「便利な婚約者」を辞めたら、冷徹公爵が跪いてきました
「便利な婚約者」を辞めたら、冷徹公爵が跪いてきました
「君は社交が苦手だから、僕が代わりに」
優しく微笑むクラウスの言葉を、私はまた今日も信じた。
三年間、ずっとそうしてきたように。
辺境伯令嬢のリディア・フォレストと侯爵令息クラウス・アルトハイムの婚約は、両家の利益が一致した政略結婚だった。だからこそ、私は必死に「良い婚約者」であろうとした。領地経営を学び、財政報告書を作成し、クラウスの家の商会事業に助言を送った。
けれど彼が私を舞踏会に連れて行くことは、一度もなかった。
「君は社交が苦手だろう? 僕が代わりに人脈を作ってくる」
そう言って、彼は華やかな衣装に身を包み、屋敷を出ていく。
私は書斎に残り、また次の報告書に向き合った。
何か違和感があった。
けれど、それが何なのか、私には分からなかった。
答えは、三年目の春に訪れた。
クラウスが舞踏会から戻った深夜、私はいつものように書斎で領地の収支表を整理していた。彼は私の部屋をノックすることもなく、書斎の扉を開ける。
「リディア、話がある」
珍しく真剣な表情だった。
私は羽根ペンを置き、彼を見上げた。
「婚約破棄だ」
その一言は、あまりにも唐突だった。
「君には、もっと相応しい相手がいる」
彼は優しく微笑んだ。
いつも私を「守ろう」とするときの、あの笑顔で。
「僕には、愛する人ができた。君も、本当に君を必要としてくれる人を見つけるべきだ」
ああ、そうか。
ようやく理解した。
三年間、私はずっと「便利な婚約者」だったのだ。
社交界に出さなくてよい。屋敷で書類仕事をさせておけばいい。必要な助言だけ貰えればいい。そして彼は、自由に愛人と過ごしていた。
「君は社交が苦手だから」――あれは優しさではなく、私を社交界から隔離する口実だった。
不思議なことに、怒りは湧いてこなかった。
むしろ、解放感が胸に広がった。
「分かりました」
私は静かに答えた。
「では、これまでの婚約期間中に私が作成した全ての報告書、財政支援の記録、商会への助言、それら全ての原本を、明日までに返却してください」
クラウスの顔色が変わった。
「……それは、どういう意味だ?」
「婚約が解消されるなら、婚約者として提供していた支援も、当然終了します。過去三年分の支援記録は、私の個人資産から拠出したものですから、返却を求める権利があります」
彼は初めて、狼狽した表情を見せた。
「待ってくれ、リディア。それは――」
「ああ、もちろん」
私は微笑んだ。
彼がいつも私に向けていた、あの「優しい」笑顔で。
「婚約解消は、貴方が望んだこと。私はただ、それに応じているだけです。どうぞ、お幸せに」
書斎を出る彼の背中は、どこか小さく見えた。
◆
翌日、私は父に婚約破棄を報告した。
「そうか」
父は意外なほど穏やかに頷いた。
「お前が三年間、どれだけあの家を支えてきたか、わしは知っている。よく決断した」
「……父上は、知っていたのですか?」
「領地の財政記録を見れば分かる。お前がどれだけの資金と知恵を注ぎ込んできたか。だが、お前が自分で決めるまで、わしは何も言わんと決めていた」
父の言葉に、目頭が熱くなった。
「これからどうする?」
「しばらく、領地の仕事を手伝わせてください。それから……」
それから、何をしよう。
三年間、私はクラウスの「便利な道具」として生きてきた。
これからは、自分のために生きたい。
そう思った矢先、執事が応接間に客人が訪れたことを告げた。
「北方公爵、ヴェルナー・フォン・ノルトヴィント様がお見えです」
父と私は顔を見合わせた。
ヴェルナー公爵。
「冷徹公爵」と恐れられる、北方の守護者。
王宮でも一二を争う実力者でありながら、その無愛想な態度と苛烈な領地統治で知られている。
なぜ、そのような人物が、辺境伯の屋敷に?
応接間に通されると、そこに立っていたのは――黒い髪と鋼色の瞳を持つ、長身の男性だった。噂通り無表情で、近寄りがたい雰囲気を纏っている。
「初めまして、リディア・フォレスト嬢」
彼の声は低く、静かだった。
「突然の訪問を許してほしい。貴女に、伝えたいことがある」
私は緊張しながら、椅子に座った。
父は一度私を見てから、席を外した。二人きりになる。
「貴女のことは、以前から知っていた」
ヴェルナー公爵は、懐から一冊の冊子を取り出した。
「これは、二年前の商業会議で、アルトハイム侯爵家が提出した商会改革案だ。だが、この内容は――」
「……私が書いたものです」
私は小さく答えた。
あれは、クラウスが「僕の案として提出する」と言っていた報告書だった。彼の商会が抱えていた流通問題を解決するため、私が三ヶ月かけて調査し、まとめたものだ。
「やはり」
ヴェルナー公爵は、初めて表情を緩めた。
それは微笑みとは言えないほど小さな変化だったけれど、確かに彼の目が優しくなった。
「この案は、北方の商業ギルドでも参考にさせてもらった。貴女の洞察力と実務能力を、私は高く評価している」
「あの……それは、嬉しいですが」
「単刀直入に言う」
彼は真っ直ぐに私を見つめた。
「貴女と、婚約したい」
時間が止まった。
「私の領地は広大だが、統治は複雑だ。軍事は得意だが、内政と財政には常に頭を悩ませている。貴女のような人材が、私には必要だ」
「……それは、また私を『便利な婚約者』にするということですか?」
思わず、声が震えた。
ヴェルナー公爵は、ゆっくりと首を横に振った。
「違う」
彼は立ち上がり、私の前で――跪いた。
「私が求めているのは、対等なパートナーだ。貴女の知識も、能力も、全てを尊重する。私の領地経営に協力してほしいが、それは命令ではなく、依頼だ。貴女が望まないことは、決して強制しない」
彼の鋼色の瞳が、真剣に私を見つめている。
「私は社交が得意ではない。だが、貴女を舞踏会に連れて行く。隣に立ってほしい。隠すのではなく、誇示したい。貴女という存在を、世界に示したい」
私の目から、涙が零れた。
「貴女は、誰かの『便利な道具』ではない。一人の人間として、尊敬に値する存在だ。私と共に、対等な関係を築いてはくれないか」
三年間、求めていたもの。
それは、この言葉だった。
「……お答えするには、少し時間をください」
声が震えていた。
「もちろん」
ヴェルナー公爵は立ち上がり、穏やかに微笑んだ。
「二週間後、王宮で舞踏会がある。そこで、貴女の答えを聞かせてほしい。それまでは、何度でも会いに来る。貴女のことを、もっと知りたい」
◆
それから二週間、ヴェルナー公爵は本当に毎日訪れた。
領地経営の話をし、北方の気候について教えてくれ、時には黙って書斎で私の仕事を手伝った。彼は約束通り、私に何も強制しなかった。
そして私は、少しずつ理解した。
彼が求めているのは「便利な道具」ではなく、本当に「対等なパートナー」なのだと。
舞踏会の日。
私は生まれて初めて、華やかなドレスを纏って王宮に向かった。
ヴェルナー公爵がエスコートしてくれる。
会場に入ると、視線が集中した。
「冷徹公爵が、女性を連れている」――ざわめきが広がる。
そして、クラウスの姿が目に入った。
彼は愛人らしき女性と共にいたが、私を見つけると顔色を失った。
「リディア……」
彼が近づいてくる。
「どういうことだ。なぜ、ヴェルナー公爵と……」
「貴方には関係ないことです」
私は静かに答えた。
「婚約は破棄されました。私がどこで、誰と過ごそうと、貴方に口出しする権利はありません」
「待ってくれ。あの支援の件だが、もう一度考え直して――」
「リディア嬢」
ヴェルナー公爵が、私の前に立った。
その存在感に、クラウスは言葉を失う。
「この方は、もう貴方の『便利な道具』ではない」
公爵の声は低く、静かだったが、会場中に響き渡った。
「リディア・フォレスト嬢は、北方の内政を任せられる唯一の人物だ。その知識と能力を、私は心から尊敬している」
彼は私の手を取り、跪いた。
会場が、静まり返った。
「リディア嬢。改めて問う。貴女は、私の妻となり、対等なパートナーとして共に歩んでくれるか?」
これは、公開求婚だった。
逃げ場のない、覚悟の証明。
「……はい」
私は微笑んだ。
今度は、心からの笑顔で。
「喜んで」
会場が、拍手に包まれた。
クラウスは何も言えず、ただ立ち尽くしていた。
彼の隣にいた愛人は、不安そうに彼の袖を引いている。
「お幸せに、クラウス様」
私は最後に、彼に微笑んだ。
「貴方が私を解放してくれたから、私は本当の幸せを見つけられました。感謝しています」
それは皮肉ではなく、本心だった。
彼が婚約を破棄してくれなければ、私はずっと「便利な道具」のままだった。
ヴェルナー公爵が、私の手に口づけた。
「これから、よろしく頼む。パートナー」
「こちらこそ」
私は彼の手を握り返した。
◆
それから三ヶ月後。
クラウスの家の商会は、私の支援が途絶えたことで経営が傾き始めた。彼が愛人を正妻にすると発表したことで、社交界での評判も落ちた。「便利な婚約者を捨てた男」として、囁かれるようになったらしい。
私は何もしていない。
ただ、支援を止めただけ。
彼が自分で選んだ道を、自分で歩んでいるだけだ。
一方、北方の領地は私の助言で財政が安定し、ヴェルナー公爵の評判も「冷徹」から「公正」に変わりつつあった。
「リディア」
執務室で報告書を作成していると、夫が紅茶を持って入ってきた。
「休憩しよう。働きすぎだ」
「貴方こそ、さっきまで訓練場にいたでしょう」
「お互い様だな」
彼は微笑んで、私の隣に座った。
「……幸せか?」
唐突な質問に、私は頷いた。
「ええ。とても」
「それならいい」
彼は私の手を取り、優しく握った。
「君を、二度と『便利な道具』にはしない。これは約束だ」
「知っています」
私は彼の手を握り返した。
窓の外では、北方の雪が静かに降り始めていた。
冷たいはずの雪景色が、今日はとても温かく見えた。
私はもう、誰の「便利な婚約者」でもない。
ただ、愛する人の、対等なパートナーだ。
それが、私の見つけた本当の幸せだった。
お読みいただき、ありがとうございました。
「便利な存在」として扱われることの寂しさと、本当に対等な関係を築けたときの温かさを描きたいと思い、この作品を書きました。
リディアのように、自分の価値を見失いそうになることは、誰にでもあると思います。でも、必ずそれを認めてくれる人はいる――そんなメッセージを込めました。
評価・ブックマークいただけると、とても励みになります。
また別の作品でお会いできることを楽しみにしています。




