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久世家戦記  作者:
7/15

第七部 ポンコツ剣士と、凍りつく露天

 朝靄がまだ残る城下。

 稽古場に、かや、凛、みよ、華陽、晴道、慶介が揃っていた。


 その中央に立つのは、昨日名を与えられた剣士――朔姫。

 空気が、少し張りつめている。

 久世は一歩前に出て、いつも通りの口調で言った。


「今日からだ」

 短い言葉だった。


「朔姫を、お前たちの大将とする」


 一瞬、誰も声を出せなかった。


「……え?」


 最初に反応したのは、かやだった。

「父上、それって……」


「文字通りだ」


 久世は視線を逸らさない。

「俺が常に側にいられるとは限らん。

 戦はもっと複雑になる」


 朔姫が、はっと息を呑む。

「ま、待ってください」

 一歩前に出かけて、止まる。

「私は……」


 久世は、言葉を遮った。

「お前は、強い」

「だがそれ以上に――

 折れたことがある」


 場の空気が、静かに沈む。


「折れて、それでも立った者はな」

「人の痛みが分かる」


 華陽が、わずかに目を細めた。

「大将に必要なのは、

 一番強い奴じゃない」

「一番、背負える奴だ」


 かやは、朔姫を見る。

 初稽古の時の恐怖。

 それでも黙って耐えていた姿。


 凛が腕を組んで言う。

「……納得は、できる」

 みよも小さくうなずく。

 晴道と慶介は顔を見合わせ、苦笑した。

「まあ……久世殿が言うならな」


 その時。

 朔姫は深く、深く頭を下げた。

「……私に務まるかは、分かりません」

「ですが」

 顔を上げる。

「この命、

 皆を前に進めるために使うと誓います」

 久世は、それを聞いて満足そうに笑った。


「よし」

「じゃあ決まりだ」

 かやの頭に、ぽん、と手を置く。

「覚えとけ」

「大将が前に出すぎたら、

 止めるのがお前の役目だ」


「……はい」

 かやは、少しだけ大人になった顔で答えた。

 朔姫は、静かに拳を握る。

(守る側に、立つ)

 それがどれほど重いか――

 もう、分かっていた。



 ――翌日の朝稽古。

「よし、私が号令をかける」

 胸を張る朔姫に、全員が整列した。

「えー……では……その……」


 沈黙。

 風が吹く。

 凛がぼそっと言う。

「……まだ?」 


「待て、今考えてる」

 朔姫は真剣な顔で腕を組み、うなっていた。


 晴道が空を見上げる。

「太陽、結構上がってきたな」


「ちょ、ちょっと待てと言っているだろう!」

 みよが、にこやかに追撃する。

「朔姫さま、昨日の『隊形三』って、どれでしたっけ?」


「……え?」

 一瞬、思考が止まる。

 かやが首を傾げる。

「え、あれって、横一列で前進しながら……」


「ち、違う!」

 即答した。

 だが――

「……違う、はずだ」

 声が弱くなる。


 華陽が、満面の笑みで歩み出る。

「大将?」


 やたら優しい声。

「今、適当に言いましたよね?」


「言ってない!」


「顔に書いてあります」


 慶介が腹を抱える。

「大将、剣は化け物なのに、頭の中が空っぽすぎるだろ」


「空っぽではない!」

 朔姫は抗議しつつ、地面に描いた陣形図を見下ろし――

「……あれ?」

 左右が逆だった。


 かやが、ため息混じりに言う。

「大将、まず左右を覚えよう」


「……私、左右は分かる」


「今、間違えたよ」


 沈黙。

 朔姫は、ゆっくりと地面に膝をついた。

「……大将、辞めてもいいか?」


「ダメ」

 全員同時だった。


 凛が肩をすくめる。

「ほら、ポンコツなのも含めて大将だろ」


 みよが笑う。

「可愛いですし」


「可愛い言うな!」


 華陽は、くすっと笑って締める。

「安心してください、朔姫」

「ここは地獄ですが、

 仲間には優しい地獄です」


 朔姫は顔を覆った。

(……私は、なぜ大将に)


 遠くで、久世が腕を組んで見ている。

「いい」

 ぽつりと呟く。

「完璧な指揮官なんぞ、育たん」

「笑われて、支えられて、

 それで十分だ」


 朔姫が顔を上げる。

 かや達が、自然と前に立っていた。

 その背中を見て、朔姫は苦笑する。

「……次は、ちゃんとやる」


「次もポンコツだったら?」

 晴道が聞く。


「その時は――」

 朔姫は、剣を構えた。

「剣で黙らせる」


「出た」

 全員が笑った。


 

 午後の稽古。

 珍しく、剣は置かれていた。


「本日は学の稽古だ」


 華陽が板の前に立ち、筆で字を書く。

「戦では、数を扱えねば死にます」


 凛とみよ、晴道、慶介は静かにうなずいた。

 かやは、ちらっと朔姫を見る。

 ――嫌な予感がした。


「では問題」

 華陽は板に書く。

『兵が二十。三隊に分ける。

 各隊、何人ずつか』


 沈黙。

 皆が考える。


「……六、六、八?」

 慶介。


「七、七、六」

 晴道。


「余りが出るから、一人予備に回す」

 凛。


 みよは丁寧に説明を添えた。

「合計二十なので、六・七・七が均等です」


 華陽は満足そうにうなずき――

「では大将」

 朔姫を見た。


「……え?」


「計算です」


「……」

 朔姫は、真剣な顔で板を見る。

 二十。

 三。

 長い沈黙。

 やがて、口を開いた。


「……三人」


 空気が凍る。


「どこから来た、その答え」

 華陽の声が静かすぎて怖い。


「え、三隊だから三人」


「残りの十七はどこへ行った」


「……森?」


「捨てるな」


 かやが頭を抱える。

「大将……算数、できない?」


「剣ならできる」


「それは知ってる」


 華陽は、ゆっくりと深呼吸した。

「では、指を使いましょう」


「……?」

 朔姫の両手を取る。

「ここに二十人います」

 一本ずつ折っていく。

「一、二、三……」

 途中で朔姫が止めた。


「待て」


「なにか?」


「今、何本目だ?」


「……七です」


「……最初からやり直してくれ」

 全員、膝から崩れ落ちた。


 慶介が笑いながら言う。

「剣の才能、算数に回せなかったんだな」


「才能は有限だ」

 堂々と言い切る朔姫。


 凛が真顔で言う。

「大将、戦場で数を間違えたら死ぬぞ」


「……それは困る」

 ようやく事態の深刻さを理解した顔。


 華陽は、ぽん、と朔姫の肩に手を置いた。

「いいですか」

「大将が全てできる必要はありません」

「ですが」

 にこりと笑う。

「できないことを、

 できないと言えるのが指揮官です」


 朔姫は、少し考えて――

「……では」

 深く頭を下げた。

「算数は、任せる」

 かやが、ぱっと顔を上げる。

「私、やります」


「うん」

 朔姫は素直だった。


 その様子を、廊下の影から久世が見ている。

「やっぱりな」

 小さく笑う。

「剣だけの化け物じゃ、

 人はついてこない」

「だが――」

「任せられる化け物なら、話は別だ」

 久世は踵を返した。

 あとは、子供たちの戦場だ。


 

 今日の午後の稽古の最後は、珍しく音のないものだった。

 庭に敷かれた畳。

 全員が正座し、目を閉じる。


「座禅」

 華陽が静かに告げる。

「剣も学も、心が乱れていては意味がありません」


 風が木々を揺らす。

 静寂。

 ……五分後。


「…………」

 朔姫の眉が、ぴくりと動いた。

(寒い)

(膝が痛い)

(さっきの饅頭、もう一個食べたかった)


 パンッ

 肩を打つ音。


「煩悩」

 華陽の低い声。


「……今のは違う」


「違いません」

 再び静寂。

 ……三分後。


(剣の型、あれ左右逆だったな)

(あとで直そう)


 パンッ

「煩悩」


「だから違うと言っている!」

 かや達は微動だにしない。

 凛は呼吸すら音を立てず、

 みよは穏やかな表情。

 晴道と慶介も、必死に耐えている。

 ……朔姫だけが、忙しい。


(蚊)

(今、絶対蚊がいた)

(刺された気がする)


 パンッ

「蚊はいません」


「見た!」

 久世が、少し離れた縁側で腕を組んで見ていた。

「……こいつ、剣以外全部向いてないな」

 呆れ声。


 それでも、しばらくして――

 朔姫は、ふっと息を吐いた。

(……静かだ)

 一瞬だけ、心が凪ぐ。

 だが次の瞬間、

(あ、凪ってなんだ)


 パンッ

「考えるな!」


「無理だ!」

 ついに朔姫は目を開いた。

「私は、剣を振っている時が一番無心だ!」


 華陽は、ため息をつく。

「それを世では」

「煩悩まみれと言います」


 かやが、そっと言う。

「でも……」

 朔姫を見る。

「剣の時は、本当に綺麗だよ」

 その言葉に、朔姫は一瞬黙った。


「……そうか」

 座り直す。

 また目を閉じる。

 今度は、叩かれなかった。


 久世は、くくっと笑う。

「仕方ない」

「自由な心がなければ、

 あれほどの剣は振れん」


 立ち上がり、告げる。

「午後の稽古は、ここまでだ」

 朔姫は、へたりと倒れ込んだ。

「……剣の方が、百倍楽だ」

 全員が、同意した。



 「……なら」

 座禅を終えた朔姫が、久世を見る。

「久世が手本を見せろ」


 場が、静まった。

 華陽が一瞬だけ目を伏せる。

「……久世様、それは」


「いいだろ」

 久世はあっさり畳に座った。

「どうせ、暇だ」


 その隣に――

 甲冑を外した夜叉。

 そして、なぜか難波。


「おい」

 華陽が難波を見る。

「なぜお前まで来る」


「いや、流れで」


「帰れ」


「もう座っちゃった」

 仕方なく、三人で正座。

 久世は背筋を伸ばし、目を閉じる。

 呼吸は深く、一定。

 風と同化するように、気配が消える。

(……)

 かやは思わず息を呑んだ。

 剣を振っていない久世が、

 ここまで“無”なのを初めて見た。

 夜叉も同じ。

 岩のように動かず、

 呼吸すら感じさせない。


 ――問題は、難波だった。

(腹減ったな)

(終わったら飯だな)

(あ、魚あったかな)

 顔は真面目。

 だが、心は市場。


 パンッ

 華陽の木刀が、難波の肩を打つ。

「煩悩」


「……?」

 難波、無反応。


 パンッ

「煩悩です」


「……?」

 まだ気づかない。


 パンッ

 今度は少し強め。

 それでも――


「……蚊か?」


 朔姫が目を見開いた。

「叩かれているぞ」


「そうか?」

 難波は首を傾げる。

「全然分からん」


 久世は目を閉じたまま言う。

「お前、それはそれで才能だ」


「え、褒められた?」


「褒めてない」


 華陽が頭を抱える。

「……朔姫」


「はい」


「あなたは煩悩に振り回され」


「はい」


「難波は煩悩と共存しています」


「なにそれ怖い」


 夜叉は、微動だにしない。

 完全な静。

 久世が、ゆっくりと目を開いた。

「座禅にも、向き不向きがある」


 朔姫を見る。

「お前は、動いてこそ無心だ」


 次に難波。

「お前は……考えるな」


「考えてないが?」


「それが問題だ」


 久世は立ち上がった。

「よし、終わりだ」


 朔姫は、深くため息をつく。

「……やはり剣がいい」


 難波は笑う。

「座ってるだけなのに、疲れたな」


「何もしてないだろ」


「それが一番疲れる」


 久世は肩をすくめた。

「自由すぎるのが二人もいる」

「この城は、退屈しないな」

 その言葉に、

 皆が少しだけ笑った。

 

  

 夜。

 城はすでに寝静まり、

 月明かりだけが庭を照らしていた。


 ――カン。

 澄んだ音が、空気を切る。

 朔姫は一人、庭に立っていた。

 呼吸は浅くも深くもない。


 ただ、一定。

 足運び、間合い、

 刃の軌道。

 一切の無駄がない。


 久世とかやは、縁側に立ち、黙ってそれを見ていた。

「……」

 言葉は、必要なかった。

 久世は、わざと音を立てて一歩踏み出す。

 砂利が鳴る。


 だが――

 朔姫は、振り向かない。


 次の一歩。

 さらに近づく。

 剣が振り下ろされ、止まる。

 まるで時間ごと斬り落としたような静止。


 かやは、思わず小さく息を吸った。

「……気づいて、ない」

 久世は、もう朔姫のすぐ背後に立っていた。

 腕を伸ばせば触れる距離。

 それでも。

 朔姫の世界には、剣しか存在していなかった。


 月も、風も、

 人の気配も。

 ――すべて、消えている。

 久世は、静かに笑った。

「……なるほどな」


 かやが、久世を見上げる。

「父上」

「どうして、あそこまで……?」


 久世は視線を逸らさずに答えた。

「生きるために、剣しかなかった者だ」

「剣を握っている間だけ、

 あいつは安心できる」


 その言葉の直後。

 朔姫の剣が、ぴたりと止まった。

 次の瞬間、ようやく息を吐く。


「……?」

 首を傾げ、振り向く。

 そこに久世とかやが立っているのを見て、目を見開いた。

「――いつから、そこに?」


「さっきから」


「……嘘だ」

 久世は肩をすくめる。

「本当だ」

 朔姫は、少しだけ気まずそうに視線を逸らした。


「……剣を振っていると」

「他が、消える」


 かやは、微笑んだ。

「それ、すごいことだよ」


 朔姫は、照れたように鼻を鳴らす。

「……座って無心になるより、

 よほど楽だ」


 久世は、静かに告げた。

「それでいい」

「お前は、剣で座禅をする人間だ」


 月明かりの下。

 朔姫は、もう一度剣を構えた。

 今度は――

 誰かに見られていることを、

 ちゃんと知りながら。



 次の日の朝。

 いつもと変わらない稽古場。

 朝靄の中、木刀の音が規則正しく響いていた。

 朔姫は先頭に立ち、型を繰り返す。


「そこ、重心が高い」

「踏み込みが甘い」


 指摘は正確。

 剣だけは、相変わらず完璧だった。

 休憩に入る。

 皆が水を飲み、息を整える中――


 かやが、ぽつりと口を開いた。

「ねえ、朔姫」


「なんだ」


「朔姫ってさ」

 一瞬の間。

「……思い人、作らないの?」


 空気が止まった。

 凛が水を吹きそうになり、

 みよは目を丸くし、

 晴道と慶介は「来たな」という顔をする。


 朔姫は――

「……は?」


 完全に理解が追いついていない顔。


「どういう意味だ」

「そのままの意味」

 かやは首を傾げる。


「強いし、綺麗だし、年も近いし」

「そういうの、無いのかなって」


 朔姫は、ゆっくりと視線を逸らした。

「……ない」


「即答だね」


「必要ない」

 言い切るが、

 なぜか剣を持つ手が落ち着かない。


 かやは気づいた。

「剣の時みたいに、即答じゃない」


「うるさい」


「図星?」


「違う」


 みよが、にこっと笑う。

「でも、朔姫って」

「剣以外の話になると、急に不器用になるよね」


「……」

 朔姫は、少しだけ眉を寄せた。

「私は」

「剣を振っていれば、それでいい」

「誰かを想って、心を乱すのは――」

 言葉が、止まる。


 その瞬間。

 久世が、稽古場の端から声を投げた。

「乱れる心があるから、人は強くなる」


 全員が振り向く。

 久世は、腕を組んで立っていた。

「剣だけが全てなら」

「お前は、もう完成している」


 朔姫は、黙った。

 かやが、優しく言う。

「今すぐじゃなくていいよ」

「ただ、聞いてみただけ」


 朔姫は、ふっと息を吐いた。

「……考えたことは、ない」

「剣を振っていない時」

「私は、空っぽだ」


 久世は、静かに笑う。

「なら、その空白を」

「いつか埋めるのも、修行だ」

 朔姫は、少しだけ照れたように鼻を鳴らした。

「……厄介な稽古だな」


 かやは笑った。

「一番、難しいかもね」


 朝の光が、稽古場に差し込む。

 剣の音が、また響き始めた。

 だが――

 朔姫の一太刀には、

 昨日までには無かったわずかな揺らぎが生まれていた。



 かやが問いを投げた、その時。

「朔姫って、思い人いるの?」

 場の空気が止まった瞬間――

 凛だけは、誰も見ていないものを見ていた。


 朔姫の指先。

 木刀を握るその手が、

 ほんのわずかに強く締まったのを。

(……あ)


 凛は、何も言わない。

 茶化さない。

 笑わない。

 ただ、視線だけを朔姫に向けていた。

 朔姫は「いない」と言った。


 即答のようで、

 即答ではなかった、その声。

 凛の胸の奥が、

 小さく、きしりと鳴る。

(やっぱり)

(剣しか、見てない)


 分かっている。

 朔姫が見ているのは、

 誰かの顔じゃない。

 間合いで、気配で、生きるか死ぬか、その境目だけ。


 ――それでも。

(それでも、だ)

 凛は、ふっと息を吐く。

 自分が朔姫を見る目は、

 剣を向ける時のそれとは違うと、

 誰よりも自分が分かっていた。


 稽古の再開。

 木刀がぶつかる。

 凛は、わざと朔姫と組む。

 正面から、斬りかかる。

 ――受け止められる。

 当然だ。


 でも、その瞬間。

 朔姫の目が、

 ほんの一瞬だけ凛を見る。

 敵ではなく。

 凛の心臓が、少しだけ跳ねた。

(今の……)


 だが次の瞬間、

 朔姫はもう剣の中に戻っている。

 世界から、凛が消える。


 凛は笑った。

 誰にも見せない、

 少しだけ苦い笑み。

(狙う、か)

(まあ……簡単じゃない方がいい)


 剣の天才。

 心を置き去りにした剣士。

 凛は、木刀を構え直す。

(剣で届かないなら)

(剣の外で、待つだけだ)


 誰にも気づかれず、

 誰にも言わず。

 凛の戦いは、もう始まっていた。

 


 稽古が終わり、皆が引き上げようとした時。


「……朔姫」

 凛が、低く呼び止めた。

「少し、いいか」


「今か?」


「ああ」

 朔姫は首を傾げつつも、凛についていく。

 その背中を見送りながら――


「……行くよね」

 かやが小声で言う。


「行かない理由がない」

 みよが即答。


 晴道と慶介も頷き、

 全員、物陰からそっと後をつけた。


 城の裏手。

 人の気配が薄い場所。

 凛は立ち止まり、振り返る。

 朔姫と向き合う。

 少しの沈黙。


 凛は、目を逸らさずに言った。

「俺は」

 短く息を吸う。

「お前が好きだ」


 朔姫は、固まった。

「……は?」


「剣じゃない」

「大将としてでもない」

「一人の人としてだ」


 言葉は少ない。

 飾りもない。

 だが、逃げがなかった。


「お前が剣を振ってる時も」

「何も考えられなくなってる時も」

「全部含めて、だ」


 朔姫の脳が、完全に止まる。

「……待て」

「意味が分からん」

「なぜ私だ」


 凛は、少しだけ困ったように笑った。

「理由がいるなら」

「多分、もう負けてた」

「最初から」

 その瞬間。

 ――物陰で。


「うわ」

 晴道が口を押さえる。

「直球すぎる」

「逃げ道ゼロだね……」

 みよがひそひそ言う。

 かやは、息を呑んで見ていた。


 朔姫は、視線を彷徨わせる。

 剣なら分かる。

 敵なら斬れる。

 だが――

「……私は」

「そういうことを、考えたことがない」

「剣以外は、空っぽだ」


 凛は頷いた。

「知ってる」

「だから、今すぐ返事はいらない」

「拒まれても、構わない」

 ただ、と続ける。


「伝えないのは、嫌だった」


 沈黙。

 風が吹く。


 朔姫は、ぎゅっと拳を握った。

「……ずるいな」

「そんな言い方をされて」

「何も感じないほど、私は鈍くない」


 凛の目が、わずかに見開かれる。

「だが」


 朔姫は、真っ直ぐ凛を見る。

「今は答えられない」

「剣が揺れたままでは」

「誰かを想う資格はない」


 凛は、静かに笑った。

「それでいい」

「待つ」


 その一言だけ。

 物陰から、全員が息を吐いた。

「……生きてる?」

 慶介。

「生きてるね」

 かやが頷く。


 その時。

「――お前たち」

 低い声。


 全員、凍る。

 朔姫が、こちらを見ていた。

「最初から、そこにいるだろ」

「……」

「……」

「……」


 凛は、肩をすくめた。

「まあ、予想はしてた」


 朔姫は、額を押さえる。

「今日はもう」

「稽古は終わりだ……」

 耳まで赤い。

 その姿を見て、

 かやは確信した。

(ああ)

(もう、始まっちゃったんだ)

 剣だけの世界じゃ、いられない時間が。

 


 夜。

 城は静まり返り、灯りも落ち着いた頃。


「……久世」

 珍しく、控えめな声だった。


 振り返ると、縁側に朔姫が立っている。

 剣は持っていない。

 その時点で、只事じゃない。


「どうした」

 久世は酒も持たず、腰を下ろしたまま応じた。

 朔姫は少し間を置き、隣に座る。

「……凛に、告白された」


「知ってる」


「知ってるのか」


「全員、物陰にいたからな」


「……」

 朔姫は小さく息を吐いた。

「それでだ」

「最近、凛と……目を合わせづらい」


 久世は、何も言わずに夜空を見る。

(俺に何を求めてる)

(戦の相談ならまだしも)

(恋事は専門外だぞ)

 内心で、はっきりそう思っていた。

「嫌なのか」

 あくまで淡々と聞く。


「分からん」

 即答だった。


「嫌ではない」

「だが、剣を向ける時と同じ距離でいられなくなった」

「近い」

「視線が、邪魔だ」


 久世は、思わず苦笑する。

「それはもう」

「十分すぎるほど、答えが出てる気もするがな」


 朔姫は、むっとした。

「そういう話ではない」

「私は、剣しか知らない」

「人を想うことが、強さになるのか弱さになるのか」

「判断がつかん」


 久世は、顎に手をやる。

(やっぱり)

(どうしろと)

 だが、表には出さない。

「朔姫」

 名を呼ぶ。

「お前は、俺をどう見ている」


「久世だ」

 迷いのない答え。

「父でも、主でもない」

「剣を教え、道を示した人間だ」


 久世は、少しだけ目を細めた。

「なら、答えは簡単だ」

「剣で迷うなら、剣に聞け」

「心で迷うなら、無理に答えを出すな」


 朔姫は、眉を寄せる。

「……凛を、待たせることになる」


「待てと言ったのは、あいつだ」


「それに」


 久世は、静かに続ける。

「凛は、目を合わせられない程度で折れる男じゃない」

「むしろ」

「それを理由に、逃げるなら」

「最初から、告白なんぞしていない」


 朔姫は、しばらく黙った。

 やがて、ぽつり。

「……厄介だな」

「そういう男は」


「だろうな」

 久世は立ち上がる。

「答えは急ぐな」

「剣が揺れる時期は、誰にでもある」

「だが、揺れたままでも」

「立っていられるようになった時」

「それが、お前の強さになる」


 朔姫は、久世を見上げた。

「……ありがとう」

「久世」


 その呼び方に、久世は少しだけ照れた。

「礼を言われるようなことはしてない」

「俺はただ」

「面倒な相談を受けただけだ」


 内心。

(ほんとに、どうしろと)

 だが、その顔はどこか穏やかだった。

 夜風が吹く。

 遠くで、凛の気配が動いたのを、

 二人とも気づかないふりをした。

 


 久世と子供たちの小話

 雷の日だった。

 城下に落ちる音が、腹の底まで響く夜。

 かやや凛、みよはそれぞれの部屋で眠りについている。


 ――その頃。

 廊下を、そっと歩く影が一つ。

 華陽だった。

 昼間はあれほど冷静で、

 誰よりも先を読む知将。

 だが、雷だけは別だった。

(……うるさい)


 光る。鳴る。近い。

 華陽は一度立ち止まり、ため息をつく。

(年下に知られたら、一生擦られるな……)


 向かった先は、久世の部屋。

 戸を叩く前に、雷鳴。

 ――反射的に戸が開く。

「……来たか」

 久世はもう分かっていたように言う。 


「父上……」

 その呼び方は、この時だけだ。


「また雷か」


「……はい」

 言い訳もしない。


 久世は何も言わず、布団をずらす。

「入れ」


 華陽は、少しだけ安堵した顔で中に入る。

 布団に入ると、雷がもう一度鳴る。

 華陽は無意識に、久世の袖を掴んでいた。

「……」

「……」

 久世は何も言わない。

 ただ、ぽつり。

「お前、かやの兄だろ」

「……承知しています」

「なら、怖がっていい」

「兄だからって、全部強い必要はない」

 華陽は、しばらく黙ってから小さく言った。


「……父上は、雷は平気なのですか」

「嫌いだ」

「ですが、こうして平然と」

「慣れただけだ」

 雷鳴。

 華陽の肩が少し跳ねる。


 久世は笑う。

「まったく」

「外では完璧、内では甘えん坊」

「可愛い長男だな」


「……父上」

「それ、言わないでください」

 だが、否定はしなかった。

 雷の音は、次第に遠のく。

 華陽はいつの間にか眠っていた。


 久世は天井を見ながら思う。

(知も武もある)

(だが、こういう弱さがあるから)

(この城は、壊れない)

 夜は、静かに更けていった。

 

  翌朝。

 城に、いつも通りの朝が来た。

 慶介は井戸端で顔を洗い、手拭いで拭きながら歩いていた。

 特に何も考えていない、平和な朝だった。

 ――その時。

 久世の部屋の戸が、静かに開いた。

 出てきたのは。

 華陽。

 髪は少し乱れ、目はまだ眠たげ。

 そして、袖を直しながら歩いてくる。


「…………」


 慶介は、その場で固まった。

(え)

(は)

(なんで)


 華陽は、慶介に気づく。

「……おはよう」

 やけに落ち着いた声。


「お、おはようございます……」

 慶介の脳内で、ありえない可能性が猛スピードで暴走する。

(いや、待て)

(華陽様は男)

(久世様も男)

(……でも)

(昨日、雷だった)

(関係あるのか?)


 華陽は、慶介の視線の意味を察したのか、少しだけ目を逸らす。

「……聞くな」


「い、いえ! 聞きません!」

 即答だった。

 逆に怪しい。


 そこへ、ちょうど角からかやが顔を出す。

「慶介、おは――」

 視線が、華陽に行く。

「……あ」

 察しが早い。


 凛とみよも、後ろから出てくる。

「え?」

「なに?」


 慶介、耐えきれず。

「か、かや」

「今、華陽様が……」

「久世殿の部屋から……」

 沈黙。


 かや、数秒考えてから。

「雷、鳴ってたもんね」

 一瞬で理解した。


 華陽、目を閉じる。

「……言うな」


「言わない言わない」

 かやは、にやりと笑う。


「でも」

「兄様、可愛いところあるんだね」

 凛も、ふっと口元を緩める。

「意外だな」

「あの華陽が」


 みよは首を傾げる。

「雷、怖いの?」


「……怖くない」


「ただ」


「一人で寝る必要がないだけだ」


 慶介は、心の中で深く頷いた。

(この城)

(強い人ほど)

(変なところ、弱い)

 そこへ、背後から声。


「朝から騒がしいな」

 久世だった。

 全員、ぴしっとなる。

 久世は、華陽を見る。

「よく眠れたか」 


「……はい」

 それだけ。

 だが、かやは逃さない。

「父上」

「雷の日は、予約制にした方がいい?」


 久世、即答。

「やめろ」

 華陽、耳まで赤くなる。

 慶介は思った。

(ああ)

(ここは)

(本当に、家族なんだな)

 城の朝は、今日も少し騒がしかった


 出陣前。

 馬の準備、武具の点検。

 空気は張り詰めている。

 朔姫は、鎧を着けながら静かに息を整えていた。

(初陣、か)

 恐怖はない。

 ただ、異様なまでに――静かだった。

 そこへ、かやが近づく。

「緊張、してない?」

「していない」

 即答。

「でも」

「何か、変だなとは思っている」

 凛が横から口を挟む。

「それ、たぶん普通だ」

「一度目は何も分からない」

「二度目から、怖くなる」

 みよも頷く。

「戦場って」

「始まる前が一番静かなんだよね」

 晴道と慶介は、無言で武器を握り直していた。

 二度目だからこそ分かる。

 この静けさが、どれだけ残酷か。

 久世は、少し離れた場所から彼らを見ていた。

 華陽は城に残している。

 理由は告げていない。

(この戦)

(判断を誤れば)

(あいつらは、二度と戻らん)

 久世は、朔姫を呼ぶ。

「朔姫」

「前に出すぎるな」

「お前は“切る役”ではない」

 朔姫は、久世を見る。

「……では、何をすればいい」

「生きて戻れ」

「それだけで、初陣は合格だ」

 一瞬、朔姫の目が揺れた。

「……簡単そうに言う」

「難しいから言っている」

 久世は、かや達にも視線を向ける。

「二度目だ」

「だが、慣れたと思うな」

「慣れた瞬間、死ぬ」

 全員、背筋が伸びる。

 進軍開始。

 旗が揺れ、地面が鳴る。

 朔姫は、馬上で前を見つめる。

 かや達は、その少し後ろ。

 二度目の戦場。

 だが、前回とは違う。

 守られる側ではない。

 進む側だ。

(領地を広げる戦)

(つまり)

(奪う戦)

 その意味を、かやは噛みしめていた。

 久世の背中は、変わらない。

 だが、その背中が向かう先は――

 もう、戻れない場所だった。

 こうして。

 朔姫の初陣と、

 かや達の二度目の戦が、静かに始まる。



 朝の霧がまだ残る野に、朔姫は一人、馬上でぴんと背筋を伸ばしていた。


「行くぞ!」


 声は小気味よく、しかし空気を切り裂くような鋭さがあった。

 久世が言った通り、初陣の朔姫は生きるか死ぬかの緊張感を持たず、ただ目の前の敵に突き進む。


「……ちょっと待て」

 かやが叫ぶ。


 しかし朔姫は振り向きもせず、馬を駆る。


「私がやるんだ! 前に出るのは私だ!」


 凛もみよも、晴道も慶介も――思わず動くしかなかった。

 馬を揃え、朔姫の背後に続く。

 初陣の朔姫と、二度目のかや達。

 戦場経験の差はあるが、それぞれの覚悟が光る。


 敵の前線が見え始める。

 朔姫は前を見据え、少しだけ笑った。

「さあ、戦だ」


 かや達は互いに目を合わせ、短く頷く。

 戦場に立つ覚悟を、それぞれが胸に刻み込んだ。


 そして、久世の采配通り――朔姫が前に出ることで、かや達の動きも一気に明確になる。


 初陣の勇気は、ただの勢いではない。

 だが、勢いだけでは済まされない戦場。

 かや達は、朔姫の後ろから注意深く、しかし全力で支える――

 家族のため、仲間のため、そして自分のために。

 


 馬から降りるや否や、朔姫の動きが変わった。

 駆ける足は光のように速く、刀は風を切る。


 敵は次々と立ち塞がるが――

「――なっ、なんだこの速さ!」


 かや達も目を見張る。二度目の戦場経験者ですら、言葉を失う速度だった。

 朔姫の刀は、敵の間合いに一瞬で入り込み、斬撃が空気を震わせる。

 まるで風神のごとく、バッタバッタと敵が倒れていった。


 凛は眉をひそめる。

「こ、これは……初陣なのに、化け物か?」


 みよも唖然として、しかしすぐに顔を引き締める。

「……支えないと、だめね」


 晴道は小声で慶介に言う。

「前に出る必要があるな……あれを野放しにはできない」


 かやは少し距離を取りつつ、朔姫を見守った。

 その動きは完全に計算されていないようで、しかし一つも無駄がない。

 敵は驚愕と恐怖に支配され、指揮系統が乱れる。


 戦場に、朔姫の風が吹き抜けるようだった。

 馬上の勢いで突撃した時とは違う、地に足をつけた戦の鋭さ。

 その姿に、かや達は改めて思う――

(朔姫、本当にただ者じゃない……)



 朔姫の前に、圧倒的な剛力を誇る敵部隊長が現れた。

 体格は大男、腕には筋肉の塊が浮き出ており、手には巨大な棍棒。


 その威圧感だけで、周囲の兵たちが一歩下がるほどだった。

「――この速さ……だが、相手はこれだ!」


 敵部隊長は棍棒を振り下ろす。

 朔姫は刀を構え、空気を裂く一閃で受け止めた。

 ――しかし。

 棍棒の重みと衝撃に、朔姫は後ろに吹っ飛ばされる。


 砂塵が舞い、馬も一瞬怯む。

「ぐ……っ!」

 地面に膝をつきながら、朔姫は必死にバランスを取り、刀を握り直す。


 その顔は、痛みと驚きでわずかに歪む。

 かや達の心もざわついた。

「――初陣で、ここまでの剛力とは……」

 凛は眉をひそめ、馬を操りながら距離を詰める。

 みよは声を出すことすら忘れ、ただ朔姫を見守った。


 晴道は小声で慶介に言う。

「介入しないと、やられるかもな……」

 朔姫は立ち上がり、刀を再び握り直す。

 初陣での勢いだけでは足りない――

 ここからが、本当の戦いだった。



 朔姫が棍棒の衝撃で後ろに吹っ飛んだ瞬間、戦場の空気が一瞬止まったかのように感じられた。


 そのとき、難波が駆け寄る。

「――甘いぞ、初陣だってな」


 難波は敵部隊長の棍棒を片手で受け止めると、そのまま軽々と投げ飛ばした。

 驚愕する敵兵たち。

 剛力自慢の部隊長が、地面に転がる。

 朔姫は、まだ息を整えつつ立ち上がる。

 その目には驚きと、少しの安堵が混じっていた。


「難波……さすが」


「……甘えるなよ」

 難波は軽く肩を叩き、朔姫を庇ったことを示す。

 しかしその目には、笑みもちらりとあった。


 かや達もそれを見て、少し安堵する。

 凛は馬を調整しながら苦笑した。

「初陣でやられそうになるなんて、やっぱりまだ子供だな」

「でも、頼もしい仲間がいるってことか……」

 みよは小声でつぶやいた。


 朔姫は刀を握り直し、深呼吸する。

 初めて「一人では戦えない」ことを実感しながらも、目は再び敵を捉えていた。

 戦場での初めての教訓――

 仲間と共に戦うことの大切さを、朔姫はここで学ぶことになる。

 

  

 難波が敵部隊長を投げ払った直後、戦場に一瞬の静寂が落ちた。

 土煙の向こうで、敵兵たちが息を呑む。


 その間に――朔姫は、もう立ち上がっていた。

「……礼は、後だ」

 短くそう言い、刀を構える。

 先ほどまでの勢い任せの動きではない。

 一度、痛みを知った者の足取りだった。

 地を蹴る。

 再び、朔姫は前に出た。

 速さはそのままに、無駄な踏み込みを削ぎ落とす。

 敵の間合いに入り、刃が閃くたびに、兵が倒れていく。


「来い」

 声は静かだったが、確かな自信が宿っていた。


 かやはその背を見つめ、息を詰める。

(……変わった)


 さっきまでの“イキった突撃”とは違う。

 仲間が後ろにいることを理解した動き。

 守られたことを恥とせず、力に変えている。


 凛が低く言う。

「もう、大丈夫だな」


「うん……」

 みよも頷く。


 朔姫は敵兵の視線を引きつけながら、確実に数を減らしていく。

 無理はしない。

 だが、引かない。

 初陣の戦場で、朔姫は初めて知った。


 強さとは、独りで立つことではない。

 仲間がいるから、前に出られるのだと。

 そしてその背中は、かや達にとって――

 確かに「大将」と呼ぶにふさわしいものへと変わりつつあった。


 戦は、そのまま久世軍の勝利で幕を閉じた。

 敵軍は統率を失い、散り散りに退く。

 深追いはせず、久世軍は静かに陣を畳んだ。

 戦場には、朔姫が斬り進んだ跡がはっきりと残っていた。


「……初陣にしては、上出来だな」

 難波がそう呟くと、朔姫は刀を納め、ようやく肩の力を抜いた。


 息は荒いが、その顔に後悔はない。

 かやは近づき、少しだけ笑う。

「無茶はしたけど……ちゃんと大将だったよ」


「……当然だ」

 そう返しつつ、朔姫はほんのわずかに視線を逸らした。


 城へ戻る道すがら――


 すでに慶介は動いていた。

「聞いたか!? 今日の戦の話!」

 城下町に戻るや否や、慶介は声を張り上げる。

「久世様の軍が勝ったのはもちろんだけどよ、先陣切ったのは朔姫様だ!」


 人々が足を止める。

「馬から降りて、あの速さでよ!

 敵をバッタバッタ斬り倒してさ!」


「初陣だってのに、化け物みたいだったぞ!」


 噂は瞬く間に広がった。

 市場でも、井戸端でも、酒場でも。

「朔姫様ってのは、あの若いお方か」


「久世様のところは、やっぱり人材が違うな……」


 城の奥でその話を聞いた朔姫は、耳まで赤くする。

「……盛りすぎだ」


「いや、ほぼ事実だよ」

 かやが即答する。

 その様子を、久世は少し離れた場所から眺めていた。

(名が立ったな、朔姫)

 それは誉れであり、同時に重荷でもある。

 だが――


 この戦乱の世で、前に立つ者には必要なことだった。

 こうして、

 朔姫の名は、久世軍の“大将”として城下に刻まれた。


 

 朔姫の名が城下に広まって、数日が過ぎた頃。

 城の門前に、妙な一団が現れた。

 揃いの装束、腰には同じ拵えの刀。 


「……新陰流だな」

 夜叉が一目で見抜く。

 彼らは名乗った。


 かつて朔姫と同じ門をくぐり、同じ師に剣を学んだ者たち。

「朔姫殿に会いたい」

 その声は丁寧だが、どこか硬い。

 敬意と、嫉妬と、恐れが入り混じっていた。

 中庭に呼ばれ、朔姫は彼らと向き合う。


「……久しぶりだな」


 一人が一歩前に出る。

「噂は聞いた。

 久世軍の大将として、初陣で武名を上げたそうだな」


 「違う」

 短く、はっきりと遮る。


 場の空気が一瞬で張りつめた。

「私は、久世軍の大将じゃない」


 朔姫は振り返り、かや達のいる方を一度だけ見る。

「かや、凛、みよ、晴道、慶介――

 あいつらの大将だ」


 そして再び、新陰流の剣士たちへ視線を戻す。

「久世軍では、私はただの一将にすぎない。

 久世の下で剣を振るう、将軍の一人だ」


 同門たちは息を呑む。

「……噂と、ずいぶん違うな」


「噂は勝手に膨らむものだ」

 朔姫は淡々と言う。

「私は軍を率いているつもりはない。

 守るべき仲間がいて、

 その先頭に立っているだけだ」


 かやが、少し誇らしげに頷いた。

「朔姫は、私たちの大将だよ」


「戦場で前に立つ人」

 凛も静かに続ける。


 新陰流の剣士たちは、ようやく理解した。

 目の前にいるのは、

 権威で立つ将ではない。

 仲間に選ばれ、前に立たされた剣士だということを。


 久世は少し離れた場所で、その様子を見ていた。

(……いい立ち位置だ)


 軍を背負わせすぎず、

 だが剣からも逃がさない。


 朔姫は刀に手をかける。

「確かめたいなら、剣で来い。

 私は――

 かや達の前で、逃げる気はない」


 新陰流の同門たちは、無言で構えた。

 かつて同じ流派にいた剣士と、

 今は“別の道を歩む者”との立ち合いが、

 静かに始まろうとしていた。



 立ち合いは、始まった瞬間に勝敗が見えた。

 新陰流の剣士たちは一人では無理だと悟り、

 二人、三人と連携して朔姫に迫る。


 だが――

 朔姫は退かない。

 足運びは静かで、無駄がない。

 刃は必要な分だけ動き、打ち合いにならない。


 一太刀。

 踏み込み。

 受け流し。

 剣士が一人、地に伏す。


 次の瞬間、背後に回った者の刃が弾かれ、

 気づけば腕から力が抜けていた。


「な……」


「見えなかった……」


 束になってかかっても、

 誰一人として、朔姫の間合いに踏み込めない。

 それは新陰流の型ではなかった。

 戦場で磨かれ、仲間を守るために研ぎ澄まされた剣。


 最後に残った者が、刀を下ろす。

「……俺たちは、もう追いつけない」

 次々と、同門たちが膝をついた。


「朔姫殿」

 先頭に立っていた剣士が、深く頭を下げる。

「頼みがある」


 朔姫は刀を納め、静かに言う。

「何だ」


「久世殿の軍に……

 入れてもらえないだろうか」


 かや達がざわめく。


「新陰流に戻れとは言わない」

「剣の型も誇りも捨てる」

「ただ――

 あの方の下で戦いたい」


 朔姫はすぐに答えなかった。

 視線を久世の方へ向ける。


 久世は腕を組み、淡々と言った。

「決めるのは、朔姫だ」


 その言葉に、同門たちが息を呑む。

 朔姫は一歩前に出た。

「私は、久世軍の将の一人だ。

 人を集める立場じゃない」

 一瞬、同門たちの顔が曇る。

 だが――

「……だが」

 朔姫は続ける。

「剣を捨てず、逃げず、

 今日ここに来た度胸は嫌いじゃない」


 かやを見る。

 凛を見る。

「私の隊に来い。

 ついてこれるなら――

 久世軍の一員として、道は開ける」


 同門たちは、一斉に頭を下げた。

「はっ!」

 その光景を見て、久世は小さく笑った。

(……名が立つとは、こういうことだ)


 こうして朔姫のもとに、

 かつての同門であり、

 これからは久世軍の兵となる者たちが加わった。

 剣は、もう一人のものではない。

 朔姫は知らぬ間に――

 人を引き寄せる将になっていた。


 

 久世軍に加わった新陰流の者たちは、最初こそ胸を張っていた。


 名門流派。

 誰一人、自分の剣に疑いはなかった。

 ――最初の稽古までは。

「……え?」

 新陰流の剣士が、思わず声を漏らす。


 目の前では、かやが黙々と木刀を振っている。

 動きは地味だが、息が乱れない。

 凛は型を繰り返しながら、途中で負荷を上げる。

 みよは足運びを崩さず、淡々と距離を詰めてくる。


「ちょ、ちょっと待て……」


 晴道が声をかける前に、

 慶介が軽く肩を叩いた。

「まだ準備運動だけど?」


 新陰流組の顔が、みるみる青くなる。

 稽古は剣だけではなかった。


 走る。

 担ぐ。

 倒れても、立つ。

 呼吸を整える間もなく、次の課題が来る。


「……聞いてないぞ」

 誰かが呟いた。

 昼前には、膝に手をつく者が出始める。

「新陰流では……ここまでは……」


 その言葉に、朔姫が振り返った。

「新陰流の話はしていない」

 淡々とした声。

 責めるでも、嘲るでもない。

「ここは久世軍だ。

 戦場で生き残る稽古をする」


 それでも、新陰流組は食らいつこうとする。

 だが、体がついてこない。

 一人が、ついに地面に座り込んだ。

「……俺たちは、間違えたのか」

 その言葉に、場が静まる。


 朔姫はしばらく彼らを見つめ、

 やがて、ぽつりと言った。

「逃げてもいい」


 新陰流組が顔を上げる。

「剣が強いだけでは、ここでは足りない。

 私も――何度も折れかけた」


 かやが、少し驚いた顔をする。


「でも」

 朔姫は木刀を握り直す。

「それでも前に立つと決めた。

 だから、まだここにいる」

 沈黙ののち、


 一人がゆっくりと立ち上がった。

「……もう一度やらせてくれ」

 次々と、新陰流組が立ち上がる。

 膝は震え、息は荒い。

 それでも、刀は手放さなかった。


 遠くでそれを見ていた久世は、

 何も言わず、ただ背を向けた。

(……選んだな)

 心が折れかけたところからが、

 本当の稽古の始まりだった。



 午後の稽古は、学だった。

 畳の上に座り、木簡と紙が並べられる。

 戦場の布陣、兵糧の配分、簡単な算用。


 新陰流組の空気が、午前とは一変した。

「この配置なら、補給は三日もつ」

「いや、川を使えば五日だ」

 迷いなく言葉が飛ぶ。

 計算も早い。

 文字も綺麗だ。

 午前中、地に伏していた者たちとは思えない。


「……すご」

 慶介が思わず漏らす。


 かやも目を瞬かせた。

「新陰流って、剣だけじゃないんだ」


「当然だ」

 一人が少し誇らしげに言う。

「学も叩き込まれた」


 そこで――

 視線が、自然と朔姫に集まった。

 朔姫は、木簡を前に固まっている。

「……」

 沈黙。

 そして、ぽつり。

「……三十七に、十七を足すと……」

 指を折る。

 もう一度、折る。


 凛がそっと目を逸らした。

 みよは苦笑い。

「……朔姫?」


 かやが恐る恐る声をかける。

「待て、今、考えている」


 考えている“ふり”だった。


 新陰流組の一人が、耐えきれず口を開く。

「……五十四です」


 朔姫は一瞬、目を丸くし、

 すぐに咳払いをした。

「……そうだな」


 全員が察した。

 そうじゃなかったと。


 午前とは逆に、

 新陰流組が呆然とする番だった。

「剣の化け物が……算が……?」

「信じられん……」


 朔姫は肩をすくめる。

「剣で生きてきた。

 数字とは縁がなかった」


 久世が、端で静かに言う。

「だから学ぶ」


 その一言で、場が締まる。

 新陰流組の表情が、少し変わった。

(完璧じゃない)

(だから、ついていける)


 剣では届かない背中。

 だが、学では支えられる。

 朔姫は気づいていなかったが、

 その“ポンコツ”は――

 新陰流組にとって、

 居場所を与えるものになり始めていた。


 

 午後の学の稽古が終わった頃。

 新陰流組の一人が、ふと眉をひそめた。

「……なあ」

「どうした」

「さっきから、同じ気配がある」

 さりげなく振り返ると――


 少し離れた場所に、腕を組んだ男がいる。

 黒衣。

 落ち着いた佇まい。

 視線は、常に朔姫の方。


「……またいるぞ」

「午前の稽古の時もだ」

「昼の休憩にもいた」

 新陰流組の顔が、だんだん険しくなる。


「おい……」

「まさか……」

 ひそひそ声が飛ぶ。

「朔姫殿の……」

「ストーカーでは?」

 その言葉に、全員が凍りついた。


 確かに。

 距離を保ち、

 話しかけず、

 ただ見ている。

 しかも異様に強そう。

「……悪質だな」

「剣の腕があるからって、許されると思ってるのか」


 朔姫は気づかず、

 木簡を逆さに持って唸っている。

「……これは、どこから読む?」


「今じゃない、そこじゃない」

 かやが即座に突っ込む。


 新陰流組は、ついに決断した。

「我々で、止めるべきだ」

「朔姫殿は我らの大将だ」

 ずらりと並び、

 久世の前に立ちはだかる。

「貴殿」

 代表格が、低い声で言う。

「これ以上、朔姫殿につきまとうのはやめていただこう」


 久世は、きょとんとした。

「……?」


「我々は見ている」

「朝から晩まで、距離を保って尾行」

「目的は何だ」

 一瞬、場が静まり返る。


 久世はゆっくりと視線を新陰流組から朔姫へ移し、

 小さく息を吐いた。

「……朔姫」


「何だ、久世」


 その呼び方を聞いた瞬間、

 新陰流組の顔色が変わる。

(名前呼び!?)

(常習犯だ……!)


 久世は淡々と言った。

「お前、算用の答え、全部間違っている」


「なっ――!?」

 朔姫が真っ赤になる。

「なぜ分かる!」


「横で見ていたからだ」


 新陰流組、完全に固まる。

「……え?」

 かやが、ようやく状況を察して口を開いた。

「えっと……その人……」

「久世だよ」

 沈黙。

 次の瞬間。


「「「……は?」」」

 全員が揃って声を上げた。


「久世……殿……?」

「まさか……」


 久世は首を傾げる。

「何か問題でも?」


 新陰流組は、揃って地面に額をつけた。

「「「大変、失礼いたしました!!!」」」


 朔姫は腕を組み、むすっとする。

「だから言っただろう。

 この人は、ストーカーじゃない」

「……ただの、父親目線なだけだ」


 久世は小さく笑った。

「心配になるだろう。

 放っておくと、数字すら斬りかねん」


「斬らん!」

 こうして新陰流組は学んだ。

 久世軍で一番危険なのは、

 無言で見守っている男だということを。


 

 新陰流組は、何も言わずに視線を交わした。

(見極める必要がある)


 あの男――久世。

 名は知れ渡っている。

 だが実際に、朔姫を従わせている“主”なのか。


 それを、この目で確かめる。

 夕刻。

 久世が一人、城の裏手へ歩き出す。

 足音はない。

 だが気配は隠していない。 


「……行くぞ」

 新陰流組は距離を保ち、静かに後を追った。


 久世は山道へ入る。

 人払いされた細道。 


「……奇襲か?」

「それとも、密会か」

 息を殺し、さらに進む。

 すると――


 前方で、久世が足を止めた。

「出てこい」

 声は、低くも高圧でもない。

 だが――

 心臓が、跳ねた。


(気づかれた!?)

 新陰流組が身構える前に、


 久世は振り返らず続ける。

「五人だな。

 足運びはいいが、呼吸が揃いすぎている」


 沈黙。


 隠れていた者たちが、ゆっくりと姿を現した。


「……何の用だ」

 久世が初めて、こちらを見る。


 その視線に、

 背筋が凍る。

 殺気はない。

 だが、逃げ場がない。


 代表格が、一歩前に出た。

「失礼ながら……」

「朔姫殿を従わせている男が、

 どのような存在なのかを見極めたかった」


 久世は、ふっと息を吐いた。

「従わせている?」

 その言葉に、眉をわずかに動かす。

「違う」

 間髪入れず、断言。

「朔姫は、従っていない。

 選んでいる」


 新陰流組が、言葉を失う。


「私は道を示しただけだ。

 前に立つか、退くかを決めたのは――

 あいつ自身だ」


 その瞬間。

 木の陰から、足音。

「……久世」

 朔姫だった。

「また、余計なことを言っているな」

 新陰流組は息を呑む。


 久世は振り返らず、静かに言う。

「事実だ」


 朔姫は鼻を鳴らす。

「私は、久世に従っているわけじゃない。

 勝手について行っているだけだ」


 久世は、少しだけ笑った。

「なら、それでいい」


 新陰流組は、ようやく理解した。

 この関係は、主従ではない。

 対等ではないが、押さえつけられてもいない。


 久世は歩き出す。

「もう十分だろう」


 新陰流組は、その背中を見送りながら、

 誰も、追うことができなかった。

(……この男の下にいるのは、

 縛られている者じゃない)

 そう悟った瞬間だった。


 

 翌朝。

 まだ霧の残る城下の稽古場に、

 異様な気配が立ちこめていた。

 そこに立っていたのは――夜叉。

 甲冑姿。

 腕を組み、微動だにしない。


 その横で、久世が淡々と言った。

「今日の稽古は、全員参加だ」


 かや達が一斉に顔を上げる。

「全員……?」


「新陰流組も、かや達も、朔姫も含めてだ」

 嫌な予感しかしない沈黙。


 久世は続ける。

「理由は簡単だ。

 勝手な判断、勝手な行動、勝手な尾行」

 新陰流組が、さっと青くなる。

「連帯責任だ」


 朔姫が一歩前に出る。

「待て、久世。

 尾行したのは――」


「分かっている」

 久世は視線だけで制した。

「だが、大将が知らぬところで部下が動いた。それもまた、責任だ」


 朔姫は言葉を詰まらせる。

 夜叉が、ゆっくりと一歩踏み出した。

「……では、始める」

 その一言で、地獄が開いた。 


 走る。

 担ぐ。

 倒れる。

 休みはない。


「まだ終わらん」

 夜叉の声は低く、逃げ場がない。


 新陰流組は早々に限界を迎える。

「は……っ、は……っ」

「聞いてない……!」


 かや達は歯を食いしばってついてくる。

 慣れている。

 だが、楽ではない。

「朔姫……っ、これ……!」


「喋るな、足を動かせ!」

 朔姫自身も、顔色が悪い。


 だが立ち止まらない。

 夜叉は容赦なく言い放つ。

「戦場では、疑う時間はない。

 倒れるか、立つかだ」


 一人、また一人と地面に膝をつく。


 それでも夜叉は止めない。

「まだだ」


 新陰流組の一人が、声を振り絞る。

「……俺たちのせいで……」


「違う」

 久世が初めて口を挟んだ。

「疑ったことではない。

 疑いを、力に変えなかったことだ」

 全員が、久世を見る。

「疑うなら、剣を振れ。

 逃げるな。

 確認したいなら、前に立て」


 沈黙。


 夜叉が、再び号令をかける。

「続行」


 悲鳴すら上がらない。

 稽古が終わった頃。

 全員が、地面に転がっていた。


 朔姫は仰向けのまま、空を見て呟く。

「……地獄だな」


 新陰流組の一人が、かすれ声で言う。

「……だが」

「ここに来て、よかった」


 久世は何も言わず、背を向けた。

 夜叉だけが、ぽつりと言った。

「生き残ったな」

 それが、この日の合格だった。


 地獄の稽古が終わったあとも、

 誰一人、すぐには立てなかった。 


 息をするだけで精一杯。

 それでも――

 夜叉の視線は、一点に留まっていた。


 新陰流組の中の一人。

 誰よりも早く倒れ、

 誰よりも早く立ち上がり、

 最後まで列を乱さなかった剣士。


 夜叉は、無言のまま近づく。

「……名は」

 低い声。


「……琥珀です」

 声は掠れていたが、目は死んでいない。

 夜叉はそれ以上、何も言わず踵を返す。

 そのまま、朔姫の前に立った。


「朔姫」


「なんだ、夜叉」


「一つ、頼みがある」


 かや達がざわつく。

 夜叉が“頼み”と言うのは、かなり珍しい。

 夜叉は琥珀を顎で示した。

「あれを、私の弟子にしたい」


 一瞬、空気が止まる。


「……理由は?」

 朔姫が静かに聞く。


「折れ方を知っている」

 夜叉は短く言った。

「才がある者は、最初に潰れる。

 だが、琥珀は潰れてから立ち上がった」


 新陰流組の剣士たちが息を呑む。

 朔姫は腕を組み、少し考え――

 そして、ふっと笑った。

「いいぞ」


「途中で逃げたら、私が斬る」

 即答だった。


 夜叉は、ほんのわずかに口角を上げた。

 それは、笑みと呼ぶにはあまりに微かなもの。

「十分だ」

 夜叉は琥珀の前に立つ。

「今日から、私の稽古に来い」


「……は?」

「拒否権は?」


「ない」


「死にますか」


「多分な」


 琥珀は一度、唾を飲み込み――

 深く、頭を下げた。

「……よろしくお願いします」


 かやが小声で言う。

「ねえ……あの人、終わったよね」


「うん、完全に」

 みよが即答した。


 朔姫は少しだけ真剣な目で、琥珀の背を見ていた。

(夜叉が弟子を取る……か)

 それはつまり、

 久世軍の中でも異端を育てるという意味だ。


 久世は遠くからその光景を見て、

 何も言わず、ただ一度だけ頷いた。

 地獄の稽古は終わった。

 だが――

 琥珀にとっての本当の地獄は、

 ここから始まる。


 夜明け前。

 空が白み始めるよりも早く、

 琥珀は稽古場に立たされていた。


 目の前にいるのは夜叉。

 甲冑は着けていない。

 それが、逆に怖い。

「……今日から、私の稽古だ」


「はい……!」

 琥珀は背筋を伸ばす。


 夜叉は地面に木札を置いた。

 十枚。

「まず、これを拾え」


「拾う、ですか?」


「拾え」

 言われるまま、琥珀が屈んだ瞬間――

 風が鳴った。


 次の瞬間、

 琥珀は地面を転がっていた。

「……っ!?」

 何が起きたか分からない。

 ただ、体が宙を舞った感覚だけが残る。


「遅い」

 夜叉の声は淡々としている。


「え……?」

「拾う前に、斬られる距離だ」


 琥珀は慌てて立ち上がる。

(今の……蹴り? いや、払っただけ……?)


「次」

 夜叉は、また木札を置く。

「今度は、三枚拾え」


 琥珀の喉が鳴る。

「……はい」

 慎重に、だが素早く手を伸ばす――

 また、視界が反転した。

「ぐっ……!」


 背中から落ち、息が詰まる。

「まだ遅い」

 夜叉は一歩も動いていないように見える。

「剣は抜くな。

 この稽古では、剣は無いものと考えろ」


「……は?」

 思わず声が出た。

「剣士なのに……?」


「戦場で、常に剣を持っていると思うな」

 夜叉は淡々と続ける。

「殴れ。投げろ。逃げろ」


 琥珀の顔が、みるみる引きつる。

(聞いてない……)


「最後に」

 夜叉は木札をすべて置いた。

「全部拾え」


「……え?」


「一枚でも残せば、最初からだ」


 琥珀は、一瞬だけ夜叉を見た。

「……ちなみに、何回くらい――」


「夜明けまで」

 即答。


 琥珀は、思考を放棄した。

(ここは……地獄だ)


 その後。

 琥珀は何度も飛ばされ、

 何度も地面に叩きつけられ、

 何度も立ち上がった。

 息は荒く、腕は震え、視界は滲む。

「……もう……無理です……」


 膝をついた琥珀に、

 夜叉は初めて、ほんの一瞬だけ目を向けた。

「まだ、生きている」


「……」


「なら、続けられる」

 琥珀は、笑ったのか泣いたのか分からない顔で、

 再び立ち上がる。

(夜叉基準って……こういうことか……)


 遠くで、朝の鳥が鳴いた。

 琥珀の地獄の初日は、

 まだ終わっていなかった。


 

 琥珀が地面に膝をついた、その時だった。

 足音。

 ゆっくりと、しかし迷いのない足取りで

 稽古場の端を通りかかる影がある。


「……朔姫殿……」

 掠れた声で、琥珀が呼んだ。


 顔を上げると、朔姫が立っていた。

 朝稽古の帰りらしく、額にうっすら汗を浮かべている。


「どうした、琥珀」


 琥珀は必死に声を絞り出す。

「た、助けてください……

 これ、稽古じゃありません……」


 夜叉は何も言わず、腕を組んだまま。

 朔姫は、しばらく琥珀と夜叉を見比べ――

 そして、思いもよらぬ言葉を口にした。

「……羨ましいな」


「……え?」

 琥珀は、耳を疑った。


「羨ましい、と言った」

 朔姫は夜叉を見る。

 その目には、冗談の色はない。

「夜叉は、弟子を取らない。

 取らないから、私は教えを乞うことすらできなかった」


 琥珀の息が止まる。


「私は久世に拾われた。

 だから剣を振れる場所はあった」

 朔姫は、ぎゅっと拳を握る。

「でも、夜叉の剣は――

 私が一番、欲しかった剣だ」


 夜叉が、わずかに目を伏せる。


 琥珀は、言葉を失った。

「……私なんかが……?」


「だからだ」

 朔姫は、琥珀を真っ直ぐ見る。

「私なんか、と思える者を選んだんだろう。

 夜叉は」


 琥珀は、喉が鳴る。


「逃げたいなら、逃げてもいい。

 誰も責めない」

 そう言って、朔姫は一歩引いた。

「だが――

 その場所を、羨ましいと思う者がいることは、

 忘れるな」


 夜叉が、低く言った。

「休憩、終わりだ」


「……はい……」

 琥珀は、ふらつきながらも立ち上がる。


 朔姫は、背を向けながら小さく呟いた。

「……死ぬなよ」


 その言葉に、琥珀は思わず笑ってしまった。

「……善処します……」

 夜叉基準の稽古は、再開される。

 だが琥珀の足は、

 さっきよりも、ほんの少しだけ前に出ていた。


 城内の奥、人気のない一角。

湯気が静かに立ち上る岩組みの露天風呂を前に、夜叉は何の迷いもなく足を止めた。

「稽古の後は体を温める。明日に疲れを残さないためだ」


当然のように言って、琥珀の方を見る。

「来い」


一歩踏み出しかけた琥珀は、ぴたりと動きを止めた。

顔が赤いとか、慌てているとか、そういう派手な反応ではない。

ただ、明らかに“固まっている”。

「……あの」


「どうした」

夜叉は不思議そうに首を傾げる。

稽古中と同じ、何も疑っていない目。

琥珀は視線を泳がせ、しばらく逡巡したあと、小さく息を吐いた。


「……自分は、女です」

一瞬の沈黙。


夜叉は目を瞬かせ、それから――本気で今気づいた、という顔をした。

「……そうか」


それだけ言って、少し考えるように腕を組む。

「なら、先に入れ。俺は時間をずらす」

即断だった。

気まずさも、照れもない。

ただ事実を受け取って、対処を決めただけ。


琥珀は逆に拍子抜けして、思わず夜叉を見る。

「……驚かないんですか」


「剣の才に性別は関係ない」

夜叉は淡々と言う。

「恥ずかしいなら無理はさせない。だが、体を労るのも修行のうちだ」

そう言って背を向ける。

「十分温まったら声をかけろ。それまでは外で型を確認している」


その背中を見ながら、琥珀は胸の奥が少しだけ、静かに揺れた。

(……この人、本当に剣しか見てない)

怖い人だと思っていた。

無茶な稽古を課す、夜叉のような存在。


でも今は――

 その不器用な真っ直ぐさが、少しだけ、羨ましくもあった。


 

 久世の裏話「露天風呂」

 久世が露天風呂を作った理由は、

**贅沢でも娯楽でもない。完全に「戦の後始末」**だった。


久世は、戦のあとに兵がどう壊れていくかを嫌というほど見てきた。

傷は治っても、気が荒れ、眠れず、些細なことで仲間に当たる。

刀を置いたはずなのに、心だけが戦場に残る。

ある夜、久世は重傷を負った古参の兵と話した。


その兵はこう言った。

「湯に浸かってる時だけは、

刀を握らなくていい気がするんです」


その言葉が、久世の中に残った。


だから久世は

・酒場を増やさなかった

・賭場も作らなかった

・女を呼ぶこともしなかった

代わりに選んだのが、露天風呂。


城内に、外から見えない場所に。

空が見えて、風の音が聞こえて、

誰も命を奪わなくていい場所。


兵も将も身分を脱いで、

刀も立場も置いて、

「ただの人間」に戻るための場所。


実は――

最初に使ったのは久世自身だった。

戦の夢で目を覚ました夜、

誰にも言わず、まだ誰も知らない露天風呂に入り、

湯の中でしばらく動けなくなった。

その姿を見ていた者は誰もいない。

だから兵たちは知らない。


あの露天風呂は、久世自身のために作られた場所でもあるということを。


そして後になって、

夜叉や琥珀、朔姫たちが関わる場所になっていく――

それは久世にとって、想定外だけど

悪くない未来だった。


 

 久世が露天風呂へ向かうと、すでに湯気が立っていた。

岩の向こうから聞こえるのは、男の声。

覗くまでもなく分かる。

華陽、晴道、慶介――先客がいた。


一瞬だけ足を止める。

だが久世は引き返さない。

無言のまま衣を解き、

何事もないように湯へと足を運ばせた。


「……え?」

華陽が先に気づき、目を見開く。

晴道は咳払いをし、慶介は思わず背筋を伸ばした。

だが久世は、そんな反応など意に介さない。

湯に身を沈め、静かに息を吐く。

それだけだ。


「ここは城内の風呂だ。

 誰が入っていようと構わんだろう」

それだけ言って、目を閉じる。


三人は顔を見合わせる。

気まずさが湯気の中に漂うが、

当の本人は微動だにしない。


――さすが不動の久世。


動じぬどころか、

まるで最初からそこにいるのが当然であるかのようだった。

やがて空気の方が折れ、

誰ともなく肩の力が抜けていく。


久世がいるだけで、

場が「整ってしまう」。

それがこの男の、

剣とは別の強さだった。


 

 湯に慣れ始めた空気を、

最初に壊したのは足音だった。

「……ここか」

低く響く声。

夜叉だ。


岩の向こうから姿を現した瞬間、

華陽たちの背筋が条件反射で伸びる。

だが――


「入るぞ」

夜叉は何の躊躇もなく衣を解き、

そのまま湯へ。


「は!?」 「ちょ、夜叉さん!?」 「本気か……」

動揺する周囲をよそに、


久世は目を閉じたまま一言。

「静かにしろ。湯が逃げる」


その直後だった。

「お、珍しいな。揃ってるじゃねぇか」

難波。


続けざまに、

「……これは、入っていい状況なのか?」 志波。


「主がいるなら問題あるまい」 羅光。


「うわ、想像以上に人いる……」 佐一。


「ふふ、賑やかで何よりだ」 鳳仙。


――次々と増える。

もはや露天風呂というより、

戦場前の寄合所だ。

湯気の中で男たちが並び、

誰もが「今さら出られない」顔をしている。

ただ一人、久世を除いて。


「……で、風夏は?」

難波の一言に、鳳仙が苦笑する。

「彼女は来ないさ。

 女性だしな、さすがに」


その言葉に、

なぜか全員が一瞬だけ安堵した。

「……正解だな」 「それは助かる」 「心臓に悪い」


夜叉だけが腕を組んだまま、

無言。

久世はようやく目を開け、

湯面を見つめながら言った。

「よく集まったな」

責めるでもなく、驚くでもない。

「この風呂は、

 身分も流派も置いて入る場所だ」

一同、自然と口を閉じる。

「今はただの男同士だ。

 剣も策も、ここでは抜くな」


その言葉で、

張り詰めていた空気が、すっと緩んだ。


夜叉が小さく息を吐き、

難波が肩をすくめる。

「……相変わらずだな、久世」


「それでいい」

不動の久世は、

この異様な状況すら、

何事もなかったかのように受け入れていた。

湯気の向こうで、

誰かが小さく笑った。



 湯気が落ち着き、

誰もが黙って湯に浸かっていた頃。


不意に、夜叉が口を開いた。

「……この風呂を作った理由を、

 知りたい者はいるか」

唐突な一言に、


難波が眉を上げる。

「珍しいな、夜叉がそんな話振るの」


久世は目を閉じたまま、何も言わない。

止めもしない。


夜叉は続ける。

「久世は、昔――

 戦が終わったあと、

 自分だけ生き残った」

一瞬、湯音だけが残る。

「仲間も、家臣も、

 守ると誓った者も、

 全部だ」


志波が小さく息を呑む。


「その夜、久世は剣を洗わなかった」


羅光が、静かに聞き返す。

「……なぜだ?」


「血を落とすと、

 何を失ったのか分からなくなるからだ」

夜叉の声は低く、感情を抑えている。

「代わりに、

 何もできず座っていた」

久世は、相変わらず何も言わない。

ただ、湯の中で肩が微かに上下する。

「久世は言った」

夜叉は、正確に言葉をなぞる。

『剣で守れぬものがあるなら、

 次は剣を置ける場所を作る』

その言葉に、

誰も返せない。

「この風呂は、

 その時の言葉の続きだ」


夜叉は久世を見る。

「戦えなくなった者のためでもあるが、

 一番は――

 久世自身が、

 二度とあの夜に戻らぬためだ」


しばらくして、

久世がぽつりと言った。

「話しすぎだ、夜叉」

咎める声ではない。


夜叉は肩をすくめる。

「事実だ」


難波が、少しだけ笑った。

「……なるほどな。

 そりゃ、不動にもなるわけだ」


鳳仙が静かに頷く。

「人を守るために、

 まず自分を壊さぬ選択をした男、か」


久世は、目を閉じ直す。

「だから、

 ここでは戦の話は終わりだ」


それだけ言って、

再び沈黙。

湯気の中、

誰もがそれ以上、

久世の過去に踏み込まなかった。

――踏み込まなくても、

十分すぎるほど、

伝わっていたからだ。



 夜叉の言葉が湯気に溶け、

 静けさが戻りかけた、その時だった。


「……でさ、凛はどう思――」

「ちょ、朔姫、そこじゃ――」


 聞き慣れた声。

 覗き込むように、岩の向こうから二つの影。

 朔姫と凛だった。

「ん? なんか人の声――」

 朔姫が、何の疑いもなく一歩踏み出し、

 露天を覗き込んだ、その瞬間。

 ――時間が止まった。


 湯の中。

 久世を中心に、

 夜叉、難波、志波、羅光、佐一、鳳仙。

 全員いる。

 しかも、全員、動じていない久世以外は

 完全に固まっている。

「…………」

「…………」

「…………」

 朔姫も、凛も、言葉を失った。


 最初に動いたのは、凛だった。

「――見なかった! 今のは見なかった!」

 即座に朔姫の目を覆い、

 強引に背中を向けさせる。


「ちょ、凛!?

 なに、なにが――」


「聞くな!

 見たらダメなやつだ!」

 だが、遅かった。

 朔姫は、一瞬だけ――

 本当に一瞬だけ、

 見てしまっていた。


「……」

 ゆっくりと、凛の手を外す。

「……あれ?」

 ぽつりと。

「なんで、全員いるんだ?」

 その一言で、

 場の空気が完全に死んだ。


 難波が最初に視線を逸らす。

「いや、その……

 主がいたから……」


「連れ立ってしまったな」  鳳仙が苦笑する。


「これは不可抗力だ」  志波が真顔で言う。


「……誰か止めろよ」  佐一が小さく呟いた。


 夜叉は腕を組んだまま、

 何も言わない。

 久世だけが、

 いつも通りの声で言った。

「覗くとは、行儀が悪いな、朔姫」


「……すまん」

 朔姫は素直に頭を下げた。

 そして、少し考え――

「……でも」


 全員が身構える。

「父上がいるなら、別にいいか」


「よくない!!」

 複数人の声が重なった。

 凛が慌てて朔姫を引っ張る。

「いいから行くぞ!

 これは記憶から消す案件だ!」  


「えー……?」

 名残惜しそうにしながらも、

 朔姫は引きずられていく。

 去り際、ちらりと久世を振り返り、

「……混浴、だったのか?」


「違う」

 即答だった。

 姿が完全に見えなくなったあと、

 露天に残された男たちは、

 しばらく誰も口を開かなかった。


 やがて、難波がぽつり。

「……今の、戦場より緊張したな」


「同感だ」  羅光が深く頷く。


 久世は、何事もなかったかのように湯から立ち上がる。

「さて、上がるぞ」

 不動の久世だけが、

 最初から最後まで、

 何一つ変わっていなかった。


 

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