第九部 天下は城にあらず
大阪城の重厚な会議室。
秀吉が座する中央に、重臣たちが周囲を囲む。
久世もまた、席に着いていた。
言葉の応酬。策略の駆け引き。
空気は常に張り詰めている。
その時、久世の視線が、
窓の外のわずかな光に吸い寄せられる。
――松明か。
一つ、揺れる炎。
それは城の外、遠方から静かに近づいてくる。
会議の声、重臣たちの動き、秀吉の視線。
全ての音が遠のいたように、久世の意識は松明に集中する。
(……予定外の者か)
炎は小さく、
しかし確かに、
この城内の秩序を乱す予兆として立っていた。
久世の唇が、わずかに動く。
声には出さないが、内心ではすでに次の行動を思案していた。
(秀吉の目の前だ。
ここで動けば、即座に察知される。
だが……あの松明は、無視できぬ)
窓の外の炎は、
風に揺られ、
まるで久世に何かを告げるかのように揺れた。
会議の進行は続く。
秀吉の声、重臣たちの議論――
だが、久世の心は、
すでに松明の動きに張り付けられていた。
窓の外の松明。
揺れる炎の一つ一つが、
久世の目には、意味ある模様として映る。
(……これは、我が家の者か)
久世は、松明の並び、動きの間隔、点滅の強弱。
全てが、久世家だけが理解できる暗号だと瞬時に理解した。
誰が持っているかも、
どの方向から来たかも、
分かる。
(間違いない、
秀吉も、重臣も、誰一人この意味は分かっていない)
会議室では、秀吉の声が続く。
重臣たちの議論も絶え間ない。
だが、久世の意識は、
窓の松明に完全に集中していた。
(これは……知らせか、合図か。
いや、策の布石だな)
松明の暗号は簡潔だが、意味は重大。
領地の異変、敵の動き、家臣たちの状況――
全てを知らせる符号になっている。
久世は微かに笑う。
敵の目の前にいながら、
自分だけの連絡網が確かに動いている。
(秀吉よ、我が動きも、我が情報も、
すべて掌握しているぞ)
窓の外、松明は揺れ続け、
久世は静かに次の策を考え始める。
久世は窓の外の松明に目を凝らす。
一つ、また一つ、炎が揺れ、並びが変わる。
読み取る――
「夜叉、動く。家臣倒して、そちらに向かう」
久世の眉が、わずかに吊り上がる。
(……夜叉か。
そして家臣に手を出すつもりか)
言葉に出せぬ怒りと焦りが、心を駆け巡る。
だが久世は冷静を装う。
会議室の声は、重臣たちの議論は、
まるで遠くの出来事のように聞こえた。
(行動は、迅速に。
情報を握る者の動きも、
私が先に読まねばならぬ)
暗号の意味は、
夜叉が家臣を倒し、久世の所在に迫る――
ただし、久世側の情報網を通じた布石で止められる可能性もある。
久世は一瞬、指先で手元の書類を軽く叩く。
頭の中で、次の行動を組み立てる。
(ここで動けば、
秀吉も重臣も、誰一人察せぬまま事は運ぶ)
会議の声が耳に届く。
秀吉は微笑みながら何かを語るが、
久世の視線はすでに窓の松明と暗号に釘付けだ。
朔姫の目に映る城は、いつもよりずっと重苦しく見えた。
堀の向こうには、秀吉の軍勢が整然と布陣している。
旗は高く掲げられ、槍の先は太陽に光る。
城内の兵たちも、普段より緊張した表情をしていた。
城門をくぐる夜叉の姿。
その背に、凄まじい気迫が漂う。
久世の布石を受け、夜叉は一番前で指揮を執るという――
朔姫の胸は高鳴った。
(……夜叉が先頭か)
城内で伝えられた情報によれば、
秀吉の軍を根絶やしにするため、
夜叉を先頭に家臣たちが動くという。
朔姫は剣を握りしめる。
彼女の中で、久世の思惑と夜叉の動きがひとつに重なった。
ただ、それは完全なる戦場の序章に過ぎないことも知っていた。
城壁の上から見る敵軍は、
数の上では圧倒的だ。
しかし、久世の布石と夜叉の実力があれば、
必ず覆せる――
朔姫はその確信を胸に刻む。
敵も味方も、まだ動き出す前の静寂。
しかし、朔姫には分かる。
この城は、すでに戦場と化しているのだと。
夜明け前。
空はまだ青くもなく、黒にも戻りきらない。
城門が、
音を殺して開いた。
最初に姿を現したのは――
夜叉だった。
鎧は簡素。
だが、その一歩ごとに、
周囲の空気が沈む。
「……行くぞ」
それだけ。
久世側の家臣たちが、
無言で続く。
狙いは一つ。
敵を城に近づけないこと。
民の暮らす場所へ、一歩も踏み込ませないこと。
夜叉は城外へ出た瞬間、
即座に散開を命じた。
敵陣の外縁。
補給線。
伝令役。
――まず、そこだ。
合図はない。
だが、夜叉が一歩踏み出した瞬間、
久世側の家臣たちが一斉に動いた。
静かな奇襲。
叫びは上がらない。
音を立てれば、失敗だ。
夜叉は、
敵兵の背後に立ち、
一息で距離を詰める。
振り下ろされる刃は、
無駄がない。
敵は倒れる。
だが、倒れた音すら最小限。
夜叉は止まらない。
(城へ行かせるな)
(民の方角へ向けるな)
その意識だけが、
彼を動かしていた。
敵が気づき始めた頃には、
外縁の部隊は、
すでに“欠けて”いた。
「な、何が起きて――」
声が上がる前に、
別方向から刃が入る。
城へ向かおうとする敵兵には、
必ず夜叉が立ちはだかった。
城内へ入る道。
民のいる方向。
そこには、
一本の越えられない線が引かれている。
夜叉は、
その線を越えようとする者だけを、
確実に排した。
「――戻れ」
敵に向けて放たれた声は、
低く、冷たい。
「ここから先は、
お前たちの行く場所じゃない」
恐怖が、
敵兵の動きを鈍らせる。
夜叉は知っている。
戦とは、数ではなく、
“心が折れた瞬間”で決まることを。
城の上から、
朔姫はそれを見ていた。
(……近づけさせない)
夜叉は、
一歩も城へ敵を寄せていない。
血の気配は城外に留まり、
民の暮らす場所には、
風の音しか届かない。
その戦い方こそが、
久世の軍であり、
夜叉のやり方だった。
大阪城。
会議は続いていた。
秀吉の声は朗らかで、
重臣たちの表情も表向きは穏やかだ。
だが――
久世の耳は、別の音を拾った。
廊下を駆ける足音。
抑えきれぬ速さ。
襖が開く前に、
久世には分かっていた。
(来たか)
使者が膝をつく。
額には汗。
声は、わずかに震えていた。
「秀吉様……急報にございます」
場の空気が、一瞬で変わる。
秀吉の笑みが、
ほんの僅かに薄れる。
「申せ」
「久世殿の領地周辺にて――
我が軍が、城に近づけぬとの報告が」
重臣たちがざわめく。
「近づけぬ、とはどういうことだ」
「城門は開かぬまま、
城外で兵が消えております。
補給線も断たれ……
指揮系統が、乱れているとのこと」
久世は、何も言わない。
ただ、静かに座している。
(夜叉……やはりな)
秀吉は久世を見る。
その目には、探る色が浮かんでいた。
「久世殿、
これは……どういうことかな?」
久世は、ゆっくりと視線を上げる。
「さて」
あまりにも静かな返答。
「城を守るのは、
城主の務め。
民を戦に巻き込まぬのも、
同じく務めにございます」
重臣の一人が声を荒げる。
「だが、我が軍が削られている!」
久世は首を傾げた。
「城に入らねば、
戦にはならぬでしょう」
その言葉に、
室内の空気が凍る。
久世は理解していた。
秀吉が“脅し”として放った軍が、
想定以上に削られていることを。
秀吉は黙ったまま、
指で卓を叩く。
――一度。
――二度。
そして、低く言った。
「……久世殿」
声は柔らかい。
だが、底にあるのは警戒だ。
「そなたは、
やはり扱いが難しい男よ」
久世は、わずかに笑った。
「恐れ入ります」
心の中では、
次の報が来るまでの時間を計っていた。
(夜叉は、まだ止まらぬ)
大阪城という檻の中で、
久世は動かない。
だが、
戦はすでに、久世の掌の上で進んでいる。
報は、止まらなかった。
補給線の断絶。
伝令の行方不明。
城に近づけぬまま削られていく兵。
それらが一つの線として繋がった時、
秀吉は――ようやく悟った。
(これは偶然ではない)
卓を叩く指が、止まる。
室内にいる重臣たちは、
皆、同じ人物を見ていた。
久世。
その男は、
何も語らず、
何も動かず、
ただ“そこに在る”だけだというのに。
「……久世殿」
秀吉の声は、柔らかい。
だが、もはや探る色は消えていた。
「そなた、
わしの目の届かぬところで、
少々やり過ぎではないか?」
久世は、静かに目を伏せる。
「身に覚えがございません」
嘘ではない。
だが、真実でもない。
重臣の一人が、耐えきれず声を上げる。
「殿下!
この男は危険です!
動かずとも、戦を起こせる!」
「今ここで抑えねば、
取り返しがつかぬことになります!」
秀吉は、しばらく黙っていた。
笑みもない。
怒りもない。
ただ、
天下人の顔だった。
「……なるほどな」
そして、決断は唐突に下される。
「久世殿」
名を呼ばれた瞬間、
久世は理解した。
(来たか)
「しばし――
大阪城に留まってもらう」
ざわり、と空気が揺れる。
「これは処罰ではない。
わしの不安を、鎮めるためじゃ」
その言葉は、
あまりにも丁寧で、
あまりにも冷たい。
久世は立ち上がらない。
抗議もしない。
ただ、一礼する。
「承知いたしました」
その態度が、
かえって秀吉の警戒を強めた。
「……監視を付けよ」
秀吉の一声で、
部屋の外に控えていた兵が動く。
久世の左右、
距離を保ちつつ立つ。
もはや客ではない。
だが、囚人とも言い切れぬ。
最も扱いに困る存在としての拘束。
秀吉は、久世を見下ろす。
「久世殿」
「そなたは忠臣か、
それとも――
わしの首を狙う者か」
久世は、静かに答える。
「それを決めるのは、
殿下のお心次第にございましょう」
その瞬間、
秀吉は確信した。
(こやつは、縛っても、
檻に入れても、止まらぬ)
大阪城の中で、
久世は拘束された。
だが――
戦は、まだ終わっていない。
その報は、
あまりにも静かに届いた。
密使が差し出したのは、
一通の文と――
一枚の絵。
紙を広げた瞬間、
城内の空気が凍りついた。
描かれていたのは、
久世。
椅子に座らされ、
両手は後ろで縛られ、
そして――
目隠し。
誰が見ても分かる。
これは「留め置き」ではない。
拘束だ。
「……は?」
最初に声を漏らしたのは、朔姫だった。
思考が追いつかない。
絵を見ているのに、
現実感がない。
「久世……?」
その名を呼んだ瞬間、
指先が震えた。
かやは、無言で絵を見つめていた。
表情が、完全に消えている。
「……冗談、だよね」
みよの声はかすれていた。
否定したい。
でも、否定できない。
凛は、紙を奪うようにして絵を見る。
次の瞬間、
歯を強く噛み締めた。
「……ふざけるな」
晴道が、珍しく声を荒げる。
「縛る?目隠し?あの人を?」
慶介は、
ただ一言、低く吐き捨てた。
「……秀吉」
華陽は、
何も言わなかった。
ただ、
絵に描かれた久世の顔――
見えないはずの目の位置を、
じっと見つめていた。
(父上が、
こんなことされて……
黙ってるわけないよね)
朔姫は、拳を握る。
「……ねえ」
声が、震える。
「これ、
助けに行っちゃ……だめ?」
その一言で、
全員の視線が朔姫に集まる。
かやは、静かに首を振った。
「今動いたら、
久世が殺される」
その言葉は、
あまりにも残酷だった。
朔姫は、唇を噛む。
「でも……縛られて、目隠しされて……」
声が、途中で詰まる。
「……あの人が、
あんな扱いされてるのに」
凛が、低く言った。
「久世は、
それでも動くなって言う人だ」
沈黙。
夜叉は、
その様子を、ただ黙って見ていた。
やがて、
静かに口を開く。
「……主は、生きている」
その一言が、
場の空気を引き締める。
「縛られ、
目隠しされ、
それでも殺されていない」
夜叉の目が、鋭く光る。
「それが、
久世という男の“次の手”だ」
朔姫は、
もう一度、絵を見る。
縛られた久世。
何も見えないはずの久世。
それでも――
なぜか、
負けていない気がした。
(……久世は、
まだ終わってない)
だが同時に、
全員が理解していた。
このまま待つだけでは、
取り返しがつかなくなると。
その夜。
城の裏手、灯りの届かぬ廊下で、
一人の男が立ち止まった。
身なりは粗末。
どこにでもいる下働き。
だが――
その足取りに、迷いはない。
男は、誰もいないのを確かめると、
袖の内から小さな紙片を取り出した。
そこに記されていたのは、
久世の家でしか使われぬ符号。
「……やはり、ここまで読んでいたか」
男は、そう呟く。
久世は予測していた。
秀吉が、
「試す」では終わらせないことを。
留め置き。
監視。
そして――
拘束という形での圧力。
だからこそ、
久世は大阪城に来る前から、
己の“目”を紛れ込ませていた。
この男も、その一人。
役職は低い。
顔も覚えられぬ。
だが、
城の中を自由に行き来できる立場。
男は、
廊下の角で立ち止まり、
障子越しに中を窺う。
そこにいるのは――
縛られ、
目隠しをされたまま、
静かに座す久世。
監視役は二人。
距離、呼吸、視線。
(……問題ない)
男は、ほんの一瞬だけ、
床に視線を落とす。
その仕草に、
久世が、わずかに反応した。
目隠しの下で、
口元が、ほんの少しだけ緩む。
(――いるな)
それだけで十分だった。
声も、合図も、
一切いらない。
男はその場を去る。
そして、
誰にも怪しまれぬまま、
次の間者へと情報を繋ぐ。
久世は、
縛られたまま、
何も見えぬまま、
すべてを理解していた。
(秀吉は、
私を閉じ込めたつもりだろう)
だが――
(ここは、
私の目が最も集まる場所だ)
大阪城という檻の中で、
久世は、
完全に孤立してなどいなかった。
むしろ――
情報は、
これまで以上に集まり始めている。
そしてその動きは、
やがて領地へ、
夜叉へ、
朔姫たちへと、
静かに伝わっていく。
すべては、
“この時”のために打たれた布石だった。
その書状は、
朝靄の残る時刻に届いた。
封は、
豊臣の紋。
誰もが、
開く前から内容を悟った。
かやが、
無言で封を切る。
そして――
一行目を読んだ瞬間、
指が止まった。
「……降伏せよ」
続く文。
降伏せねば、
明日、久世を打ち首に処す。
それだけで、
十分すぎるほどだった。
朔姫は、
息を呑む。
「……明日?」
声が、
うまく出ない。
みよが、
震える声で言う。
「冗談……だよね?」
だが、
誰も否定できなかった。
凛は、
静かに書状を奪い取り、
最後まで読む。
そして、
低く吐き捨てる。
「……王手だ」
晴道が歯噛みする。
「久世を人質に、
家ごと潰す気か……!」
慶介は、
拳を握りしめたまま、
一言も発しない。
華陽は――
書状ではなく、
久世のいない座を見ていた。
(父上は、ここにいない)
(なのに、命を賭けろと、命令してくる)
夜叉が、
ゆっくりと立ち上がる。
その瞬間、
空気が変わった。
「……秀吉は、
完全に踏み込んできた」
声は低く、
怒りを抑えている。
「降伏すれば、
久世は生きるかもしれん」
朔姫が、
即座に言った。
「でも、それって……
久世を差し出すってことだよね」
夜叉は、
否定しない。
「そうだ」
沈黙。
朔姫の肩が、
わずかに震える。
「……嫌だ」
絞り出すような声。
「久世を、
見殺しにする選択なんて」
かやが、
静かに言う。
「でも、
今動けば――
本当に斬られる」
その言葉が、
朔姫の胸を締めつける。
「……じゃあ、
どうすればいいの」
その問いに、
すぐ答えられる者はいなかった。
夜叉は、
書状を見下ろし、
ぽつりと言う。
「……主は」
全員が、
夜叉を見る。
「この状況を、
想定していない男じゃない」
朔姫は、
はっとする。
(久世は……分かってて、大阪に行った)
縛られ、
目隠しされ、
それでも――
まだ何も言ってこない。
それはつまり。
(……動くな、じゃない)
(“待て”でもない)
(……考えろ、か)
城の外では、
敵が包囲を固めている。
城の中では、
選択を迫られている。
そして大阪城では、
久世が、打ち首を宣告されたまま、
静かに座している。
明日。
その一日が、
すべてを分ける。
その日は、
驚くほど静かに始まった。
大阪城の朝は、
いつもと何も変わらない。
太鼓も鳴らず、
城下も騒がない。
――処刑の日だというのに。
久世は、
変わらず座していた。
両手は縛られたまま。
目隠しも、そのまま。
だが、
背筋は伸び、
呼吸は乱れていない。
(朝か)
足音が近づく。
数が増える。
鎧の擦れる音。
処刑の準備だと、
説明されずとも分かる。
「久世殿」
聞き慣れた声。
監視役の武将だ。
「……何か、
最後に申すことはあるか」
久世は、
ほんの一拍置いてから答える。
「ありません」
それだけ。
虚勢でも、
諦めでもない。
ただの事実。
城内の別の場所。
秀吉は、
朝餉にも手をつけず、
窓の外を見ていた。
(来るか……来ぬか)
降伏の書状は出した。
期限も切った。
久世家は、
まだ応じていない。
「……」
秀吉は、
自分でも気づかぬうちに、
指を組み直していた。
久世は、
殺せば終わる相手ではない。
だが――
生かしておけば、
いつか必ず牙を剥く。
「……準備は?」
重臣が答える。
「整っております」
「よい」
短い返事。
逃げ道は、
もう用意していない。
一方、
久世の領。
城内は、
嵐の前のような沈黙に包まれていた。
誰も声を荒げない。
誰も泣かない。
ただ、
待っている。
朔姫は、
城壁の上に立っていた。
剣は抜いていない。
でも、
柄から手は離さない。
(……久世)
あの人は、
今、どこまで見ているのだろう。
縛られて、
目隠しされて。
それでも――
きっと、
ここにいる全員より、
先を見ている。
城内に、
伝令が駆け込む。
「……大阪城にて、
処刑の刻が迫っているとの報!」
空気が、
一気に張り詰めた。
夜叉が、
ゆっくりと目を閉じる。
「……刻は来たか」
誰も、
もう止められない。
処刑台が組まれ、
刃が用意され、
久世は――
立たされる。
目隠しの下で、
久世は、
静かに息を吐いた。
(さて)
(……そろそろだな)
その時。
誰も予想していなかった
**“一手”**が、
動き出そうとしていた。
処刑台の前は、
異様なほど整っていた。
見物の声はない。
歓声も、罵声もない。
あるのは、
役目を果たすためだけに集められた視線。
久世は、台の中央に立たされていた。
両手は縛られ、
目隠しのまま。
だが、
微動だにしない。
斬首役の男が、
一歩、前に出る。
豊臣方の武将。
名もある。
腕も立つ。
その男が、
ゆっくりと刀を抜いた。
刃が陽を受け、
一瞬、白く光る。
場が、
完全に静止する。
(……来る)
誰もがそう思った、その刹那。
――違和感が走った。
斬首役の足が、
わずかにずれる。
踏み込みが、
久世ではなく――
横。
次の瞬間。
刃は、
久世に向かわなかった。
豊臣側の重臣の一人へと、
迷いなく振り抜かれた。
声は、上がらない。
悲鳴も、
叫びもない。
ただ、
「何が起きたのか分からない」という沈黙。
「……な」
誰かが、
言葉にならない音を漏らす。
斬首役だった男は、
返り血も気にせず、
その場で膝をついた。
「――御無礼」
低い声。
その瞬間、
ようやく周囲が理解する。
この男は、
久世側の間者だったと。
ざわめきが爆発する。
「なにをしている!!」
「裏切り者だ!」
だが、
久世は動かない。
縛られたまま、
目隠しのまま。
ただ、
静かに言った。
「……遅かったな」
その声に、
間者は深く頭を下げる。
「申し訳ありません」
秀吉が、
処刑台を睨む。
顔から、
完全に笑みが消えていた。
「……久世」
名を呼ぶ声が、
初めて怒りを帯びる。
「そなた……
ここまで読んでいたか」
久世は、
目隠しの奥で、
わずかに笑った。
「殿下が
“最悪の一手”を打つと、
分かっていたもので」
その瞬間、
大阪城の空気が変わる。
これは処刑ではない。
これは――
宣戦の合図だ。
誰が敵で、
誰が味方か。
もう、
誤魔化せない。
久世は、
まだ縛られている。
だが――
主導権は、
完全に久世の側へ移っていた。
最初に気づいたのは、
城の東側だった。
「……おい」
見張りの兵が、
違和感に声を落とす。
「……旗が、増えてないか?」
誰も答えられなかった。
なぜなら――
いつからそこにあったのか、分からないからだ。
城壁の外。
朝靄の向こう。
豊臣の旗ではない。
見覚えのない、だが――
はっきりとした意志を持つ軍旗。
「鳳……仙……?」
誰かが呟いた、その瞬間。
――太鼓が鳴った。
低く、重く、
腹の奥に響く音。
次いで、
城の北、南、西。
同時に、
軍旗が立ち上がる。
まるで、
ずっとそこにいたかのように。
「ば、馬鹿な……!」
「いつの間に……!」
城内が、
一気に騒然となる。
伝令が駆ける。
指示が飛ぶ。
だが、
どれも遅い。
なぜなら――
大阪城は、
すでに完全に包囲されていた。
しかも、
包囲しているのは
鳳仙軍。
久世の軍でも、
夜叉の軍でもない。
鳳仙“だけ”の軍。
処刑台の上で、
久世は、
目隠しのまま呟く。
「……鳳仙か」
その声に、
秀吉が鋭く振り向く。
「……最初から、
そのつもりだったか」
久世は答えない。
だが、
秀吉には分かってしまった。
夜叉が動いたのは“表”。
領地が沈黙していたのは“裏”。
そして――
鳳仙軍は、
誰の目にも映らぬまま、
この城を喉元まで追い詰めていた。
「……いつからだ」
秀吉の声が、
わずかに揺れる。
久世は、
静かに言った。
「殿下が、
私を“試そう”と思った時からです」
その一言で、
理解が追いついた。
――降伏書状。
――拘束。
――処刑。
それらは全て、
久世に時間を与えただけだった。
城外では、
鳳仙軍が一斉に動く。
だが、
城には入らない。
民には近づかない。
ただ、
逃げ道を、
一つずつ消していく。
秀吉は、
唇を噛む。
「……やりおったな、久世」
久世は、
目隠しの下で、
ほんの少しだけ笑った。
「戦とは、
始まる前に終わっているものです」
大阪城は、
まだ落ちていない。
だが――
もはや、
豊臣の城ではなかった。
拘束が解かれたのは、
怒号が城内を満たし始めた、その時だった。
「……放せ」
低い声。
縛めを解いた兵の手が、
一瞬、止まる。
次の瞬間――
その兵を突き飛ばすように、
別の影が踏み込んだ。
「久世ッ!!」
秀吉の配下。
刀を抜き、
迷いなく久世へ斬りかかる。
殺す気だ。
ためらいはない。
だが。
久世は、避けなかった。
目隠しを外されるよりも早く、
足元に転がっていた一本の刀に手を伸ばす。
――掴む。
それだけ。
次の瞬間、
金属音が、乾いた空気を裂いた。
「な……っ!?」
斬りかかった男の動きが、
完全に止まる。
久世は、
半身のまま、
刀を受け止めていた。
視線が合う。
久世の目は、
澄んでいた。
恐怖も、
怒りもない。
ただ――
状況を把握し終えた目。
「……」
一歩。
久世が踏み出す。
それだけで、
相手は後ずさった。
「誰の城で、
誰を斬ろうとしている」
静かな声。
だが、
その場にいる全員の背を凍らせるには、
十分だった。
秀吉が、
思わず声を上げる。
「控えよ!!」
だが、
もう遅い。
久世は、
刀を下げない。
構えもしない。
それでも――
誰一人、近づけなかった。
久世は、
ゆっくりと周囲を見渡す。
鳳仙軍の包囲。
城内の混乱。
刃を向けた者と、
刃を向けられぬ者。
「……殿下」
久世は、
初めて秀吉を正面から見た。
「これ以上は、
血が増えるだけです」
その言葉に、
秀吉は歯を食いしばる。
久世は、
斬られなかった。
それどころか――
斬られる前提の場を、
完全に制した。
刀を持ったまま、
久世は静かに告げる。
「ここからは、
話し合いの番でしょう」
城内は、
不気味なほど静まり返っていた。
誰もが悟っている。
――処刑は失敗した。
――主導権は、完全に移った。
広間の空気は、
張りつめたまま動かなかった。
秀吉は、
歯を噛みしめて久世を睨む。
「……聞く気はない」
その言葉に、
久世は怒りもしない。
ただ、
静かに言った。
「では、
分かりやすくしましょう」
重臣たちが、
ざわりと身じろぐ。
「殿下が
私の言葉を聞かれぬたび、
殿下の家臣を一人、
こちらにお連れします」
「なに……?」
秀吉の声が、
わずかに掠れる。
「斬りはしません」
久世は、
はっきりと言った。
「……まだ」
その一言が、
逆に重かった。
久世は、
後ろに視線を送る。
「試しに」
合図は、
それだけ。
兵が動く。
命令も叫びもない。
「やめろ!」
秀吉が声を荒げる。
「それ以上は――」
「殿下」
久世は、
淡々と遮った。
「“まだ”です」
しばらくして、
広間の外が騒がしくなる。
足音。
押し問答。
そして――
連れて来られた一人の男。
秀吉の弟。
拘束はされているが、
無傷だ。
だが、
状況は理解している。
秀吉の顔色が、
一瞬で変わった。
「……触るな」
震えた声。
久世は、
その様子を見て、
静かに言う。
「今は、
“連れてきただけ”です」
「ですが殿下」
一歩、
距離を詰める。
「次も、
同じだとは限りません」
広間の誰もが、
息を呑んだ。
それは脅しではない。
激情でもない。
選択肢の提示。
秀吉は、
弟と久世を交互に見て、
唇を噛む。
「……貴様は、
どこまで……」
「殿下が
耳を貸してくださるまでです」
久世の声は、
終始、穏やかだった。
だがその穏やかさこそが、
この場で最も恐ろしいものだった。
誰もが理解した。
――斬るかどうかは、
久世の機嫌ではない。
秀吉の返答次第なのだと。
秀吉は、
長い沈黙の末、
深く息を吐いた。
拳は震えている。
怒りでも、恐怖でもない。
敗北を飲み込むための呼吸だった。
「……分かった」
その一言で、
広間の空気が崩れる。
重臣たちが、
一斉に秀吉を見る。
「久世」
名を呼ぶ声は、
もう命令ではなかった。
「……そなたの条件を聞こう」
久世は、
弟に向けられていた視線を外し、
静かに一礼する。
「賢明なご判断です」
その直後だった。
――遠くで、
角笛が鳴った。
低く、
だがはっきりと。
次いで、
城外がざわめく。
「民が……!」
「城下から、
人が出ている!」
伝令が駆け込む。
「鳳仙軍が、
民を城外へ誘導しております!」
秀吉の顔色が変わる。
「なに……?」
久世は、
窓の方へ目を向けた。
見えるのは、
動く人の流れ。
混乱ではない。
悲鳴もない。
整然と、
逃がされている。
「鳳仙は、
民に刃を向けません」
久世の声は、
淡々としている。
「最初から、
その約束でした」
そして――
空が、赤く染まった。
一本、
また一本。
火の矢が、
大阪城へと放たれる。
狙いは明確だった。
兵舎。
倉。
軍の集積所。
人ではない。
“城そのもの”。
「……燃やす、のか」
秀吉の声が、
かすれる。
「民は逃がしました」
久世は、
はっきりと言う。
「残るのは、
殿下の“城”と“権威”だけです」
炎が、
夜を侵食していく。
だが、
悲鳴はない。
あるのは、
燃えていく音と、
理解してしまった者たちの沈黙。
秀吉は、
その光景を見つめたまま、
小さく笑った。
「……見事だ」
自嘲とも、
賞賛ともつかない声。
「わしは、
人を人質に取ったつもりで、
国を賭けておったらしい」
久世は、
一歩下がる。
「戦を、
終わらせに来ただけです」
大阪城は、
燃えている。
だが――
民は生きている。
それが、
久世の答えだった。
そして、
秀吉は完全に理解した。
この男に勝つには、
軍では足りない。
策でも足りない。
――最初から、
土俵が違ったのだと。
炎が城を舐める中、
広間だけが不自然なほど静かだった。
秀吉も、
重臣たちも、
久世の次の言葉を待っている。
――何を奪われるのか。
久世は、
しばらく沈黙したまま、
一人ひとりの顔を見た。
怯え。
怒り。
諦め。
(足りない)
久世は、
刀から手を離し、
口を開く。
「殿下」
「私は、命も、領地も、財も取りません」
重臣の一人が、
思わず息を吐く。
だが、
次の言葉がそれを許さなかった。
「――代わりに、
三ついただきます」
秀吉の目が、
細くなる。
「一つ目」
久世は、
はっきりと言った。
「軍の自由行動権」
「今後、豊臣の軍は
“私の領と、その周辺”に一切、
無断で近づかない」
ざわめき。
それは、
実質的な軍事的首輪だった。
「二つ目」
久世は、
視線を重臣たちに向ける。
「人事」
「殿下の家臣のうち、
私が“危険”と判断した者は、
表舞台から外していただく」
「追放でも、
幽閉でも構いません」
誰も、
反論できない。
誰が選ばれるか、
分からないからだ。
「三つ目」
久世は、
秀吉だけを見る。
「嘘をつかないこと」
「私に対して、裏で動かない」
「探らない。試さない。計らない」
秀吉が、
苦く笑う。
「……それが一番、重いな」
「でしょう」
久世は、
淡く返す。
「私は、
殿下から“天下”を奪いません」
一拍。
「――ただ、
刃を向ける権利を奪うだけです」
重臣たちは、
ようやく理解した。
これは敗戦条件ではない。
共存の条件だ。
だが、
背くことは許されない。
秀吉は、
深く、深く息を吐き、
頭を下げた。
「……飲もう」
その瞬間。
久世は、
初めて刀を完全に収めた。
「それで十分です」
炎は、まだ燃えている。
だが、
戦は――
ここで終わった。
炎が収まった後の大阪城は、
不思議なほど静かだった。
城は残っている。
命も残っている。
領地も、名も、位も――
秀吉の手元にある。
だが。
人が、いなかった。
城下にいた民は、
鳳仙軍によって逃がされたまま、
戻ってこない。
戻る理由が、
ないからだ。
焼け落ちた倉。
空になった町。
兵はいるが、
支える者がいない。
重臣の一人が、
かすれた声で言う。
「……殿下、
再建には時間が……」
秀吉は、
その言葉を遮らなかった。
叱責もしない。
怒鳴りもしない。
ただ、
玉座に腰を下ろしたまま、
前を見ている。
「久世は……
何も奪わなかったな」
誰に向けた言葉でもない。
「軍も、財も、命も……」
秀吉は、
ゆっくりと笑った。
「……だが、
“集まる理由”を
すべて持っていきおった」
民は、
恐れたから逃げたのではない。
守られたから、
戻らなかった。
それが、
何より重い。
「国は、人で出来ておる」
秀吉は、
ぽつりと呟く。
「城だけでは、
国にはならぬか……」
久世は、
秀吉から何も奪っていない。
だが――
国を“国として機能させる力”だけは、
確かに持ち去っていた。
それは、
刀では取り戻せない。
軍でも、策でもない。
信と、帰る場所。
秀吉は、初めて悟った。
久世と自分の違いを。
支配する者と、
人が集まる者。
「……敵に回さずに、
正解だったな」
その呟きは、
誰にも聞かれなかった。
だが、
大阪城の空気だけが、
それを覚えていた。
城門の外。
土埃の向こうから、
ゆっくりと歩いてくる一団。
先頭に鳳仙。
その少し後ろ。
見慣れた歩き方。
「……久世」
かやが、
思わず名を零した。
次の瞬間だった。
「――父上!!」
かやが、
堪えきれずに駆け出す。
「ちょ、かや!」
華陽が制止するが、
間に合わない。
かやは久世に抱きつき、
その背に顔を埋めた。
「……生きてた」
声が、震えている。
「当たり前だ」
久世は、
少し困ったように言い、
軽く頭を撫でた。
それを見て、
ようやく華陽が近づく。
「……無茶、しましたね」
叱るようで、
でも安堵が滲む声。
「予定通りだ」
「そういうところです」
華陽は溜息をつきつつ、
久世の無事をしっかり確認する。
その後ろで、
凛、みよ、晴道、慶介、新陰流組が
静かに息を吐いた。
朔姫は、
少し遅れて久世の前に立つ。
じっと、
顔を見る。
「……痩せました?」
「そうか?」
「少し」
それだけ言って、
目を逸らす。
華陽が、
小さく微笑む。
「心配してたんですよ」
「……別に」
朔姫は否定するが、
拳は強く握られていた。
夜。
城はすっかり静まり返り、
風の音だけが廊下を撫でていた。
灯りの落ちた一室で、
久世は卓の前に座っている。
その向かいに――
朔姫。
左右に、
かやと華陽。
妙な配置だった。
久世を挟んでいるのに、
誰も剣の話をしない。
最初に口を開いたのは、
華陽だった。
「……父上」
「今回のこと、
説明は、してくれないんですか」
責める声音ではない。
だが、逃がす気もない。
久世は、
少しだけ考えてから答える。
「全部は話さない」
かやが、
即座に食いついた。
「ずるい」
「心配したんだよ」
「縛られて、
目隠しまでされてる絵が届いたんだよ?」
声が、
少しだけ震える。
久世は、
目を伏せた。
「……想定内だ」
「それが嫌なんだってば!」
かやが、
卓を軽く叩く。
「父上はいつも、
“想定内”で
自分だけ危ない所に行く!」
その間、
朔姫は黙っていた。
だが、
ふいに口を開く。
「……私は」
三人の視線が集まる。
「私は、
久世が死ぬと思ってました」
あまりにも真っ直ぐな言葉に、
かやも華陽も言葉を失う。
「夜叉が動いて、
鳳仙軍が出て、
全部が繋がってるって分かっても」
「それでも、
“戻らない可能性”は
消えなかった」
朔姫は、
久世を見る。
睨んでいない。
責めてもいない。
ただ、
事実を言っている。
「……それでも、
やると決めたんですよね」
久世は、
短く答えた。
「ああ」
華陽が、
静かに息を吐く。
「……父上」
「私たちは、
止められないのは分かっています」
「でも、
知らされないのは違う」
かやが、
小さく頷く。
「帰ってこないかも、って
考える時間が一番つらい」
久世は、
しばらく沈黙した。
そして、
ゆっくりと口を開く。
「……次は」
三人が、
一斉に顔を上げる。
「“戻れない可能性”がある時は、
そう言ってから行く」
完璧な約束ではない。
だが、
久世なりの譲歩だった。
朔姫は、
少しだけ目を伏せる。
「……それで、
十分です」
かやは、
まだ不満そうだが、
それ以上は言わなかった。
華陽が、
小さく笑う。
「では、
今日はここまでですね」
立ち上がりながら、
久世を見る。
「……おかえりなさい、父上」
久世は、
ほんの一瞬だけ、
柔らかく目を細めた。
「ああ」
その夜。
誰も剣を抜かず、
誰も策を語らなかった。
それが、
何よりも重い“帰還の証”だった。
夜風が、
城の縁側を静かに抜けていく。
久世は、
月を背にして座っていた。
隣に、
鳳仙。
しばらく、
どちらも口を開かなかった。
先に沈黙を破ったのは、
久世だった。
「……やりすぎたか」
独り言のような声。
鳳仙は、
即答しない。
夜空を見上げ、
少し考えてから言う。
「戦として見れば、
過剰だ」
「政治として見ても、
苛烈だ」
久世は、
黙って聞いている。
「だが」
鳳仙は、
視線を久世に戻す。
「“あれ以上”を
させなかった」
「秀吉は、
民を盾にする前に折れた」
「なら――
線は越えていない」
その時。
「随分、
物騒な話だな」
低い声が、
闇から響く。
足音。
夜叉が現れ、
その後ろから
難波がのそりと出てくる。
「まだ生きてるって聞いたから来た」
難波は、
相変わらずの調子だ。
「心配した?」
鳳仙が聞くと、
難波は首を傾げる。
「いや」
「死ぬなら、
もう少し派手だろ」
夜叉が、
久世を見下ろす。
「……やりすぎたか、だと?」
「ぬるい」
一言で切り捨てる。
「国を残し、
民を生かし、
敵を殺していない」
「“やりすぎ”なら、
城ごと滅んでいる」
久世は、
苦笑する。
「相変わらずだな」
夜叉は、
鼻で笑った。
「俺は、
お前の“限界”を知っている」
「今回のは、
限界の手前だ」
難波が、
腕を組む。
「俺から見りゃ、むしろ器用だ」
「昔なら、もっと斬ってた」
その言葉に、
鳳仙が少し眉を上げる。
「……それは、初耳だな」
「言ってないだけだ」
久世は、
月を見上げる。
「……民を逃がした時点で、
もう戻れないと思った」
「秀吉の国は、人で出来ている」
「人がいない城は、国じゃない」
夜叉が、
小さく笑った。
「なら問題ない」
「国を壊したんじゃない」
「国の形を、選ばせただけだ」
風が、
一段強く吹く。
久世は、
静かに息を吐いた。
「……なら、
これでいいか」
鳳仙が、
短く頷く。
夜叉は、
もう興味を失ったように背を向ける。
「次は、もう少し派手でもいい」
難波は、
最後にぽつりと言った。
「帰ってきたなら、酒、あるだろ」
久世は、
小さく笑った。
「ああ」
その夜。
四人は、
それ以上語らなかった。
語る必要が、
なかったからだ。
大阪城は、
まだ立っている。
天守も、石垣も、旗も。
だが――
音がない。
朝になっても、
城下から聞こえてくるはずの声がない。
商人の呼び声。
子どもの笑い。
荷を運ぶ足音。
すべて、
消えていた。
秀吉は、
城の高みからそれを見下ろしている。
「……報告は」
重臣が、
一歩進み出る。
「民は……戻っておりませぬ」
「周辺の村も、
城下に近づこうとしない様子」
「理由は……」
言い淀む。
秀吉は、
続きを促さない。
分かっているからだ。
理由は一つ。
――久世。
奪われなかった。
殺されなかった。
脅されただけだ。
だが、
その“脅し”は、
刀より深く刺さっていた。
「殿下……
再建には、
まず人が必要かと……」
別の重臣が言う。
秀吉は、
ゆっくりと振り返った。
「では聞くが」
「誰が、戻る?」
沈黙。
兵はいる。
金も、権威も、まだある。
だが――
信がない。
民は知ってしまった。
守られたことを。
選ばれたことを。
そして、
戻らなくてもいいという選択肢を。
「久世は、
城を焼いた」
秀吉が、
静かに言う。
「だが、
国は焼かなかった」
重臣たちは、
言葉を失う。
「……いや」
秀吉は、
自嘲気味に笑った。
「正確には」
「国が、
こちらを選ばなかった」
再建の計画は、
机の上に積まれていく。
だが、
紙の上だけだ。
人が動かない。
金が回らない。
噂だけが広がる。
――久世の領では、
民が戻っているらしい。
――久世は、
刀を抜かなかったらしい。
――あの夜、
守られたと。
秀吉は、
その噂を止めなかった。
止められないと、
分かっていたからだ。
「……天下人、か」
誰にともなく呟く。
「天下とは、
土地ではない」
「人だ」
その言葉は、
あまりにも遅かった。
大阪城は、
再び立ち上がるだろう。
だが――
同じ国には、
二度とならない。
秀吉は、
初めて理解した。
久世という男は、
敵ではない。
時代そのものなのだと。
朝。
障子の向こうが、
白くなっている。
秀吉は、
布団の中にいた。
眠っていた、
というより――
目を閉じていただけだ。
「……もう朝か」
誰も起こしに来ない。
以前なら考えられないことだ。
秀吉は、
ゆっくりと身を起こす。
その時。
外が、
妙に騒がしい。
怒号ではない。
悲鳴でもない。
ざわめき。
低く、抑えた声の波。
嫌な予感がして、
秀吉は立ち上がり、
縁側へ出る。
城下を見下ろした瞬間――
息が止まった。
旗がある。
見覚えのある陣形。
見間違えようのない軍装。
「……久世、軍……?」
大阪城の城下町に、
久世軍が来ていた。
侵略ではない。
包囲でもない。
整然と並び、
民の家にも、
城にも、
一切手を出していない。
ただ、
そこにいる。
重臣が、
青ざめた顔で駆け寄る。
「殿下……!」
「これは……
どういう……」
秀吉は、
答えを求めなかった。
分かっている。
これは、
脅しではない。
宣戦でもない。
――確認だ。
久世は、
奪わなかった。
だが、
こうして見せつけることは出来る。
「……来るなと言った覚えは、
ないがな」
自分で言って、
虚しさに気づく。
久世は、
約を破っていない。
城を落とさず、
民を殺さず、
刀も抜かず。
それでも。
秀吉の朝は、
完全に久世に支配されていた。
「……あの男」
秀吉は、
歯を噛みしめる。
「夢の中にまで、
入ってきおったか」
城下では、
久世軍の兵が、
静かに立っている。
威圧もない。
声もない。
だが――
その沈黙こそが、
一番重かった。
秀吉は、
初めて思う。
(……もう、こちらから仕掛ける戦は、
出来ぬ)
それを悟った朝だった。
朝の城下。
久世軍は、
一歩も動かない。
秀吉が使者を出すより早く、
逆に――
久世の使者が城に入った。
簡素な装い。
威圧も、虚勢もない。
ただ一通の書。
秀吉は、
それを受け取り、
無言で開いた。
短い文だった。
あまりにも、
短い。
城の再建は、こちらが引き受ける。
民の確保も、こちらが行う。
国は――
共に建て直そう。
秀吉の指が、
止まる。
「……は?」
重臣たちが、
一斉に顔を上げた。
「殿下、
罠では――」
「いや……」
秀吉は、
紙から目を離さない。
そこには、
条件も、期限も、命令もない。
あるのは、宣言だけ。
「……久世は」
秀吉は、
乾いた笑いを漏らす。
「わしを、
滅ぼしに来たのではない」
城下を、
もう一度見下ろす。
久世軍は、
相変わらず静かだ。
だが、
その静けさが語っている。
――滅ぼせた。
――だが、しなかった。
「国を、
共に建て直す……か」
重臣の一人が、
声を震わせる。
「殿下……
それはつまり……」
「分かっておる」
秀吉は、
深く息を吐いた。
「上下ではない」
「主従でもない」
「……選別だ」
戻る民は、
どちらの国を選ぶか。
商は、
どちらに流れるか。
噂は、
どちらに集まるか。
久世は、
刀ではなく――
未来を並べてきた。
「……ずるい男よ」
秀吉は、
初めて心からそう思った。
恐怖でも、
忠義でもない。
“生きやすさ”で、
人を奪いに来ている。
だが。
だからこそ――
拒めない。
「返書を用意せい」
秀吉は、
そう命じた。
「受ける、とは書かぬ」
「だが、
拒むとも書かぬ」
重臣が息を呑む。
「……殿下?」
「これは、
戦の続きではない」
秀吉は、
静かに言った。
「時代の選択だ」
城下では、
久世軍の旗が、
朝日に揺れている。
攻めず、奪わず、
だが――
確実に、
天下の形を変えに来ていた。
大阪城。
朝議の最中、
広間の空気が一変した。
「――久世、参上」
その名を告げる声が、
妙に静かに響く。
ざわめきが、
一瞬で凍りついた。
秀吉が、
ゆっくりと顔を上げる。
そこに立っていたのは――
久世。
供は、いない。
甲冑も、
威圧もない。
だが。
誰も、声を出せなかった。
久世は、
秀吉の前まで歩み出る。
一歩。
また一歩。
その所作が、
あまりにも自然で――
あまりにも、見覚えがあった。
「……条件を出すつもりだったと聞いた」
久世の声は、
低く、淡々としている。
秀吉は、
笑おうとして失敗した。
「話が早いな」
「国を共に建て直す、などと……
随分と都合の良いことを申す」
「無論、
条件は――」
「却下する」
一言。
あまりにも、
あっさりと。
広間が、
ざわつく。
「理由は簡単だ」
久世は、
視線を逸らさない。
「条件を付けるのは、
“対等”な時だけだ」
その瞬間。
重臣の一人が、
息を呑んだ。
(――似ている)
あまりにも。
立ち姿。
言葉の切り方。
相手に考える余地を与えない間。
かつて、
この広間に立っていた男。
織田信長。
秀吉も、
それに気づいていた。
だからこそ、
目を細める。
「……久世」
「お前、わしを見下ろしておるな」
「いいや」
久世は、
即座に否定する。
「見下ろしてはいない」
「見ているだけだ」
その言葉に、
秀吉の背中を汗が伝う。
――あの頃と同じだ。
下僕として従っていた頃。
逆らえなかった背中。
気づけば、
選ばされていたあの感覚。
「国は、
一緒に建て直す」
久世は、
静かに続ける。
「だが、
条件は不要だ」
「民が選ぶ」
「流通が選ぶ」
「噂が選ぶ」
「……そして」
久世は、
ほんのわずかに笑った。
「生き残る方が、残る」
秀吉は、
声を失った。
それは、
脅しではない。
命令でもない。
時代そのものの宣告だった。
久世は、
それ以上何も言わず、
踵を返す。
誰も、
止められなかった。
その背中を見送りながら、
秀吉は理解する。
(……ああ)
(この男は)
(もう、わしの家臣ではない)
(――信長様と、同じ場所に立っている)
広間に、
朝の光が差し込む。
その光の中で、
久世の影は、
かつての主と重なっていた。
昼。
大阪城の城下町。
焼けたままの家屋。
黒く煤けた道。
そこに――
一人の男が戻ってきた。
荷は少ない。
背に背負った袋一つ。
元・城下の鍛冶師だった。
辺りを見回し、
壊れた土台の前に立つ。
「……残ってるな」
誰に言うでもなく、
そう呟く。
しばらくして、
もう一人。
今度は、
女と子ども。
女は、
慎重に城の方角を見た。
兵はいない。
怒号もない。
ただ、
久世軍の旗が、
遠くに立っているだけだ。
城門の前に、
久世軍の兵がいる。
だが、
槍を構えない。
道を塞がない。
目が合うと、
ただ一礼した。
それだけだった。
女は、
少し驚いたように目を瞬かせ、
子の手を引いて進む。
午後になる頃。
一人、
また一人と、
人が増えていく。
誰も号令をかけていない。
だが、
噂は静かに流れていた。
――奪われなかった。
――斬られなかった。
――選ばせてもらえた。
瓦礫の中で、
鍋が火にかかる。
折れた柱のそばで、
布が広げられる。
子どもが、
煤だらけの地面に
棒で絵を描く。
城の上。
秀吉は、
その光景を見ていた。
「……戻って、
きおる」
誰の命でもない。
誰の許しでもない。
ただ――
戻りたい場所に、
戻ってきている。
重臣が、
震える声で言う。
「殿下……
これは……」
「……久世の国だ」
秀吉は、
そう言ってから、
首を振った。
「いや」
「国ですらない」
「……人が、
選んでいるだけだ」
夕方。
久世軍の兵が、
焚き火を囲み、
炊き出しを始める。
命令ではない。
当然のように。
それを見た民が、また一人、
腰を下ろした。
城下に、音が戻る。
笑い声。道具の音。足音。
大阪城は、まだそこにある。
だが。国は、
静かに形を変え始めていた。
夜。
大阪城の天守。
灯は最小限。
広すぎる部屋に、
秀吉は一人だった。
城下から、
かすかに音が届く。
人の声。
鍋の音。
笑い声。
――生きている音。
秀吉は、
座ったまま動かない。
しばらくして、
ぽつりと口を開いた。
「……終わったな」
誰に聞かせるでもない。
「天下は」
笑おうとして、
やめた。
「いや……
正確には」
視線を、
城下へ落とす。
「もう、
わしの天下ではない」
力で取った。
数で抑えた。
名で従わせた。
それでも、
最後に残らなかった。
「久世は、
奪わなかった」
声が、
少し掠れる。
「奪わずに、
持っていきおった」
天下人とは何か。
土地か。
城か。
軍か。
「……違うな」
秀吉は、
ゆっくりと立ち上がる。
「人だ」
「人が、
どこに戻るか」
「どこで、
生きたいか」
それだけだ。
障子の前に立ち、
手をかける。
だが、
開けない。
「久世」
名を呼ぶ。
ここにいない男の名を。
「お前は、
天下を欲しがらなかった」
「だから、
天下が寄っていった」
深く、
息を吐く。
「……譲る」
それは、
書状でも、
宣言でもない。
ただの、
認識だ。
「天下は、
久世にある」
秀吉は、
天井を見上げる。
そこには、
何もない。
かつて夢を見た場所。
だが今は、
静かだった。
「……ようやく、
分かった」
「信長様が、
見ていたものが」
城下の灯が、
ゆらりと揺れる。
秀吉は、
その光から目を逸らさない。
逃げない。
もう、
逃げる必要がなかった。
大阪城は、
まだ立っている。
だが――
天下は、
すでに城を出ていた。




