程度によります。私だって、たまには」


 私は梨を持ったまま、彼を見上げた。

 何があっても怒らないと言われるより、ずっと信用できた。


「では、私も。あなたが間違ったら言います」

「お手柔らかに」


 ユリウスは自分の梨を一口齧り、ひどく顔をしかめた。

 そちらだけ、まだ熟していなかったらしい。

 私が半分を差し出すと、彼は驚いた顔で受け取った。


「安いですよ」

「何がですか」

「あなたの分の梨くらい、買います」


 そう言ったのに、彼は交換を断った。

 私からもらった半分を、大事そうに食べていた。


 それから、私たちは何度か一緒に外へ出た。

 市場で値段を調べ、工房で布を選び、帰り道には季節の菓子を買う。ユリウスは誰より細かく損益を計算するくせに、私の好物だけは値札を見ずに買った。

「甘やかすと、つけ上がりますよ」

「つけ上がったあなたを見てみたいですね」

「では、明日から社長の椅子をいただきます」

「椅子だけでいいんですか」

 私たちは笑った。

 そのころ私は、彼の足音を聞き分けられるようになっていた。廊下の向こうから近づくと、帳簿の数字が一瞬読めなくなる。

 ある日、隣席の婦人が私の顔を見て言った。

「セラさん。代表が来るたび、耳が赤くなっているわよ」

「室内が暑いので」

「冬だけどね」

 返事に困っていると、当の本人が扉を開けた。

「暖房を弱めましょうか」

 婦人はとうとう机に突っ伏した。


 一か月後、妹が商会へ来た。

 母の指輪は、もうつけていなかった。


「お姉ちゃん、ひどいわ」


 応接室に通すなり、妹は泣いた。

 仕入れ先から現金払いを要求されたこと。売掛金の回収が遅れていること。アルベルトが経営に口を出すばかりで働かないこと。

 聞き慣れた問題だった。


「手順書は読んだ?」

「あんなに多いもの、読めないわよ」

「帳簿係は?」

「お姉ちゃんが戻れば雇わずに済むでしょう」


 私は膝の上で手を握った。

 戻ると言えば、この場は簡単に収まる。

 妹は笑い、父は当然だと言い、私だけが夜中まで働く。


「戻りません」


 小さな声だった。

 言った本人にしか聞こえなかったかと思った。

 しかし妹は、ぴたりと涙を止めた。


「家族なのに?」

「仕事があるの」

「そんなの辞めればいいじゃない」


 扉が二度、鳴った。

 ユリウスが顔を出す。


「失礼。次のお約束まで、あと五分です」


 私の予定表にそんな約束はなかった。

 彼は妹を見た。


「ヴァイス商会代表、ユリウスです。御社の返済計画については、別途面談を」


 妹の表情が変わった。

 涙の残った顔で、彼を見上げる。


「お姉ちゃんばかり、ずるい」


 その言葉で、何が来るかわかった。


「私、この方とお話ししたいわ。お姉ちゃん、席を外して」


 昔から、妹は私の隣に何かを見つけると欲しがった。

 私が大事にしているとわかるほど、欲しがった。


 立ち上がりかけた私の前に、ユリウスが書類を置く。


「お話はこちらです。第一回返済額と、期限を過ぎた場合の取り扱いについて」

「そんなことじゃなくて」

「では、当商会へのご用件はありませんね」


 彼は微笑んだまま、扉を開けた。

 妹が帰ってからも、私はしばらく動けなかった。


「本当に、次の約束が?」

「あります。あなたの昼食です」

「それは約束とは」

「昨日、明日は一緒にと仰いました」


 確かに言った。

 書類を運びながら、何気なく。


「覚えていたんですか」

「ええ」


 青年は、それ以上言わなかった。

 私も立ち上がらなかった。

 目にたまったものが落ち着くまで、少しだけ待っていたかった。


     ◇


 妹が帰った翌日、私はユリウスに尋ねた。

「昨日は、助けてくださってありがとうございました」

「あなたの仕事を守っただけです」

「……それだけですか」

 彼のペンが止まった。

「それだけでは、ありません」

 心臓が跳ねた。

「あなたがあの方の言葉で傷つくのを見るのが、嫌でした」

「どうして?」

「今は、答えないほうがいいと思います」

「なぜ?」

「私はあなたの雇い主です。あなたが断りにくい立場のまま、私の気持ちを押しつけたくない」

 私は初めて、彼がいつも半歩引いている理由を知った。

「私、自分で選べます」

「知っています。だから、あなたが選べるようにしたい」

 それ以上、彼は言わなかった。

 けれど私の胸には、その沈黙のほうが長く残った。


     ◇


 父が乗り込んできたのは、その翌週だった。

 私が金持ちの商人に取り入って家族を見捨てた、と受付で怒鳴ったらしい。

 応接室には継母と妹、アルベルトまでそろっていた。


「お前が借金を押しつけたんだ!」


 父は私を見るなり机を叩いた。

 私は持参した契約書を、その拳の脇に置いた。


「説明しました。公証人の前で」

「娘が父親を騙すとは思わんだろう!」

「騙していません。借金だけを渡したのでもありません」


 資産一覧を開く。

 現金化できる商品。倉庫。馬車。

 妹が受け取ったあとに売り払った在庫と、その金で買った宝飾品の記録。


「返済用に残していた積立金もあります。使わなければ、今月分は払えました」

「婚礼の準備に必要だったのよ!」


 継母が声を尖らせた。


「私の給料も、必要です」


 口にしたら、思いのほか簡単な言葉だった。


「家賃を払って、ご飯を食べて、冬には外套を買います。お金が必要なんです」

「私たちが暮らせなくなってもいいの?」

「暮らし方を変えてください」


 妹が私を睨んだ。

 その隣で、アルベルトだけがユリウスを窺っていた。


「彼女の能力は認めています。ただ、家族の揉め事に乗じて引き抜くというのは、商人としていかがなものかと」

「労働条件を提示し、彼女が選びました」

「いくら払っているんです?」


 私が止めるより早く、ユリウスは金額を答えた。

 四人の顔が変わった。


「そんなに?」

 父の目が、ようやく私を見た。

「なら半分を家へ――」

「お断りします」


 今度は、はっきり言えた。


「私は妹に、商会を譲りました。婚約者も、この家での暮らしも。望まれたものは全部、お渡ししました」

「だったら最後まで面倒を見なさいよ!」


 妹が叫ぶ。

 私は契約書を閉じた。


「あなたの商会よ。私が勝手に取り返すわけにはいかないでしょう」


 ところが、父たちはまだ帰ろうとしなかった。

「そもそも、セラが帳簿を細工したんじゃないのか!」

 父の一言で、部屋の空気が変わった。

「証拠はありますか」

 ユリウスの声が冷えた。

「この娘がいなくなってから売上が落ちた。おかしいだろう!」

「むしろ自然です。取引先の三社から、納期遅延と品質不良の報告を受けています」

 彼は封筒を開いた。

「さらに、御社が当商会に提出した先月の売上報告には、架空の売掛金が含まれていました」

 妹の顔から血の気が引いた。

「だ、だって、アルベルト様がそうすれば融資が通るって」

「リリア!」

 アルベルトが叫ぶ。

「君が数字を良く見せろと言ったんだろう!」

「私、帳簿なんてわからないもの!」

「だからこそ、わかる者を雇うべきでした」

 私は言った。

「私が残した手順書の一枚目にも、そう書いてあります」

 ユリウスは淡々と続けた。

「虚偽の報告は信用問題です。追加融資は停止。既存の返済は契約どおり履行していただきます。帳簿は第三者の会計士に確認させます」

「そんな!」

 継母が立ち上がった。

「貴族の家を潰す気ですか!」

「家を潰すのは私どもではありません。資金の使途を決めた方々です」

 私は父を見た。

「商会の利益で借金を返せたはずです。婚礼の馬車を買わなければ。新しい宝石を買わなければ。帳簿係を雇っていれば」

 妹が唇を震わせる。

「お姉ちゃんは、私が困るってわかっていたんでしょう!」

「ええ。だから説明したわ。借金も、取引先との契約も、必要な仕事も」

「だったら止めてよ!」

「あなたは、私に全部譲れと言ったのよ」

 妹の目から涙が落ちた。

「商会を持つということは、利益だけじゃなく責任も持つことなの」

 私が立ち上がると、アルベルトが追いすがった。

「セラ、待ってくれ。僕たちは十年も一緒にいた。君ならわかってくれるだろう?」

「わかります。あなたは、私が働いている間にリリアと観劇をしていた」

「それは……」

「私の誕生日を忘れても、彼女の好物は覚えていた」

 彼は目を伏せた。

「私はあなたの恋人ではなく、便利な帳簿係だったのね」

「違う! 君がいないと、僕は……」

「困るでしょうね」

 私は微笑んだ。

「でも、もう私には関係ない話です。」

 彼の手をそっと外す。驚くほど簡単だった。


 そのあとの返済交渉には、同席しなかった。

 父たちは屋敷を売って規模を縮小し、商会を続けることになった。

 妹の婚礼は延期され、アルベルトとの婚約はほどなく解消されたと聞いた。

 借金は消えない。

 私が夜中につけていた帳簿も、誰かがつける必要がある。

 今度は、持ち主たちが相談していた。


     ◇


 数週間後、商業組合の集まりで妹と再会した。

 かつて母の宝石を飾っていた首には、細い紐だけがあった。父の商会は取引先への支払いを優先するため、屋敷と馬車を手放していた。

 妹は私を見つけると、いつものように駆け寄ってきた。

「お姉ちゃん! 組合の人に、昔の商会の売上を作ったのは私だって言ってくれない?」

「なぜ?」

「新しい仕入れ先に信用してもらいたいの」

 私は少し考えた。

「嘘は言えないわ」

「一言くらい、いいじゃない!」

 周囲の商人たちが振り返る。

 そこへ、以前から付き合いのある染料商の主人が来た。

「セラさん! 新しい契約、おめでとうございます。あなたが前の商会を辞めてから、あちらとの取引は大変でしてね」

「ご迷惑をおかけしました」

「あなたのせいではありません。約束を守る人と商売をしたい、それだけです」

 主人は妹に軽く会釈し、私に新しい注文書を渡した。

 妹はその紙を見つめていた。

「……ずるい。」

「ずるいかしら。ただ当たり前に仕事をしてるだけよ。」

 妹は何も言い返せなかった。

 会場の向こうではアルベルトが、かつて私に見せたことのない真剣な顔で、取引先に頭を下げていた。彼もようやく、自分で働かなければならないと知ったのだろう。


     ◇


 春の決算が終わった日、ユリウスが深刻な顔で帳簿を見ていた。

 当商会の利益は、昨年より増えているはずだった。


「問題が?」

「個人的な支出に」


 差し出された帳簿には、歌劇、菓子、花、また歌劇、と並んでいた。

 全部、私と出かけた日のものだった。


「経費ではなかったんですか」

「経理に却下されました」


 隣の席から、婦人の誇らしげな咳払いが聞こえた。


「それで、今後の方針を決めたいのですが」


 ユリウスが眼鏡を外した。

 いつもより、少しだけ若く見える。


「商談にかこつけてお誘いするのは、やめようと思います」


 私は頷きかけて、止まった。

 胸の奥が、すっと冷たくなる。


「そうですか」

「セラ」


 名前を呼ばれた。

 役職も敬称もつかない声で。


「今度の休日、私と食事に行っていただけませんか。仕事の話は、抜きで」


 彼は帳簿の端を押さえていた。

 難しい融資の交渉でも見たことがないくらい、指に力が入っていた。


「……私、たくさん食べますよ」

「承知しています」

「菓子も」

「存じています」

「今度は、私にも払わせてください」


 彼が少し困った顔をした。

 私は机の引き出しから、自分の財布を出した。


「あなたにご馳走したいんです。私のお金で」


 ユリウスは、しばらく財布を見ていた。

 それから諦めたように笑った。


「では、次は私に」

「はい」

「その次も」

「交互です」


 即答すると、彼は肩を落とした。

 商談では一度も負けない人が、私の前ではときどきこうなる。

 私はそれが、ずいぶん好きだった。


 休日、私たちは小さな食堂で昼食を取った。

 仕事の話をしないと決めた途端、二人とも何を話せばいいのかわからなくなった。

「あなたの好きなものを、まだほとんど知りません」

 私が言うと、ユリウスは真剣に考えた。

「雨上がりの匂い。古い地図。甘くない紅茶」

「私は、焼きたてのパン。晴れた朝。……それから」

「それから?」

「あなたが、私に負けて困った顔をするところ」

 彼は本当に困った顔をした。

「それは、かなり頻繁に見られますね」

「ええ。お得です」

 食事のあと、川沿いを歩いた。

「セラ」

 彼が足を止める。

「あなたに、好きな人がいるか尋ねても?」

「います」

 即答すると、彼は眼鏡を押し上げた。

「……そうですか」

「とても仕事ができるのに、たまに変な言い訳をする人です」

 彼が顔を上げる。

「歌劇を染料の研究だと言ったり、私の菓子を利息と呼んだり」

「それは、随分と不器用な男ですね」

「そう思います」

 私は自分から彼の手を取った。

「でも、好きなんです」

 ユリウスの手が、恐る恐る握り返してきた。

「私も、あなたが好きです。雇用契約とは無関係に」

「知っています」

「いつから?」

「主人公の衣装の色を間違えた日から、少しずつ」

 彼は天を仰いだ。

「もっと早く言えばよかった」

「私は今がいいです。ちゃんと、自分で選べたから」

 川面を渡る風が、頬を撫でた。

 初めての口づけは、彼が尋ね、私が頷いてからだった。

 誰かに奪われるのではなく、誰かに譲るのでもない。私が望んで手を伸ばした、初めての恋だった。


 窓の外は明るかった。

 明日の仕事も、休日の約束もある。

 財布の中には、私が稼いだお金が入っている。


「それから、花はもう買わなくていいです」

「お嫌いでしたか」

「部屋の花瓶が足りません」


 彼は真剣に考え込んだ。


「では、次は花瓶を」

「そういうことではありません」


 隣の席で、ついに婦人が噴き出した。

 私も笑った。

 誰にも譲らない休日を、数えながら。



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