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久世家戦記  作者:
6/15

第六部 狼煙の先、格の違い

 城の書斎で、久世は机に肘をつき、眉間に深い皺を寄せていた。

 秀吉から届いた書状を何度も読み返す。内容は簡潔だが、重みは計り知れない。


 ――この戦は、戦乱の世の勢力図を大きく変えるもの。

 ――久世の手腕が試される局面であることに疑いはない。


 「……ふむ……」久世は低くつぶやく。

 彼の瞳は、書状に書かれた数万の兵と戦場の光景を思い浮かべていた。


 頭の中で、戦略、兵の配置、援軍の可能性――あらゆる要素が絡まり、久世は静かに思考を巡らせる。


 「確実に……戦乱を変える戦……か」


 城内には静寂が漂う。外の喧騒も、冬の冷たい風も、久世の思索を遮ることはない。

 だが、その心中には決意が芽生えつつあった――戦乱の世において、自らが動く時が来たのだと。


 久世は深く息をつき、すぐに行動に移した。

 書状の返答として、秀吉に使者を送る手配を命じる。


 「秀吉殿には、協力する旨を伝えよ」


 家臣たちは無言で頷き、すぐに動き出す。

 久世は窓の外に広がる冬の空を見つめ、つぶやく。


 「これより……本当の戦が、待っている」

 城内では、かや達や重臣たちがまだ知らぬうちに、久世の決断によって運命の歯車は静かに回り始めた。


 数万の兵を相手に、戦略と力が試される日々が、今まさに幕を開ける。

 ――戦乱の世は、これまで以上に激しく、予測不可能な流れを見せることになるのだ。


 

 久世は書斎で深く考え込む。

 今回の戦は数万の兵を相手にする大規模な戦である。だが、同行するのは久世の軍の中でも信頼できる者たちに限られる。


 「かや、華陽、凛、みよ……慶介はどうするか」久世は静かに呟く。


 かやはすでに目を輝かせて答える。

 「父上、私たちも同行します。戦場を、少しでも学びたいです」


 久世はうなずきつつも、厳しい表情になる。

 「わかる。しかし、今回は全員が戦場に立つ必要はない。無用な危険は避けるべきだ」

 家臣たちも一堂に会し、それぞれの力量や役割を確認する。


 「華陽は戦略を補佐、難波の息子・志波は槍隊の指揮、鳳仙は援軍として配置……」

 久世は最後にかや達に視線を向ける。


 「お前たちは……戦場の全てを学ぶ必要はない。だが、目と耳は研ぎ澄ませておけ。必要なときに動けるようにな」


 かや達は力強くうなずく。

 「はい、父上」

 こうして、久世の戦に同行する者たちが決まり、戦乱の世への準備が少しずつ整っていく――戦場はまだ先だが、運命の歯車は確実に回り始めた。


■ 前線同行(戦の中枢)

① 久世

言うまでもなく総大将。

今回の戦は久世が“表に立つ”こと自体が意味を持つ。


② 夜叉

久世の盾であり刃。

数万の軍勢相手でも、久世が策を回す“時間”を作れる存在。


③ 風夏

冷静沈着な武将。

夜叉が暴の象徴なら、風夏は制の象徴。久世の判断を即座に形にできる。


④ 佐一

隠密・攪乱・撤退路確保担当。

この戦は長期化と不測の事態が前提。佐一がいないと久世は動けない。


⑤ 羅光

一見おちゃらけ者だが、場の空気を読む天才。

極限状態の軍を“折らない”ための存在。久世が連れて行く理由がある。


■ 別動・援護

⑥ 鳳仙(+鳳仙軍)

今回は「切り札」。

最初から合流しない。

戦況が最悪になった“その瞬間”に動く駒。

久世が事前に仕込んでいる保険。


■ 城に残す者(超重要)

⑦ 華陽

残留決定。理由は明確。

・城と領地の防衛

・内政と情報整理

・そして「かや達の守役」

千里先を見る知将を失うわけにはいかない。

これは冷酷じゃなく、最大の信頼。


⑧ 志波

難波の息子。まだ若い。

華陽の下で“本物の戦”を学ばせる段階。



 夜。

城はすっかり寝静まっていた。

かやは眠れず、廊下に出ていた。

遠くで、甲冑の擦れる音。

久世が出立の準備をしているのだと、すぐに分かった。


「……」 


行けない。

連れていってもらえない。

その理由を、久世ははっきり言わなかった。

悔しさが先に立つはずだった。


でも――。

城の端、明かりの残る一室。

そこにいたのは、華陽だった。

机には地図と書状。

戦場の線、兵の数、物資の印。

その横で、華陽は一人、黙って筆を走らせている。


かやは息を潜めた。

華陽の顔は、いつもの穏やかな微笑みじゃない。

美しいほど整った顔が、疲労と緊張で硬くなっていた。


(……あ)


そこで、初めて思う。

――華陽は、行けなかったんじゃない。

――残されたんだ。


久世が、あえて。

華陽はふと顔を上げ、かやの気配に気づいた。

一瞬驚いたあと、静かに手招きする。

「眠れないか」

かやは小さくうなずいた。


「……父上は、なんで僕を連れていかないんだろう」


その言葉に、華陽は少しだけ目を伏せた。


「気づき始めているだろう」


「?」


「この城に残る者の数。

 そして――城を任されている者が、誰か」

かやは言葉を失う。

華陽は続けた。


「久世はな、戦に行く前から決めていた。

 “自分が戻らなかった場合”を」


胸が、きゅっと締め付けられる。

「この城、領地、民、そして……お前たち」

華陽は静かに言った。

「それを預けられるのは、俺しかいない」

かやは、はっとする。


――だから、華陽は残された。

――知将だからじゃない。

――兄だから。


「……じゃあ」

声が震える。

「僕が行かないのも……」

華陽は、かやの頭にそっと手を置いた。


「お前は“次”だ」

その一言で、全部がつながった。

久世は、

自分が死ぬ前提で戦に行く。


だから――

次の世代を、戦場に立たせない。

「守られてる、ってこと……?」


「そうだ。

 そして同時に、試されてもいる」


華陽は微笑んだ。

兄としての、静かな笑み。


「ここで何を学ぶか。

 誰を守れるか。

 それを久世は見ている」


かやは拳を握った。

悔しさは消えない。

でも、そこに別の感情が混じる。


――恐怖。

――責任。

――そして、覚悟。

(父上は……全部を一人で背負うつもりなんだ)


その夜、かやは初めて思った。

**「早く強くなりたい」ではなく、

「追いつかなきゃいけない」**と。


 

 秀吉の本陣は、まるで一つの街のようだった。

無数の陣幕、忙しなく動く使者、鎧の擦れる音が絶えない。


久世は馬を降りると、周囲を一瞥しただけで状況を掴む。

誰が浮き足立ち、誰が覚悟を決めているか。

声を荒げる者ほど、戦を知らない。


「……なるほどな」


地図が広げられる前に、久世はすでに配置を考えていた。

夜叉を前に出さない。

風夏と佐一は左右に散らす。

羅光はあえて目立たせる位置へ。

鳳仙軍は伏せ、狼煙と同時に動ける距離。


数は少ない。

だが、足りている。


秀吉が何か言おうとしたが、久世は軽く手を上げた。


「俺の軍は、ここに置く」


それだけで、周囲の空気が変わる。

反論は出ない。

久世がそう言った、それだけで理由になる。


配置が終わると、やることはもう無かった。

久世は陣幕の外に立ち、遠くを見つめる。

まだ、狼煙は上がらない。


風が吹く。

草が揺れる。

どこかで鳥が飛び立つ。


(始まるな)


恐れはない。

高揚もない。

あるのはただ一つ。

覚悟の確認。


「来い」


誰に向けた言葉でもない。

敵にでも、運命にでもない。


――戦そのものに、だ。


久世は静かに息を吐き、

始まりの狼煙を、ただ待った。


 

 ——狼煙が、上がった。

低く、重い音と共に黒煙が天へ伸びる。

それを合図に、戦場が一気に動き出した。


太鼓。

鬨の声。

兵の波が前へ、前へと押し出されていく。

秀吉の本陣も例外じゃない。

各将が一斉に動き、命令が飛び交う。


……だが。


久世の陣だけが、動かなかった。

兵は構えたまま。

旗も揺れない。

誰一人、前へ踏み出さない。

異様な静けさだった。


「……おい」

真っ先に気づいたのは加藤清正だった。


前線へ出ようとして、ふと横を見る。

久世軍が、そこに“居る”だけで、戦っていない。


「なんだ、あれは……?」


清正は舌打ちし、馬首を返す。

そのまま久世の陣へ向かった。


「久世殿!」

声を張り上げるが、久世は振り向かない。


ただ戦場の先を見つめている。


「狼煙は上がった! なぜ動かぬ!」

その問いに、久世はようやく清正を見る。


表情は変わらない。

まるで、まだ始まっていないと言わんばかりに。


「動く理由がない」

「……は?」

清正の眉が跳ね上がる。

「もう始まっているぞ! 兵も血を流している!」

久世は静かに言った。

「“戦”は始まってる。だが――

 勝負は、まだだ」


清正は言葉を失う。

久世は再び前を見る。

敵の動き。

味方の乱れ。

前に出過ぎた部隊、遅れた部隊。

全てを、数刻先まで見通すような目。


「今動けば、俺の兵は“数”として消える」


「……」


「なら、動かない。

 動くのは、ここじゃない」


清正は歯を食いしばった。


理解できない。

だが、否定もできない。

この男は――

本当に戦を知っている。

清正は何も言わず、馬を返した。

その背を見送りながら、久世は小さく息を吐く。


「……まだだ」


狼煙は確かに上がった。

だが久世軍の戦は、まだ始まってすらいなかった。


 

 久世は、ゆっくりと手を上げた。

合図一つ。

それだけで久世軍は動き出す。


……前へではない。


部隊は分かれ、さらに分かれる。

百が五十に、五十が二十に、二十が十に。

小部隊。

いや、もはや“散兵”に近い。


「各隊、予定地へ」


短い命令だけが飛ぶ。

旗は下げられ、太鼓も鳴らさない。

兵は声を潜め、まるで戦場から消えていくように移動する。


それを遠目に見ていた加藤清正は、思わず声を漏らした。

「……正気か?」


久世軍は、もともと数が多いわけじゃない。

それをさらに削り、分散させるなど——

自殺行為にしか見えなかった。


「軍を減らしてどうする……

 敵に各個撃破されるだけだろう……」

清正は頭を抱えた。


戦は数。

少なくとも、清正はそう教わってきた。

だが、久世は違う。


陣を空にしながらも、久世だけは動かない。

夜叉、風夏、佐一、羅光がその背後に控える。


「久世殿……」


清正が問いかけようとした、その時。

久世はぽつりと言った。


「戦場ってのはな」

視線は、敵軍の動きへ。

「“人が多い場所”が一番、脆い」

清正の背筋が、ぞくりとした。


敵の主力。

補給路。

指揮系統が集中する地点。


——そこは、混乱が起きれば一気に崩れる。

久世軍の小部隊は、戦場の“隙間”へ滑り込んでいく。


森、丘、窪地、川沿い。

正面から見れば、久世軍は消えた。


「……まさか」

清正の喉が鳴る。

久世は、ようやく振り向いた。


「減らしてるんじゃない」


「……?」


「増やしてる」

意味が、理解できない。

だが次の瞬間、清正は気づく。


久世軍は「軍」じゃない。

刃そのものだ。

刺すためだけに存在する、小さな刃。


そしてそれは——

刺さる場所を、すでに決めている。

久世は静かに告げた。


「狼煙がもう一つ上がる」


「その時が、本当の開戦だ」


清正は唇を噛みしめ、ただ見ていることしかできなかった。

——この男の戦は、

常識の外で始まる。


 

 森は、音を飲み込んでいた。

久世軍は散開したまま、影になる。

鎧は布で覆われ、刃は月光を避けて伏せられている。


合図はない。

声もない。

ただ、理解している。


——ここからは、狩りだ。


敵軍の後方。

油断しきった部隊は、戦が始まったという実感すら持っていなかった。


一人が、森の奥へ小用に立つ。

戻らない。

二人目が様子を見に行く。

足音が、途中で消える。


「……おい?」


名を呼ぶ声が、森に吸われる。

誰も答えない。

だが異変は、すぐには「異変」と認識されない。

戦場では、消える理由はいくらでもある。

久世軍は、一人ずつ奪っていく。


走らせない。

叫ばせない。

争わせない。

気づいた時には、もう遅い。


気配が、減る。

松明の数が、いつの間にか足りない。


「……人数、減ってないか?」


誰かが言った瞬間、

その背後の影が、音もなく重なる。


——そして、また一つ消える。

時間が経つにつれ、後方部隊は静かに空白になっていく。


誰も逃げていない。

誰も倒れていない。

ただ、いない。

森の中には、足跡すら残らない。

残るのは、風と、葉擦れの音だけ。

久世は、少し離れた場所でその様子を見ていた。


「……よし」


それだけ言う。

夜叉たちも、頷くだけ。

敵軍はまだ気づいていない。

自分たちの“背中”が、すでに失われていることに。


この時点で、勝敗は半分決まっていた。

正面の戦は、まだ始まっていない。

だが——

戦は、もう終わり始めている。


 だが、敵も愚かではなかった。

後方が消えている。


それに気づいた瞬間、指揮系統は即座に動く。


兵を叱責する声はない。

混乱も、怒号もない。


ただ一人、静かに状況を洗い出す男がいた。


「……数が合わん」

そう呟いたのは、長宗我部元親。


兵の配置、戻らぬ伝令、消えた松明の数。

それらを一瞬で繋ぎ合わせ、答えに辿り着く。


「森だ。後ろを喰われている」


誰かが息を呑む。

元親はすでに次を見ていた。

視線は陸ではなく、沖へ向く。


「水軍を動かせ」

その一言で、空気が変わる。


沖合では、すでに帆が立ち始めていた。

黒く、低く、波を割る影。


——長宗我部水軍。


陸で消えるなら、海から締め上げる。

補給を断ち、退路を潰し、森ごと包む。


「久世……噂通りだな」

元親は不敵に笑う。

「だが、俺の戦場は陸だけじゃない」

その頃、久世のもとにも報が届く。


沖に異変。

水軍、接近中。

夜叉が低く言う。


「……来たな」


久世は、空を見上げる。

雲の流れ、風の向き、潮の匂い。


「想定内だ」


その声には焦りがない。


森の戦は、久世の庭。

だが海は、長宗我部の牙。

ここから先は——

知と知のぶつかり合い。

静かに終わっていた戦は、

ついに、姿を現す戦へと変わる。



 沖合に並ぶ帆。

波を割り、陣形を崩さず進む長宗我部水軍は、まさに海の獣だった。


数、練度、経験。

どれを取っても久世軍が正面から当たれる相手じゃない。


だが――

久世は海を見ていなかった。


「夜叉、鳳仙。始めろ」


合図はそれだけ。

森の奥、誰にも気づかれぬ場所で火が灯る。

だがそれは狼煙ではない。


油と湿った薪。

白く、低く、海へ流れる煙。

風は陸から沖へ。

久世が選んだ“今日”は、この風向きの日だった。


やがて――

水軍の先頭船で異変が起きる。


「前が見えん!」

「煙だ、目が痛ぇ!」

白煙は霧のように広がり、

海面と空の境を消していく。


その瞬間、久世は命じる。


「陸兵、動け」

森から現れるのは小部隊。

弓でも鉄砲でもない。

鎖と鉤、そして火矢。

狙いは船そのものじゃない。


舵、帆、索具。

船は沈まない。

だが、動けなくなる。

沖では混乱が広がる。

陣形を保てず、互いの船が距離を失う。


そこへ追い打ち。

川筋から流れ込む小舟。

久世が密かに整えていた、川用の軽船だ。


「……陸の男が、海で戦うだと?」


長宗我部元親は歯を食いしばる。

これは水軍戦じゃない。

航行不能にして、戦場を陸に引きずり下ろす策。


久世は戦わない。

“戦えなくする”。

元親は即座に判断する。


「退け。深追いはするな」

負傷船が増えすぎている。

ここで粘れば、勝っても失うものが多い。


沖へ退く水軍。

煙の向こうで、久世はただ見ていた。


「海は奪えない。

 なら、使わせなければいい」


夜叉が低く笑う。

鳳仙は静かに頷く。


この一手で、

長宗我部の水軍は“脅威”から“牽制”へ落ちた。

そして元親は理解する。

——この男、

戦場そのものを選んでいる。



 沖合。

煙が薄れ、帆を畳んだ船の上で、元親は海を見つめていた。


沈んだ船はない。

死人も、ほとんどいない。

――だが。


「……負けだな」


誰に言うでもなく、そう呟く。

策を張った者の顔が、脳裏に浮かぶ。

見たこともない男。


だが、やったことははっきりしている。

正面から勝とうとしない。

水軍の誇りも、力も、使わせない。


「海を奪う気はない。

 “海で戦う理由”を消しにきたか」

部下の誰も、この答えに辿り着けなかった。


だが元親には分かる。

これは偶然じゃない。

風、潮、地形、そしてこちらの性格。

すべてを見越したうえでの一手。


「……嫌な男だ」


だが、その言葉には怒りはなかった。

あるのは、静かな確信だけ。

自分と同じ場所に立っている者への、それ。


「秀吉に従うだけの武ではないな。

 あれは“国を背負う側”の策だ」


勝ちを拾いに来ない。

負けを消しに来る。

それがどれほど難しいか、元親は知っている。


「名を聞かずとも分かる」

風が帆を揺らす。


「――久世、か」

誰にも告げず、

誰にも伝えず。


長宗我部元親は、

その名を敵将名簿から消した。

代わりに、心の中に刻む。


敵ではない。

 脅威でもない。

 ――同じ“戦を終わらせる側”の人間だ。

そして、静かに命じる。


「以後、久世の陣には手を出すな。

 あれは……

 正面からぶつかる相手じゃない」

海は再び、静かに波打っていた。



 水面は穏やかだった。

あまりにも、拍子抜けするほどに。


本来なら――

長宗我部水軍が動いた時点で、豊臣の前線は崩れていた。

補給路は断たれ、陣は浸され、混乱の中で刈られていく。

それが“水攻め”という戦の常だ。


だが、その日。

何も起きなかった。


船は出ない。

波は荒れない。

夜襲も、火矢もない。


「……おかしい」

最初に気づいたのは、前線の将だった。

そして、時間が経つほどに、その異常は確信へと変わる。


敵が“いない”のではない。

**敵が“動かない”**のだ。


豊臣軍・本陣

「水軍が来ぬ……?」


秀吉は地図を見つめたまま、眉をひそめる。

参謀たちが口々に意見を出すが、どれも歯切れが悪い。

そこで、ぽつりと一言。


「久世は、どこだ」


その名が出た瞬間、空気が変わった。


「……森の方角へ小部隊を展開しています」 「水際には一切近づいていません」

秀吉は、ようやく笑った。


「なるほどな」


水軍と戦っていない。

だが、水軍を戦えなくした。

「これは勝ちだ。

 しかも、一番血の流れない勝ち方だ」 


 

 水攻めが来ない。

つまり――


補給は途切れない

兵は疲弊しない

陣は崩れない

じわじわと、確実に。


豊臣軍は前へ出る。

敵は後ろへ下がる。


剣を交えたからではない。

策が“通った”からだ。


「……優勢だ」

誰かが呟いた。


それは偶然じゃない。

誰もが、うっすら理解していた。

この流れを作ったのは、

 表に出ない一人の男だということを。


 久世は戦場を見ていない。

狼煙も、勝ち鬨も、振り返らない。

ただ、静かに言う。


「……これでいい」

水軍は沈んでいない。

元親も生きている。

それでいて、戦は動いた。


「戦は、殺した数じゃない。

 “動かせた数”だ」


その言葉を聞いた鳳仙は、何も言わなかった。

ただ――

(やはり、この男は

 戦を“終わらせる側”の人間だ)

そう確信しただけだった。


 

 潮が止まり、戦が傾いた。

誰もがそう思った――長宗我部元親以外は。

元親は敗北を認めていなかった。


いや、最初から「水軍が封じられる可能性」を織り込んでいた。


「……久世、やはり只者ではない」

元親は、船上で静かに笑う。


「だが、それで終わりと思うな」


 元親が隠していたのは、水軍ではない。

陸を行く別働隊。


数は多くない。

だが、選び抜かれた精鋭のみ。

森を知る者

夜を知る者

そして、命令を疑わぬ者


彼らは水軍の動きに紛れ、すでに上陸していた。

久世が森に意識を向け、水を封じた時点で

その影は、逆方向に伸びていた。


目標は一つ。

豊臣軍・本陣。

豊臣本陣・異変


夜。

焚き火が静かに揺れる。

「……風向きが変わった?」

見張りがそう言った瞬間、矢が飛ぶ。

声を上げる間もなく、倒れる兵。


「敵襲――ッ!」


だが、遅い。

敵はすでに陣の“中”にいた。


混乱。

怒号。

火が上がる。

「まさか……水軍は抑えたはずだ!」

誰かが叫ぶ。

 だがその“はず”を、元親は踏み越えてきた。


 これは殲滅ではない。

首を取る戦だ。

秀吉を討てば、戦は終わる。

それだけでいい。 


「策を弄するなら、策で斬る」

元親は前線に出ない。


ただ、進軍の報を聞きながら言う。

「久世……

 お前が水を止めたなら、

 俺は“心臓”を突く」


久世、察知する

森にいた久世が、ふと足を止める。

――静かすぎる。

戦場の喧騒が、途切れたような感覚。

嫌な予感。


「鳳仙」


「……はい」


「本陣だ。

 狙いは、そこだ」


鳳仙は一瞬で理解した。


「戻りますか」

久世は首を振る。


「いや……俺が行く」

その目は、静かに冷えていた。

「元親は、まだ勝ちを捨てていない」


 久世は走り出す。

誰よりも早く。


(同格、か……)

元親の言葉を思い出し、ほんの僅かに口角を上げる。


「……言ってくれる」

戦は、もう一度動く。

今度は――本陣を賭けて。


 長宗我部元親は、戦場を見渡していた。

水軍は抑えられ、

別働隊は散らされ、

気づけば本陣へ向かう道は、一本も残っていない。


「……おかしい」


元親は、そこで初めて違和感を言葉にした。

策は完璧だった。

退路も、時間差も、豊臣の反応すら織り込んでいた。


――それでも、届かない。


「俺は、同じ盤の上で打っていると思っていた」


背後から、静かな声が届く。

「違うな」

久世だった。


いつからそこにいたのか分からない。

気配すら、戦場に溶けている。


「盤は同じでも、見ている先が違う」


元親は振り返る。

その瞬間、初めて“理解”した。

久世の視線は、

今この戦場ではなく――

戦の“後”を見ている。


「……なるほど」

元親は、短く笑った。


「俺は水で攻め、道を断ち、首を狙った。

 だが、お前は最初から――」


「水軍が動いた時点で、あんたの負け筋は決まってた」

久世は淡々と告げる。

「水を使う策は強い。

 だからこそ、読まれた瞬間に逃げ場がない」


元親は、拳を強く握った。

怒りではない。

悔しさでもない。

納得だった。


「俺は……お前を同格だと思っていた」


久世は首を振る。

「思ってただけだ」


その一言が、刃よりも深く刺さる。

元親は、深く息を吐き、天を仰いだ。


「……はは。

 これは参ったな」


そして、久世を真正面から見据える。

「久世。

 俺は生涯、この戦を忘れん」


「忘れなくていい」

久世は言う。


「次に会う時、あんたはもっと上に来てるだろう。

 だが――」

一歩、踏み出す。

「今日だけは、俺の勝ちだ」

元親は、静かに頭を下げた。


武将としてではない。

策士として、上を認める礼だった。


「……格上に会えたことを、誇りに思う」

背を向ける元親の背中は、

敗者ではなく、学んだ者のそれだった。


久世はその背を見送り、ただ一言、呟く。

「いい目をしてる。

 だから、まだ終わりじゃない」

戦は終わった。


だが、

長宗我部元親の中で、

“久世という壁”が生まれた瞬間でもあった。



 秀吉は、本陣で一人、書を置いた。

長宗我部元親――

あの男が退いたという報せ。 

そして、その理由の名に、久世があった。


「……まったく」

小さく笑い、額を押さえる。

「ほんに、味方でよかったわ」


家臣たちの前では、こう言うだろう。

「頼もしい男じゃ」「流石は久世殿じゃ」と。


だが、今この場にいるのは、秀吉ただ一人。


「もし、あやつが敵に回っとったら……」

想像しただけで、背に冷たいものが走る。


兵の数ではない。

武の強さでもない。

戦が始まる前に、すでに負けている感覚。


「正面から叩いてもおらんのに、

 気づいた時には首が落ちとる……

 そんな戦、わしは一番嫌いや」


久世は、派手に勝たない。

だが、負けさせない。

気づけば選択肢を削り、

動けば罠、止まれば詰み。


「元親ほどの男が、

 “同格”と思うところまで行って……

 そこから突き落とされるとはな」


秀吉は、ゆっくりと立ち上がる。

「使い方を間違えたら、天下が危うい」

だからこそ――


「手綱は、握らん」


握ろうとした瞬間、

久世は“読む側”に回る。


「命じれば、反発する。

 疑えば、離れる。

 縛れば……敵になる」


秀吉は苦笑した。

「厄介じゃのう。

 だが、これほど頼もしい駒もおらん」


机の上の地図に、指を置く。

久世の領地。

前線でも、後背でもない。

だが、戦の流れを変える位置。


「前に出せば、戦が終わる。

 後ろに置けば、国が保つ」


――どちらも、強すぎる。

「ならば、答えは一つじゃ」

秀吉は、静かに決める。


「久世には、

 “考える余白”を与える」


自由を与え、

判断を任せ、

結果だけを受け取る。

「そうすれば、あやつは必ず

 “味方である限り、最善”を選ぶ」


そして、ぽつりと本音が漏れた。

「……敵には、絶対にしたくない男じゃ」


秀吉は、またいつもの笑顔に戻る。

家臣の前に出る時の顔だ。


「さあて。

 次は、どこで久世に動いてもらおうかの」


戦乱の世は、まだ続く。

だがこの日、秀吉は悟っていた。

天下を取るより先に、

久世という男と、どう並び立つかを考えねばならぬと。



 軍を先に帰した久世は、家臣たちと共に長安の街にいた。


戦が終わった――

その事実だけで、空気は驚くほど軽い。


「殿! あれ見ましたか!? 串焼きが三本で銭一枚ですって!」 「酒だ! 酒が安いぞ久世様!」 「戦場より人が多いってどういうことだよ……」


久世はその様子を、少し後ろから眺めていた。

兜も甲冑もない。

刀も、今は飾りのように腰にあるだけ。


「……生きてるな」


ぽつりと漏れた言葉は、誰にも届かない。

家臣たちは、戦の話をしない。

誰が斬った、誰が倒れた――

そういう話題を、無意識に避けている。

だから今は、


「殿! これ甘いぞ!」 「殿、これ着物どう思います?」 「久世様、後で博打行きません?」


久世は苦笑する。


「……羽を伸ばせと言った覚えはあるが、

 限度というものを知らんな、お前たちは」


そう言いながらも、止めはしない。

戦が終わったのだ。

生きて戻ったのだ。


ならば――

笑っていい。


久世は人混みを抜け、露店を一つひとつ見て回る。

手に取るのは、武具でも、書でもない。

小さな髪飾り。

木彫りの人形。

素朴な布袋に入った菓子。

「……これは、かやだな」


派手すぎず、だが丈夫そうなもの。

「凛は……刃物はやめておくか。

 代わりに、これだ」

少し大人びた意匠の根付。


「みよは……これでいい。

 寒がりだからな」

厚手の手袋。


「華陽は……」

少し迷ってから、久世は笑う。

「……どうせ文句を言うだろうが」

美しい装丁の小さな書。

それぞれを包みながら、久世は思う。


――戦場では、守れないもの。

――だから、戦の外で守る。


「殿ー! 殿ー!」

振り返ると、家臣たちが酒瓶を抱えて手を振っている。


「勝手に先に飲むな。

 ……まあ、今日は許す」


久世は懐を確かめ、土産をしまう。

その顔は、戦場の鬼でも、策の化け物でもない。


ただの――

家族を想う父の顔だった。

そして、この穏やかな時間が

長く続かぬことを、久世だけが知っている。

だからこそ。


「……もう少し、遊ぶか」

戦乱の世の隙間に落ちた、

ほんの短い、平和な一日だった。


 

 長安の通りを進んでいると、

不意に人の流れが滞った。


「……ん?」

前方が、やけに騒がしい。

叫び声でも喧嘩でもない。

歓声とも、息を呑む音ともつかない、不思議なざわめき。


「殿、なんか人だかりですね」 「見世物か?」


家臣たちが首を伸ばす中、

久世だけは、その場で立ち止まった。


――気配が、違う。

ただの大道芸にしては、

空気が張り詰めすぎている。

人垣の隙間から、声が聞こえてきた。


「……新陰流だ」 「嘘だろ? こんな場所で?」 「本物だ、ありゃ……」


その言葉に、久世の目が細くなる。


「新陰流、だと」

久世は何も言わず、人混みに近づく。

人々は自然と道を開けていった。


中央――

そこには、一人の剣士がいた。


派手な装束はない。

甲冑もない。

持っているのは、使い込まれた一振りの刀だけ。


だが。

その構えに入った瞬間、

周囲の空気が一段、静まった。


「……」

剣士が、踏み込む。

――ヒュッ。

音は小さい。

だが、目で追えない。


次の瞬間には、

目の前に置かれていた藁束が、ずるりと崩れ落ちていた。


斬った、というより――

気づいたら、斬られていた。


「……はは」

久世は、思わず小さく笑う。


「なるほど。

 これは確かに、新陰流だ」


家臣たちは息を呑んでいる。

「殿……あれ、やばくないですか」 「さっきから、斬る前にもう勝負が終わってる感じが……」


剣士は観衆に向かって、軽く一礼する。

その所作に、無駄は一切ない。


――型ではない。

――見せるためでもない。

実戦の剣。

久世は確信する。

(……面白い)


戦が終わった直後に、

まるで引き寄せられるように出会う剣。


「長安も、油断ならんな」


久世は一歩、前に出ようとして――

ふと、足を止めた。

(今は、遊びの時間だ)


今日は、剣を抜かない。

ただ、見るだけだ。

だがその剣士の方が、


人垣の向こうで――

一瞬だけ、久世を見る。

視線が、交わる。

剣士の口元が、わずかに歪んだ。


まるで、

「気づいたな」と言うように。

久世は、静かに笑った。


「……ああ。気づいたとも」


長安の喧騒の中、

新たな因縁の芽が、確かに生まれていた。

 


 藁束が、次に据え直される。

剣士は深く息を吸い、

ゆっくりと刀を構えた。


――その瞬間。

久世は、ほんの少しだけ本気を出した。

向けたのは声でも動きでもない。

ただ、鬼の殺気。


戦場で、無数の命を刈り取ってきた者だけが放てる圧。

触れれば、本能が「死」を悟るそれ。

(さあ……どうする)


久世の口元が、わずかに上がる。


次の瞬間――

剣士の足が、止まった。


踏み込みに入る直前、

ほんの刹那の乱れ。

だがそれは、

凡百の者には見えないほど、微細だった。


「……っ」

剣士の喉が、小さく鳴る。

空気が、凍りつく。

観衆は何が起きたのか分からない。

ただ、なぜか誰も声を出せない。

(ほう)


久世は内心、感心していた。


普通なら、

・体がすくむ

・構えが崩れる

・最悪、刀を落とす

――そうなる。


だがこの剣士は違った。

止まりはした。

だが、逃げなかった。


剣士は、ゆっくりと顔を上げる。

視線が、再び久世を捉える。

その目に宿っていたのは――

恐怖ではなく、困惑と理解。

(……なるほど)

剣士は悟ったのだ。


今、自分に向けられたものが

「殺される可能性」そのものだったと。

一拍。


剣士は構えを解き、

深く、深く息を吐いた。

そして、観衆に向かって言う。


「……すまない。

 今日は、ここまでだ」

ざわ、と人々が騒めく。


「え? まだ見たいぞ」 「どうしたんだ?」

剣士は何も答えない。


ただ、刀を納め――

久世の方を見て、静かに頭を下げた。


「……礼を」

その一言に、

久世は思わず吹き出しそうになるのを堪える。

「はは。

 気づくとはな」


家臣たちは完全に置いてけぼりだ。

「殿……何したんです?」 「何もしてない、よな……?」


久世は踵を返し、歩き出す。

「新陰流も、まだ死んじゃいないってことだ」


その背中に、

剣士の低い声が追いかけてきた。

「――名を、お聞きしても?」

久世は立ち止まらない。


振り返らず、ただ一言。

「名乗るほどの者じゃない」

それを聞いた剣士は、

小さく笑った。

(嘘だな)


あの殺気 あの圧。

名を持たぬ者など、ありえない。

剣士は確信する。


――今日、自分は

とんでもない化け物に、意地悪をされたのだと。


そして久世は思っていた。

(さて……次に会う時は)

(剣を抜くか、酒を飲むか)

(どっちになるかな)



 再会は、思っていたよりもずっと早かった。

夜の長安。

灯りの揺れる通りで、久世は家臣たちと肩を組み、完全に出来上がっていた。


「だーかーら!

 酒くらい飲ませろって言ってるだろうがぁ……!」


「殿! 声が大きいです!」 「ほら! また転ぶ!」


足元がおぼつかない。

昼間、あの鬼のような殺気を放っていた男とは思えない有様だった。

その時だった。

通りの端、酒肆の軒下に立つ一人の剣士が、足を止める。


――昼の、あの男。

新陰流の使い手。

剣士は、目を疑った。

(……同一人物、か?)


昼。

藁束の前で、世界を殺せるほどの圧を放っていた存在。


夜。

今は家臣に両脇を抱えられ、酒臭い息を吐いている。


「殿! そこ段差あります!」 「あるわけ……あるじゃねぇか……!」


久世は見事につまずき、

そのまま前のめりになりかける。

――と。


剣士は、反射で動いていた。

腕を伸ばし、久世の身体を支える。


「……危ない」

次の瞬間。

久世は、剣士の顔をじっと見つめた。


近い。

昼よりずっと、近い距離。


「おお……?」


久世の焦点の合っていない目が、

ゆっくりと剣士を認識する。


「……お前、昼の」


剣士の背筋が、条件反射で伸びる。

(来るか……?)


だが――

「藁、斬れなかったやつだ」


「……っ」

剣士は、言葉を失う。


久世はふにゃりと笑い、

そのまま剣士の肩にもたれかかった。


「悪かったなぁ……昼は。

 ちょっと、意地悪した」


「……」

剣士は、戸惑いながらも身体を支える。

(なぜだ)

(なぜ、こんなにも――)

――無防備なのか。


昼の鬼。

夜の酔いどれ。

同じ人間とは、到底思えない。


「……あなたは、一体」

剣士がそう口にした瞬間。


久世の背後から、夜叉の低い声が飛んできた。

「離れろ」


剣士の皮膚が、粟立つ。

昼とは別種の圧。

理屈ではなく、本能が拒絶する存在。

夜叉だった。


「殿に触れるな」

剣士は即座に一歩下がる。


だが久世は、不満そうに唸った。

「夜叉ぁ……固い……」

そのまま剣士の方を見て、

へらりと笑う。


「こいつ、強いぞ。

 ちゃんと、分かる目してる」


剣士は、喉を鳴らした。


「……昼のこと、忘れていません」


「はは……そうだろうな」

久世は目を細める。

「でもな。

 昼と夜は、別物だ」


そう言って、

久世は家臣に引きずられるように歩き出す。

去り際、ふと振り返り――


「また会うぞ。

 次は、ちゃんと起きてる時にな」

剣士は、その背中を見送りながら思った。

(鬼が、酒に溺れる……?)

(いや)

(酒に、溺れて見せているのか)


夜の長安に、笑い声が消えていく。

剣士は、静かに刀の柄に手を置いた。

――この男は。

昼の剣では測れない。

夜の酔いでも測れない。

人の皮を被った何かだと。



 家臣に引きずられながら、夜風に当たっている久世は、ぼんやりと空を見上げていた。

酒が回って、意識はふわふわしている。

だが、頭の奥だけは妙に冴えていた。

(……さっきの剣士)


顔立ちは中性的。

声も低すぎず、高すぎず。

久世は、無意識に指を曲げる。

(男にしちゃ……)


思い出すのは、支えたときの感触。

鎧越しでも分かった、

骨ばった硬さとは違う、どこか柔らかい輪郭。


肩も、腰も、

戦場を生きる剣士にしては――

「……丸かった、ような」

ぽつりと、誰にも聞こえない声で呟く。


夜叉が眉をひそめる。

「殿?」


「いや……なんでもねぇ」

久世は、へらっと笑う。

(気のせいか?

 それとも――)


思考は、そこで一度切れる。

酒が強引に意識を引き戻した。


「……ま、いいか」


剣士が男だろうが、女だろうが。

それよりも――

(あの目だ)


鬼の殺気を浴びせられても折れなかった目。

恐怖と興奮が、同時に混じった視線。


久世は、楽しそうに口角を上げる。

(面倒なの、拾っちまったな)


その夜、久世はすぐに眠りに落ちた。

だが――

その剣士の「違和感」だけは、

酒に流されることなく、静かに胸に残っていた。

 


 早朝。

夜露がまだ石畳に残る刻、久世は家臣たちと共に長安を発とうとしていた。

夜叉は甲冑を軽く整え、鳳仙はすでに周囲を見渡している。

戦場でなくとも、久世の周りは自然と陣形になる。


「……さて、帰るか」

久世がそう言った、その時だった。


「――お待ちください!!」

張りつめた声が、朝靄を裂く。


全員が足を止める。

一瞬で空気が変わった。

人垣をかき分け、

一人の剣士が久世の前に現れた。


昨日、昼に藁束を斬っていた男。

そして――夜、酒に溺れていた剣士。

髪は乱れ、息は荒い。


だが、その目だけは真っ直ぐだった。

剣士は、久世の前で膝をつく。


「久世様……!」


家臣の何人かが思わず前に出ようとするが、

久世が軽く手を上げて制した。


「話せ」

短い一言。


剣士は、歯を食いしばる。


「昨日……あなたに殺気を向けられました」

その言葉に、空気がさらに冷える。

「剣を振る前から、

 身体が、心が……支配されました」

拳を地面に押しつける。

「それでも、怖くて、逃げたくて……

 なのに――」

顔を上げる。

「剣を置こうとは、思えなかった」


久世は黙って聞いている。


「お願いします……!」

剣士は深く、額が地につくほど頭を下げた。

「弟子にしてください

 あなたの剣を、あなたの在り方を……

 この身で学びたい」


静寂。

鳥の声すら、遠く感じる。

久世は、ゆっくりと剣士を見下ろした。

(……やっぱり、だ)


近くで見れば見るほど、

体格の線は柔らかい。

声も、感情が高ぶるとわずかに揺れる。


だが――

(覚悟は、本物だな)

久世は、少しだけ口角を上げた。

「名前は?」

剣士は一瞬だけ戸惑い、

それから答える。


「……まだ、名はありません」

その言葉に、鳳仙が目を細め、夜叉が鼻で笑う。

だが久世は気にしない。


「名も背負ってねぇのに、

 俺の弟子になりたいって?」


一歩、近づく。

剣士の肩が、わずかに震えた。


「……はい」


久世は、ふっと息を吐く。

「いい度胸だ」


周囲の家臣がざわつく。


「だがな」


久世はしゃがみ、

剣士と同じ目線になる。


「俺の弟子になるってのは、

 剣が上手くなるって話じゃねぇ」


剣士の目を、真正面から射抜く。


「生き方を奪われる覚悟だ」

一拍。


「それでも来るか?」

剣士は、迷わなかった。

「――はい」

即答だった。

久世は、ゆっくり立ち上がる。


「……面倒なの拾ったな」


そう言いながら、どこか楽しそうに笑う。

「ついて来い。名は――」


一瞬、剣士を見て、

「あとで決めてやる」

剣士の顔に、初めて安堵が浮かんだ。

こうして、

久世の旅に――

また一人、厄介で面白い存在が加わることになる。


 城へ戻る道。

朝靄がまだ薄く残る中、久世の姿を見つけたかやが声を上げた。


「父上!」

その声に続いて駆け寄ってくるのは、

凛、みよ、そして少し遅れて華陽。


そのさらに後ろから、

晴道と慶介が並んで歩いてくる。


――そして、全員が同時に足を止めた。

久世の背後にいる、見知らぬ剣士に。


「……?」


「……誰だ?」


凛が即座に一歩前に出る。

家族を守る位置取りだった。


「父上」


かやも眉をひそめる。


「その人……?」


久世はいつも通り、落ち着き払って答える。

「弟子だ」


「弟子!?」


今度は晴道と慶介が声を揃えた。

「ちょ、父上じゃなくて久世様!

 いつの間に!?」


「今朝」


「今朝!?」

みよは剣士をじっと見つめ、

小さく首をかしげる。

「……剣の匂い、する」


華陽は一歩後ろから、

静かに剣士を観察していた。

服装、立ち方、視線の置き所。

どれも洗練されているが――どこか歪だ。


「名は?」

華陽が柔らかく問う。

剣士は一瞬だけ視線を伏せ、

それから頭を下げた。


「……ありません」

その場の空気が、わずかに変わる。

凛は無言で久世を見る。

かやも、何かを感じ取ったように口を結ぶ。

久世は気にした様子もなく言った。


「しばらくは名無しだ。

 呼び名はそのうち決める」 


「そのうち!?」

慶介が思わず突っ込む。

晴道は苦笑しつつ、剣士に声をかけた。


「まあ……よろしく。

 俺たちはかやの仲間だ」


剣士は少し安心したように、

深く頭を下げる。

「よろしくお願いします」


かやは一歩近づき、

剣士を見上げる。


「……父上の弟子なら、弱くはないよね」

久世は短く笑った。


「保証する」


その言葉に、

華陽は小さく目を細める。

(――まただ)

(久世様は、

 こうして人を“拾う”)

(そして必ず、

 物語の核に置く)


城へ向かう一行の中で、

その剣士だけがまだ――

自分の居場所を知らなかった。


 

 剣士が頭を下げたまま、動かない。


「……どうして弟子になりたい」


久世の問いは静かだった。

責めるでもなく、試すでもない。

しばらく沈黙が落ちる。

やがて剣士は、

吐き出すように言った。


「新陰流を、追い出されました」


晴道と慶介が顔を見合わせる。

「え、新陰流って……あの?」


「門下厳しいことで有名な?」


剣士は小さく頷いた。


「弱かったからじゃありません」


その言葉に、凛が眉をひそめる。

「……じゃあ、なんで」


剣士の指が、ぎゅっと握られる。

「誰も……誰も、

 私に勝てなかったからです」


空気が、止まった。

「稽古で当たる相手は皆、

 三太刀以内で折れました」

「師範代も、師範も」

「勝ち続けるほど、

 周りから人が消えました」


みよが小さく息を呑む。


華陽は、やはり何も言わない。

ただ――納得した顔をしていた。


「ある日、言われました」

剣士は顔を上げない。

「“これ以上、

 門を壊すな”と」

「“新陰流は、お前を収める器じゃない”と」

追い出された。

破門でもなく、敗北でもなく。

強すぎたがゆえに。


かやは思わず、久世を見る。


「……父上」

久世は、初めて少しだけ笑った。

「なるほどな」


剣士が、必死に続ける。

「だから……

 どこへ行っても同じだと思ってました」

「ですが、昨日」

「あなたが、私に向けた殺気を受けて」

あの藁束を斬る直前の、

あの“鬼”の気配。

「初めて、

 “上がいる”と分かりました」

「この人なら、

 私を壊さず、収められると」

深く、深く頭を下げる。


「だから、お願いします」

「弟子にしてください」


沈黙。

その中で、久世だけが自然体だった。


「新陰流は正しい判断をしたな」


その一言に、剣士の肩が震える。

「強すぎる剣は、

 流派を守る“型”を壊す」

「だがな」


久世は一歩近づき、

剣士の頭に、ぽんと手を置いた。

「ここは違う」

「剣が強いなら、

 それに合わせて場を作る」

「壊れるなら、

 最初から壊れぬ作りにする」


かやは、はっとした。

(だから……)

(だから父上は、

 こんな人ばかり集まるんだ)


久世は続ける。

「名がないのは不便だ」

「だが、

 剣に名は後から付いてくる」

「まずは――生き残れ」

剣士の目から、

ぽろりと何かが落ちた。


「……はい」

その瞬間、

凛は小さく息を吐き、

晴道と慶介は呆然と立ち尽くす。


華陽だけが、静かに思った。

(また一人、“化け物側”に入ったな)

城へ向かう道。

剣士は、もう迷っていなかった。


 城の稽古場。

 朝霧がまだ残る中、木刀の音が規則正しく響いていた。


「じゃあ、いつも通りな」

久世の一言で、稽古は始まる。


かや、凛、みよ、晴道、慶介――

それぞれが自然に構え、動き出す。


剣士は、少し遅れて構えた。

(……普通の稽古だ)


そう思った、最初の一息までは。


「かや、三拍遅い」


「はい」


久世の声に、かやは即座に修正する。

次の瞬間。

木刀と木刀が打ち合う音が、

一拍ずつ速くなる。

(……速い)


剣士の額に、じわりと汗が滲む。


「凛、踏み込み浅い」


「了解」


(了解……?)

その返事の軽さとは裏腹に、

凛の踏み込みは一段深くなり、

打突の重さが変わる。

みよは何も言われない。

だが、一度も無駄な動きをしない。

晴道と慶介も同様だ。


粗さはあるが、判断が異様に早い。

(おかしい)

剣士は、久世の指示に従いながら、

同じ動きをしようとして――

「……っ」

足が、止まった。

息が、乱れる。


「え……?」

まだ、始まって三分も経っていない。

(腕が、重い)

(視界が、狭い)

(なんで……)


かやが、ちらりとこちらを見る。

「……大丈夫?」


その声は、本気で心配している声だった。

剣士は、言葉を失う。

(この子……)

(平然と、続けている)


久世が静かに言う。

「無理なら、下がれ」

剣士は、悔しそうに歯を噛みしめながら、

一歩、後ろに下がった。


稽古は続く。

木刀の音、足音、呼吸。

それらが途切れない。

(嘘だろ……)

(俺は、新陰流で“化け物”だったはずだ)

(なのに……)


目の前では、

年若いはずの五人が、

“当たり前”のように動いている。

剣士の背筋に、冷たいものが走った。

(ここは……)

(私が、強い側でいられる場所じゃない)


稽古が終わる。

かや達は、息を整えながら、

普通に水を飲んでいる。

凛が言う。

「今日は楽だったな」


「ですね」

みよが頷く。


剣士は、思わず声を漏らした。

「……え、無理だろ」


全員が、きょとんとした顔でこちらを見る。

久世だけが、くつくつと笑った。


「そうだろうな」

「ここは、

 “強さが基準”じゃない」

「生き残れるかどうかが基準だ」


剣士は、深く息を吸い、

ゆっくりと頭を下げた。

(私は……)

(とんでもない場所に来た)


だが。

胸の奥で、

久しぶりに熱いものが灯る。

(……でも)

(ここなら、折れずに済むかもしれない)


久世の城は、

“化け物”が居場所を持てる、

数少ない場所だった。


 夜。

 城の外れ、人気のない回廊。

 月明かりの下で、私は一人、木刀を振っていた。


 ――遅い。

 ――甘い。

 ――届かない。


 昼の稽古が、頭から離れない。

(あれは……何だ)

(子供の動きじゃない)

息を整えようとしても、

呼吸のリズムすら、まだ戻らない。


「……情けない」

思わず、声が漏れる。

その時。


「ここは地獄だろ?」

背後から、柔らかな声がした。


「っ……!」


振り返ると、

月明かりを背負って立つ華陽の姿があった。

いつもの穏やかな微笑。

だが、目だけは――鋭い。


「……いつから、そこに?」


「今来たところだよ」

華陽はゆっくりと近づき、

私の木刀を見る。


「新陰流を追い出されたって聞いた」


私は、言葉に詰まる。

「……ええ」

「弱かったからじゃない」

「誰も、私に勝てなかったからだ」

華陽は、少しだけ目を細めた。


「だから、

 君は“強い場所”から弾き出された」

「で、ここに来た」

「――どう?」

優しい声だった。

だからこそ、逃げ場がない。


「……地獄です」

私は、正直に答えた。


「強さが、

 何の価値にもならない」

「通じない」

「追いつけない」

拳が、震える。

「私が、

 今まで立っていた場所が……」

「全部、崩れました」


華陽は、少し笑った。

「うん」

「いい反応だ」

「普通はね、怒るか、逃げるか、自分を誤魔化す」

「でも君は――ちゃんと、壊れてる」


その言葉に、

胸の奥が、ずきりと痛んだ。


「……ひどい言い方ですね」


「褒めてるんだよ」


華陽は、私の隣に立ち、

同じ月を見上げる。


「ここは地獄だ」


「でもね」

「折れた者だけが、本物になる場所でもある」


私は、思わず問い返した。

「……あなたは、どうだったんですか」


華陽は、一瞬だけ黙った。

それから、静かに言う。


「私は、ここで“家族”になった」

「それだけで、地獄に居る理由としては充分だった」


胸が、ざわつく。

(家族……)


華陽は、ふっと微笑んだ。

「安心していい」

「君はまだ、

 地獄の入口に立っただけだ」

「――本番は、これから」

その言葉に、

私は思わず苦笑した。


「……逃げ道は、ありますか」


「ない」

即答だった。

「久世様が拾った以上、

 最後まで付き合わされる」

「可哀想に」

優しい声で、

残酷なことを言う。


私は、深く頭を下げた。

「……ご指導、

 よろしくお願いします」


華陽は、満足そうに頷いた。

「こちらこそ」

「生き残ろう」

月の下、

私は初めて――

この城で生きる覚悟を決めた。



 翌朝。

 朝稽古が始まる前、

 私は静かに木刀を握っていた。


「……」

昨日より、呼吸が整っている。

体は重いが、心は妙に落ち着いていた。


「――おい」

低い声。

振り向くと、久世が立っている。

寝起きのようでいて、目だけは冴えている。


「一人称、変えたな」


一瞬で、心臓が跳ねた。

「……はい」

否定する意味はない。


「昨日まで“俺”だった」

「今は“私”だ」

久世は、それだけで全て分かったように笑う。


「折れたな」


「……ええ」

私は正直に答えた。

「ですが、

 逃げる気はありません」

久世は、私をじっと見てから、

ふっと息を吐いた。


「いい顔になった」


「名前は?」


唐突だった。

「……名前、ですか」

「新陰流を追い出された時点で、

 前の名は半分死んでる」


「ここで生きるなら、

 ここで名を決めろ」


私は、少し考えた。

強さを誇る名はいらない。

流派を示す名も、もう不要だ。

(……それでも)

(捨てきれないものはある)


「最後に……

 “姫”をつけたいです」


かや達の方から、

「え?」という小さな声が上がる。

久世は面白そうに眉を上げた。


「ほう」

「理由は?」


「……覚悟です」

「軽く見られる名で、

 それでも折れないと決めるため」

一瞬の沈黙。


そして久世が、はっきり言った。

「いい」

「じゃあ――これだ」


 朔姫さくひめ

 新月・始まりの意味、過去を断ち切る名


 「今日からお前は――

 朔姫だ」

「月が消える夜に立つ名だ」

「悪くないだろ」


私は、深く頭を下げた。

「……朔姫、

 ここに在ります」


かや達がざわつく中、

華陽だけが静かに微笑んでいた。

ここから、

“姫と呼ばれる剣士”の地獄が始まる。

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