第1話 逃げちゃおうか
放課後の教室は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
窓の外では野球部の掛け声が遠くに聞こえるが、この教室だけは時間が止まったように静かだ。
俺――守本は、生徒会の書類を前にして、ため息をひとつ落とした。
机の上にはプリントの山。クラスの係の仕事、明日の会議資料、提出物。
どれも今日中に片付けないといけないものばかりだ。
「なぁ、守本」
隣の席から声がした。
村木だ。プリントを写しながら、こっちを見てニヤニヤしている。
「このまま一緒に逃げちゃおうか」
「……は?」
あまりに唐突すぎて、思わず手が止まった。
「いやいや、何言ってんだよ。プリント終わってからにしろよ」
「じゃあ、このプリント終わってからな」
「ふざけてるって思ってる?」
「ふざけてるとは思ってないよ。戯言言ってるなぁ、とは思ってるけど」
「戯言って言ってんじゃん」
俺が睨むと、村木は肩をすくめて笑った。
「こっちは真面目だよ?」
「俺も真面目に書きたいんだが」
「俺見てる方が楽しいでしょ?」
「すごい自信だな」
「自信だけはある」
本当にこいつは、どこからその自信が湧いてくるんだろう。
「じゃあ、その自信に免じて、お前んこと見ててやるから。ほら、笑わせろよ」
「そんなこともあろうかと! ジャーン!」
村木が効果音をつけながら取り出したのは、数IIのノートだった。
「どう見ても、さっきまで俺のノート見て写してたノートじゃんか」
「その節はどうもー。じゃなくて、なんで俺が黒板を書き写さなかったかってことだよ」
「確かに。寝てはいなかったはずなのに、授業なんも聞いてなかったって泣きついてきたもんな」
「泣いてないやい」
「いつも寝ててノート取ってない奴が何を言うか。もう見せないぞ」
「うわーん、それは後生だよ、モリえもん」
「誰がどら焼き大好きだよ。守本だって」
「いや、知ってるけど?」
「……」
「……」
「これ以上こんな茶番に付き合わせるなら、俺はまだやることが――」
「あ、まだノートの話してない。もちっと待てって」
「ノートの話?」
「俺が寝てたわけでもないのに黒板を見てなかった理由だよ」
「はぁ」
「そ、れ、は――」
村木がわざとらしく間を取る。
「一度は言ってみたいカッコいい台詞を考えて……って、席を立つな、机の上片付け始めるな、その顔やめろよ!」
俺は無言でプリントをまとめていたらしい。
村木曰く、俺の顔は「レジで前のカップルがイチャつき始めて、見なければ進み具合が分からないから見るしかない時の、やるせなさと怒りが混ざった顔」だったらしい。
「それがさっきの言葉?」
「うん、そう。カッコよかったでしょ?」
「君を守るよ、とか、君のために戦う、とか言わないところが村木だなって思う」
「痛いのヤダ」
「そういう自分に正直なところ」
それが羨ましくもあり、ちょっとだけ尊敬しているところでもある。
本人には絶対言わないけど。
「守るのも戦うのも、誰かを攻撃するってことじゃん? でも逃げちゃえば誰も傷つかないし。俺、足早いし!」
「逃げた後は?」
「気の済むまで遊んで、疲れたら帰って寝ればいいんじゃない?」
「それはただのデートだ」
「キャ、デートだなんて」
「なんでそこで照れるんだよ」
「じゃあ、守本はしたことあんのかよ、デート」
「……無いけど」
「だよな、知ってた」
「俺は面白いもん見せろって言ってんだ。怒らせてどうするよ?」
「えー、じゃあさ」
村木が椅子から立ち上がり、俺の前に跪いた。
「……は?」
教室に他の誰かが残っていたら、恥ずかしすぎて蹴り飛ばしていたかもしれない。
「これから俺と愛の逃避行なんてどう?」
真っ直ぐに目を見つめられて、俺は思わず目を逸らした。
「生徒会の仕事とか、クラスの係の仕事とかさー、ぜーんぶ引き受けちゃう守本もすごいと思うけど、今日は逃げちゃおうぜ」
そう言って村木はポケットから、少しよれたファストフードのクーポン券を取り出した。
日付を確認して、ほっとしたように笑う。
「まだ使える!」
その顔が妙に嬉しそうで、なんだか力が抜けた。
「……しょうがない。今日だけは一緒に逃げてやるよ」
「よっしゃ!」
「明日、一緒に叱られてくれよ」
「もちろん!」
村木は満面の笑みを浮かべた。
その笑顔を見て、俺はようやく気づいた。
――ああ、こいつは本気で俺を連れ出そうとしてくれたんだ。
俺が抱えているものを、少しでも軽くしようとして。
そんなこと、言葉にしなくても分かる。
だから俺は、今日だけは逃げることにした。
村木と一緒に。




