第二部 香車の行く先
盤の戦いが終わっても かやの日々は変わらなかった。朝は早く起き 水を汲み 畑を眺める。だが一つだけ 明確に違うことがあった。彼女の視線は いつも何かを読んでいた。人の動き 物の配置 些細な沈黙。そのすべてを盤として捉える目になっていた。
将棋は 城下町で再び姿を現す。賭けでも遊びでもない。力を誇示するための場でもない。かやはただ盤に向かい 駒を並べ 相手の手を待つ。その姿は静かで 年若い少女には似合わぬほど落ち着いていた。
勝ちは重ねられる。だが誇らない。負けは少ない。だが悔しがらない。勝敗よりも局の形を大切にしていた。なぜその手を指したのか。なぜここで迷ったのか。それを確かめることが 彼女にとっての修練だった。
城下では噂が変わる。才ある子ではない。盤を読む少女。武を振るわず 人を倒さず ただ座して相手を崩す者。誰もが不思議がり 誰もが挑みたがった。将棋士という言葉は まだ定まっていない。だがその在り方は すでにそれだった。
俺は一歩引いた場所にいる。教えはしない。導きもしない。盤を知る者として ただ問うだけだ。なぜその手を選んだ。別の道は見えたか。かやは答えを急がない。考え 迷い そして自分で決める。
戦で王手をかけた少女は 今 人の前で盤を広げる。刃の代わりに駒を持ち 勝鬨の代わりに一局を残す。それは戦国の世において あまりにも異質で だからこそ強い。
かやが十二になった年 春は静かに訪れた。背は少し伸び 声はまだ幼い。だが盤を前にしたときの目だけは もう子どものものではなかった。
将棋を打つために かやは村を出る。城下へ 山を越え 港町へ。呼ばれて行くのではない。噂を聞いた者が待ち構え 盤を用意し 気づけば対局が始まる。賭けはない。名もいらぬ。ただ一局。
一人称は妾のまま変わらない。武家の名残でもあり 自分を律するためでもあった。相手が年長でも 名のある者でも 盤の前では同じだ。妾は盤上の将。そう名乗る必要すらなかった。
勝敗は淡々と決まる。攻めは鋭く 受けは深い。急がず 焦らず 相手が最も苦しむ道を選ぶ。その手つきは戦に似ているが 血は流れない。だからこそ逃げ場がなく だからこそ人は負けを認める。
俺は同行しないことも増えた。危険はない。そう判断したわけじゃない。かやが一人で盤に立つ姿を見届ける、役目が終わりつつあったからだ。守る存在から 見守る存在へ。それでいい。
各地で言葉が生まれる。
あれは武将ではない。
策士でもない。
将棋士だ。
かやはまだ十二だ。だがその盤面には 年月が積もっている。戦を知り 失うことを知り そして選ぶことを知った者の手だ。
この旅は修行ではない。
証明でもない。
盤を通して 世と語るための道行きだ。
そして まだ誰も知らない。
この小さな将棋士が
やがて国の均衡を揺らす一手を
指すことになるとは。
かやの名は 早く 広く 伝わった。将棋を好む者のもとへ 自然と辿り着くようになる。山間の寺で盤を打つ僧 城下で門弟を抱える老将 商家に居座る勝負師。誰もが自分の一局に誇りを持ち 誰もが負けるつもりはなかった。
最初の数局は荒い戦だった。力で押す者 読みを誇る者 奇手で揺さぶる者。だが かやは崩れない。受け切り 読み切り そして静かに詰ませる。勝負が終わると 盤を見下ろしたまましばらく動かない。それは勝ちを噛みしめているのではない。局の中で まだ拾える手がなかったかを探している。
連戦は続く。朝から夕まで 打ち続ける日もあった。疲れは見せない。だが 夜になると一人 盤を並べ直す。妾はまだ浅い。そう呟き 駒を戻す。その姿を見て 強豪たちは気づき始める。これは才ではない。積み重ねだと。
ある地では 三番勝負を挑まれた。初局は速攻で制され 第二局は粘りで凌ぎ 最終局で かやは初めて 大胆な捨て身を選ぶ。盤が静まり 相手の指が止まる。その瞬間 勝負は終わっていた。勝ったのはかやだが その場にいた者は皆 同じ顔をしていた。今 何かが変わったと。
連戦を経て かやの将棋は形を持ち始める。攻めでも守りでもない。相手を盤の中に閉じ込め 逃げ道を一つずつ消していく将棋。戦を知る者にしか指せぬ手だった。
十二の将棋士は 各地を巡り 勝ちを重ね 名を積む。だが 驕らない。連戦の中で ただ一つ 心に刻んだ言葉がある。
――盤は 正直だ。
嘘は通じない。
慢心も 通じない。
次に待つのは
まだ知らぬ敗北か
あるいは
さらに大きな盤か。
晴道が現れたのは 川沿いの小さな城下だった。まだ背は伸びきらず 声も若い。年はかやより二つほど上だという。だが盤の前に座る姿は妙に落ち着いていた。
勝負は短かった。手は素直で 読みも浅くない。だが かやの一手一手に追い詰められ 最後は自ら駒を倒す。負けを悟ったとき 晴道は盤から目を離さなかった。悔しさよりも 驚きが勝っていた。
対局が終わり 人が散っても 晴道はその場を動かない。やがて静かに頭を下げた。
「かや殿の将棋を もう一度見たい」
言葉は丁寧だが 飾りはない。弟子にしてほしいとも 教えてほしいとも言わない。ただ 見たいと言った。それが かやには分かった。これは技を欲している目ではない。盤の向こうを知りたい者の目だ。
かやはしばらく盤を見つめてから 駒を並べ直す。
「なら 妾の負け筋も 見ておくとよい」
晴道は息を呑む。その一局は勝負ではなかった。かやは敢えて悪手を指し 盤を歪ませ 晴道に選択を委ねる。晴道は戸惑いながらも考え 抗い そして初めて 盤を動かした感覚を掴む。
夜 更けるころ 晴道はもう一度頭を下げた。
「名を 晴道と申す。かや殿の盤を 道として歩きたい」
かやは答えない。ただ 盤を片付けながら一言だけ落とす。
「妾は師ではない。ただ 将として指すのみ」
それで十分だった。晴道は かやの背を追うように 各地を巡り始める。勝ちを誇らず 負けを捨てず ただ盤に向かう姿を 真似るように。
将棋士は 一人では生まれない。
だが 誰かの盤を見て
歩き出す者は 現れる。
晴道は その最初の一人だった
晴道は かやと同行するようになる。頼まれたわけではない。許されたとも言われていない。ただ 気づけば同じ道を歩いていた。
並んで歩いても 会話は少ない。将棋の話も ほとんどしない。晴道は先を急がず かやの歩幅を乱さない。それだけで 旅は成立していた。
盤を求める旅は 形を変える。強い者を探すだけではない。まだ名を持たぬ者 盤を恐れる者 指し方を知らぬ者。かやは そういう場所でも足を止める。土間に板を置き 駒の代わりに石を並べ 一局を始める。
晴道は隣で見ている。手を出さない。口も出さない。ただ 盤の外から かやの視線の動きを追う。どこを見ているのか。なぜ そこに手を置くのか。答えは すぐには分からない。
夜になると 晴道は盤を広げる。一人で指す。負ける。組み直す。また負ける。それでも 指す。かやは見ない。だが 気配だけは感じている。
ある日 晴道がぽつりと言う。
「盤の将は 人に宿るのですか」
かやは 少し考えてから答える。
「宿らぬ。ただ 通る」
晴道は その言葉を胸にしまう。理解はできない。だが 否定もしなかった。
二人は まだ見ぬ盤面の将を探す。強さではない。美しさでもない。盤を通して 世界をどう読むか。その在り方を。
旅の途中で 名を残す者もいる。去っていく者もいる。だが 晴道は残る。かやの背を追い 盤の外側を学び続ける。
将棋士は 教えられて生まれない。
だが 将棋士の旅は
誰かと並んで始まることがある。
まだ 二人は 若い。
まだ 盤は 広い。
この旅の先に
敵がいるのか
味方がいるのか
それは まだ 分からない。
ただ一つだけ 確かなことがある。
盤は次の手をすでに 待っている。
二人の前に現れたのは まず音だった。足音はふらつき 呼吸は荒い。次に匂いが来る。酒だ。強く 古く そして雑だ。
道の脇から転がり出てきた男は ひどい有様だった。着物も帯もない。身ぐるみを剥がされたらしく ふんどし一丁で それも半ばずれている。顔は赤く 目は据わり 笑っているのか 泣いているのか分からない。
晴道が一歩 前に出る。だが かやは止める。男は敵ではない。ただ 崩れているだけだ。
男は地面に座り込み 空を見上げる。
「負けた 負けたぁ……」
誰にともなく呟く声は 酒に濁っている。だが その言葉だけは はっきりしていた。勝負の負けだ。
かやは男を見る。服ではなく 体でもなく その手を見る。指先に残る癖 盤を触ってきた者の形だ。
「何で負けた」
かやの問いに 男は一瞬だけ黙る。それから 笑う。
「読まれた 読まれ切った 先も 逃げ道も 全部だ」
晴道は息を呑む。ただの酔っ払いではない。この男は 確かに盤を知っている。
男は地面に枝を拾い 石を並べ始める。ふらつく動きだが 手だけは迷わない。だが 途中で止まる。
「……ここからが 分からねぇ」
かやは 一歩前に出る。枝を一本 そっと動かす。
盤は 完結する。
男は しばらく黙り込み やがて 頭を地面に擦りつけるように笑った。
「なるほどなぁ……こりゃ 盤の将だ」
名前は名乗らない。聞かれても はぐらかす。ただ 酒が抜けるころ 男は立ち上がり どこかへ歩いていく。ふんどし一丁のまま 振り返りもせず。
晴道が言う。
「今の人……」
「盤を失っただけだ」
かやは そう答える。
目的の町は 思ったよりも静かだった。城下ではない。宿場でもない。ただ 人が行き交い 盤を囲む場所が自然と残っている町だ。二人が着いた頃には すでに噂が先に入っていた。盤の将が来る。少女だ。連れがいる。
盤は町の集会所に用意されていた。古く 角が削れ 駒も揃ってはいない。それでも この町で最も多くの勝負を見てきた盤だ。
相手は町一番の打ち手だった。年は三十を越え 手は大きく 盤に置く指に迷いがない。かやを見る視線は穏やかだが 内には確かな自負があった。
かやは座らない。盤の前に立ち 晴道を見る。
「この局は 晴道が指せ」
晴道は 一瞬 息を止める。言葉を探すが 見つからない。ただ 深く頷き 盤の前に座る。
相手が眉を上げる。だが 何も言わない。盤の前では 誰もが同じだ。
初手は 重い。晴道の手は これまでで一番 遅い。それでも 崩れない。序盤を固め 中盤で踏み込み 受けに回る。読み切れてはいない。だが 逃げてもいない。
かやは後ろに立ち 何も言わない。視線も 動かさない。晴道が盤と向き合う その時間を そのまま任せている。
中盤 相手が強く攻める。晴道の手が止まる。汗が落ちる。観客がざわめく。だが 晴道は 駒を持ち直し 一手 指す。最善ではない。だが 退路を残す手だ。
終盤 形は不利だ。だが 詰まない。相手の攻めが鈍る。その隙に 晴道は 盤を締める。時間を稼ぎ 読みを重ね 最後は 相手が手を止めた。
盤は 静かになる。
勝敗は 明確ではない。だが そこにあったのは 勝ちでも負けでもない 一局だった。
相手は 駒を倒し 頭を下げる。
「若いが 盤を捨てておらぬ」
晴道は 深く息を吐く。体が震えている。そ
れでも 盤から目を離さない。
かやが 初めて 口を開く。
「よく耐えた。妾の影を 指さなかった」
晴道は その言葉を 胸に落とす。
この日 晴道は 初めて 将棋士として 盤に立った。
師はいない、だが見ている将はいる。
二人の旅はここで 一段 深くなる。
盤が片付けられ 人の気配が散り始めたころ その青年は ずっとそこにいた。いつからいたのか 分からない。気配が薄く 立ち位置も曖昧だ。細身で 目は糸のように細く 口元だけが静かに笑っている。
晴道が盤から立ち上がろうとしたとき 青年が一歩 前に出た。
「ええ将棋 打たはりましたなぁ」
声は柔らかい。だが どこか底が見えない。晴道は反射的に 姿勢を正す。相手の視線が 盤ではなく 晴道そのものを見ていると感じたからだ。
青年は かやを見る。目を細めたまま ほんの一瞬 その全体を測るように眺め そして また晴道に戻す。
「せやけど もう一局 いけまっか」
晴道は 返事をしかけて 口を閉じる。かやを見る。かやは 何も言わない。ただ 首を傾け 青年を見返す。
青年は にこりと笑い 盤の前に座る。
「名は まだ 要りまへん。将棋の前では 重たいさかい」
駒の持ち方が 変わっている。丁寧だが 慣れすぎてもいない。だが 配置が終わった瞬間 空気が締まる。さきほどまでの町の将棋とは 明らかに違う。
晴道が座る。指先が 少しだけ 震える。
「一局 よろしゅうなぁ」
その言葉と同時に 青年は 初手を指す。速くもなく 遅くもない。だが 盤面は すぐに歪み始める。晴道は 気づく。この相手は 勝ちに来ていない。試しに来ている。
かやは 一歩 下がる。だが 視線は鋭い。これは 晴道の局だ。そして 同時に 晴道が測られる局でもある。
糸目の青年は 終始 笑みを崩さない。だが 一手ごとに 盤は 深くなる。逃げ道が減り 選択が削られる。
晴道は 歯を食いしばり 指す。
この局はただの勝負ではない。
誰が 将棋士かを盤が 選ぼうとしている。
数手 指したところで 晴道は気づく。青年の視線が 盤ではなく 自分の指に向いていることに。
癖を見られている。
考える前に 体が反応する間。
安全を選ぶときの指の止まり方。
青年は それを待っていた。
次の一手は 静かだった。強くも 速くもない。だが 盤の端に ぬるりと置かれた駒は まるで地を這うように 利きを伸ばす。直接は触れない。だが 逃げ道だけを塞ぐ。
晴道の背に 冷たいものが走る。
攻めではない。
守りでもない。
絡め取る手だ。
青年は まだ笑っている。糸のような目は さらに細くなり 盤の奥を覗いている。
晴道は 読む。受けを考える。だが どの手も 少しずつ 苦しい。選択肢が残っているようで 実はすでに 誘導されている。
もう一手、蛇だ。
絡みつくように 駒が重なり 晴道の陣は 音もなく 動きを失っていく。詰みではない。だが 自由がない。逃げれば 深く絡む。耐えれば 首が締まる。
観ている者は 気づかない。盤は まだ整っている。だが 晴道だけが分かっている。これは 力負けではない。読まれ切った末の形だ。
かやの視線が 少しだけ 動く。
青年は ぽつりと 呟く。
「その間やね。君 そこが 優しすぎる」
晴道の指が 止まる。言い返せない。否定もできない。ただ 盤を見つめる。
将棋は 優しさを許さない。
だが 優しさを
知っている者ほど
深く 絡め取られる。
この局は晴道の弱さを正確に映していた。
そして まだ本当の刃は出ていない。
勝負は 日が落ちても 終わらなかった。灯りが置かれ 影が盤に伸びる。指す音だけが続き 周りの者は いつの間にか消えている。晴道の指は 重く それでも止まらない。青年の手は変わらず柔らかく 逃げ道だけを削っていく。
詰みは まだ先だ。だが 夜は 深い。
そのとき 足音がした。小さく 迷いのない音だ。少女が一人 灯りの外から歩み出る。年は幼い。だが 目は真っ直ぐだった。
「兄さま」
青年の手が 初めて止まる。盤から顔を上げ 糸目が 少しだけ開く。
「もう 帰らなあかん。約束や」
青年は しばらく盤を見る。それから 笑みを残したまま 駒を置く。
「ここまでやなぁ」
少女は 晴道に頭を下げる。
「遅くまで ありがとうございました」
青年は 立ち上がり 盤を一度だけ 振り返る。
「今日は 君の勝ちや、不戦勝やけどな」
晴道は 何も言えない。ただ 深く息を吐き 盤を見る。勝ったという実感はない。だが 負けてもいない。それだけで 体が震える。
晴道は その盤を しっかりと覚える。
翌朝 二人が町を発とうとしたとき 昨夜の青年が立っていた。相変わらず糸目で だが 酒の匂いはない。着物は古く 繕い跡が目立つ。
「よかったら 家に寄っていかへんか」
断る理由はなかった。三人で町外れへ向かう。人の気配が薄れ 風の音だけが残る。
家は 小さかった。屋根は歪み 壁は痩せ 床はところどころ沈む。雨が降れば 逃げ場を探すような造りだ。それでも 掃き清められている。住む者の手が きちんと入っていた。
中にいたのは 昨夜の少女だった。名を みよという。二人を見ると 深く頭を下げる。
青年は 囲炉裏の前に座り 何でもないように言う。
「親は 戦で死んだ。残ったのは この家と みよだけや」
誇りも 嘆きもない。ただ 事実として そこに置く声だった。
食事は 粗末だった。粥と少しの干し菜。それでも みよは 二人に先に差し出す。青年は 最後だ。
晴道は 盤を見る目で 家を見る。足りないもの 失われたもの それでも残っているもの。生きている形が そこにあった。
青年は ぽつりと言う。
「将棋は 逃げ場やった。勝てば 飯になる。負ければ 何も残らん」
笑うが 目は笑っていない。
かやは その言葉を受け止め しばらく黙る。
「それでも 盤を捨てなかった」
青年は 少しだけ 肩をすくめる。
「捨てたら 何も見えんようになる」
みよが 囲炉裏に薪を足す。火が 少しだけ 強くなる。
しばらく 囲炉裏の火が鳴る音だけが続く。みよが器を下げ 青年は それを手伝う。動きは慣れている。誰かに任せる癖がない。
一段落したところで 青年は ようやく口を開く。
「昨夜は 名を言わんで すまんかったな」
かやも 晴道も 何も言わない。ただ 待つ。
青年は 視線を落としたまま 続ける。
「凛や。凛で ええ」
短い名だ。飾りも 由来も 語らない。だが それで足りている。
晴道は 一度 その名を心の中で転がす。凛。冷えた音だが どこか芯がある。
「将棋で 生きとる身や。名が広がると 面倒が増える」
そう言って 口元を少しだけ緩める。
かやは 凛を見る。糸目の奥ではなく その奥にあるものを測るように。
「凛。妾は その名を 盤に置く」
凛は 一瞬 目を見開き すぐに笑う。
「光栄やなぁ」
それだけだ。礼も 誓いもない。だが その言葉は 重かった。
盤は 凛の家の中に置かれた。歪んだ床の上だが 不思議と揺れはない。駒を並べ終えた瞬間 空気が変わる。音が 消える。
かやと 凛は 向かい合って座る。言葉はない。視線も ほとんど交わらない。だが 互いの存在だけは はっきりと感じている。
初手は かやだった。静かだ。主張も 牽制もない。盤に 世界を置くような一手。
凛は すぐに返す。だが その手は 対抗ではない。寄り添うようで しかし 別の流れを作る。盤は 二つの水脈を同時に含み始める。
晴道は 一歩 下がる。息が 詰まる。二人の間にあるものに 触れてはいけない気がした。ここにいるだけで 体が重い。視線を盤に向けるのも どこか 憚られる。
中盤に入るころ 盤は 静かに歪む。激しさはない。だが 一手ごとに 選択肢が削られ 世界が狭まる。かやは 閉じる将棋。凛は 潜る将棋。正面からぶつからない。だが 逃げ場も与えない。
晴道は 冷や汗をかく。昨夜の局とは 違う。これは 勝ち負けを競っていない。盤そのものの 在り方を 問うている。
凛の手が 一瞬 止まる。ほんのわずかだ。だが かやは 見逃さない。次の一手が 盤に落ちる。
空気が 鳴る。
凛は 笑わない。糸目の奥が 少しだけ 鋭くなる。
かやは 表情を変えない。ただ 盤を見ている。
二人の気は 混じっている。押し合いでも 競り合いでもない。絡み合い 互いの深さを 測り合っている。
晴道は 思う。
自分は まだこの盤に立てない。
ここにいるだけで押し潰されそうだ。
だが 同時に 確信する。
この一局は将棋の形を一つ 先へ進める。
勝敗よりも名よりも深い場所で。
盤は まだ終わりを示していない。
勝負の一手に 出たのは 凛の方だった。
それまで 凛は 潜り 受け 流していた。正面からは触れず 盤の縁をなぞるように 生き残る将棋。だが その流れが ふと 変わる。
かやの陣は 固かった。鉄壁と言っていい。無駄がなく 揺らぎもない。攻め手は 見当たらず 普通なら 指を引く局面だ。
凛は 引かなかった。
一枚の駒が 盤の影を走る。正面突破ではない。裏からでもない。気づけば そこにいる。忍者のような一手だった。
晴道は 息を呑む。
そんな筋は 見えていなかった。
いや 見ようとすら していなかった。
凛の駒は かやの守りを壊さない。ただ 触れるだけだ。だが 触れられた場所から 形が ずれる。城は まだ立っている。だが 完璧ではなくなる。
かやの視線が 初めて 動く。ほんのわずかだが その一手を 正面から 見据える。
凛は もう一手 続ける。急がない。追い詰めない。ただ 逃げ道だけを 塗り替える。
城の中に
知らぬ通路が
一本 通った。
晴道の背に 冷たい汗が流れる。これが 凛の本気だ。生き延びるための将棋ではない。盤を壊すための 将棋。
だが かやは 崩れない。動揺もしない。ただ 静かに 駒を持ち上げる。
この城は壊される前提で築かれている。
凛の忍ぶ一手は確かに 刃だった。
だが それはかやの盤を本当に 試すための
合図でもある。
勝負は今、本当の深さに入った。
凛の攻めは 止まらない。忍ぶ一手は 連なり いつの間にか かやの王の居所が 盤上に浮かび上がる。守りは 削られ 道は 開き 凛の駒は そこへ辿り着く。
追い詰めた。
そう 見えた。
晴道は 思わず 一歩 前に出る。ここまでだと 盤が告げている気がした。凛の読みは 深く 正確で かやの城は ついに 中枢を晒している。
だが かやは 動じない。
凛の最後の一手が 王の間合いに 入った瞬間 かやは 初めて 少しだけ 目を伏せる。迷いではない。確認だ。
次の一手は 静かだった。守りでも逃げでもない。盤の別の場所に 駒が置かれる。
その瞬間 晴道は 気づく。凛が 見ていた道は 一本道だったことを。王へ続く道は すでに 用意されたものだったことを。
誘導だ。
凛の駒は 王に届いている。だが その背後で すべてが 切り取られている。退路も 援軍も すでに 盤の外だ。
凛の指が 止まる。糸目の奥が はっきりと 開く。盤を 見渡す。王を見る。自分の駒を見る。そして 笑う。
「……ここまで 読んではったか」
かやは 答えない。ただ 王の前に築かれた 目に見えぬ壁を 盤で示す。
王は 追い詰められていない。
王は敵を そこへ呼び込んだだけだ。
凛の忍ぶ攻めは確かに 城に届いた。
だが それはかやの盤の中心に自ら 入る一手だった。晴道は 息を呑む。冷や汗が 背を伝う。
この二人は勝ちを 争っていない。相手をどこまで盤に 乗せられるかを測っている。
勝負はまだ 終わらない。だがこの局の 主導は確かにかやの手の中にあった。
盤は すでに 詰みの形に近づいていた。
凛も それは 分かっている。王の前にある壁は厚く 逃げ道も限られている。それでも まだ一筋 勝ちに届く道が 残っていると 読んでいた。
ただ 一つだけ
目に入っていない駒があった。
端に置かれた 歩だ。
守りにも 攻めにも 使われず
そこにある意味すら
失っているような位置。
凛は その歩を
最初から 最後まで
盤として扱っていなかった。
次の手。
かやは その歩を動かす。
ただ 進めるだけだ。
何も起こらない。
盤は まだ 静かだ。
凛は 一瞬 首を傾げる。
意味を 探す。
だがその一手で最後の逃げ道が消えている。凛は 王を 見る、自分の駒を見る。
そして もう一度その歩を見る。
気づいたときにはすでに 遅い。
歩は役に立たないからこそ疑われなかった。疑われなかったからこそ最後まで盤に 残っていた。
凛は ゆっくりと 駒を倒す。
「……参ったわ」
声は 穏やかだった。
悔しさも 笑いも
そこには ない。
ただ
完全に 読まれた者の静けさが あった。
晴道は 息を 吐く。体の力が 一気に抜ける。
勝った実感よりこの盤を 最後まで 見られたことに震えていた。
凛は 盤に向かって 頭を下げ次に かやを見る。
「負けや。完璧に」
かやは 何も言わない。
ただ 盤を 見下ろす。
歩はまだ そこにいる。
この一局で勝敗を 分けたのは強い駒ではない。見捨てられた小さな 一歩だった。凛はその歩を一生 忘れない。
そして かやはまた一つ盤面の将としての勝利を積み上げた。
凛は 盤を崩さなかった。駒を倒したあとも そのままの形で じっと見ている。負けを飲み込むには まだ時間が要る顔だった。
「どこや」
短い言葉だった。言い訳も 強がりもない。ただ 知りたいだけだ。
かやは 盤に向かい すぐには答えない。指で触れもせず 視線だけで 一手一手を なぞる。
「詰んだのは 最後ではない」
凛が 顔を上げる。
「妾が 王を開いたとき すでに 終わっていた」
かやは 一枚の駒を指差す。凛が 忍者のように潜り込ませた あの一手だ。
「その手は 鋭かった。だが それで 妾の盤が 一つに定まった」
凛は 息を止める。
「凛は 妾の王を見た。だが 妾は 凛の全部を見た」
かやは 端に置かれた歩に 視線を移す。
「この歩が 動かぬと 決めたとき 凛の逃げ道は 一つになった」
凛は 盤を追う。確かに その時から 自分の手は 似た形を 繰り返している。選んでいたつもりで 選ばされていた。
「忍ぶ将棋は 強い。だが 忍び続けると 戻れなくなる」
かやの声は 淡々としている。勝者の響きはない。
「凛は 攻めた時点で すでに 誘導の中にいた。歩が役に立たぬと 思った瞬間に 詰んだ」
凛は ゆっくりと 笑う。
「……見捨てた 駒に やられたか」
「見捨てたのではない。見なかった」
その言葉が 凛の胸に 落ちる。重く だが 受け止められる重さだった。
晴道は 盤を見つめる。自分なら その歩に いつ気づけただろうか。答えは 出ない。
凛は 深く 息を吐く。
「なるほどなぁ……負けたわ」
今度の言葉には 昨夜とは違う色があった。悔しさではない。納得だ。
「次は もっと 醜く 指る」
かやは ほんのわずか 口元を緩める。
「それでよい。盤は 醜い手を 嫌わぬ」
火が はぜる。
盤は まだ そこにある。
この一局は凛を 折らなかった。
むしろ一段 深く盤の中へ引き込んだ。
みよは 盤を見ていなかった。
兄と かやの言葉だけを 聞いていた。
「……それって」
小さな声だった。誰に向けたともつかない。
「兄ちゃんが負けたのは 歩を見なかったからじゃないよね」
凛が ぴくりと 肩を揺らす。
みよは 続ける。
「逃げ道が一つになるって 分かってたのに そこに進んだんでしょ」
盤に 目を落とし そして 兄を見る。
「勝てるかもしれない形を 捨ててでも
“勝ってる感じ”が欲しかった」
凛は 何も言えない。
みよは かやを見る。将棋の作法も 敬語も 知らない。ただ 真っ直ぐだ。
「この人 強い。だから 兄ちゃん
負け方を 自分で選んだんじゃない?」
空気が 凍る。
晴道は 息を呑む。
それは 盤面の話ではない。
凛は ゆっくりと 笑った。
「……ほんま やな」
額を 押さえる。
「逃げて 勝つより
切り込んで 負ける方を 選んだ」
かやは みよを見る。
「良い目を している」
みよは 首を振る。
「将棋は 分からない。でも 兄ちゃんが
“一番気持ちいい負け方”を選んだのは 分かる」
凛は 盤を見る。
あの歩は盤の端でただ そこに いただけだ。
「……あれを 見るのが 怖かったんやな」
勝てない未来を認める 一手だったから。
かやは 静かに 言う。
「将棋は 未来を見る遊びだ。
見たくない未来から 目を逸らした時
盤は 必ず 罰を与える」
みよは 兄の袖を 引いた。
「次はさ 負ける未来も 見ようよ」
凛はその言葉に初めて深く 頷いた。
盤の上にまだ 可能性が残っていると知った顔で。
――回想。
遠くの村にいる。名もない。地図にも残らない。
俺は縁側みたいな板に腰を下ろして空を見ていた。
あいつは今頃何をしているんだろう。
盤の前か。人の視線の真ん中か。
それとも夜更けに一人で駒を並べ直しているか。
かやは考える時 いつも静かだ。
妾は と言いながら
誰よりも盤を動かすのは大胆で
一手を置いた後は振り返らない。
あの城下町で初めて将棋を見た時もそうだった。
勝っているのに楽しそうじゃなかった。
勝つためじゃない。
もっと先を見ていた。
時々 思う。
もし今 俺があいつの隣にいたら
かやは どんな一手を選ぶだろうか。
俺を飛車として使うのか。
それとももう俺など要らない盤に辿り着いているのか。
風が吹く。
遠くで犬が鳴く。
――才ある子。
そんな噂が またどこかで立っている気がした。
盤の上でかやはもう俺の知らない景色を
見ている。そう思うと
少しだけ誇らしくて少しだけ寂しかった。
俺は 元家臣たちと 城を起こす。
焼け落ちた石垣を 積み直し 朽ちた梁を 外して 新しい木を通す。手は覚えていた。戦場で 馬を降り 指揮を執り 血と土にまみれていた あの頃のままに。
だが 今は 叫ばない。
号令も 要らない。
皆 何も言わず 動く。
それで 足りる。
かつて ここは 命を奪うための 場所だった。
今は 違う。
この城は 守るために 建て直す。
名のためでも 旗のためでもない。
かやが 帰ってきた時
雨をしのげる場所であればいい。
火を囲める夜が あればいい。
盤を広げられる静けさが あれば それでいい。
あいつは もう 戦っている。
剣ではなく血でもなく盤の上で。
なら 俺は 待つ側だ。飛車は 動かない。盤の端で帰りを 待つ。
夕暮れに 風が吹き抜け城の骨組みが 軋む。それでも 崩れない。俺たちは まだ ここにいる。
かやが いつ帰ってきてもいいように。
俺は 今日も 静かに 石を積み何も言わず待ち続ける。
晴道は 目を輝かせている。
凛は 悔しそうに笑い
みよは かやの袖を掴んで離れない。
皆 勝利を見ている。
終わった盤を 見ている。
かやだけがまだ 盤を見ていた。
もう動かない駒。
意味を失った配置。
それでも 目は そこから離れない。
次に どこで 崩れるか。
もし 相手が違えばもし 一手が早ければ。
勝ったはずなのに胸が 少しだけ 冷える。
晴道が 何かを言っている。凛が 何かを投げてくる。みよが 笑っている。
それを 受け取りながら
かやは 思う。
――また 一人 先に 行ってしまった。
妾は 強くなるたび人と 少しずつ歩幅が ずれていく。
盤の上では誰よりも 近いのに盤を離れると誰よりも 遠い。
かやに 一通の文が届く。
薄い紙 乱れのない筆。
差出人の名は 書かれていない。
だが読まなくても わかる。
久世の字だ。
かやは 文を開く。
――かや。
勝っているだろう。
負けていないだろう。
それだけは 盤を見ずとも わかる。
強くなればなるほど
周りは 近づく。
だが 同時に
同じ速さで 歩ける者は 減る。
それは お前が 冷たいからではない。
先に 行ってしまうだけだ。
盤の上では最後に 気づいた歩が
すべてを 決めることがある。
誰も見ない場所に何もしていないようにただ 立っている駒。
お前は
ああいうものを
見捨てぬ。
だから
孤独になる。
それでいい。
それが 将だ。
戻る場所はここに ある。
急ぐな。
勝ちすぎるなとも 言わん。
ただ 盤を降りた時一人だと思うな。
飛車はまだ動いておらぬ。
文は そこで 終わっていた。
かやは しばらく紙を 畳めずにいた。
勝ち続けて一人になる感覚を言葉にされるのは初めてだった。
妾は独りでは ないのか。
かやは文を 胸にしまい静かに 盤へ向き直る。
次の 一局が少しだけ怖くなくなっていた。
凛は 盤を片づけ終えると 何も言わずに 外へ出た。
夕暮れの風が 町の埃を巻き上げている。
しばらくして 戻ってきた時
肩には 小さな袋を 背負っていた。
みよも 同じだった。
壊れかけの家の中から
使える物だけを 拾い集め
それ以上は 振り返らない。
行く先を 尋ねる者はいない。
理由も 口にしない。
凛は かやを見てただ 一度 頷いた。
みよはその袖を 引き小さく 笑った。
かやは 二人を 見る。
止めない。
確かめもしない。
盤の上でこの二人はもう 駒になっていた。
同行するという言葉は交わされなかった。
だが その夜火のそばに 座る人数が
一人 増え二人 増え
盤を囲む影が自然に 重なっていた。
勝ち続ければまた 一人になる。
それでも今は まだこの道を共に 歩く者がいる。
かやは そう思い文の言葉を胸の奥で そっと なぞる。
飛車はまだ動いていない。
その男は 町外れの小屋にいた。
戦の匂いが 抜けていない。鎧は 着ていないのに立っているだけで 場が 張りつめる。
片目が 潰れていた。布で 覆われもう 何も 映さない。
だが残った 片方は異様なほど 澄んでいる。
戦場で見えすぎるほど 見てきた目だ。
男は 盤を 見下ろしゆっくりと 笑った。
隻眼ゆえか視線は 盤の中央を 見ない。
端と 影だけを 追っている。
晴道はその視線にぞっとした。
凛は無言で 盤を 睨む。
かやは静かに 座った。
対局が 始まる。
男は攻めない 守らない。
ただ見ている。
見えない瞳が捨てられた代わりに
残った瞳が異常なほど 研ぎ澄まされている。一手ごとに盤の意味が 変わる。
かやは違和感を 覚える。読めている。
だが合わない。自分が 先を見ているつもりの場所に男はもう いない。
盤の外側からじわじわと包囲されていく。歩が意味を 持たない。香が効かない。そして気づいた時には王の周りに静かな 影が 落ちていた。
逃げ道はない。
かやの 手が止まる。
盤上で初めて 負けた。
男は何も 誇らない。
ただ片目で 盤を 見つめ一言 だけ 落とす。
「戦は見えぬ方で決まる」
かやは深く 礼をした。胸の奥がひどく 冷える。負けた。
それだけで世界が一段 広がった。晴道は声を 出せない。
凛は拳を 握る。
みよはかやを 見て
何も 言わない。
かやは
盤から 目を 離し
小さく 息を 吐く。
――妾は
まだ
見えておらぬ。
初めての 敗北は折れるためではなく目を 開くためにそこに あった。
盤が 片づけられ夜の気配が 近づく。
隻眼の男は勝者の顔を しなかった。
ただ盤の端に 置かれた駒を一つ 眺めている。
そして低く 言った。
「本物の戦場を知らぬ者に将棋で 勝つことは できぬ」
晴道が思わず 息を 吸う。
凛はその言葉を否定しなかった。
かやは黙って 聞く。
男は 続ける。
「駒は死なぬ。だが戦場では一手 遅れれば 人が 死ぬ」
「捨てたつもりの駒が戻らぬこともある」
「守ったはずの陣が一夜で 崩れることもある」
片目で十分だ。
見えぬ方に想像を 置く。
それが生き残った者の将棋だ。
かやは静かに 頷く。
反論は浮かばなかった。
盤の上で妾は命を失わせたことがない。それが今日はっきりと突きつけられた。
男は立ち上がり背を 向ける。
「負けたのは才ではない」
「経験だ」
その背中はもう戦場に戻らない。
だがかやの中に確かに一つの戦が始まっていた。
盤が片づけられても 夜はまだ深くならない。灯の揺れの中で 隻眼の男は腰を下ろしたまま しばらく黙っていた。勝者の余韻はなく ただ遠い場所を見ている。やがて 低く言う。
「本物の戦場を知らぬ者に 将棋で勝つことはできぬ」
その声は責めでも誇りでもなかった。事実を置くような調子だ。男は続ける。駒は死なぬが 人は死ぬ。遅れた一手で 名も知らぬ者が消える。守ったつもりの陣が 夜の間に空になる。見えぬ方に 想像を置けるかどうか それだけが 生き残った者の将棋だと。
そして男は ふと視線を上げ かやを見る。
「……久世の名を 知っておるな」
かやの胸が 小さく鳴る。男は頷いた。
「戦友だ。刃を交え 背を預け 同じ夜を越えた。あの男は 前に出ぬ。だが 盤が動く時 いつも一番端で すべてを受け止めていた」
見えない目が 記憶を掘り起こす。
「敵は 強かった。速い者も 多かった。だが 久世は 焦らぬ。相手が最も欲しがる一手を 与え その先で すべてを刈る。名を捨てる決断も 迷いなくな。勝っても 笑わぬ男だ」
かやは その言葉を 盤の形に置き換えて 聞いていた。飛車が動かぬ理由 香が端に立つ意味 歩が捨てられぬ理由。男の語りは 戦の話であり 同時に 将棋の話でもあった。
「お前は 強い」
男は言う。
「だが まだ 負けていないだけだ。久世は 負けを 背に積んで 進んだ。だから 見えぬ」
灯が揺れ 影が伸びる。かやは 深く礼をした。否定は浮かばない。久世の名は 今も 戦場の奥で 息をしている。妾は まだ その歩幅に届いていない。そう知れたことが 今日の収穫だった。
隻眼の男は 立ち上がり 背を向ける。
「負けは 才を削らぬ。視野を広げる。次に会う時 お前は もう一つ 見える」
夜が閉じる。かやは 盤に手を置き 目を閉じた。見えない一手を 想像するために。
あの隻眼の男と 盤を挟んで以来 かやの旅は 目に見えて変わった。勝つ局が 減ったわけではない。だが 勝ち切らぬ。詰めに行かない。気づけば 盤は どれも 引き分けで 終わる。
相手は 強豪だったり 名もない打ち手だったりする。どちらであっても 同じだ。かやは 一線を越えぬ。勝てる手を 見ていながら そこへ 駒を運ばない。代わりに 盤を ほどくように 指す。
晴道は 歯がゆさを 隠さない。勝てる。そう思える局面ほど 胸がざわつく。凛は 口を出さない。盤の外で 起きている変化を 見ているからだ。みよだけが 時折 首を傾げる。どうして 終わらせないのか と。
かや自身も わかっていた。勝てば さらに先へ 行ける。名は広がり 人は集まる。だが 勝った先に 何があるのかを もう 知ってしまった。見えないものを 見ようとするほど 勝ちは 遠のく。
引き分けは 逃げではない。盤の中に まだ 生きている駒が いる証だ。どちらも それを 殺さずに 置いたという事実だ。
夜 宿で 一人 盤を並べ直す。勝てた一手は いつも 同じ形で そこに ある。だが それを 置いた瞬間に 何かが 消える気がして 手が止まる。
――妾は
どこまで 見ようとしている。
答えは 出ない。
それでも 盤は 明日も 開かれる。
勝たぬ将棋が 続く。
名は 伸び悩み噂は 形を 変える。
それでも かやは歩みを 止めない。
引き分けの 盤の上で見えない 戦場を探し続けている。
引き分けの盤が 片づけられ 夜が 落ちる。勝った者も 負けた者も いない。残るのは 静けさだけだ。
かやは 宿の隅で 駒を 拭いていた。指は 落ち着いている。表情も 変わらない。だが 盤を 見る目だけが どこか 遠い。
みよが 近づく。膝を 抱えて 座り しばらく 黙る。そして 不意に 言った。
「それでも……楽しい?」
誰も 口にしなかった問いだった。晴道は 身じろぎ 凛は 目を伏せる。
かやの 手が 止まる。
楽しいか。
勝てなくても。
孤独になっても。
しばらくして かやは 駒を 盤に 置いた。答えは すぐに 出なかった。
「楽しいと 思っておらねば」
そう 言いかけて 言葉を 変える。
「……わからぬ」
みよは それ以上 聞かない。ただ うなずく。わからないまま 続けるのも 一つの答えだと 知っているように。
夜風が 吹き 火が 小さく 鳴る。
かやは 盤を 見つめ 低く 呟いた。
「妾はこの先を見てみたいだけだ」
楽しいかどうかはその ずっと 先に置いてきた。
夜が 更け 火が 小さくなる。誰も 口を 開かないまま 時だけが 過ぎる。
晴道が 立ち上がった。
勢いだけで 動いた足だった。
「……勝てるんです」
声が 少し 震える。
かやは 顔を 上げない。
「見えてるでしょう」
「詰みは そこに ある」
「なのに どうして 指さないんです」
言葉が 速くなる。止められない。
「勝てば 道は 開く」
「名が 上がる」
「将棋士として 生きていける」
晴道は 盤を 指さす。
そこには 何度も 見てきた 勝ち筋が ある。
「引き分けじゃ 何も 残らない」
「誰も 覚えちゃ くれない」
凛が 口を 開きかけ みよが それを 止める。
かやは しばらく 黙っていた。
そして 静かに 言う。
「残らぬか」
晴道は 言い返せない。
かやは 盤の端の 歩を 指で 弾く。
乾いた 音が 夜に 落ちる。
「妾は残したいものが変わった」
晴道の 胸が 詰まる。
「……俺は」
「俺は かやに 勝ってほしい」
それは尊敬でも焦りでも羨望でもあった。
「それでもだ」
かやは 晴道を 見る。
初めて 正面から。
「勝てば盤は 閉じる」
「妾はまだ開いていたい」
言葉が 重く 落ちる。
晴道は何も 言えず座り込む。
火が はぜ 夜が 深まる。
この旅で 初めて盤の外に明確な 亀裂が入った。
しばらく 誰も 動かなかった。火の音だけが 夜を つないでいる。
晴道が 盤の前に 座り直す。背筋は 伸びているが 指先は 少し 硬い。
「……一局」
声は 低い。
逃げ道を 用意しない言い方だった。
「俺と打ってください」
かやは 晴道を見る。
拒まない。
理由も 問わない。
盤が 置かれる。
駒が 並ぶ。
久しぶりにこの二人だけの将棋だ。
晴道は 攻めた。考える前に踏み込む。
勝つための 将棋だ。
かやは 受ける。
だが 以前のようには 受けない。
一手ごとに盤を 開ける。
晴道は初めて 気づく。
かやが詰ませに 来ていない。
勝ちを取りに 来ていない。
それでも負けない。
攻めは 通らず 守りは 崩れず盤は どこまでも広いままだ。
やがて晴道の 手が 止まる。勝てない。
だが読めない。かやは 駒を 置かず静かに 言う。
「ここでやめよう」
引き分けだ。
晴道は 盤を 見下ろす。
息が 詰まる。
「……これが」
「あなたの 見ている 盤ですか」
かやは 頷かない。
否定もしない。
「妾はまだ探しておる」
晴道は 唇を 噛む。
悔しさと理解が同時に 来る。
この人は
遠くへ 行こうとしている。
勝ちの 先へ。
負けの 外へ。
晴道はその背中を初めて見失った気がした。
晴道は 袖の中から 折り畳まれた 紙を 出した。
久世の 手紙だ。
盤よりも軽いはずの それがやけに 重く 見える。
「……久世は」
晴道は 一度 息を 吸う。
「将棋の 話なんかしてません」
かやの 目が わずかに 動く。
「勝ち方の話でもない」
「才能の話でもない」
晴道は 手紙を 開かない。
読む 必要が ないからだ。
「久世が 書いてたのは」
「あなたの 逃げ方です」
空気が張りつめる。
「引き分けを 選ぶのは楽だからじゃない」
「負けるよりずっと傷つかないからだ」
かやは 何も 言わない。
晴道は それでも 続ける。
「あなたは負けない」
「でも勝とうと しない」
「それって盤の外じゃただの拒否です」
ぴしり、と
音が した気がした。
「久世はそれを責めてません」
晴道は かやを見る。
まっすぐに。
「寂しいって言ってるだけです」
沈黙。
「弟子の 立場で言うのは生意気なのは分かってます」
それでも
晴道は 目を 逸らさない。
「でもあなたは盤でしか返事を しない」
「引き分けは対話じゃない」
「黙り込みです」
かやの 指が膝の 上でわずかに 揺れる。
「久世は勝ってほしかったんじゃない」
「本気でぶつかってほしかった」
晴道は
少し 声を 落とす。
「負けてもいいから」
「嫌われてもいいから」
「……それが出来なかったのがあなたです」
長い沈黙の あと。
かやは初めて視線を 落とした。
「妾は将棋しか知らぬ」
晴道は 即答する。
「知ってます」
「だから今 言ってます」
「弟子は師匠に勝ち方を教わる」
「でも」
「生き方は別です」
かやは何も 返さない。
だがその 沈黙はさっきまでの“引き分け”とは違っていた。
「……正直に言います」
晴道は 笑った。
それは いつもの 穏やかな 笑みじゃない。
「久世は」
「逃げたんじゃ ないですか」
凛が 息を 呑む。
みよが 晴道を見る。
「戦場からも」
「あなたからも」
その瞬間、かやの 指がぴたりと 止まった。
「強くて」「賢くて」
「でも 一番 大事な 所で盤を ひっくり返して帰った」
「……卑怯ですよ」
晴道は 肩を すくめる。
「師匠も」「あなたも」
空気が壊れる。
次の 瞬間。
「――黙れ」
低い。震えている。かやは立ち上がっていた。
「久世を語るな」
その 声は怒りを隠していない。
「妾は久世が何を 背負っていたか知っている」
晴道は逃げない。
「じゃあなぜあなたはここに いないんですか」
その 一言で
かやの 感情が
溢れた。
「……勝つたびに」
「誰かが遠ざかる」
「それでも指した」
「それでも前に 出た」
「妾はそれしか出来なかった!」
声が
割れる。
「将棋しか知らぬ 女に」
「他に何が あった!」
沈黙。
晴道は
深く 息を 吸って
頭を 下げた。
「……最低な 事を言いました」
「分かってて言いました」
そして
盤を 指す。
「だから」
「もう 一局お願いします」
「今度は引き分けは要りません」
かやは
盤を見る。
怒りがまだ消えていない。
だが その 目は久しぶりに燃えていた。
「……よかろう」
「弟子」
「妾は勝ちに 行く」
盤を挟んで、二人は向かい合った。
かやは静かだった。
先ほどまで胸を満たしていた怒りは、もう表に出ていない。だが消えたわけではない。深く沈み、澱のように底に溜まっている。
晴道は背筋を伸ばして座る。
指先が、わずかに震えているのを自覚していた。それでも視線は盤から逸らさない。これは無謀な勝負だ。勝てるとは思っていない。それでも指さなければならない局だった。
凛は、その空気に呑まれていた。
息をしていることすら忘れていた。
自分の額に汗が滲んでいることも、喉が渇いていることも、何一つ意識に入らない。ただ盤上だけが、異様な密度で視界を占めている。
――違う。
凛は気づく。
これは、これまで見てきた将棋と違う。
かやの将棋は、常に盤全体を支配するものだった。隙のない陣形、読み切った手順、相手に選択肢を与えない冷静さ。だが今のかやは、あえて揺れている。強い一手を打ちながら、どこかで晴道の動きを“待っている”。
教えるための将棋だ。
晴道は、必死に食らいつく。
癖はすでに見抜かれている。読みの深さでは到底敵わない。それでも、久世から聞いた話、旅の中で見てきたかやの背中、あの手紙の行間――それらすべてを頼りに、盤に向き合う。
「……ここだ」
晴道は、一手指す。
攻めでも、守りでもない。
一見すれば意味の薄い、回り道のような手。
凛は思わず息を止める。
その手は、かやがかつて見せた“勝つための将棋”ではなかった。むしろ、誰かと将棋を続けるための手だった。
かやの指が止まる。
ほんの一瞬。
だが凛には、それが異様に長く感じられた。
「……そう来るか」
かやは小さく息を吐く。
その表情に、わずかな戸惑いが混じる。
「晴道」
「それは、妾の将棋ではない」
「はい」
晴道は即座に答える。
「久世の将棋です」
その名が盤上に落ちた瞬間、空気が変わった。
凛ははっきりと感じた。
盤面の“重心”が、わずかに動いたのを。
これは勝負だ。
だが同時に、問いでもある。
――勝つために指すのか。
――それとも、誰かと指し続けるために指すのか。
盤を挟んで向かっているのは晴道のはずだった。
年若く、荒削りで、かやを師と仰ぐ一人の打ち手。久世を見たこともなければ、会ったこともない。それなのに、かやの目には、晴道の向こうに別の影が重なって見えた。
――久世。
あり得ないはずだった。
この手は晴道のものだ。読みも、迷いも、指の癖も、すべて晴道自身のものだ。それなのに、その一手一手が、かやの記憶の奥を静かに叩く。
勝ちを急がない。
相手を追い詰め切らない。
盤を閉じず、逃げ道を残す。
それは久世がよくやっていた将棋だった。
「……妙な手じゃな」
かやはぽつりと呟く。
その声に、凛ははっとする。かやが対局中に、こうした調子で言葉を漏らすことはほとんどなかった。
「勝ちに行くなら、別の手がある」
「それでも妾は、今の手を取らねばならぬ」
かやは自分に言い聞かせるように、駒を動かす。
晴道は唇を噛みしめる。
勝てないことは分かっている。それでも、この局で“何か”を残さなければならないと感じていた。
久世の手紙。
あの言葉の意味。
――勝つたびに、独りになるな。
晴道は、それを盤で示そうとしていた。
かやは、ようやく理解し始めていた。
なぜ自分が引き分けを重ねるようになったのか。なぜ勝つことが、以前ほど心を満たさなくなったのか。
久世と将棋を打った記憶はない。
それでも今、かやは確かに感じている。
これは晴道との勝負であり、同時に、久世との勝負でもあるのだと。
盤の上に立っているのは、三人だった。
局面は、いつの間にか晴道に押されていた。
攻めは鋭く、手順も途切れない。かやは受けに回りながら、根を張るように駒を残し続ける。崩れそうで崩れない。だが、確実に追い詰められていく。
凛は息を呑んでいた。
晴道がここまで盤を制圧する姿を、初めて見る。
かやは盤を見渡す。
詰みはまだ遠い。だが勝ち筋も見えない。ただ一手一手を繋ぎ、耐え、盤を延命させている。まるで、負けることよりも、この局を終わらせないことを選んでいるかのようだった。
そのとき、違和感が胸を刺した。
――動いていない。
かやの視線が、一つの駒に吸い寄せられる。
盤の端。
初手から、ほとんど位置を変えていない一枚。
飛車。
晴道の飛車は、まだ眠っていた。
あり得ないと かやは思う。
この局面で飛車を使わぬ理由はない。攻めに出れば、すぐにでも形勢を決定づけられるはずだ。それなのに晴道は、その駒だけを盤外の存在のように扱っている。
かやは、はっとする。
――使わないのではない。
――使えないのだ。
否。
違う。
――使う“時”を待っている。
胸の奥が、静かに疼いた。
飛車。
盤を貫き、流れを一変させる駒。すべてを動かす力を持ちながら、最後まで姿を見せない切り札。
久世。
かやの喉が、ひくりと鳴る。
晴道は、久世を知らない。
顔も、声も、剣を振る姿も見たことはない。それなのに、晴道の将棋には、確かに久世がいる。
かやは、ゆっくりと駒を持ち上げた。
この局の本当の勝負は、今からだ。
かやは形勢を引き戻していた。
受けに回っていたはずの駒が、いつの間にか前に出ている。晴道の攻め筋を一つずつ外し、要を抑え、盤の主導権を奪い返す。
凛は、思わず背筋を伸ばした。
これが、盤上の将――かやの本来の姿だ。
晴道は苦しくなっている。
表情に余裕はない。それでも手は止まらず、必死に応じている。だが、かやには見えていた。このまま数手進めば、晴道は確実に崩れる。
それなのに。
飛車は、動かない。
晴道は他の駒を差し出し、受け、逃げ、盤を広げる。勝ちを逃していることを、本人が一番よく分かっているはずなのに、その一枚だけは決して触れようとしなかった。
かやの胸に、奇妙な痛みが走る。
――何を、守っている。
勝負を捨てているのではない。
かといって、勝ちに行っているわけでもない。
晴道は、この一局に“意味”を残そうとしている。
かやは確信する。
晴道は、飛車を切れば勝てることを分かっている。それでも動かさない。久世がそうであったように、盤を壊す一手を、最後まで温存している。
勝つためではない。
終わらせないために。
「……厄介じゃな」
思わず、かやの口から言葉が漏れる。
自分が優勢であることは分かっている。
だが、この将棋は、ただの勝敗では測れなくなっていた。
久世がそうであったように。
晴道もまた、勝ちの先にあるものを見ようとしている。
かやは、盤を見つめながら、初めて思う。
――この飛車を、動かさせねばならぬ。
それが、この一局の本当の決着なのだと。
その時は、何の前触れもなく訪れた。
かやは、次の手を読んでいた。
受け。あるいは、細い抵抗。いずれにせよ、飛車はまだ動かない。そう確信した、その瞬間だった。
――違う。
盤の上で、空気が裂ける。
晴道の指が、迷いなく伸びる。
これまで触れられることすらなかった一枚を、掴み、盤の中央へ滑らせた。
飛車。
予想していた筋ではない。
攻めでも守りでもない場所。かやの読みの外側。誰も見ていなかった隙間に、刃を差し込むような一手。
凛は息を呑む。
それは荒い手だった。整えられた攻めではない。だが、確かに“流れ”を変える力を持っている。
盤が、鳴った。
かやの視線が、飛車に釘付けになる。
胸の奥が、ひどくざわついた。
――久世。
その手は、久世の将棋とよく似ていた。
勝ちを確定させる一手ではない。盤を壊すでもない。ただ、相手の思考を一歩、ずらすためだけの踏み込み。
晴道の息が荒い。
自分でも、なぜこの手を選んだのか分かっていない。それでも指は止まらなかった。
「……ようやく、来たか」
かやは、静かに呟く。
盤の上に立ち上がったのは、飛車だけではない。
久世の影と、晴道自身の覚悟だった。
この一局は、もう逃げ場のないところまで来ている。
かやは、即座に動いた。
迷いはない。飛車を止める。盤上に現れた異物を、これ以上進ませてはならぬ。
一枚、切る。
道を塞ぐ。
だが、飛車は止まらない。
晴道は、次の手をすでに用意していた。
受けられることを前提に、さらに先を見据えた策。かやが駒を置いたその瞬間、別の筋が開く。
飛車が、ずれる。
逃げるのではない。近づく。
「……」
かやの眉が、わずかに動く。
もう一度、止める。
より強く、より深く。盤面を歪める覚悟で、飛車の進路を断つ。
晴道は、また応じる。
駒を差し出し、捨て、形を崩しながら、それでも飛車を前に出す。
凛は、唇を噛みしめていた。
これは将棋ではない。押し合いだ。理屈の応酬ではなく、意志と意志が盤の上でぶつかっている。
かやは気づく。
――この飛車は、もう久世ではない。
晴道の飛車だ。
止めれば止めるほど、晴道は新しい道を見つける。
考えているのではない。必死に掴みにいっている。
飛車は、確実に近づいてくる。
王のいる方へ。逃げ場の少ない場所へ。
かやの喉が、わずかに鳴る。
「……見事じゃ」
誰にともなく、そう呟いていた。
全力で止めている。
それでも、押し返される。
この一局で、晴道は“追う側”ではなくなっていた。
飛車は、もう止まらなかった。
かやの受けは的確で、理にかなっていた。それでも晴道は、その理の外側を踏み越えてくる。駒を切り、道を歪め、盤そのものを押し曲げながら、飛車を王のもとへ運ぶ。
凛は、胸が苦しくなるのを感じていた。
これはもう、届く。そう思った。
だが、かやの表情は崩れない。
焦りも、恐れもない。
ただ静かに、その時を待っている。
晴道は気づいていなかった。
かやが、守りの中に一手だけ、異物を混ぜていたことに。
飛車が、ついに王の目前へ滑り込む。
盤が、凍りつく。
その瞬間だった。
かやの指が、初めて迷いなく、速く動く。
「……ここじゃ」
それは、これまで一度も意味を持たなかった駒だった。
攻めにも守りにも関わらず、誰の視線にも入らなかった一枚。
歩。
晴道の視界が、急に狭まる。
――あ。
遅すぎる理解。
飛車は王に届いた。
だが、届いたがゆえに、逃げ場を失っていた。
かやは、最初からこの場所を用意していた。
飛車がここに来ることを信じて、信じ切って、他のすべてを差し出していた。
「妾はな」
「止めるために受けていたのではない」
かやの声は、静かだった。
「来させるために、耐えておった」
盤上で、流れが反転する。
王は逃げない。飛車は退けない。
勝負は、この一瞬で定まっていた。
晴道は、肩で息をしながら盤を見る。
自分が追い詰めたはずの相手が、いつの間にか、自分をこの場所へ導いていたことを、ようやく理解する。
「……最初から、賭けてたんですね」
かやは、ゆっくりとうなずく。
「久世なら、必ず来る」
「お主も、必ず来ると思うた」
それは勝負の言葉であり、信頼の言葉でもあった。
盤の上で、最後に立っていたのは、
師でも、弟子でもなく、二人の打ち手だった。
かやは、ようやく息を吐いた。
胸の奥に溜め込んでいたものが、ゆっくりとほどけていく。
――勝った。
そう思った瞬間だった。
晴道は、まだ盤を見ていた。
肩で息をしている。だが、その目は、負けを受け入れた者のそれではない。
かやの心に、細い棘が刺さる。
……何かある。
改めて盤面を見る。
飛車は、確かに封じた。仕込んだ歩も生きている。理屈の上では、もう晴道に手は残っていない。
それでも。
――飛車は、本当に主役だったのか。
かやは、盤を最初からなぞり直す。
一手目。二手目。晴道が飛車に触れなかった理由。あの位置に残し続けた意味。飛車が動き出した“あの瞬間”。
違和感が、形を持ち始める。
「……まさか」
喉が、ひくりと鳴る。
飛車は、確かに脅威だった。
だが同時に、あまりにも分かりやすかった。
――見せるための攻め。
――視線を集めるための駒。
かやは、盤の隅に目をやる。
誰にも注目されていなかった一角。
動きは遅いが、確実に形を変えてきた流れ。
「……お主」
かやの声が、低くなる。
晴道は、まだ何も言わない。
ただ、盤の一点を見つめている。
その視線の先にあるのは、
飛車ではない。
この将棋は、まだ終わっていなかった。
凛は、口を開かなかった。
異変には、気づいていた。
だがそれを言葉にするには、まだ早い。いや、口にしてしまえば、この盤は壊れてしまう気がした。
凛は盤面を追う。
一手ずつ、静かに。頭の中でだけ、指し直す。
飛車は、確かに脅威だった。
だが晴道の手は、最初から飛車を“生かす形”ではなかった。守りも、連携も、どこか足りない。まるで――使い捨てる前提で置かれていたような。
では、何が動いていたのか。
凛は、視線をずらす。
盤の中央でも、王の周囲でもない。誰も注目しない、端の筋。
小さな変化。
だが、確実に積み重なっている流れ。
駒が前に出るたび、かやは一手、受けを強めた。
その受けは正しかった。正しすぎた。だからこそ、凛は違和感を覚える。
――受けさせられている。
晴道は、かやに考えさせる時間を与えている。
飛車で脅し、飛車で視線を奪い、その裏で、別の筋を静かに育てている。
凛の胸が、ざわつく。
もし。
もし、あの飛車が囮だったとしたら。
この局は、勝負ではない。
問いだ。
――盤上の将は、何を見る。
凛は、唇を引き結ぶ。
自分が気づいたことを、口にしないと決める。
これは、かやが辿り着くべき答えだ。
弟子と師の勝負に、第三者が割り込むべきではない。
凛は、ただ見守る。
盤の上で、静かに進行している“もう一つの将棋”を。
沈黙を破ったのは、晴道だった。
「……師匠」
その声は、ひどく落ち着いていた。
勝敗を語る声ではない。説明するための声でもない。ただ、打ち手として向き合うための声だった。
「飛車は、囮でした」
かやの視線が、ゆっくりと上がる。
晴道は盤を指さす。
派手さのない、盤の端。
「本命は、こっちです」
香車。
一直線にしか進めない。
戻れない。横にも行けない。飛車の下位互換と呼ばれる駒。
「飛車は、全部を壊せます」
「でも、壊すだけです」
晴道は、静かに言葉を選ぶ。
「香車は、行くと決めたら、止まりません」
「戻れないからこそ、相手に“いつか来る”って意識を植え付けられる」
凛は、息を詰めた。
それは理屈だった。だが同時に、生き方の話でもあった。
「師匠は、飛車を止めに来た」
「だから、香車が育った」
かやの胸が、わずかに揺れる。
香車は、確かにそこにいた。
ずっと前から。だが妾は、見ていなかった。
「久世さまの手紙を読んで、分かったんです」
晴道は、かやを見た。
「勝つための将棋は、もう師匠は持っている」
「だから僕は、負けても残る将棋を指したかった」
香車は、派手ではない。
だが、最後まで盤に残り続ける駒だ。
かやは、目を伏せる。
「……見事じゃ、晴道」
それは、勝者の言葉ではなかった。
師が、弟子を一人の打ち手として認めた言葉だった。
盤の上には、まだ駒が残っている。
だがこの一局は、もう終わっていた。
夜が明けた。
長い影を落としていた盤の上に、朝の光が差し込む。駒は動かされないまま、そこに残っていた。勝負は終わっている。それだけは、誰の目にも分かった。
みよは眠そうに目をこすりながら起きてくる。
盤を見て、凛の顔を見て、不思議そうに首を傾げた。
「……終わったん?」
凛は、ゆっくりとうなずく。
「終わった」
「で、どっちが勝ったん?」
その問いに、凛はすぐには答えなかった。
盤に視線を落とし、あの夜の流れを、もう一度だけ胸の中でなぞる。
飛車。
香車。
止める手と、進み続ける手。
どこで勝敗が決まったのか。
いや、そもそも、勝敗などあったのか。
「……分からへん」
凛は、そう言った。
みよは目を丸くする。
「分からへんって、あんた見てたんやろ?」
「見てた」
「でもな」
凛は、少しだけ笑った。
「あの勝負は、打ってた二人にしか分からん」
みよは盤を見る。
動かない駒たち。夜を越えてなお、何かを語り続けているような配置。
「ふうん」
それ以上、みよは聞かなかった。
盤の前には、もう誰も座っていない。
けれど確かに、ここには戦いがあった。
勝った者も、負けた者も、
それを名乗る必要のない戦いが。




