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久世家戦記  作者:
3/5

第三部 帰還と新たな家族

 城は、ようやく形になっていた。

 石垣はまだ新しく、白い。木の匂いも抜けきっていない。戦場の城ではない。だが、ここは確かに、人が戻るための城だった。


 久世は天守の下で立ち止まり、しばらくそれを見上げていた。

 かつての城より小さい。兵も少ない。だが、不思議と不足は感じなかった。


 「……上出来だな」


 隣に控える家臣たちも、黙ってうなずく。

 この城は、勝つための城ではない。耐えるための城だと、皆が分かっていた。


 「殿」


 一人が、声を潜める。


 「例の噂ですが……こちらまで届いております」


 久世は視線を動かさない。


 「将棋の娘か」


 「はい。各地を巡り、負け知らず……いや、近頃は引き分けが多いとか」


 久世は、ふっと息を吐いた。

 思わず、笑いが混じる。


 「……そうか」


 引き分け。

 それを聞いただけで、久世には分かってしまった。

 かやは、もう“勝つだけの将”ではない。

 誰かと盤を囲み、終わらせずに指す場所へ、足を踏み入れている。


 「殿は、ご存じなのですか」


 「いや」


 「だが、想像はつく」


 久世は、城の外――まだ畑のまま残る土地を見やる。

 あの夜、手紙に書いた言葉を思い出す。

 勝つたびに、独りになるな。


 「……あいつは、ちゃんと迷っている」

 それでいい。

 迷いのない将は、いずれ人を置き去りにする。


 久世は背を向ける。

 「噂は噂だ。追うな」

 「だが、聞き逃すな」


 家臣たちは一斉に頭を下げる。

 盤の上では、娘が将となり。

 盤の外では、久世が動かずに待つ。


 飛車は、まだ動かない。

 だが、この城が完成したという事実だけで、盤面は確実に変わり始めていた。


 

 夜半。

 城の一室に灯る明かりは、まだ少ない。

 久世は机に向かい、硯に墨を落とした。

 外では風が鳴っている。戦の前触れのような音だった。


 確かな情報ではない。

 だが、戦はいつも、噂から始まる。


 久世は一度、筆を止める。

 何を書き、何を書かぬべきか。その線を引くのは、将の役目だった。

 やがて、静かに筆を運ぶ。


 かやへ

 そなたの噂が、ここまで届いている。

 各地を巡り、盤を囲み、勝ち続けている


――いや、近頃は引き分けが多いと聞いた。


 よい。

 それでよい。


 今、この地では、戦の気配がある。

 確かな話ではないが、風向きが落ち着くまで、こちらへ戻るな。


 戻らぬこともまた、将の判断だ。

 盤の上で迷うことを、恐れるな。

 迷いは、成長の証だ。


 そなたは、確かに前へ進んでいる。

 それを聞けただけで、十分だ。


 無事であれ。

 盤を終わらせるな。


 久世


 書き終えた久世は、しばらくその文を見つめていた。

 余計な言葉はない。だが、足りぬとも思わない。


 「……届けばいいがな」


 誰にともなく呟き、久世は文を畳む。


 盤の上では、娘が将となり。

 盤の外では、戦が近づく。

 飛車は、まだ動かない。

 だが、動かぬまま守る局面も、確かに存在する。


 

 かやが手紙を開いたのは、宿の縁側だった。

 朝の空気はまだ冷たく、旅の一行はそれぞれ支度に追われている。誰も騒いでいない。ただ、町全体が妙に落ち着かず、音だけが多かった。


 かやは筆跡を見ただけで、誰からの文かを悟った。

 胸の奥が、わずかに緩む。

 内容は簡素だった。

 戦の気配があること。確かな話ではないこと。戻ってくるなという指示。

 そして――引き分けが増えたと聞いた、と。


 かやは、そこでもう一度文を読み返した。

 褒める言葉はない。だが、否定もない。


 「……相変わらずじゃな」


 小さく、息のように呟く。


 勝ち続けよとは書いていない。急いで戻れとも言わない。ただ、前に進んでいると、それだけを認めている。


 かやは文を畳み、懐にしまった。

 その動作は静かで、迷いがなかった。

 そのとき、町道の向こうから声が流れてくる。


 「聞いたか」

 「どこぞで戦が始まったらしいぞ」

 「いや、まだ噂だ。だが兵が動いたって話だ」


 噂は形を持たない。

 だが、人の口を渡るたび、少しずつ重くなる。


 凛が歩み寄り、かやの顔を見る。


 「……久世からか」


 かやはうなずく。


 「まだ戻るなとさ」


 凛はそれ以上、聞かなかった。

 みよは少し不安そうに空を見上げ、晴道は何も言わず、盤を包み直している。

 戦が始まっているかどうかは、誰にも分からない。

 だが、始まるという噂だけで、世界はもう動き始めていた。


 かやは遠くを見る。

 久世のいる場所でも、ここでもない、まだ見ぬ先。


 盤の上で将として育ち。

 盤の外で、戦が進む。

 その二つが、いつか交わることを、かやはまだ知らない。


 ただ一つ分かっているのは――

 今は、戻らないという選択が、最も強い一手だということだった。



 久世の軍は、千。

 対する敵軍は、三万。


 数だけを見れば、勝負にもならない。

 家臣の誰一人として、その事実を口にしなかったのは、口にするまでもなかったからだ。


 夜明け前、久世は兜を手に取る。

 この姿を、かやには見せたことがない。見せるつもりもなかった。


 「陣は予定通りだ」


 低い声が、静かに広がる。

 焦りはない。気負いもない。ただ、決めた手順をなぞるだけの声音だった。

 久世は、盤を見るように戦場を見る。

 丘、川、風向き。敵の陣形。兵の質。将の癖。


 ――三万か。

 多いとは思う。

 だが、それだけだ。


 「敵は数で押す」

 「こちらは、数を使わせる」


 家臣たちはうなずく。

 この男がこう言うとき、すでに戦は半分終わっている。


 太鼓が鳴る。

 敵軍が動き出す。

 その瞬間、久世の目が変わる。

 温度が消える。

 情も、躊躇も、すべて切り落とした将の目。


 「――始めよ」


 合図は、それだけだった。

 千の兵が散る。

 逃げるように見せ、誘い、割り、分断する。敵は勝ったつもりで追い、気づかぬうちに隊列を失う。


 久世は動かない。

 だが、戦場のあちこちで“久世の手”が動いている。


 伏兵。火。退路を塞ぐ流れ。

 敵将が異変に気づいたときには、もう遅い。

 三万の軍は、三万として戦えていなかった。


 久世は、ただ前を見る。

 ここに、情はない。

 あるのは、勝つための最短だけだ。


 ――これが、久世の本来の姿。


 かやに見せなかった理由は、ひとつしかない。

 この背中は、いずれ見なくてよいものだからだ。

 飛車は、今、動いている。



 戦は、そこで終わらなかった。

 敵軍の後方が騒がしくなる。

 新たな旗。整った陣形。浮き足立たぬ動き。

 援軍だった。

 一万。しかも、ただの増援ではない。


 「……来ましたな」


 家臣の一人が、低く告げる。


 官兵衛級。

 戦場を盤として見られる知将。数を数として扱わず、意味として動かす男。

 久世は、わずかに視線を向けただけだった。


 「想定内だ」


 声は変わらない。

 三万が一万増えたところで、盤が広がるだけだ。

 知将の軍は、無闇に突っ込んでこない。

 崩れた陣を立て直し、逃げ道を塞ぎ、こちらの“手”を読みに来る。


 ――なるほど。


 久世は、その動きを見て理解する。

 相手もまた、盤を見ている。

 だが。


 「やることは、同じだ」


 久世は、静かに命じる。


 「誘え」

 「使わせろ」

 「考えさせるな」


 相手が凡将であろうと、知将であろうと、手順は変えない。

 数を使わせ、動かし、広げ、重ねたところで断つ。

 知将は、罠に気づく。

 だが、気づいたときには、選択肢が減っている。


 進めば崩れる。

 止まれば囲まれる。

 戻れば、火が回る。


 「……久世か」


 敵陣の奥で、誰かが名を呟いた。


 久世は、その声を聞かない。

 聞く必要がない。

 盤の上でやることは、いつも同じだ。

 飛車を目立たせ、香車を通し、最後に王の逃げ場を消す。


 戦場でも 将棋でも。

 久世は、変わらない。


 飛車は、もう動いている。

 だが、久世自身は、まだ一歩も前に出ていなかった。



 それでも、数は嘘をつかない。

 一つ崩し、二つ折り、三つ裂いても、敵は尽きなかった。

 押し返したはずの戦線が、じわりと後退する。

 兵の息が荒くなり、刃の重さが増していく。


 「……殿」


 誰かが、言葉を濁した。

 久世は、盤面を見ていた。

 将としての目で。

 そして同時に、かつて戦場に立ち続けた男の目で。


 「夜叉」


 名を呼ばれ、重臣が一歩前に出る。


 夜叉。

 久世がまだ名もなき頃から、背を預けてきた男。

 理を捨てるとき、最後まで付き合うと決めている男。


 「行くぞ」


 理由は、語られなかった。

 必要もない。

 二人は、馬を走らせる。


 味方の列を突き抜け、敵の矢が降る中を、一直線に。


 「止めろォッ!」

 敵軍がどよめく。

 だが、遅い。


 夜叉の刃が、道を開く。

 久世の太刀が、線を引く。


 数は、ここでは意味を失った。

 二人が通る場所だけが、戦場から切り取られたように静まる。

 敵軍本陣が、見えた。


 知将の陣。

 整えられ、守られ、誰もが“安全”だと信じている場所。


 「――盤の外だと思ったか」


 久世が、低く呟く。


 本陣に、久世と夜叉の二人だけが踏み込む。

 将が、駒を連れて殴り込みに来るなど、誰も想定していない。

 混乱が、走る。命令が、飛ぶ前に、首が落ちる。


 久世は、将だった。だが今は、鬼だ。

 かやには、見せなかった姿。

 いや――見せたくなかった姿。


 夜叉が笑う。


 「……昔に戻りましたな」


 「違う」


 久世は、前を見る。


 「終わらせに来ただけだ」


 本陣の奥。

 知将が、ついに久世と相対する。

 ここからは、将棋ではない。

 だが、詰みは、もう見えていた。

 

 

 本陣の奥で、男は待っていた。

 甲冑は整い、陣は崩れていない。

 逃げる様子も、狼狽もない。

 まるで――久世がここまで来ることを、最初から知っていたかのように。


 「……やはり来たか、久世」


 名を呼ばれ、久世は足を止める。

 その声を、忘れるはずがなかった。


 「生きていたか」


 短い言葉。

 だが、それだけで十分だった。

 知将は笑う。

 戦場で笑うには、あまりにも静かな表情で。


 「来ると思っていた。お前はな、追い詰められると盤の外に出る。昔から変わらん」


 久世の目が、細くなる。


 「それを読んだ上で、この陣か」


 「そうだ。三万の駒で包み、千で耐え、最後は――お前が来る」


 夜叉が、息を呑む。

 ここまでを“想定”していたということは。

 「戦友を迎えるには、十分な舞台だろう?」

 知将は、剣に手を掛ける。


 将としてではない。

 一人の兵として。


 「俺は逃げなかった。お前も、戻らなかった。なら、ここで会うのは必然だ」


 久世は、太刀を抜く。


 「……かやには、こんな将棋はさせられんな」


 知将の笑みが、ほんの一瞬だけ歪む。


 「だからこそ、俺たちは戦友だった」


 二人の間に、言葉はもういらなかった。

 盤は、ここにある。

 駒は、互いの命だけ。

 外では、戦が続いている。

 だがこの場所だけ、時が止まったようだった。


 久世は思う。

 もし、かやがここにいたら――

 この一手を、どう見るだろうか、と。

 そして同時に、確信する。

 この戦は、勝っても帰れない者がいる。



 久世は夜叉を振り返らなかった。

 ただ低く言う。


 「夜叉。兵を連れて下がれ」


 夜叉が即座に否定しかける気配を、久世は一言で断ち切る。


 「これは俺の失態だ。受け持つのは俺一人で足りる」


 夜叉の歯が軋む音がした。

 だが命令は命令だった。


 「……必ず、生きて戻れ」


 それだけを残し、夜叉は兵をまとめて闇へ消える。

 久世は、それを確かめもしなかった。

 その背に、拍手が一つ落ちる。


 「相変わらずだな。駒を切る時は迷わん」


 知将の声だった。

 次の瞬間、空気が変わる。

 久世の足元、背後、左右。

 闇の中から、気配が立ち上がる。


 忍ばせていた兵。

 数は多くない。

 だが、どれも精鋭だった。


 「最初から、俺一人を止める算段か」


 「当然だ。お前を討つのに、軍はいらん」


 知将は一歩も動かない。

 兵だけを、久世に差し出す。


 「ここは盤の外だ、久世。王はもう逃げた。残った飛車を、袋叩きにするだけだ」


 久世は、ゆっくりと構える。

 呼吸が、戦場のそれに戻る。


 「……悪くない」


 刹那。

 久世が踏み込む。

 剣が閃き、血が散る。

 一人、また一人。

 だが数が減っても、間合いは詰まらない。


 知将は見ている。

 一手も動かず、ただ評価するように。


 「やはり厄介だ。千の軍で三万を止める男は違う」


 久世は、息を吐く。


 「なら分かるだろう。俺はここで止まらん」


 知将は、目を細める。


 「分かっている。だから――ここで削る」


 それは勝ちを捨てた一手だった。

 久世を討てずとも、未来を削ぐための手。


 久世は悟る。

 これは生き延びる戦ではない。

 時間を稼ぐ戦だ。


 膝が、地についた。

 力が抜けたわけじゃない。

 もう、立つ理由が尽きただけだった。


 息を吸うと、胸の奥がひりつく。

 吐くと、視界が少し滲む。

 血の匂いがするが、不思議と嫌ではなかった。


 ――ああ、ここまでか。


 そう思った瞬間だった。

 夜の戦場が、ゆっくり遠ざかる。

 代わりに、土の匂いがした。

 荒らされた畑。

 月明かりの下で震えていた小さな背中。

 泥だらけの手で鎌を握りしめていた少女。


 「……かや」


 名を呼んだ覚えはない。

 だが、確かにそこにいた。


 飯をかき込む音。

 箸の持ち方が妙で、笑ったこと。

 将棋盤を前にした時だけ、背筋がぴんと伸びたこと。


 城下町で将棋を見つけた時の目。

 世界を見つけたような、あの顔。


 「好きなだけ買うといい」


 そう言った自分の声が、少し気取っていて可笑しい。

 本当は、金のことなんてどうでもよかった。


 夜中に間者を斬ったこと。

 村の民が、元家臣だと打ち明けた夜。

 盤の前で、かやが初めて策を口にした時の静けさ。


 ――盤上の将。


 誰がそんな名を付けたのか。

 いや、あれは最初から、そうだったのだ。

 勝って、勝って、勝ち続けて。

 それでも笑わなくなっていく背中。


 だから書いた手紙。

 言葉を選びすぎて、少し遠回りになった文。


 伝わっただろうか。

 孤独は、強さの証じゃないと。

 視界の端で、朝焼けが滲む。

 戦の音が、遠い。


 ――帰ってこなくていい。


 そう書いたことを、今になって悔やむ。

 本当は、帰ってきてほしかった。

 城でも、村でもない。

 ただ、戻る場所に。


 「……すまん」


 誰に向けた言葉かは分からない。

 かやか 夜叉か。

 それとも、自分自身か。


 意識が、細くなる。

 最後に浮かんだのは、

 将棋盤を前にしたかやの横顔だった。

 まだ幼くて、

 それでも世界を相手にしようとしていた目。


 ――あとは、頼んだ。

 声にならない言葉を残し、

 久世 恒一は、静かに目を閉じた。

 


 久世の動きが、完全に止まった。

 剣先が下がり、肩が落ちる。

 知将は、それを見て確信する。

 もう戻らないと。


 「……終いだ」


 感情のない声で、命じた。


 「殺れ」


 兵が動く。

 間合いを詰める足音が重なる。

 刃が月を裂く。

 その瞬間だった。

 久世の足が、地を蹴った。


 ――鈍い音。


 一人の兵が、吹き飛ぶ。


 次の瞬間、別の兵の喉元が跳ね上がる。

 血が散るが、久世は見ていない。

 目が、違った。


 さきほどまでの、死を受け入れた瞳ではない。

 理も恐れも捨てた、ただの殺意。

 知将が、息を呑む。


 「……馬鹿な」


 重傷のはずだった。

 立てるはずがない。

 もう終わっているはずだった。


 だが、そこにいたのは――


 将ではない。

 父でもない。

 人ですらない。


 戦場に置き去りにされた鬼だった。

 久世は吠えない。

 叫ばない。


 ただ、前に出る。

 一歩。

 また一歩。

 斬って、斬って、叩き潰す。


 技ではない。

 策でもない。

 生き残るためだけの動き。

 知将は悟る。


 ――しまった。


 これは詰みの盤面ではない。

 王を追い詰めたつもりで、

 自分が、鬼の間合いに踏み込んでいた。


 「……久世」


 名を呼ぶ声が、わずかに震える。

 久世は、ようやく知将を見る。


 「まだだ」


 低く、掠れた声。


 「まだ、終わっていない」


 鬼は、蘇った。

 勝ちを確信したその瞬間を、

 喰らうために。

 


 知将は、退いた。

 一歩ではない。

 本能的な後退だった。


 「……囮を出せ」


 声が、わずかに掠れる。

 兵が躊躇なく前に出る。

 命じられたからではない。

 そうしなければならないと、空気が告げていた。


 久世は追わない。

 逃げる背には、興味を失っていた。


 目の前にあるもの。

 動くもの。

 立ちはだかるもの。

 それだけが、世界だった。


 兵が来る。数で押す。囲む。


 だが、意味がない。

 久世は止まらない。


 斬るというより、崩す。

 払うというより、押し潰す。


 戦い方ではない。

 戦場そのものだった。


 一人が倒れる。

 十が崩れる。

 百が、道を失う。


 陣形が乱れ、号令が届かなくなる。

 伝令が戻らない。

 指示が意味を失う。

 知将は、遠くからそれを見ていた。


 「……あり得ん」


 一万の精鋭。

 三万の大軍。

 それを止めるはずの“一人”。


 だが、久世は止まらなかった。

 兵は、次第に逃げ始める。

 理由は同じだった。


 勝てないのではない。

 理解できない。

 人の形をしているが、人ではない。

 策が通じない。

 恐怖が通じない。


 ただ前に進み、ただ盤面を壊す存在。

 知将は歯を噛みしめる。


 「……久世」


 その名を、呪いのように吐いた。

 この戦は、勝ち負けではない。

 語られる戦になる。


 一人で、軍を潰した鬼の話として。

 夜が明ける頃、戦場に立っていたのは久世ただ一人だった。


 剣を支えに、それでも倒れずに。



 久世は、ゆっくりと息を整えた。

 身体は痛むが、崩れるほどではない。

 骨も折れていない。

 血も、思ったほど流れてはいなかった。

 ――そうだ。


 あの時。

 動きを止めたのは、剣が重くなったからではない。

 かやの顔が、浮かんだ。

 それだけだった。


 盤の前に座る横顔。

 勝つたびに、少し遠くなる目。

 それでも前に進こうとする背中。


 「……余計なことを考えたな」


 小さく呟く。

 戦場では、致命的な隙だ。

 だが同時に、久世は理解していた。

 あれがなければ、鬼は蘇らなかった。


 想いが、枷になり

 想いが、火にもなった。

 久世は剣を拭い、鞘に納める。


 もう追う気はない。

 盤は、ここで閉じた。


 夜明けの光の中を歩き出す。

 兵の残骸も、血の跡も、もう見ない。


 丘を越えた先に、味方の陣がある。

 夜叉と、家臣たちがいる。


 久世が姿を現した瞬間、

 誰かが息を呑み

 誰かが名を呼び

 誰かが膝をついた。

 久世は手を上げる。


 「騒ぐな。戦は終わった」


 それだけだった。

 問いも詮索も武勇の言葉も要らない。

 久世は、いつも通りの顔でそこに立つ。

 あたかも、何事もなかったかのように。

 だが胸の奥で、静かに決めていた。


 ――次に止まる時は

 ――盤の前だ


 かやの帰る場所として

 自分は、まだ立っていなければならない。

 久世 恒一は、

 再び将として歩き出した。



 戦は終わった。

 だが、終わったはずの戦は、各地で形を変えて生き始める。


 一人で三万を退けた鬼。

 知将を震え上がらせた男。

 名を捨てたはずの将が、再び盤に現れたという話。


 噂は、正確ではない。

 削られ、盛られ、歪められる。

 それでも中心に残る名だけは、消えなかった。


 久世。


 不動。


 動かぬ飛車。


 盤外に置かれたまま、戦を終わらせる存在。

 山を越え、川を渡り、

 商人の口から、浪人の酒席から、

 ついには大名の耳にまで届く。


 ある城。

 障子越しに地図を眺めていた男が、ふっと口元を緩めた。


 「……不動の久世、か」


 指先で、盤をなぞるように地図を叩く。


 「やっと動き出したか」


 その声に、期待が混じっていたのか

 警戒が含まれていたのか

 それは誰にも分からない。


 ただ一つ確かなのは

 久世が望もうと望むまいと

 この名は、もう一度

 天下の盤に置かれたということだった。

 静かに 確実に。


 それは、ある日突然届いた。

 封の紋を見た瞬間、家臣たちが息を呑む。

 豊臣秀吉。

 今や天下を視界に入れ始めた男の名だった。


 「……会いたい、だそうです」


 夜叉が慎重に言葉を選ぶ。

 その先を、久世はもう聞いていなかった。

 文は簡潔だった。


 噂に聞く“不動の久世”

 一度、顔を合わせて話がしたい。

 久世は、しばらく無言で文を眺める。

 やがて、ふっと息を吐いた。


 「会いたい、か」


 誰に言うでもなく呟き、筆を取る。


 家臣たちがざわつく。

 どう返すつもりなのか。

 断るのか。

 条件を付けるのか。

 久世は迷わない。

 さらさらと、短く書く。


 ――久世、動かず。

 ――用があるなら、こちらへ。


 それだけだった。

 夜叉が思わず目を見開く。


 「……殿。相手は秀吉ですぞ」


 久世は顔を上げる。


 「だからだ」


 それ以上は言わない。

 言う必要もない。

 頭を下げて会いに行くつもりはない。

 だが、拒む気もない。


 盤はここにある。

 指したいなら、来ればいい。

 久世は筆を置き、いつもの調子で立ち上がる。


 「返事は出せ」


 その背中は、天下人を相手にしても何一つ変わっていなかった。


 静かで動かずそれでいて、確かにそこにある。


 不動の久世は、この日も城にいた。



 その日、城の門が鳴る。


 大名の来訪など珍しいことではない。

 だが、門をくぐって現れたのは、噂に聞く豊臣秀吉その人だった。


 笑顔は、まるで少年のようで、誰もが引き込まれるような明るさを持っていた。

 だが、目の奥には野心が燃えている。


 「ふむ……これが噂の不動の久世か」


 秀吉が低く笑う。

 城の中庭に足を踏み入れたその瞬間、兵も家臣も息を呑む。


 久世は、いつも通りに立っている。

 動かず、肩も揺れず、ただ静かに迎えるだけ。

 天下を狙う男が目の前にいるというのに、久世の表情は変わらない。


 秀吉が笑う。

 「いいな、この男……」

 言葉に熱量がある。

 「わしと一緒に天下を取りはせぬか?」


 家臣たちがざわつく。

 返答に緊張が走る。

 だが久世は、ただ首を振った。


 「興味はない」


 簡潔だ。

 静かで、揺るぎない。

 だがその一言が、部屋の空気を凍らせる。

 秀吉は、少しだけ目を細める。

 そして、声を押し殺して笑う。


 「……なるほど、面白い。面白すぎる」

 周囲の空気を忘れたように、心底楽しそうに笑った。

 「なら、ここで天下の話はやめよう。久世、君を連れて行く理由は別だ」


 久世は、頷かない。

 笑わない。

 ただ、静かにそこに立つ。


 だが、秀吉の目は、久世の不動さを楽しみ、尊敬しているようにも見えた。

 天下統一の話には興味がない。


 だが、人としての久世の存在

 ――誰も操れない男

 ――それを理解したのだ。


 「……良い。では、天下の話は抜きで進めよう」

 秀吉は満足そうに言い、背筋を伸ばした。

 「久世。君とは、将棋を指すような関係でいい」


 久世は、答えない。

 静かに立つだけ。

 動かず、笑わず、しかし確かにそこにいる。

 この男を動かすことは、

 天下を手に入れるよりも、

 ずっと難しい――

 秀吉はそう思った。



 秀吉の動きは、思った以上に速かった。

 城を出たかと思うと、数日後には全国にその名が届いていた。


 「不動の久世、再び動く」

 「鬼のような戦を一人でやり遂げた男」


 伝聞は膨れ上がり、噂はひとつの生き物のように動き始める。


 城に届く書状も、日に日に増えた。

 会いたい、と願う大名。

 模擬戦を願う将。

 弟子にしてほしい、と必死に筆を執る若き打ち手。

 数える気も失せるほどだ。


 城の門前で、家臣たちが首をひねる。


 「殿、書状が……」


 夜叉が言いながら、何十通も積まれた封を運ぶ。

 久世は、ただ静かに見ている。

 読もうと手を伸ばすわけでもなく、書状を前に眉をひそめるわけでもない。


 ただそこに立つ。

 不動のまま。


 家臣たちは思う。

 「誰もこの男を動かせないのだ」と。


 だが、噂は止まらない。

 動かぬ男の存在が、逆に人々の好奇心と欲望を掻き立てた。

 誰もが久世の動きを知りたがり、誰もが盤上の将の力を手に入れたいと願った。

 久世は、ひとつだけ考えた。


 ――かやには、まだ知らせなくていい。

 勝手に伝わる噂より、

 自分が見守る場所で、静かに成長させたい。

 書状の山を前に、久世は小さく息を吐いた。

 静かに、けれど確かに、時代は動き始めた。

 

 

 朝の光が村を照らす頃、かやたちは新しい街道を歩いていた。


 風は冷たく、でも柔らかく肩を撫でる。

 旅の荷物は重い。だが、それ以上に、心が軽いのをかやは感じていた。


 晴道は少し前を歩き、時折振り返っては笑う。


 「ここを右に曲がると、あの町だ」


 地図を広げるでもなく、道を示すその声は頼もしかった。

 凛は、みよと並んで足並みを揃え、時折笑いながら話す。

 かやの目には、彼らの存在がまるで盾のように映った。


 だが、胸の奥には微かな重さもあった。

 勝つたびに増えていく「孤独」の影。

 盤の前で孤立する感覚。

 旅の間にも、ふとそれを思い出す瞬間があった。


 「……でも、楽しい」


 かやは自分に言い聞かせる。


 歩きながら、景色を眺め、風の音を聞き、道端の小さな花に目を留める。

 勝つためだけではなく、将棋を通して、人と交わることが、何より楽しいのだ。


 町に着くと、最初の挑戦者が待っていた。

 隻眼の男ほどではないが、強者であることに違いはない。


 町の人々が集まり、盤を前にしたかやの緊張が走る。

 晴道が小さく声をかける。


 「行こう。かや、見せてやれ」


 かやは頷く。

 盤の上の世界に、再び身を沈める。

 対峙する相手を前にしても、恐怖はなかった。


 だが、胸の奥で微かに孤独の影が揺れる。

 ――それでも、前に進むしかない。

 師弟たち、仲間たちと共に歩くこの道は、

 まだ見ぬ世界への扉でもあるのだ。


 

 町を抜ける途中、かやたちは一人の若者に呼び止められた。


 服装は派手で、髪も少し跳ねている。

 目は輝き、声は大きく、全身から“弟子になりたい”オーラを放っていた。


 「お願いです! 僕を弟子にしてください!」


 慶介は何度も頭を下げる。

 その熱意は真っ直ぐで、周囲の空気さえ揺らすほどだった。


 かやは冷静に歩みを止める。

 「……弟子として認めるわけではない」

 声は淡々としているが、その言葉に慶介は一瞬固まった。


 「えっ、でも! 僕、絶対に役に立てます! ついていかせてください!」


 慶介の声には焦りもあったが、なお諦める気配はない。


 晴道が横で吹き出す。

 「やれやれ、強引だな」

 凛は無言で顔をしかめるが、どこか楽しそうでもある。

 みよは小さく笑い、慶介の熱意を温かく見守る。


 かやは、しばらく考え込む。

 弟子として認めてはいない。

 だが、同行すること自体を拒む理由もない。


 慶介がいることで、旅が少し賑やかになるのも確かだった。


 「……わかった。同行は許す」

 かやの言葉に、慶介は飛び上がらんばかりに喜ぶ。


 「やった! 本当にですか!」


 だがかやの目は冷静だった。


 「ただし、正式な弟子として認めたわけではない」


 念を押すかやに、慶介は少しがっかりしながらも、すぐに笑顔を取り戻した。


 こうして、慶介はかや達の旅に加わった。

 熱意だけが武器の若者と、まだ見ぬ世界に挑む盤上の将。

 奇妙な四人の旅は、こうして少しだけ賑やかさを増していった。


 

 夕暮れ、焚き火の前。

 かやは盤をしまい、次の町までの道を考えていた。

 その横で、晴道が慌てた様子でかやに向き直る。


 「なあ、かや! お願いだ、慶介を弟子にしてくれ!」


 声には焦りと真剣さが混じっていた。

 かやは冷静に眉をひそめる。


 「……弟子として認めるとは言っていない」


 「違うんだ! 理由はそれだけじゃない」


 晴道は深呼吸して、声のトーンを落とした。


 「慶介、狩人の家で育ってるんだ。旅を続けるうえで、肉を調達してくれる。ほとんど食べられない時もあるだろ? 彼がいれば、俺たちは安心して盤に集中できる」


 かやは一瞬、火の揺れる顔を見つめた。

 弟子としての資格はまだ与えられない。

 だが、旅の実務的な価値は無視できない。

 晴道の言葉には、正直な熱意と理があった。


 「……わかった」


 かやは短く頷く。


 みよと凛は、顔を見合わせて微笑んだ。

 「……これで少し楽になるね」

 かやの冷静な判断と、晴道の現実的な理由。


 熱意だけではなく、実用性も伴った奇妙なバランスが、この旅の新たな仲間を生み出した。


 火の明かりが揺れる中、かやは思う。

 ――勝つためだけではない、旅はこうして少しずつ形を作っていくのだ、と。


 

  日が傾き、旅の一行は小さな野営地に腰を下ろした。


 慶介は得意げに背負っていた狩りの成果や野菜を取り出し、手際よく火を起こす。

 ナイフの音、薪を割る音、肉の焼ける匂い。

 それだけで、空腹だった旅の者たちの心が温まる。

 晴道は目を輝かせ、凛も思わず笑みをこぼす。


 「さすが、狩人育ち……」


 みよも小さくうなずき、嬉しそうに手を叩く。

 かやは、眉をひそめ、鼻を鳴らす。


 「……別に、ありがたくなんて思ってないから」

 そう言いながらも、箸を手に取る。

 空腹には抗えなかった。

 慶介はにこやかに振る舞い、野菜を切り、肉を焼き、香ばしい匂いを立てながら皿に盛る。


 「はい、みんな食べて! 旅のごちそうだ!」


 一口、また一口。

 口に入れるごとに、旅の疲れが少しずつ溶けていく。

 晴道は嬉しそうに笑い、凛も静かに感謝の眼差しを向ける。

 みよは、かやの様子を見ながらほほ笑む。

 かやは否定するように、少しむっとした顔で箸を運ぶ。


 「……これは、まあ、食べてもいい」


 小声で呟くその言葉に、誰も突っ込まなかった。


 けれど、心の奥では、こういう日常も悪くないと、少しだけ思っていた。

 夜の風が、焚き火の煙とともにやさしく揺れる。

 慶介の料理が、旅の疲れを癒し、一行の絆を、静かに、でも確かに強くしていく。


 

 町に着くと、噂を聞きつけた強豪たちが待ち構えていた。

 盤は路地の広場に広げられ、見物人が周囲を囲む。

 かやは静かに座り、駒を握る手に力を込めた。

 晴道も隣に座り、すぐそばで盤を見つめる。


 一局目、二局目……

 相手は腕利きの将棋士たちだ。

 だが、かやは一手一手、確実に先を読む。

 晴道は時折助言し、時折自分も駒を動かし、互いに呼吸を合わせる。


 勝ちの連続に、町の人々は息を呑む。

 盤の上では、ただの駒が命を持つかのように躍動し、指先に宿る思考が戦場を作る。


 凛とみよも、いつの間にか積極的に盤に向かうようになった。

 凛は大胆な攻めで相手を追い込み、みよは冷静に受けつつ次の一手を考える。

 気づけば、四人は自然と小さな将棋士集団になっていた。


 町の強豪が次々と盤に向かい、挑戦を仕掛ける。

 かやと晴道は落ち着いて対処し、勝利を重ねる。

 勝った喜びだけでなく、互いに学び合う楽しさが加わった。


 夕暮れが迫る頃、一行は小さく息をついた。

 盤を片付けながら、凛が笑った。

 「……俺たち、少しずつでも成長してるな」


 かやは目を伏せて少しだけ頷く。

 「……そうね。でも、油断は禁物よ」


 旅の中で、勝利と共に得たものは確かにあった。

 技術も、絆も、そして少しの自信も。

 だが、まだ見ぬ強敵は待っている。

 それを思うと、胸が高鳴る。

 日が沈み、街灯に明かりが灯る頃、四人は次の町を目指して歩き出す。


 盤の将として、そして仲間としての旅は、まだまだ続くのだ。



 五人は町の小さな団子屋に腰を下ろした。

 戦いの熱気はすでに冷め、甘い香りと柔らかな団子に心が落ち着く。


 かやは串を手に取り、一口頬張ると、思わず小さく目を細めた。

 晴道は嬉しそうに団子を頬張り、凛も黙々と食べる。

 みよはその様子を微笑みながら見守り、慶介はまだ団子の並びを見つめて首をかしげていた。


 「……ねえ、聞こえた? この町でも噂が出てるみたい」

 凛が小声でつぶやく。


 かやは眉を上げ、耳を澄ます。

 店の奥で地元の人々が楽しげに話す声の中に、確かに聞こえる。


 「不動の久世……一人で敵軍を蹴散らしたらしい」

 「鬼のような久世、やっと動き出したとか」


 その瞬間、かやの手が止まった。


 「……久世……?」


 胸の奥で、旅で味わった孤独と、遠くで戦う久世の姿が重なる。

 慶介は首を傾げたまま、耳を押さえつつぽつりと言った。

 「……えっと、何の話ですか……? 誰がすごいって?」


 晴道は肩を叩き、笑う。

 「お前にはまだ早い、慶介。今はただ団子を食え」


 かやは小さく息を吐き、団子をかじる。

 知らぬ間に胸が少し高鳴る。

 遠くの戦場で静かに動く久世の噂が、こうして自分たちの旅にまで届く。


 強さと孤高さを持つその人物の存在を、かやは改めて意識した。


 団子の甘みと、噂の重み。

 旅の一瞬の安息と、遠くの戦の緊張が、静かに混ざり合っていた。



 町を抜け、かやたちは再び隻眼の男の前に立った。

 前回の戦いで学んだことを胸に、かやの目は静かに燃えている。

 晴道も隣で、いつでも支えるように盤を見つめる。

 凛は少し緊張した面持ちで、みよは黙ってその場の空気を味わっていた。


 慶介は、少し興奮した様子で盤を前に座る。

 隻眼の男は、以前の冷徹さと威厳を保ったまま、静かに盤を前にした。


 「……ふむ、再びか。楽しみにしておったぞ」


 片目でかやを見据える。

 その視線に、かやの心臓が少し跳ねた。

 慶介は小声で、晴道に話しかける。


 「……あの戦い方、僕もできるかもしれません」


 晴道は頷き、慶介の頭を軽く叩く。

 「やってみろ。覚えは早いぞ、お前ならできる」


 やがて盤が並び、慶介は凛と向き合った。

 隻眼の男の戦い方を模倣し、駒の一手一手に俊敏さと戦略を注ぐ。


 凛はそれに応じ、集中して対処する。

 互いに駒の動きを読み合い、息を呑むような時間が続いた。


 かやは横でその光景を見守る。

 以前の自分の戦い方と比べ、慶介の成長と模倣力に驚く。

 凛もまた、慶介の手の速さと攻めの鋭さに対処しながら、思わず汗をぬぐった。


 「……なかなか、やるな」


 凛が小さく息を吐き、駒を進める。

 慶介は片目を細め、慎重に手を選びながらも、隻眼の戦い方を確実に体現していた。


 勝敗はまだ分からない。

 だが、確かなことがひとつあった。

 模倣から学ぶ力と、経験の蓄積は、仲間同士でも互いに刺激し合うのだということを、五人は改めて知る。


 風が通り抜け、盤の音だけが響く夜。

 盤上の将たちの熱気が、町に静かに漂った。



 盤の上で最後の駒が止まった瞬間、かやと隻眼の男は互いに顔を見合わせた。

 引き分けだった。

 隻眼の男は片目を細め、かやに僅かに頷く。


 「……ふむ、実に見事な戦いぶりだった」


 かやも小さく頷き、息を整える。

 心臓はまだ高鳴り、全身に血が巡るのを感じた。


 勝利の喜びとは違う、盤上での充実感。

 晴道は隣で笑い、凛は手を叩き、目を輝かせていた。


 「おお、いい勝負だったな!」


 慶介はまだ駒をじっと見つめ、隻眼の戦い方を思い出しては小さく呟く。

 その時、みよが静かに口を開いた。


 「……私も、あなたと一局打ちたい」


 隻眼の男の方に視線を向け、真剣な目をしている。


 周囲の空気が、一瞬だけ張り詰める。

 慶介はきょとんとした顔で言った。

 「え、みよさんが……?」


 凛も思わず小さく息を飲む。

 かやは少し微笑み、でもすぐに冷静さを取り戻す。

 「……無理はしないことね。でも挑戦するなら、全力で行くこと」


 隻眼の男は片目を細め、みよを見つめる。

 「……ほう、面白い。ならば、やってみよか」


 風が通り抜け、夜の町に静かな緊張が漂う。

 団子屋での団らんの余韻はもうなく、盤の前に立つ者たちの世界が再び広がった。

 新たな挑戦者と、新たな駆け引きの始まりだった。



 盤の前に立つみよを見て、かやはふと違和感を覚えた。

 これまでも、晴道や凛、慶介、それぞれに個性はあった。

 だが、みよの盤面を見る目は、ほかの誰とも違っていた。


 駒の動きを追うだけではなく、相手の心理、呼吸、体の微妙な傾きまで読み取ろうとしている。

 その集中の仕方、勝つことへの執念、そして時折浮かぶ笑み――

 かやは息を呑んだ。


 「……そうか」


 小さく呟き、かやは晴道や凛に視線を送る。

 晴道も眉をひそめ、凛は思わず口を開きかけて止めた。


 「……みよ、あんた、この五人の中で一番クレイジーだ」


 慶介はぽかんと口を開け、何を言われているのか分からない様子。

 かやは小さく笑い、でも少し戦慄した。


 「……クレイジー、か……」


 盤の上で見せるみよの凶暴なほどの冷静さと大胆さ、それを見守る仲間たちの息遣い。


 みよが発する独特の空気に、五人の旅は一層緊張と刺激に満ちたものになった。

 夜風が町を撫で、灯りが揺れる。

 だが、かやは確信していた。


 この小さな五人の将棋士集団で、最も予測不能なのは――間違いなく、みよなのだと。



 長い旅を終え、かやたちは久しぶりに自分たちの村へ帰ってきた。

 空気は懐かしい匂いを帯びているのに、景色はどこか違って見えた。

 かつての平地には、小さな城が堂々とそびえ、城下には商人や職人の家が並ぶ小さな町ができていた。


 かやは立ち止まり、城を見上げる。

 「……知っているはずの場所なのに、まるで別の世界みたい」


 ぽつりと呟くその声に、晴道が肩を叩いた。

 「旅に出ている間に、色々変わったんだな」


 凛は目を見張り、慶介は口をぽかんと開けたまま、あたりを見回す。

 みよは静かに笑みを浮かべ、歩みを止めて城下町を見つめる。


 「……本当に、村が生きてる」

 かやの胸に、ふと温かさが広がった。


 旅の途中で見た景色、学んだこと、戦いの日々――それらすべてが、この変わった村の存在をより重く、意味あるものにしている。


 久世が再建した城も、城下町も、

 かやにとっては、かつての思い出と今の現実が交錯する不思議な光景だった。

 でもその違和感の中に、確かな安心もあった。


 ここが、自分たちの帰るべき場所であることを、五人の心は無言で確かめていた。

 夕暮れが町を柔らかく染め、灯りがぽつぽつと灯る。


 久しぶりの帰路は、懐かしさだけでなく、旅で得た絆や経験を抱えた五人にとって、新しい一歩でもあった。



 村の門をくぐると、かやの目の前に久世が立っていた。

 堂々とした姿、城を背にしたその威厳は、かつて戦場で見た久世とはまた違っていた。

 久世は静かにかやを見据え、微かに笑みを浮かべる。


 かやの胸が高鳴る。

 「……久世……」

 言葉は小さく、でも確かな想いを伴っていた。


 その光景に、晴道と凛、慶介の三人は目を見開いた。


 「……将軍……?」


 「うわ、すご……」


 「……え、何だこの人……」

 誰も言葉にならず、ただ息を飲むだけだった。


 一方、みよは落ち着いていた。

 瞳を細め、静かに久世を見つめる。

 「……やっと会えたのね」

 その短い言葉の中には、旅での経験と冷静な観察、そして敬意が混ざっていた。


 かやは久世の元に一歩近づき、ゆっくりと頭を下げた。


 「……帰ってきました」


 久世は無言でかやの肩に手を置く。

 その手の重みと温かさに、かやは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。


 晴道たちは少し距離を置き、静かにその光景を見守る。

 凛は拳を握り、慶介はまだぽかんとしている。


 みよは、かやと久世の間に流れる空気を理解し、静かに微笑む。


 長い旅の終わり、そして新たな日常の始まり――

 それを告げるように、村の風が柔らかく揺れた。

 


 夕暮れが城を染める頃、かやたち五人は久世に招かれ、堂々とした城の大広間に足を踏み入れた。

 長い木のテーブルには、肉や魚、彩り豊かな野菜、果物、酒――豪華な料理がずらりと並ぶ。


 かやは思わず目を見開いた。

 「……すごい……」


 久世は静かに微笑む。

 「長旅の疲れを癒すには、まず腹ごしらえだ」


 晴道は早速、肉を手に取り頬張る。

 「うわっ、久世さん、これ本当に食べていいんですか!」


 凛も箸を進め、慶介は目を輝かせて料理を見つめる。

 みよは落ち着いた微笑みを浮かべ、かやの隣に座った。


 久世は静かに料理を取りつつ、五人に話しかける。

 「旅で学んだこと、互いに教え合い、助け合うのは素晴らしいことだ」


 かやは少し照れたように頷く。

 「はい。……でもまだまだ学ぶことばかりです」


 晴道は箸を置き、にこやかに言った。

 「かや姉さんの指導はやっぱりすごいっす。俺たちも成長できる気がします!」


 凛は真剣な顔で、しかし嬉しそうに頷く。

 「……負けないように、俺ももっと打つ」


 慶介は豪快に肉を口に運び、満面の笑みを浮かべる。

 「いやあ、これだけ食べられる旅なら、弟子入りしてもいいかなって気になりますね」


 かやは少しむっとした顔で、でも箸を止められずに笑う。

 「……お前は弟子じゃないわよ」

 みよは静かに笑みを浮かべ、柔らかくつぶやいた。


 「でも、こうして一緒に過ごせる時間も、大事な学びね」

 久世は穏やかな表情で全員を見渡す。


 「旅の道中、危険も多かったろう。だが、仲間と共に戦い、互いに支え合ったことは、将棋の勝敗よりも大切なことだ」

 五人は静かに頷き、それぞれに心が温まるのを感じた。


 豪華な食事と、久世の言葉。

 旅で培った絆と経験が、静かに五人を包む。

 夜が更け、城の明かりが大広間を柔らかく照らす。


 かやは箸を置き、ふと笑った。


 「……やっぱり、ここに帰ってくるのも悪くない」

 晴道も凛も慶介も、みよも、同じように微笑み、心からの安堵を味わった。


 久世の城でのこの夕食は、旅の終わりのご褒美であり、新たな日々の始まりの象徴でもあった。


 

 城での生活は、しばらくの間、穏やかな日々をもたらした。

 朝は城下町を歩き、昼は盤を広げ、夕方には久世が用意した豪華な食事を囲む。

 かやたちは旅の疲れを癒しながらも、心の奥では次の戦いや新たな挑戦を思い描く。


 ある日、夕食の後、久世はかやを庭に呼び出した。

 静かな庭園に、風がそっと木の葉を揺らす。

 久世は静かにかやの目を見つめ、口を開く。


 「かや――この城で、正式に私の養女にならぬか」


 かやの胸が跳ねた。驚きと同時に、少しの安堵が込み上げる。


 「……養女、ですか……」


 久世は微かに笑む。

 「旅で共に戦い、互いを理解してきた。ならば、家族として迎え入れたいと思うのだ」

 かやの心の奥には、旅の孤独や勝利の重みが浮かぶ。


 だが、久世の眼差しは、そのすべてを受け止める温かさを帯びていた。

 「凛やみよも……」


 かやが言うと、久世は頷いた。

 「お前たちと共にいるなら、皆を家族として迎え入れよう。旅の仲間は、もう一つの家族なのだ」


 庭の風が、五人の心を柔らかく撫でる。

 晴道はそっと微笑み、凛は目を丸くするが、どこか安心した表情を浮かべた。


 慶介は口をぽかんと開けたまま、まだ状況が飲み込めていない様子。

 みよは静かに笑みを浮かべ、かやの手に軽く触れる。

 「……ようやく、皆で安らげる日が来たのね」


 かやはゆっくり息を吐き、心の中の緊張がふっとほどけるのを感じた。


 「……はい。皆で一緒に……」


 そう呟いた言葉に、庭の空気もほんの少し優しく色づいた。


 久世の城は、旅の疲れを癒すだけでなく、五人にとっての新たな帰る場所になった。

 そして、ここから始まる日々は、戦場でも旅先でも得られなかった、穏やかで温かな時間だった。



 ある日の午後、城の奥でざわつく気配があった。

 かやたちはふと顔を上げ、窓の陰から様子を窺う。

 庭に現れたのは、あの秀吉だった。


 一見柔和な笑みを浮かべてはいるが、その眼光には確かな力と計算が宿っている。

 以前会ったときの印象とは違い、確実に久世の元を訪れる理由を携えているのが伝わる。

 かやは窓の影から息を潜め、晴道と凛、慶介、みよも固まる。


 「……久世様、あの人、また来たんですか……」

 晴道の声は小さく、でも目は好奇心で輝いていた。


 久世は普段通りの落ち着きを見せながら、秀吉を迎える。


 「来たいと言うなら来るがいい」

 その言葉には威厳と余裕が混ざり、まるで盤上での駆け引きを見ているかのような静かな圧力があった。


 秀吉はにこやかに頭を下げ、声を弾ませる。

 「久世様、またお会いできて光栄です。どうか、お話を……」


 かやは思わず笑みを押し殺す。

 「……すごいな、あの二人……」

 凛も肩を震わせ、慶介はまだ口を開けたまま、みよは静かに微笑むだけだった。


 五人は窓の陰で息を潜め、互いに視線を交わす。


 「……まさか、あんなに堂々と会うんだ」

 晴道が小声で呟く。


 「でも、久世様ならこれくらい余裕か……」

 かやも頷き、胸の奥で静かに戦場の頃の久世の姿を思い出す。


 窓越しに見える二人のやり取りは、盤上の将の戦いにも似ていた。

 言葉の一つ一つ、間の取り方、眼差しの鋭さ。


 かやたちは息を呑み、隠れてその様子を学ぶことしかできなかった。

 夕日が城を染め、庭の影が長く伸びる。

 かやは小さく息をつき、心の中でつぶやく。

 「……次は私たちも、あの領域まで行かないと……」


 城の大広間にて、久世と秀吉の対話は静かに、しかし確かな圧を帯びて進んでいた。

 言葉の端々に策略がにじみ、五人は窓の陰から息を潜めてその様子を窺う。


 「久世様、城の再建ぶり、見事ですな。ここまで整えているとは……さすがとしか言いようがありません」

 秀吉の笑みは柔らかいが、眼は鋭く、久世の微細な表情を追っている。


 「来たいと言うなら来るがいい、とは言ったが、手土産がこれほどとは思わなかったな」

 久世は穏やかに微笑む。だがその背後には、戦場で培った鋭さが確かにあった。

 かやたちは思わず肩を寄せ合う。


 晴道は小声で「……やっぱり、あの二人、ただ者じゃない……」

 凛は目を細め、慶介はぽかんと口を開け、みよだけは静かに微笑みつつ、かやを見守った。


 しかし、会話の途中、秀吉がふと五人の方に目を向ける。


 「おや、そちらには……若い将棋士たちか? かや殿の弟子たちか?」

 その瞬間、五人は慌てて窓の陰に身を潜める。


 「……し、知られたか……」

 かやが息を殺し、慶介はあわてて箸を握り直す。


 凛は手を握り、顔が真っ赤になり、晴道は小声で「どうする、どうする……」と動揺する。

 みよだけは少し笑みを浮かべ、冷静に状況を把握していた。


 秀吉は軽く笑い、手を上げる。

 「ふむ、学び舎の生徒たちか。久世様の弟子なら、なかなかの腕前だろうな」

 久世は微かに眉を上げ、五人に気づかぬふりをして返す。


 「……そうだろうな。だが、まだまだ学ぶべきことは多い」


 その間にも、五人は互いの目を見合わせ、心の中で小さく騒ぐ。


 かやは冷静さを保ちつつも、心の奥でくすぐったいような緊張感を覚えた。


 晴道はこっそり拳を握り、凛は小さく息を飲み、慶介はまだぽかんとしている。

 みよは少し笑みを抑え、目だけでかやに合図を送った。

 庭に吹く風が、五人の心拍をほんの少し乱す。


 盤の上と同じく、言葉一つ、視線一つで揺さぶられるこの空間。

 かやたちは知らず知らずのうちに、久世と秀吉の“戦場の感覚”に巻き込まれていたのだった。



 大広間の空気が静まり返る。

 久世は座したまま、穏やかだが確固たる声で口を開いた。


 「かや、そして凛、みよ――私は正式に、お前たちを養子として迎え入れた」

 その言葉が響くと、五人は思わず息を飲んだ。

 かやは目を見開き、胸が高鳴る。


 「……養子に、ですか……」

 凛は拳を握り、顔を赤らめながらも、言葉を失った。

 みよは少し微笑みを浮かべ、静かにかやを見つめる。

 慶介はぽかんと口を開けたまま、状況を理解できずにいる。


 秀吉は軽く眉を上げ、少し笑った。

 「ほう……久世殿、正式になさったとは……なるほど、確かにお前たちをよく見込んでおられるな」

 その笑みの裏には、驚きと尊敬、そして少しの計算高さが混ざっていた。


 久世は静かに頷く。

 「私の手元に置き、共に学び、互いを高め合う者として選んだのだ。旅で培った絆、将棋で磨いた力――それは、血のつながり以上の価値がある」


 かやはゆっくりと頷き、胸の奥で緊張と安堵が交錯するのを感じた。


 「……はい、ありがとうございます」


 凛も小さく頷き、みよは微かに笑む。慶介はまだ驚きで固まっている。


 秀吉は軽く手を打ち、にこやかに声を弾ませた。

 「なるほど……これで久世殿の存在を天下に知らせると同時に、未来の弟子たちも育つわけだな。実に見事な采配だ」


 久世は微笑を崩さず、しかし内には強固な決意を宿したままだった。

 五人はその場に身を置きながら、心の中で確かに思った。

 ――ここが、私たちの帰るべき場所であり、新しい日々の始まりなのだ、と。

 

 

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