婚約しよう。
中世魔界――。
魔族たちが暮らすヴァルディア王国。その王国騎士団を率いるのは、若干十九歳の青年、ルイス・ウォリックだった。
若すぎる。
そう陰で囁く者も少なくない。
だが、ルイスは実力だけでその地位を勝ち取った。剣技も魔力も一流。何より、誰よりも高い誇りを持っている。
――そんな彼にも、唯一敵わない相手がいる。
「ルイス!」
「……」
王城の廊下を歩いていたルイスは、聞き慣れた声を無視した。
「ルイスってば!」
「…………」
「ル・イ・ス!」
「うるさい」
仕方なく振り返る。
そこにいたのは、銀色の髪を揺らす少女――フィーナ・シュヴァルツ。
十八歳。
紫色の瞳を細め、悪戯っぽく笑っている。
「やっと振り向いた」
「最初から無視していると分かっていただろう」
「うん。でも、ルイスって三回呼ぶと絶対振り向くから」
「……そんな法則を勝手に作るな」
「昔からそうだよ」
フィーナは楽しそうに笑った。
それが妙に腹立たしい。
幼い頃からそうだった。
ルイスが剣の練習をすれば横から口を出し、魔法の勉強をすれば邪魔をし、少しでも格好をつけようものなら、すぐに笑われる。
それなのに。
落ち込んでいるときだけは、誰より早く隣に来る。
だからルイスは、彼女を嫌いになれなかった。
――いや。
むしろ、その逆だった。
「それで、何の用だ」
「大事な話」
「嫌な予感しかしない」
「失礼ね」
フィーナは頬を膨らませる。
そして、突然言った。
「私と結婚しない?」
「断る」
「即答!?」
「考えるまでもない」
「ひどい!」
フィーナはむっとする。
しかし次の瞬間には、また笑っていた。
「じゃあ、私が他の人と結婚してもいい?」
「……好きにしろ」
「本当に?」
「お前の人生だ」
「じゃあ、騎士団の副団長さんとか」
「駄目だ」
「なんで?」
「……あいつは駄目だ」
「ふふっ」
「何だ」
「別に?」
フィーナの目が楽しそうに細められる。
「ルイスって、ほんっと分かりやすいね」
「意味が分からない」
「じゃあ、私が誰かに取られても平気なんだ?」
「…………」
ルイスは答えなかった。
フィーナはそんな彼を見て、満足そうに笑った。
「そっか」
「何がだ」
「ううん。何でもない」
その日からだった。
フィーナは妙に距離を詰めてくるようになった。
朝になれば迎えに来る。
昼になれば隣に座る。
仕事が終われば待っている。
そして毎日のように言うのだ。
「ルイスって、私がいなくなったら困る?」
「困らない」
「じゃあ、私が明日から王都を離れたら?」
「……好きにしろ」
「ふーん」
「何だ、その顔は」
「別に?」
ルイスには分からなかった。
フィーナが何を考えているのか。
ただ一つだけ分かることがある。
自分は、彼女にいなくなってほしくない。
絶対に。
⸻
数日後。
王宮で晩餐会が開かれた。
両家の婚約話が正式に進められることになったため、二人も出席することになったのだ。
会場に入った瞬間、フィーナがルイスの腕に自分の腕を絡めた。
「おい」
「何?」
「近い」
「婚約者なんだからいいでしょう?」
「まだ婚約していない」
「じゃあ、今日する?」
「……」
ルイスが黙る。
フィーナはくすりと笑った。
「ほら、また黙った」
その夜、フィーナはやけに美しかった。
銀髪は月明かりのように輝き、紫の瞳にはいつもの悪戯っぽさがある。
ルイスは何度も視線を逸らした。
見ていることを、彼女に気づかれたくなかった。
「ルイス」
「何だ」
「私ね」
フィーナが小さく笑う。
「今日、誰かにプロポーズされるかも」
「……は?」
「さっき、そういう話をしてる人がいたの」
「誰だ」
「秘密」
「フィーナ」
「でも、断るつもり」
「……なぜ」
「好きな人がいるから」
心臓が跳ねた。
「……誰だ」
「教えない」
「お前な……」
「知りたい?」
「……」
「じゃあ、ルイスが聞いて」
「どういう意味だ」
フィーナは笑った。
「自分で考えて」
そう言って、彼女は人混みの中へ消えていった。
「……何なんだ、あいつは」
ルイスは頭を抱えた。
だが、その直後。
王家から、二人の婚約について正式な承認が下りたという知らせが届いた。
両家も婚約に賛成している。
あとは――本人たちが意思を示すだけ。
ルイスは一人、庭園へ出た。
月が綺麗だった。
そこにフィーナがいた。
「……フィーナ」
「来たね」
「お前、俺を呼び出したのか?」
「うん」
フィーナは月明かりの下で振り返った。
「私ね、ずっと待ってるの」
「何を」
「ルイスが言ってくれるのを」
「……何をだ」
フィーナは答えなかった。
ただ、紫色の瞳で真っ直ぐに彼を見つめる。
ルイスの胸が激しく鳴る。
ずっと言えなかった。
幼い頃から。
何年も。
何度も。
彼女が他の男と話すたびに嫉妬した。
笑いかけられるたびに嬉しかった。
隣にいることが当たり前になりすぎて、失うことなんて考えたくなかった。
なのに、たった一言が言えない。
「……俺は」
ルイスは拳を握った。
「俺は、お前が好きだ」
フィーナの目が少しだけ見開かれる。
「ずっと前から好きだった」
「……うん」
「お前が誰かのものになるなんて、耐えられない」
「うん」
「だから――」
ルイスは彼女の前に立つ。
そして、まっすぐにフィーナの目を見た。
「俺と結婚してほしい」
沈黙。
数秒後。
フィーナはふわりと笑った。
「はい」
「……」
「喜んで」
ルイスは固まった。
「……本当に?」
「うん」
「後悔しないか?」
「しないよ」
「俺は、お前が思っているほど優しくないぞ」
「知ってる」
「頑固だ」
「知ってる」
「意地っ張りだ」
「それも知ってる」
「……なら」
ルイスは少しだけ笑った。
「一生、俺の隣にいろ」
「うん」
フィーナは彼の手を取った。
その瞬間、彼女の瞳からほんの一瞬だけ笑みが消えた。
――これで、いい。
誰にも聞こえないほど小さく呟く。
けれど次の瞬間には、いつもの天真爛漫な笑顔に戻っていた。
「ねえ、ルイス」
「何だ」
「プロポーズ、もう一回して」
「は?」
「ちゃんと聞きたい」
「……お前、さっき聞いただろう」
「もう一回」
「嫌だ」
「じゃあ婚約破棄しようかな」
「お前……!」
フィーナは楽しそうに笑う。
「冗談だよ」
ルイスは深い溜息をついた。
このときのルイスは、まだ知らない。
幼い頃から続いてきた、フィーナとの他愛ないやり取りも、積み重ねてきた約束も、やがて王国そのものを揺るがす出来事へと繋がっていくことを。
そして――。
フィーナがなぜ、自分との婚約を急いでいるのか。
その理由を知ることになるのは、まだ少し先の話だった。




