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「便利な婚約者」を辞めたら、冷徹公爵が跪いてきました

作者: 夢見叶
掲載日:2026/02/07

「便利な婚約者」を辞めたら、冷徹公爵が跪いてきました



「君は社交が苦手だから、僕が代わりに」


 優しく微笑むクラウスの言葉を、私はまた今日も信じた。

 三年間、ずっとそうしてきたように。


 辺境伯令嬢のリディア・フォレストと侯爵令息クラウス・アルトハイムの婚約は、両家の利益が一致した政略結婚だった。だからこそ、私は必死に「良い婚約者」であろうとした。領地経営を学び、財政報告書を作成し、クラウスの家の商会事業に助言を送った。


 けれど彼が私を舞踏会に連れて行くことは、一度もなかった。


「君は社交が苦手だろう? 僕が代わりに人脈を作ってくる」


 そう言って、彼は華やかな衣装に身を包み、屋敷を出ていく。

 私は書斎に残り、また次の報告書に向き合った。


 何か違和感があった。

 けれど、それが何なのか、私には分からなかった。


 答えは、三年目の春に訪れた。


 クラウスが舞踏会から戻った深夜、私はいつものように書斎で領地の収支表を整理していた。彼は私の部屋をノックすることもなく、書斎の扉を開ける。


「リディア、話がある」


 珍しく真剣な表情だった。

 私は羽根ペンを置き、彼を見上げた。


「婚約破棄だ」


 その一言は、あまりにも唐突だった。


「君には、もっと相応しい相手がいる」


 彼は優しく微笑んだ。

 いつも私を「守ろう」とするときの、あの笑顔で。


「僕には、愛する人ができた。君も、本当に君を必要としてくれる人を見つけるべきだ」


 ああ、そうか。

 ようやく理解した。


 三年間、私はずっと「便利な婚約者」だったのだ。

 社交界に出さなくてよい。屋敷で書類仕事をさせておけばいい。必要な助言だけ貰えればいい。そして彼は、自由に愛人と過ごしていた。


「君は社交が苦手だから」――あれは優しさではなく、私を社交界から隔離する口実だった。


 不思議なことに、怒りは湧いてこなかった。

 むしろ、解放感が胸に広がった。


「分かりました」


 私は静かに答えた。


「では、これまでの婚約期間中に私が作成した全ての報告書、財政支援の記録、商会への助言、それら全ての原本を、明日までに返却してください」


 クラウスの顔色が変わった。


「……それは、どういう意味だ?」


「婚約が解消されるなら、婚約者として提供していた支援も、当然終了します。過去三年分の支援記録は、私の個人資産から拠出したものですから、返却を求める権利があります」


 彼は初めて、狼狽した表情を見せた。


「待ってくれ、リディア。それは――」


「ああ、もちろん」


 私は微笑んだ。

 彼がいつも私に向けていた、あの「優しい」笑顔で。


「婚約解消は、貴方が望んだこと。私はただ、それに応じているだけです。どうぞ、お幸せに」


 書斎を出る彼の背中は、どこか小さく見えた。



 翌日、私は父に婚約破棄を報告した。


「そうか」


 父は意外なほど穏やかに頷いた。


「お前が三年間、どれだけあの家を支えてきたか、わしは知っている。よく決断した」


「……父上は、知っていたのですか?」


「領地の財政記録を見れば分かる。お前がどれだけの資金と知恵を注ぎ込んできたか。だが、お前が自分で決めるまで、わしは何も言わんと決めていた」


 父の言葉に、目頭が熱くなった。


「これからどうする?」


「しばらく、領地の仕事を手伝わせてください。それから……」


 それから、何をしよう。

 三年間、私はクラウスの「便利な道具」として生きてきた。

 これからは、自分のために生きたい。


 そう思った矢先、執事が応接間に客人が訪れたことを告げた。


「北方公爵、ヴェルナー・フォン・ノルトヴィント様がお見えです」


 父と私は顔を見合わせた。


 ヴェルナー公爵。

 「冷徹公爵」と恐れられる、北方の守護者。

 王宮でも一二を争う実力者でありながら、その無愛想な態度と苛烈な領地統治で知られている。


 なぜ、そのような人物が、辺境伯の屋敷に?


 応接間に通されると、そこに立っていたのは――黒い髪と鋼色の瞳を持つ、長身の男性だった。噂通り無表情で、近寄りがたい雰囲気を纏っている。


「初めまして、リディア・フォレスト嬢」


 彼の声は低く、静かだった。


「突然の訪問を許してほしい。貴女に、伝えたいことがある」


 私は緊張しながら、椅子に座った。

 父は一度私を見てから、席を外した。二人きりになる。


「貴女のことは、以前から知っていた」


 ヴェルナー公爵は、懐から一冊の冊子を取り出した。


「これは、二年前の商業会議で、アルトハイム侯爵家が提出した商会改革案だ。だが、この内容は――」


「……私が書いたものです」


 私は小さく答えた。


 あれは、クラウスが「僕の案として提出する」と言っていた報告書だった。彼の商会が抱えていた流通問題を解決するため、私が三ヶ月かけて調査し、まとめたものだ。


「やはり」


 ヴェルナー公爵は、初めて表情を緩めた。

 それは微笑みとは言えないほど小さな変化だったけれど、確かに彼の目が優しくなった。


「この案は、北方の商業ギルドでも参考にさせてもらった。貴女の洞察力と実務能力を、私は高く評価している」


「あの……それは、嬉しいですが」


「単刀直入に言う」


 彼は真っ直ぐに私を見つめた。


「貴女と、婚約したい」


 時間が止まった。


「私の領地は広大だが、統治は複雑だ。軍事は得意だが、内政と財政には常に頭を悩ませている。貴女のような人材が、私には必要だ」


「……それは、また私を『便利な婚約者』にするということですか?」


 思わず、声が震えた。


 ヴェルナー公爵は、ゆっくりと首を横に振った。


「違う」


 彼は立ち上がり、私の前で――跪いた。


「私が求めているのは、対等なパートナーだ。貴女の知識も、能力も、全てを尊重する。私の領地経営に協力してほしいが、それは命令ではなく、依頼だ。貴女が望まないことは、決して強制しない」


 彼の鋼色の瞳が、真剣に私を見つめている。


「私は社交が得意ではない。だが、貴女を舞踏会に連れて行く。隣に立ってほしい。隠すのではなく、誇示したい。貴女という存在を、世界に示したい」


 私の目から、涙が零れた。


「貴女は、誰かの『便利な道具』ではない。一人の人間として、尊敬に値する存在だ。私と共に、対等な関係を築いてはくれないか」


 三年間、求めていたもの。

 それは、この言葉だった。


「……お答えするには、少し時間をください」


 声が震えていた。


「もちろん」


 ヴェルナー公爵は立ち上がり、穏やかに微笑んだ。


「二週間後、王宮で舞踏会がある。そこで、貴女の答えを聞かせてほしい。それまでは、何度でも会いに来る。貴女のことを、もっと知りたい」



 それから二週間、ヴェルナー公爵は本当に毎日訪れた。


 領地経営の話をし、北方の気候について教えてくれ、時には黙って書斎で私の仕事を手伝った。彼は約束通り、私に何も強制しなかった。


 そして私は、少しずつ理解した。

 彼が求めているのは「便利な道具」ではなく、本当に「対等なパートナー」なのだと。


 舞踏会の日。


 私は生まれて初めて、華やかなドレスを纏って王宮に向かった。

 ヴェルナー公爵がエスコートしてくれる。


 会場に入ると、視線が集中した。

 「冷徹公爵が、女性を連れている」――ざわめきが広がる。


 そして、クラウスの姿が目に入った。

 彼は愛人らしき女性と共にいたが、私を見つけると顔色を失った。


「リディア……」


 彼が近づいてくる。


「どういうことだ。なぜ、ヴェルナー公爵と……」


「貴方には関係ないことです」


 私は静かに答えた。


「婚約は破棄されました。私がどこで、誰と過ごそうと、貴方に口出しする権利はありません」


「待ってくれ。あの支援の件だが、もう一度考え直して――」


「リディア嬢」


 ヴェルナー公爵が、私の前に立った。

 その存在感に、クラウスは言葉を失う。


「この方は、もう貴方の『便利な道具』ではない」


 公爵の声は低く、静かだったが、会場中に響き渡った。


「リディア・フォレスト嬢は、北方の内政を任せられる唯一の人物だ。その知識と能力を、私は心から尊敬している」


 彼は私の手を取り、跪いた。


 会場が、静まり返った。


「リディア嬢。改めて問う。貴女は、私の妻となり、対等なパートナーとして共に歩んでくれるか?」


 これは、公開求婚だった。

 逃げ場のない、覚悟の証明。


「……はい」


 私は微笑んだ。

 今度は、心からの笑顔で。


「喜んで」


 会場が、拍手に包まれた。


 クラウスは何も言えず、ただ立ち尽くしていた。

 彼の隣にいた愛人は、不安そうに彼の袖を引いている。


「お幸せに、クラウス様」


 私は最後に、彼に微笑んだ。


「貴方が私を解放してくれたから、私は本当の幸せを見つけられました。感謝しています」


 それは皮肉ではなく、本心だった。

 彼が婚約を破棄してくれなければ、私はずっと「便利な道具」のままだった。


 ヴェルナー公爵が、私の手に口づけた。


「これから、よろしく頼む。パートナー」


「こちらこそ」


 私は彼の手を握り返した。



 それから三ヶ月後。


 クラウスの家の商会は、私の支援が途絶えたことで経営が傾き始めた。彼が愛人を正妻にすると発表したことで、社交界での評判も落ちた。「便利な婚約者を捨てた男」として、囁かれるようになったらしい。


 私は何もしていない。

 ただ、支援を止めただけ。

 彼が自分で選んだ道を、自分で歩んでいるだけだ。


 一方、北方の領地は私の助言で財政が安定し、ヴェルナー公爵の評判も「冷徹」から「公正」に変わりつつあった。


「リディア」


 執務室で報告書を作成していると、夫が紅茶を持って入ってきた。


「休憩しよう。働きすぎだ」


「貴方こそ、さっきまで訓練場にいたでしょう」


「お互い様だな」


 彼は微笑んで、私の隣に座った。


「……幸せか?」


 唐突な質問に、私は頷いた。


「ええ。とても」


「それならいい」


 彼は私の手を取り、優しく握った。


「君を、二度と『便利な道具』にはしない。これは約束だ」


「知っています」


 私は彼の手を握り返した。


 窓の外では、北方の雪が静かに降り始めていた。

 冷たいはずの雪景色が、今日はとても温かく見えた。


 私はもう、誰の「便利な婚約者」でもない。

 ただ、愛する人の、対等なパートナーだ。


 それが、私の見つけた本当の幸せだった。


お読みいただき、ありがとうございました。


「便利な存在」として扱われることの寂しさと、本当に対等な関係を築けたときの温かさを描きたいと思い、この作品を書きました。


リディアのように、自分の価値を見失いそうになることは、誰にでもあると思います。でも、必ずそれを認めてくれる人はいる――そんなメッセージを込めました。


評価・ブックマークいただけると、とても励みになります。

また別の作品でお会いできることを楽しみにしています。

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