第一部 盤面の将
戦が続く世だというのに、俺の家は不思議と恵まれていた。
米は取れ、蔵もあり、村の中では「裕福な農家」と呼ばれる部類だと思う。
だからだろう。
近頃、夜になると畑が荒らされるようになったのは。
足跡は小さく、作物は必要な分だけ抜かれている。
獣にしては妙に几帳面で、人にしては気配が薄い。
噂が広がる前に決着をつけようと、俺は鍬を手に夜の畑へ張り込んだ。
月が雲に隠れ、辺りが沈黙に包まれた頃。
微かな衣擦れの音がした。
――そこにいたのは、盗賊でも浪人でもなかった。
泥だらけの手で芋を抱え、逃げることもできずに立ち尽くす、
まだ十にも満たないであろう少女。
怯えた瞳が、闇の中で俺を見上げていた。
その瞬間、俺は理解してしまった。
この出会いが、ただの盗み話で終わらないことを。
俺が名を名乗るより先に、少女は膝から崩れ落ちた。
逃げようとも、叫ぼうともしない。ただ、土の上で小さく震えている。
「……盗んで、ごめんなさい」
声はかすれていて、夜露みたいに消えそうだった。
叱る言葉を探していたはずなのに、喉から出たのは別の問いだった。
「家は……どこだ」
少女は一瞬だけ顔を上げ、それからゆっくり首を振った。
「……もう、ない」
それだけで十分だった。
戦の話は、この辺りでは珍しくもない。
村が焼け、家族が散り、行き場を失った子が山に消える。
そういう話を、俺は何度も聞いてきた。
「父も、母も……弟も」
少女は指を握りしめ、言葉を選ぶように続ける。
泣きはしない。ただ、感情を落とす場所を失った声だった。
「逃げてきたけど、もう、どうしたらいいか分からなくて……お腹が、すいて」
月明かりに照らされたその横顔は、まだ子どもだった。
戦の理屈も、世の仕組みも知らない年頃だ。
そうか…(鎌を持つ)
(身構えるように後ずさりし、怯えた目で鎌を見つめる)
待て...! 許してくれ...! 妾はただ生きたかっただけじゃ...(声が震え、目に涙が浮かぶ)
どこから来たんだ?
(一瞬、虚勢を張るように顎を上げるが、すぐに肩を落とす)
...どこの者でもない。ただの...かやじゃ。今は...どこにも属しておらぬ。(泥だらけの袖で顔を拭う)
(不信感と恐怖が入り混じった表情で、じっと見つめる)
何じゃ...妾を殺すのか?それとも...(声が小さくなり、震える手で自分の腕を抱きしめる)
俺は少女に背を向け、家の方角を指さした。
「ついてこい」
一瞬、聞き間違いかと思ったのか、少女は動かなかった。
(驚いたような表情で目を見開き)...家に?なぜじゃ?(警戒しながらも、空腹と疲労から力が抜けていく)
「腹減ってるんだろ、飯食うぞ」
(目を見開き、疑いと希望が入り混じった表情で)...本当に?罠ではないのか?(おずおずと前に一歩踏み出す)
それでも俺が歩き出すと、少し遅れて、草履の擦れる小さな音が続いた。
夜道は冷えた。
家に着くと、囲炉裏に火を入れ、残り物の飯を温めた。
味噌を溶き、芋を刻み、粗末だが腹は満たせる。
「……食え」
椀を差し出すと、少女は恐る恐る受け取った。
そして一口。
次の瞬間、堰を切ったように食べ始めた。
音を立てるのも構わず、こぼしながら、必死に。
止める気にはなれなかった。
どれほど腹を空かせていたのか、見れば分かる。
俺はただ、火の番をしていた。
(目の前に並べられた料理を見て、目を丸くする)
こ、これは...!(恐る恐る箸を取り、一口食べると涙がこぼれる)
なんと...美味い...!こんな食事、何年ぶりじゃ...
「急いで食べるな、飯は逃げん」
(口元を手で隠しながら、恥ずかしそうに視線を落とす)
す...すまぬ。長い間、満足に食せなかったもので...
(それでも手は止まらず、次々と口に運ぶ)
翌朝、鶏の鳴き声で目を覚ました。
囲炉裏のそばを見ると、少女はまだ丸くなって眠っている。
寝顔は年相応で、昨夜の怯えが嘘みたいだった。
朝餉の支度をしていると、少女は物音に気づいて起き上がった。
きょろきょろと辺りを見回し、ここがどこか確かめるような顔をする。
「……夢、じゃない」
小さく呟いた声が、妙に胸に残った。
飯をよそい、二人で黙って食う。
昨日ほどがっつくことはないが、それでも箸は止まらない。
しばらくして、俺は椀を置いた。
「なあ」
少女の肩が、びくりと揺れる。
「この先、どうするつもりだ」
少女は俯いたまま、首を振った。
「……分からない。
村に戻るところも、行くところも、ない」
予想していた答えだった。
それでも、言葉にされると重い。
少し間を置いてから、俺は続けた。
「俺の家で、しばらく――
いや、望むなら、このまま一緒に住まないか」
少女は顔を上げた。
驚きと戸惑いが混じった瞳で、俺を見る。
「……どうして」
真っ直ぐな問いだった。
理由を並べようと思えば、いくらでも並べられる。
だが、口から出たのは、ひどく単純な言葉だった。
「放っておけん」
一瞬、沈黙が落ちる。
囲炉裏の火が、ぱちりと鳴った。
「働けとは言わん。
腹が減ったら食え。
眠りたけりゃ眠れ」
そこまで言ってから、少しだけ声を落とす。
「……ただし、ここでは生きろ」
少女の目に、ゆっくりと涙が溜まった。
声を殺して泣くでもなく、ただ、ぽろりと零れる。
(驚いて顔を上げ、目を見開く)
ほ...本当か?妾を...置いてくれるのか?
(半信半疑ながらも、わずかな希望の光が瞳に宿る)
「ああ」
短く答えると、少女は何度も頷いた。
その日から、家にもう一人分の気配が増えた。
戦の世で、それがどれほど危うい選択か――
俺は、まだ深く考えないことにした。
ただ、この小さな命を、
今度こそ、奪われないようにしたかった。
朝の支度を終えたあと、俺はふと、かやの姿に目を留めた。
昨夜の泥が落ちきらない着物。袖口も裾も、ところどころ黒ずんでいる。
本人は気にしていないのか、囲炉裏の前で正座し、静かに手を揃えていた。
その様子が、かえって痛々しい。
「かや」
呼ぶと、すっと顔を上げる。
「その服……替えがないだろ」
一瞬、言葉に詰まったあと、かやは小さく頷いた。
「戦の折に、ほとんど…それに…」
(自分の襤褸切れのような着物を見下ろし、恥ずかしそうに身をすくめる)
これしか...持ち合わせがないのじゃ...
それ以上は聞かなかった。
俺は立ち上がり、外の空を一度見てから言う。
「近くの城下町まで行くか。
着るものくらい、揃えよう」
かやは目を見開いた。
「町、へ……?」
「ああ。
別に、たいそうなものじゃなくていい。
今のままじゃ、動くにも寒いだろ」
しばらく黙り込んでいたかやは、
やがて、遠慮がちに口を開いた。
「……妾、迷惑では」
「迷惑なら、最初から家には入れてない」
そう言うと、かやは少しだけ口元を緩めた。
ほんの一瞬の、子どもらしい表情だった。
「ありがとうございます」
その礼の仕方が、やはり武家の娘だった。
城下町へ行くとなれば、人目もある。
余所者だと気づかれるかもしれないし、
戦の名残が、どこで顔を出すかも分からない。
それでも――
泥にまみれたまま、この家で生きさせる気はなかった。
「昼前に出る。
迷子になるなよ」
「……はい。妾、そなたの後ろを歩きます」
その言葉を聞いて、
俺は妙な責任を背負った気がした。
守ると決めた以上、
もう、引き返すことはできない。
城下町に入ると、人の気配が一気に増えた。
行商の声、鍛冶の音、馬のいななき。
戦の世でも、町は町として息をしている。
かやは俺の半歩後ろを歩き、周囲を静かに見回していた。
目は落ち着いているが、どこか張り詰めている。
呉服屋の前で足を止め、俺は懐に手を入れた。
そして、紐でまとめた銭を取り出す。
「これ」
かやの手のひらに、ぽとりと落とす。
「一貫だ。
好きなだけ買うといい」
かやは、しばらくそれを見つめて固まっていた。
次の瞬間、慌てて両手で包み込み、首を横に振る。
「……多すぎます」
「足りないよりいい」
「ですが、妾は――」
「かや」
名を呼ぶと、言葉が止まる。
「今は、遠慮する立場じゃない。
着るものは生きるために要る」
かやは唇を噛みしめ、しばらく俯いていた。
やがて、意を決したように顔を上げる。
「……必ず、無駄にはいたしません」
その言い切り方が、十の子のものじゃない。
武家の家で、金の重みを教えられてきたのだろう。
「それでいい」
そう言って背中を押すと、
かやは小さく一礼し、呉服屋の暖簾をくぐった。
店の奥から、布を触る音が聞こえる。
派手な色には手を伸ばさず、
丈夫で、動きやすそうなものを選んでいるのが分かった。
しばらくして戻ってきたかやは、
銭を減らした包みを、きちんと揃えて差し出した。
「……余りました」
「取っておけ」
「いえ」
強くはないが、譲らない目。
「妾が、ここで生きるための分だけで十分です」
その言葉を聞いて、
俺は思った。
この少女は、守られるだけの存在じゃない。
共に生きようと、もう覚悟を決めている。
城下町の喧騒の中で、
俺は一つ、決めたことがあった。
この先、
この子を「拾った」などとは、決して言うまい、と。
「かや」
(名前を呼ばれ、で顔を上げる)
なんじゃ...?
「呼んでみたかっただけだ」
(少し困惑した表情で首を傾げる)
変な...お方じゃな。妾の名を呼ぶだけで満足なのか?
「満足だ」
(不思議そうな表情で、少し笑みを浮かべる)
変わった御仁じゃ...。でも、悪くはない。(食事を終え、立ち上がる)そろそろ行くか?
帰り支度をしようと歩き出した時、
人だかりの端に、見覚えのある盤が置かれているのが目に入った。
将棋だ。
低い台の上に盤を広げ、
町人と浪人らしき男が向かい合っている。
周囲では、勝敗を見守る声が小さく渦を巻いていた。
「……ほう」
思わず足を止めた、その時だった。
かやの歩みも、ぴたりと止まる。
視線は、まっすぐ盤の上。
駒の動き一つ一つを、逃さぬように追っている。
「将棋か」
そう声をかけると、
かやははっとして、こちらを見た。
「……失礼。妾、つい」
「好きなのか」
一瞬のためらい。
それから、静かに頷く。
「武家の子は、
剣の前に、盤を学べと……父が」
その言葉に、俺はもう一度盤を見る。
ただの遊びじゃない。
生き残るための術として、教え込まれたのだろう。
盤上では、勝負が佳境に入っていた。
一手、町人が駒を打つ。
かやの眉が、わずかに動いた。
「……その手は、甘いかもしれませぬ」
思わず、俺は聞き返す。
「どういう意味だ」
「次に角を切られます。
受けはありますが……形が崩れます」
ほどなくして、
浪人がその通りの一手を放った。
周囲が、ざわめく。
俺は、かやの横顔を見た。
そこには、怯えた少女の顔はない。
ただ、盤を読む者の、静かな集中があった。
「……お前、相当だな」
かやは、少し困ったように視線を落とす。
「嗜む程度にございます。
妾は……本来、前に出る者ではありませんので」
その言葉が、
妙に胸に引っかかった。
前に出る者ではない。
だが、盤の前では、
確かに戦を見ている。
将棋盤の上で繰り広げられる小さな戦を眺めながら、
俺は思った。
この少女は、
畑だけで生きるには、
あまりに多くのものを背負っている。
「……そこの嬢ちゃん」
勝負が終わり、人が少し散り始めた頃。
一人の町人が、冗談めかした声でかやに声をかけた。
「さっきから、ずいぶん手を読んでたみてえじゃねえか。
一局、どうだ?」
周囲が、くすりと笑う。
子ども相手の戯れ、そんな空気だった。
かやは一度、俺の方を見た。
許しを請うというより、確認するような目。
「……構わん」
そう言うと、かやは小さく一礼して、盤の前に座った。
「では、妾が先手で」
その言い方に、何人かが眉をひそめる。
だが、盤が始まれば、空気はすぐに変わった。
一手目。
静かで、無駄のない指し出し。
「……お?」
二手、三手と進むにつれ、
観客の声が少しずつ減っていく。
町人は汗をかき始め、
次の手を打つまでに、やたらと時間をかけるようになった。
「……参った」
数十手もいかぬうちに、町人は頭を下げた。
ざわり、と周囲が動く。
「次、俺が」
別の男が座る。
その男も、
その次の男も――
結果は、同じだった。
誰も、かやの玉に迫れない。
攻めはすべて読まれ、
逃げ道は最初から塞がれている。
「……なんだ、この子」
「駒が、全部罠みてえだ」
かやは勝っても、顔色一つ変えない。
勝ちを誇らず、負けを嘲らず、
ただ、盤を整える。
最後の一局が終わった時、
最初に勝負を挑んだ浪人が、低く息を吐いた。
「……武家だな」
その一言で、
空気が、ぴんと張りつめた。
かやは、わずかに目を伏せる。
「妾は……ただの、行き場のない者にございます」
浪人はそれ以上、踏み込まなかった。
だが、その視線は、
確かに“将”を見る目だった。
盤を離れたかやが、俺のそばに戻ってくる。
「……出過ぎましたでしょうか」
「いや」
そう答えたあと、
俺は少しだけ声を落とした。
「もう二度と、
軽い気持ちで近づく奴はいない」
かやは小さく頷き、
人混みから一歩、俺の影に入った。
その日の帰り道、かやはいつもより口数が少なかった。
将棋盤の前にいた時の鋭さが、嘘みたいに影を潜めている。
「……妾、少し目立ちすぎましたでしょうか」
「気にするな」
そう言ったものの、俺自身、胸の奥に小さな棘が刺さったままだった。
城下町というのは、噂が生まれるのが早い。
数日後、その予感は形になる。
村の寄り合いの帰り、
顔見知りの商人が、何気ない調子で言った。
「この前の城下町でよ、
妙に将棋の強い子どもがいたって話、聞いたか?」
俺は、足を止めなかった。
「さあな」
「なんでも、武家の作法を知ってるとかでな。
城の方でも、耳に入ったらしい」
城、という言葉が出た瞬間、
背中に冷たいものが走った。
商人は深く考えもせず、続ける。
「今どき珍しいだろ。
才のある子は、どこで拾われるか分からん」
その夜、家に戻ると、
かやは囲炉裏の前で将棋の駒を並べていた。
「……城、とは」
ぽつりと呟く。
「妾の家は、
あの城とは……縁の深い方に仕えておりました」
その声には、恐れよりも、諦めに近い色があった。
「見つかれば、どうなる」
「……才を試されます。
役に立つと判断されれば、
手駒にされるでしょう」
十の子が言う言葉じゃない。
俺は囲炉裏の火を強め、
しばらく考えてから言った。
「ここは、城から遠い。
俺がいる限り、簡単には触らせん」
かやは、少し驚いたように俺を見た。
「……なぜ、そこまで」
「畑を荒らした盗人だからだ」
そう言うと、かやは小さく笑った。
初めて見る、力の抜けた笑いだった。
だが、その夜。
家の外を通り過ぎる、
見慣れない足音が、一度だけあった。
犬も鳴かず、
ただ、様子を確かめるような気配。
俺は鍬を手に取り、
戸口に立った。
月明かりの下、畑は静かだった。
だが、確かに感じる。
この家は、
もう「ただの農家」ではなくなりつつある。
城は、
静かに、才ある子を探し始めている。
最初は、よそ者が一人増えただけだった。
村外れの空き家に、
旅の商人だと名乗る男が住みついた。
年の頃は三十半ば、物腰は柔らかく、
誰にでも愛想よく声をかける。
「薬草だよ、山で採れたやつだ」
「塩は要るか? 城下から仕入れた」
怪しむ者はいなかった。
戦の世では、人の流れなど珍しくもない。
だが、俺は違和感を覚えていた。
男は畑の様子をよく見ていた。
誰がどの田を持ち、
どの家に人手があり、
どこに“余裕”があるのか。
そして――
子どもを見る目が、妙に鋭かった。
ある日、かやが井戸端で水を汲んでいると、
男が声をかけた。
「利口そうなお嬢さんだね」
かやは、即座に一歩下がった。
その動きが、あまりに自然で、
俺は胸の奥が冷えた。
「妾は、ただの農家の子にございます」
丁寧だが、壁のある言い方。
男は気にした様子もなく笑った。
「へえ。
最近は、農家の子でも将棋が強いそうじゃないか」
一瞬。
かやの指が、水桶の縁を強く掴んだ。
俺はすぐに割って入る。
「その子は、字も読めん。
将棋なんぞ、知らんよ」
男は俺を見る。
値踏みするような目。
「そうかい。
いや、城下で妙な噂を聞いたもんでな」
それだけ言って、男は去った。
その夜、かやは囲炉裏の前で黙っていた。
将棋の駒も、今日は出てこない。
「……あの方」
ぽつりと、かやが言う。
「妾の父が申しておりました。
笑顔で近づく者ほど、
名と才を刈り取る、と」
俺は答えなかった。
答えが、もう分かっていたからだ。
翌日から、
村のあちこちで男の姿を見るようになった。
畑の手伝い。
寄り合いへの顔出し。
夜回りへの参加。
完全に――
村の一員として、根を下ろし始めている。
逃げ場は、
少しずつ、静かに削られていた。
囲炉裏の火を見つめながら、
俺は決めた。
このまま、
畑を守るだけの男ではいられない。
守るべきは、
もう作物だけじゃない。
――城は、
本気で、かやを探しに来ている。
夜が更け、外が完全に静まり返った頃。
俺は囲炉裏の火を落とし、戸口に目を向けた。
「かや」
名を呼ぶと、かやはすぐに姿勢を正す。
「……何か、ございましたか」
「先に言っておくことがある」
少しだけ、間を置いた。
この言葉は、戻せない。
「俺は――ただの農家じゃない」
かやの目が、揺れる。
「昔、名のある武士だった。
今は土を耕しているが……
剣の振り方も、人の殺気も、忘れちゃいない」
かやは、息を呑んだまま黙っていた。
やがて、静かに問い返す。
「……では、なぜ」
「戦に勝ったあとも、
人を殺す理由を探し続ける自分が、
嫌になった」
それだけ言うと、
外から、かすかな音がした。
――複数。
かやが、はっと顔を上げる。
「来ます」
「ああ」
俺は囲炉裏脇に立てかけていた布を外した。
中から現れたのは、
農具に偽装していた、一本の刀。
「奥へ行け。
音を立てるな」
「……承知」
その返事が、
すでに武家のそれだった。
次の瞬間、
戸が叩き破られる。
「城の御用だ!」
声と同時に、影がなだれ込む。
三人。
だが、足運びが揃っていない。
覚悟も、足りない。
「遅い」
俺は一歩踏み出し、
最初の男の懐に入った。
刃は振るわない。
柄で打ち、
体勢を崩し、
壁に叩きつける。
次の一人は、動きを読んでいた。
踏み込み、かわし、
床に伏せさせる。
残る一人が、息を呑む。
「……噂は、本当か」
「帰れ」
低く言う。
「今夜のことは、
何も見なかったことにしろ」
男は一瞬迷い、
そして、逃げた。
静寂が戻る。
俺は戸を閉め、
刀を布で包み直した。
奥から、かやが出てくる。
「……そなたは」
「武士だ」
短く答える。
「だが今は、
お前を守る農家だ」
かやは、深く頭を下げた。
「妾、理解いたしました」
顔を上げたその目には、
恐れはなかった。
「妾の才が、
そなたを再び戦に引き戻すなら……
それでも、ここにおりますか」
俺は、迷わず答えた。
「ああ」
そして、続ける。
「今度は、
守るために刃を抜く」
外では、
何事もなかったように夜風が吹いている。
だが、この家はもう――
城にとって、
無視できぬ場所になった。
夜が明けきらぬうち、
俺は縁側に腰を下ろし、空が白むのを眺めていた。
背後で、かやが静かに正座する気配がある。
「……先ほどの者たち」
かやが、ためらいがちに口を開いた。
「村の方々が、
まるで事前に察していたかのように、
戸を閉め、灯りを落としておりました」
よく見ている。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
「隠すつもりはなかったが……
今夜のことがあった以上、話しておこう」
振り返ると、
かやは背筋を伸ばし、聞く姿勢を取っていた。
「この村の民はな」
一拍置いてから、言う。
「皆、俺の元家臣だ」
かやの目が、大きく見開かれる。
「……家臣、とは」
「戦が終わったあと、
俺は名を捨て、刀を置いた。
だが、あいつらはついてきた」
田を耕す者。
牛を飼う者。
鍛冶を打つ者。
「武士として生きる道を失った連中が、
ここで“民”として生きることを選んだ」
かやは、ゆっくりと周囲を思い返すように目を伏せた。
「……皆、
動きが、無駄なく、
目配りが行き届いておりました」
「気づいていたか」
「いえ……
ただの農村にしては、
夜が静かすぎると」
俺は、わずかに笑った。
「夜襲を警戒する癖が、
抜けなくてな」
かやは、しばらく黙っていたが、
やがて、はっきりと言った。
「では……妾は、
この村に守られていたのですね」
「ああ」
否定しなかった。
「お前が将棋で目立った日から、
皆、動いていた。
間者が入った時点で、
夜の配置も変えている」
かやは、深く頭を下げた。
「……武家の娘として、
これほどの厚意、
身に余ります」
「なら」
俺は、はっきりと告げる。
「生きろ。
才を隠すな。
ただし――無駄に振りかざすな」
かやは顔を上げ、
その瞳には、覚悟が宿っていた。
「妾は……
この村の“守り”として、
在りたいと思います」
その言葉に、
俺は一瞬だけ、武士だった頃を思い出した。
「……いい答えだ」
外では、
村人たちがいつも通り、
畑に出る準備をしている。
だが今や、
この村は――
一つの小さな陣だ。
そして俺は、
再びその将となった。
守るために。
間者の夜襲から、三日が過ぎた。
村は表向き、何も変わらない。
畑は耕され、
水路は流れ、
笑い声も、いつも通りに聞こえる。
――だが、内側では違った。
家の奥、囲炉裏の前に、
俺とかや、そして数人の村人が集まっていた。
皆、かつて名を捨てた元家臣たちだ。
その中央に、
将棋盤が置かれている。
「……妾が、よろしいのでしょうか」
かやは、正座したまま盤を見つめていた。
駒には触れていない。
「ここでは、身分は関係ない」
俺は言った。
「お前は、最も先を読める。
それだけだ」
かやは、静かに息を整え、
盤の前に手を置いた。
「では……
これは“攻め”ではなく、
“探り”の局と考えます」
そう言って、
一枚の駒を動かす。
「間者は、力ずくで来ました。
つまり――
まだ、この村の正体を掴みきれていない」
村人の一人が、低く頷く。
「城は、確証を欲しています」
「はい」
かやは続ける。
「ならば、
こちらは“弱い村”を演じます」
次の駒を、そっと前に。
「畑の警戒を緩めたように見せ、
夜回りの人数も、あえて減らす」
「……囮か」
「はい。
ただし、捕らえません」
その言葉に、
皆の視線が集まる。
「逃がします」
かやは、はっきり言った。
「間者は、
『この村は、才ある子一人を抱えた農村』
そう報告するでしょう」
盤上で、
王の周囲に駒が集まっていく。
「城は、
力で潰すより、
“取り込む”手を選びます」
俺は、腕を組んだまま黙っていた。
――見事だ。
「つまり」
かやは、最後の駒を置く。
「城が動く前に、
こちらが“選ばせる”のです」
囲炉裏の火が、ぱちりと鳴った。
「……十の子の策とは思えんな」
誰かが、思わず漏らす。
かやは、少しだけ困ったように笑った。
「妾は……
戦が嫌いです」
その声は、静かだった。
「だからこそ、
盤の上で終わらせたいのです」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「この策、採る」
そう告げると、
村の者たちは一斉に頭を下げた。
かやは、驚いたように目を瞬かせる。
「……よろしいのですか」
「ああ」
俺は盤を見る。
「ここから先は、
お前が将だ」
かやは、一瞬だけ目を閉じ、
それから、深く礼をした。
「妾、
必ず――
この村を、戦場にいたしませぬ」
その言葉を聞いた時、
俺は確信した。
この子は、
命を捨てる将ではない。
命を――
残す将だ。
使者が来たのは、昼下がりだった。
太鼓も鳴らさず、
旗も掲げず、
ただ、馬一頭と供回り二人。
――あまりに静かだ。
畑仕事をしていた村人が、
誰ともなく手を止める。
それでも、誰一人、騒がない。
村の入口で、
男は馬を降り、深く一礼した。
「城主様の名代として参った。
この村の主に、お目通り願いたい」
声は柔らかく、
だが、断られる前提ではない。
俺が前に出るより早く、
かやが一歩、進み出た。
「主は、こちらに」
その声に、迷いはなかった。
使者の目が、
かやに向けられる。
一瞬の沈黙。
「……これは」
「村の将です」
かやは、そう言い切った。
使者は一度だけ、
俺を見た。
すべてを察した目だった。
囲炉裏の前に通すと、
使者は丁寧に座り、
懐から文を取り出した。
「近頃、城下にて
才あるお子がいると噂になっております」
かやは、黙って聞いている。
「城主様は、
その才を惜しみ、
学びの場を与えたいと」
――与える、か。
「衣食住は保証する。
師もつける。
将来は、
しかるべき立場も約束しよう」
村の者たちの空気が、
わずかに張りつめる。
使者は、
優しい顔のまま、
最後の言葉を置いた。
「これは、情けである」
その瞬間。
かやが、将棋盤に手を伸ばした。
盤は、すでに一局の形を成している。
かやは、その中央に、
静かに王将を置いた。
「妾からも、
一つ、お返しの問いを」
使者は、微笑んだまま頷く。
「城は――
駒を、守りますか」
一瞬、
使者の呼吸が止まった。
「それとも、
使い潰しますか」
盤上の王を、
かやは、動かさない。
「妾は、
この村で、
守られる側も、
守る側も、見てきました」
視線は、
使者ではなく、
村の者たちへ向けられている。
「城に行けば、
妾は生きられるでしょう。
ですが――
誰が、ここを守りますか」
沈黙。
使者は、
ゆっくりと息を吐いた。
「……答えは、
すぐには要らぬ」
立ち上がり、
深く一礼する。
「城主様は、
“選ばせる”おつもりだ」
去り際、
使者は俺にだけ、
小さく囁いた。
「名を捨てた将よ。
盤は、もう一つある」
馬の蹄の音が、
遠ざかる。
かやは、盤を見下ろしたまま言った。
「……来ます」
「ああ」
俺は答える。
「次は、
より大きな一手だ」
囲炉裏の火が揺れる。
盤上の戦は、
もう、始まっている。
使者が去ってから、二日後。
朝靄の残る頃、
村の入口に、再び馬の音が響いた。
今度は、ひとりではない。
村人が呼びに来て、
俺とかやは並んで外へ出た。
そこに立っていたのは、
鎧を身につけた一人の武士。
年は四十前後、
無駄な装飾のない甲冑だが、
長く戦場に立ってきた者の重みがあった。
「城主様家臣、
〇〇守に仕える者」
名乗りのあと、
武士は恭しく文を差し出した。
「これを」
封は、まだ破られていない。
だが、かやは一目で察したようだった。
「……軍が、動いております」
その言葉どおりだった。
村を囲む丘の稜線。
林の向こう。
畑の先。
気づけば、見張りの姿が増えている。
槍の穂先が、朝日に鈍く光る。
此度は、静かなるご対応、
まことに痛み入る。
さて、城下にて囁かれる
「才ある子」の噂、
ならびに、貴殿の村の在り方について、
城主様は深く心を砕かれておられる。
力を以て事を為すは、
互いに望むところではない。
されど、
城の威の下にある地にて、
城の知らぬ“陣”が生まれることも、
また、看過できぬ。
ついては、
才ある子を城へ迎え、
村はこれまで通り、
農村として存続する道を勧める。
拒むならば、
我らは“守り”として、
しばし、この地を預かる。
三日。
それが、城の待てる限度である。
文を閉じると、
空気が、はっきりと重くなった。
武士は穏やかな声で言う。
「村に危害を加えるつもりはない。
あくまで、守りだ」
――守り、か。
かやが、静かに一歩前へ出る。
「……妾から、
一つ、確かめてもよろしいでしょうか」
武士は、わずかに目を細めた。
「申せ」
「この配置」
かやは、
村を囲む丘と道を、
視線だけでなぞる。
「逃げ道を断ち、
物資の出入りを制し、
内側が動けば即応できる――
将棋で言えば、
“王手ではないが、受けを強いる形”」
武士の口元が、
ほんのわずかに歪んだ。
「……よく見ておられる」
「では」
かやは、はっきりと言った。
「これは、
話し合いではなく、
詰めの始まりにございますね」
沈黙。
武士は否定しなかった。
「三日後、
答えをいただく」
そう言い残し、
男は踵を返す。
馬に跨る直前、
振り返って一言。
「――盤の外で指す覚悟があるなら、
その才、城は欲する」
去っていく背中を見ながら、
かやは小さく息を吐いた。
「……妾の初仕事、
どうやら、
いきなり終盤のようです」
俺は、隣で答える。
「ああ」
村を囲む兵の気配を、
改めて見渡しながら。
「だが、
まだ詰んじゃいない」
かやは、ゆっくりと頷いた。
「三日……
その間に、
“第二の盤”を動かします」
風が吹き、
稲が一斉に揺れた。
小さな村は今、
城と対等に――
静かな一手を構えた。
三日という猶予は、時間ではなく盤面だった。
村を囲む兵は、道を塞ぎ、山を押さえ、川を見張った。
人の足と馬の脚で動くものは、すべて封じる配置。
戦を知る者が敷いた、無駄のない包囲だった。
だが、それは同時に――
人以外が通る余白を、くっきりと浮かび上がらせてもいた。
かやは、村の外れにある納屋に足を運んだ。
そこは元は倉だったが、今は誰も使っていない。
梁は高く、隙間風が通り、天井近くに小さな窓がいくつもある。
その中で、
羽音だけが、静かに満ちていた。
村人たちは多くを問わなかった。
ただ、言われた通りに動いた。
誰が餌を用意するか。
誰が水を替えるか。
誰が夜明け前に戸を開くか。
それらはすべて、
畑仕事や家畜の世話の延長として溶け込んだ。
兵の目には、
いつも通りの村にしか見えなかっただろう。
かやは、紙を広げた。
墨は薄く、文は短い。
読む者を選ぶ、符牒のような書き方。
城の動き。
包囲の配置。
指揮官の癖。
そして――
「才ある子」を餌にした懐柔であること。
最後に、
ほんの一文だけを添える。
それは、命令でも嘆願でもなく、
盤面の提示だった。
文は細く折られ、
小さな筒に収められる。
その筒は、
人の手ではなく、
羽の下へ。
鳥は、空を知っている。
道が塞がれても、
山が押さえられても、
空は、まだ誰のものでもなかった。
夜明け前。
霧が低く垂れた刻。
納屋の戸が、静かに開く。
羽ばたきが重なり、
影が一斉に空へ散った。
兵の誰かが空を見上げたかもしれない。
だが鳥は日常だ。
脅威には映らない。
それがかやの狙いだった。
包囲とは内側を孤立させるためのもの。
だが同時に外側にも同じ情報を与える。
ここに兵がいる。
ここが要衝だ。
ここが、城主の目が届かぬほど重要だと。
鳥はかつての家臣へ。
城に不満を持つ者へ。
様子見を決め込んでいた隣国へ。
それぞれ、違う空へ飛んでいった。
かやは、村の中央に立ち、
囲む兵の気配を、静かに感じ取っていた。
将棋で言えば駒は動かしていない。
だが、盤の外が動き始めている。
包囲は、完成した瞬間から、
崩れる準備に入っていた。
鳥の一羽は、東へ向かった。
山を越え、川を越え兵の目も城の網も
最初から存在しなかったかのように。
その大名は戦国の世にあって珍しいほど
動かぬことで名を知られていた。
力がないわけではない。
むしろ、兵も米も十分に持ち、
周囲から一目置かれる存在だった。
ただ――
決して先に駒を動かさない。
他が争えば距離を取り均衡が崩れれば、
その理由と構図を見極める。
盤面を読むことに徹した男。
鳥はその城の庭に面した廊下へ降りた。
そこは偶然ではない。
かつて、同じ場所で文を受け取った者がいる。
その記憶は、
血と主従で繋がっていた。
文を拾い上げた家臣は、
すぐに内容を理解したわけではない。
だが、読み返すうちに背筋に冷たいものが走った。
城の包囲。名を伏せた村。才ある子。そして
“盤を見よ”という無言の一行。
その文は、
助けを乞うものではなかった。
これは、問いだった。
――この配置を、どう見るか。
大名の前に文が置かれる。
男は、しばらく黙っていた。
畳の上に描かれた、
見えない盤面を眺めるように。
やがて何も言わずに文を裏返した。
それだけで家臣たちは悟った。
この村はただ守られているのではない。
誰かが意図的に“囲われている”。
囲う側が気づかぬうちに、
外へ情報を流し、
周囲の目を集めるために。
それができる者は、
そう多くない。
まして、
城の間者が常駐する中で。
大名は、ゆっくりと立ち上がった。
兵を集めるでもなく、
使者を走らせるでもない。
まず、
地図を広げさせた。
村の位置。
包囲の線。
城からの距離。
それらを眺め
男はようやく一言だけ落とした。
「……面白い」
それは、
好奇でも侮りでもない。
対局者を見つけた者の声だった。
一方、村では、
包囲に変化はなかった。
兵は立ち道は塞がれ夜は静かに更ける。
だが空だけは、
いつもより少し広く見えた。
かやは納屋の中で羽の減った止まり木を見上げ
何も言わずに目を閉じた。
盤上ではまだ駒はぶつかっていない。
だが――
次に動くのが城でないことだけは、
もう確定していた。
異変は戦ではなく噂として城に届いた。名もない農村に兵が張り付き道が塞がれ人の出入りが断たれている。その事実そのものが周囲の関心を呼び始めていた。包囲とは本来静かに終わるものだ。だが今回は逆だった。静かすぎるがゆえに不自然で理由を探らせる形になっていた。
城では改めて地図が広げられた。村の位置 兵の線 街道。どれも間違っていない。それでも盤が閉じていない感覚だけが残る。間者の報告は揃っているはずなのに外の動きが増えていた。商人の滞留 斥候の増加 他国の視線。偶然では済まされない重なりだった。
ここで城はようやく理解する。これは村との二者の話ではない。すでに第三者が見ている。しかも動かず待つ者だ。城が強く出れば強さを理由に動く。退けば弱さを理由に動く。どちらを選んでも主導は城にない。
命令は歪み始めた。包囲は解くな刺激するな。兵は動かすな備えは厚くしろ。矛盾した指示が重なり現場は迷い始める。将棋で言えば受けに回ったまま最善手が見えなくなった形だ。
一方で村は変わらない。畑は耕され夜は静かだ。その静けさこそが城を追い詰めていた。何も起きていないのに状況だけが悪くなる。城は悟ったのだ。問題は村そのものではない。この村をどう扱うかを誰かに見られていること。それ自体がすでに戦だった。
城は待てなくなった。第三者の視線があると分かった瞬間から包囲は守りではなく焦りに変わった。動かねば見られ続ける。動けば評価される。そう信じるしかなかった。
狙いは一つに絞られる。村ではない。兵でもない。かやだった。才ある子を押さえれば盤は崩れる。そう判断した。夜明け前 包囲の一角が静かに厚くなる。表向きは見回り 実際は一点突破の準備だった。
間者が動く。兵が忍ぶ。命は奪わぬ 捕らえるだけ。その命令が何度も念押しされた。城は理解していたのだ。ここで血を流せば見ている者が動く。だからこそ強引でありながら慎重という歪んだ手になる。
村の空気がわずかに変わる。音のない緊張。夜の闇が重くなる。だが村は騒がない。戸は閉じられ灯は減らされ人の気配が薄れる。それが偶然でないことを城は気づけなかった。
かやは納屋ではなく家の奥にいた。動かない。逃げない。捕らえに来ると分かっていても盤を見続けていた。相手が感情で動くとき形は必ず崩れる。それを待っていた。
そして夜 半刻。影が踏み込む。だが同時に別の影が動く。村の外 包囲のさらに外。人ではない動き。城が最も意識していなかった方向。
城は意地で一手を指したつもりだった。だがそれは詰めではない。盤を叩いた音に過ぎない。その音は遠くへ届く。見ている者に そして待っている者に。
この瞬間から城は理解することになる。かやを捕らえる戦はすでに遅い。捕らえようとした事実そのものが次の一手を呼び込んだのだと。
かやの一手は派手ではなかった。策でも罠でもない。盤上に最初から置かれていた駒をただ本来あるべき場所へ戻しただけだ。
夜の気配が歪む瞬間 俺は立った。鎧も号令もない。ただ戸を開けて外へ出る。それだけで村の空気が変わる。隠れていた元家臣たちが一斉に動くことはない。ただ立ち位置が変わる。視線が揃う。それだけで十分だった。
城の者たちは気づくのが遅れた。標的は少女のはずだった。だがその少女が動かしたのは自分自身ではない。盤を横断できる唯一の駒。一直線に状況を切り裂く存在だった。
俺が姿を見せた瞬間 包囲の意味が反転する。逃げ道を塞いでいたはずの配置がこちらの動きを助ける形になる。どこへ進んでも背後を取れる。どこで止まっても圧がかかる。将棋で言えば中央を制した飛車が盤全体を睨む形だ。
城の兵は踏み込めない。捕縛が目的だったはずなのに捕らえる側が縛られている。命を奪うなという命令が刃になる。強く出られない。退く理由もない。完全に止まる。
かやは奥で静かに盤を見ていた。自分は動かない。飛車を前に出した以上 次に読むべきは相手の恐怖だ。城は理解し始める。この村の核は少女ではない。少女が指す先にある存在そのものだと。
それだけで局面は終盤に入る。城はここで悟る。才ある子を捕らえるつもりが才ある将を盤上に呼び戻してしまったのだと。
夜が破れる。
俺が声を上げた瞬間 空気が弾けた。雄叫びというより合図だった。言葉ではなく記憶に刻まれた音。それを聞いた村の影が一斉に動く。潜んでいた者 伏せていた者 ただの農夫に見えていた者たちが一斉に兵へ飛びかかった。
押さえつける。倒す。武器を奪う。殺さない。ただ動きを止める。それだけが徹底されていた。城の兵は混乱する。命令が来ない。指揮官が見えない。包囲の中で包囲される形になる。
俺もその中へ踏み込む。考えるより先に体が動いた。槍を受け止め 肩で押し返し 足を払う。力任せではない。戦場で覚えた流れをなぞるだけだ。周囲の兵が崩れるたびに場が広がる。飛車が一直線に盤を切り裂くように。
城の者たちは理解し始める。これは農民の抵抗ではない。訓練でも即席でもない。かつて同じ陣で戦っていた者たちの動きだと。だからこそ恐怖が遅れてやってくる。
怒号が飛び交い 地面が踏み鳴らされる。夜の闇に形が溶け 人と人の境が曖昧になる。だが不思議と村は壊れない。家は倒れず 火も上がらない。すべてが制御された乱闘だった。
奥の家で かやはその気配を聞いていた。盤上では飛車が走っている。ならば今は読むだけでいい。相手が崩れる音を。
やがて城の兵は押し返される。逃げるでもなく進むでもなくただ止まる。これ以上動けば自分たちが危ういと本能で悟ったからだ。
乱闘は突然終わる。勝敗ではない。理解で終わった。城の兵は知ったのだ。この村は捕らえる場所ではない。踏み込んだ時点で負ける盤面だったと。
俺は息を整えながら立っていた。飛車はもう中央にいる。ここから先は相手がどう逃げるかを見るだけだ。
乱闘が収まったあと村には重い静けさが残った。兵は拘束され刃は取り上げられ包囲は形だけのものになる。逃げ道を塞いでいた線は今や自分たちを守るための壁だった。城はまだ状況を理解しきれていない。ただ一つ分かっているのは力で押さえ込む段階を越えたという事実だけだ。
夜明け前 かやは外へ出た。小さな体に似合わぬ落ち着きで地面を踏む。血の匂いも怒号もない。ただ盤面が整った空気だけがある。彼女は兵の前へ進み止まった。誰も止めない。止められない。
かやは文を差し出す。封はない。隠す必要がないからだ。そこに書かれているのは条件でも嘆願でもない。現状の整理と次の一手だけ。読む者に逃げ道を与えるための文だった。
そして顔を上げて一言だけ落とす。
「――王手にございます」
声は小さい。だがよく通った。兵の誰もが意味を理解する。捕縛は失敗した。力も通じない。さらに今 この場の出来事はすでに外へ伝わっている。動けば詰む。動かなくても詰む。選べるのは負け方だけ。
かやは続ける。
「妾は城を滅ぼす気はありませぬ。されど盤を壊されるのは好みませぬ。次に指す手は城が選ぶがよろしいでしょう」
それだけ言うと踵を返す。背を向けたまま迷いはない。飛車はすでに中央にいる。王は追い込まれた。あとは城が自分で理解する番だった。
夜が明ける。包囲は解かれていない。だが意味を失っている。城はようやく知る。これは反乱ではない。戦でもない。完全に読み切られた一局だったのだと。
城に戻った報せは一つの名を伴って広がった。主は黒田官兵衛。知将として知られ盤を読むことにかけては並ぶ者のない男。その名を聞いた瞬間 村の空気がわずかに変わる。勝ったという実感が誰の胸にも浮かばなかったからだ。
官兵衛は状況を聞き終えると怒りも動揺も見せなかった。包囲の失敗 捕縛の失策 村の異常な統制。そのすべてを静かに受け取り一つだけ理解する。これは力負けではない 読み負けだと。だが同時に彼は気づいていた。王手はかかっているが詰みではない。
盤はまだ残っている。第三者は動いていない。飛車は中央にいるが他の駒は見えていない。少女の才は確かだがそれは盤面を制しただけで戦を終わらせたわけではない。官兵衛はここで初めて微かに笑った。
一方 村では静けさが続いていた。勝利を祝う声はない。かやもまた浮かれなかった。王手をかけたことは理解している。だが相手が誰かも分かっている。知将は受けの中で最も危険な存在だ。詰みを避けながら別の盤を作る。
かやは夜空を見上げる。鳥はもう飛ばさない。今必要なのは待つことだと知っている。官兵衛もまた待つだろう。互いに次の一手を急がない。だからこそ戦は終わらない。
王手は確かに叩きつけた。だがそれは終局の音ではない。盤が広がり戦が別の形へ移る合図に過ぎなかった。
知将 黒田官兵衛。
盤上の将 かや。
この一局はまだ中盤に入ったばかりだった。
黒田官兵衛は報告を最後まで聞き終えると地図から目を離した。村の名 兵の配置 乱闘の経緯 少女の言葉。そのどれもが珍しいわけではない。だが組み合わさった瞬間 ひとつの形を成していた。官兵衛はそれを盤として見ていた。
包囲は悪くない。捕縛も判断としては理解できる。だが失敗した理由は明確だった。相手は駒を取らせに来ていない。こちらが駒を取りに来ること自体を狙っていた。動いた瞬間に形が崩れる配置。王手をかけられたのではない。王手をかけたと思い込まされたのだ。
官兵衛は少女の年齢を改めて確認する。十。数字だけを見れば戯言だ。だが内容がそれを否定していた。包囲を呼び水にし 情報を外へ流し 主力を温存したまま飛車だけを通す。その飛車も自らの手ではなく最初から置いてあったものを動かしただけ。これは才では済まない。視野の置き方が将だった。
官兵衛は静かに口を開いた。
「……あれは賢い子ではない」
家臣が息を呑む。
「盤を打つ者だ」
城を敵に回す恐れ。力で潰される可能性。第三者が動く危険。そのすべてを承知した上で王手を選んでいる。詰ませるつもりはない。相手を動かすための一手。知将同士でなければ成立しない読み合いだ。
官兵衛は少女の言葉を思い返す。王手にございます。あれは宣告ではない。確認だった。自分は今どこまで見えているか。こちらにそれが分かるか。官兵衛はその問いにようやく答えられた気がした。
「この戦は急げば負ける」
そう言って官兵衛は地図を畳ませる。兵を出す命令は出さない。使者も送らない。動かぬことで応じる。それが唯一の受けだと理解していた。
少女は将だ。
だがまだ一人だ。
官兵衛は心の中でそう結論づける。盤上に将が二人いるなら戦は成立する。だが将が増えた瞬間 盤そのものが変わる。官兵衛はその時を待つことに決めた。
そして小さく呟く。
「……面白い世になったものだ」
王手は受けた。
だが官兵衛はまだ玉を逃がす場所を残している。
この一局は
知将と盤上の将が互いを認めたところから
本当の形を持ち始めた。
黒田官兵衛の読みは正確だった。少女が将であること。包囲が逆用されたこと。盤がすでに城の外まで広がっていること。そのすべてを理解していた。だからこそ彼は動かなかった。急げば負ける。これは正しい判断だった。
ただ一つだけ 読み切れていない駒があった。
少女が動かした飛車。
その正体。
報告では名は伏せられていた。農に身を置く男。元は武を捨てた者。村に溶け込んだ存在。官兵衛はそれを「強い駒」だと認識していたが それ以上ではなかった。飛車は所詮 駒だ。将がいなければ脅威にはならない。そう盤の理が告げていた。
だが官兵衛は見落としていた。
その飛車は 駒ではなく盤そのものを知っている者だということを。
乱闘の報告を改めて読み返す。兵の制圧の速さ。無駄のなさ。命を奪わぬ判断。村を壊さぬ動き。即席の反撃ではない。長く戦を知る者の振る舞いだ。しかもそれを隠してきた。少女の一手があるまで。
官兵衛はそこでようやく気づく。
あの飛車は 将を補佐する駒ではない。
将を育てる側の存在だ。
官兵衛は静かに息を吐く。
「……なるほど」
少女の才が異常なのではない。
才が育つ環境が すでに整っていた。
盤を知る者が隣にいる。
戦を知る者が支えている。
しかもその者は 自分と同じ時代を生き
同じ修羅場を越えてきた可能性が高い。
官兵衛は初めて 玉の位置を意識する。
王手は少女の手によるものだと思っていた。
だが実際には
飛車が動く前提で組まれた王手だった。
それはつまり二人で指している盤だ。
官兵衛は小さく笑った。
「……厄介だな」
知将は知っている。
自分と同じ目線を持つ者が敵に回る危険を。
しかもその者は表に出ない。
少女を前に出し 自分は影にいる。
盤上の将とかつての将。
世代を違えた二人が 同じ盤を見ている。
官兵衛はここで初めて悟る。
この戦は読み合いでは終わらない。
人の在り方そのものを賭けた局になる。
「……王手は 受けた」
官兵衛はそう呟き
その先を言葉にしなかった。
詰みかどうかを決めるのは
これから盤に現れる
もう一人の将だからだ。
黒田官兵衛は名を探していた。
少女ではない。
飛車の方だ。
報告書を重ねる。村の記録を洗う。年貢の帳面 兵の配置図 かつて滅びた一族の名簿。どれも断片に過ぎない。だが断片は揃い始めていた。武を捨てた男。農に身を置く者。名を名乗らず命を奪わず村を守る存在。
官兵衛の指がある記録で止まる。
かつて戦で姿を消した将。
討死とされたが首は上がっていない。
その配下の多くが同時期に消息を絶っている。
偶然にしては揃いすぎている。
官兵衛は静かに目を閉じた。
盤の外に追いやられた将。
戦を捨てたのではなく
戦から身を引いた者。
そして思い出す。
乱闘の報告にあった一文。
号令はなかった。
だが全員が同時に動いた。
それは主を知る兵の動きだ。
官兵衛は一つだけ名を拾い上げる。
紙の上に書かれた古い文字。
今では呼ばれぬ名。
だが消えたわけではない名。
「……生きていたか」
声は低く 静かだった。
驚きよりも納得が勝っている。
少女が盤を読む理由。
飛車が躊躇なく走る理由。
村が一つの陣として機能する理由。
すべてが一つに繋がる。
官兵衛はようやく理解する。
自分は将と向き合っていると思っていた。
だが実際には
将を育てる将と相対していたのだ。
名を知ったところで
すぐに手は打たない。
それが官兵衛という男だった。
ただ一つだけ
その名を心に刻む。
次に盤が動く時
この名が表に出る。
官兵衛は地図を閉じ
静かに呟いた。
「……これは長くなる」
盤は最後まで詰まなかった。
王手は続いていた。互いに逃げ道を読み合い 次の一手を指さぬまま 時だけが進む。城は動かず 村も動かず 官兵衛もまた沈黙を選んだ。知将同士の戦は 最後に動いた者が負けることを知っている。
その均衡を破ったのは 盤の外だった。
朝霧が晴れる頃 村の外れに異質な音が重なる。足並みの揃った行軍。数は多くない だが整っている。旗は高く掲げられ 名を誇るでも威圧するでもない。ただここにいると示すためだけの軍だった。
第三者の軍。
包囲していた兵が最初に気づく。次に城が気づく。最後に官兵衛が状況を理解する。鳥が運んだのは情報だけではなかった。時間だった。判断を下すための猶予を与え その間に別の意思をこの地へ導いていた。
第三者の軍は踏み込まない。村にも 城にも向けて刃を向けない。ただ陣を敷く。それだけで十分だった。この盤はもはや二者のものではないと 宣言するために。
官兵衛は地図を見て ゆっくりと息を吐く。これ以上の一手は無意味だ。ここで動けば 読み合いは戦になる。戦になれば 勝っても負ける。知将はそれを避ける。
「……盤を畳む時か」
その言葉は命令ではない。結論だった。
城の兵に退きの合図が出る。包囲は解かれ 線は消える。誰も敗北を口にしない。だが誰も勝利とも言わない。これは負けではない。引き分けですらない。局の中断だ。
村は守られた。
城は潰れなかった。
第三者は力を示した。
かやは遠くの軍を見て 何も言わなかった。王手は終わった。だが詰みではない。盤は別の場所で 形を変えて続く。
俺は隣に立ち その背を見守る。飛車は役目を終え 再び影に戻る。それでいい。将はもう一人で盤を見る必要がなくなった。
この盤の戦いは ここで幕を閉じる。
だが戦そのものが終わったわけではない。
ただ舞台が移るだけだ。
知将 黒田官兵衛は去る。
第三者の軍は残る。
盤上の将 かやは 前を向く。
次に指される一手は
もうこの村ではない。
第三者の軍が陣を敷き 城の兵が完全に退いたあと 村には久しぶりに朝の音が戻ってきた。畑に立つ者 煙を上げる家 どれも昨日までと同じはずなのに 空気だけが違っていた。初めて守り切ったという実感が 皆の動きを静かに支えている。
かやは村外れの小高い場所に立っていた。小さな体で 背筋を伸ばし 遠くの地平を見ている。勝ち鬨を上げるでもなく ただ胸を張っている。その姿が不思議と誇らしげだった。
俺は隣に立ち 同じ景色を見る。
「……初めてだな」
そう言うと かやは少し遅れてこちらを見る。
「何がにございますか」
「勝ったって顔」
一瞬だけ かやは目を丸くする。すぐに視線を逸らし 咳払いを一つ。
「妾は 勝敗など意識しておりませぬ」
「嘘つけ」
そう返すと かやの口元がわずかに緩む。
「……王手をかけ 盤を畳ませた それだけにございます」
「それを勝ちって言うんだ」
かやは少し考えるように黙り それから小さく息を吸った。
「では……妾の 初勝利 ということで」
言いながら 両手を胸の前で軽く握る。その仕草が年相応で 思わず笑ってしまう。
「掲げるほどのもんか」
「掲げねば 忘れてしまいますゆえ」
かやは真っ直ぐに言う。
「勝てたという記憶を。妾は まだ将として 未熟。されど 勝ったという実感は 次の一手を指す力になります」
俺はその横顔を見て 頷いた。
「いい考えだ。じゃあ俺も一つ言っとく」
「何にございますか」
「今回は 俺の負けだ」
かやが驚いたように振り向く。
「なぜ」
「お前に盤を渡したまま 勝たせられた。飛車の役目としては 完敗だ」
しばらく黙ったあと かやは首を振る。
「……違います」
「ほう」
「妾が勝てたのは 飛車が盤を知っていたから。妾一人では 王手すら届きませぬ」
そう言って かやは少しだけ頭を下げる。
「将としての初勝利。されど それは二人の勝ちにございます」
その言葉を聞いて 俺は空を仰いだ。
「じゃあ 次はどうする 将様」
かやは少し照れたように それでも胸を張る。
「次は……詰ませます」
その声は小さいが 迷いはなかった。
初勝利を掲げる少女と
それを支えた飛車。
この日 村は静かに祝っていた。




