第95話『祈りの果てに咲く牙』
その頃――
エルフと獣人の戦場では、異様な光景が広がっていた。
ミュゼリアの放った、王家にのみ伝わる古き魔法。
その光は戦場全体を包み込み、暖かく、柔らかく、まるで春の陽のように降り注いでいた。
その場にいた兵も、獣も、人も、異種も。
皆が武器を落とし、膝をつき――涙を流した。
この魔法は、傷を癒す。
それは肉体だけでなく、心の傷さえも。
「……止まった……」
ミュゼリアは力尽きたように膝をつく。
「見事でした」
ギルが穏やかに微笑みながら、手を差し伸べた。
そのとき。
エルフ陣営の後方から、一人の男が涙を流しながら駆け寄ってくる。
「ミュゼリア様っ!! ご無事でしたかぁぁぁっ!!
このエルダン……嬉しくて嬉しくて……うぉぉぉぉ!!」
老体からは想像できない勢いで、涙と鼻水を撒き散らしながらエルダンが飛びつく。
「エルダン……心配をかけました……」
「ミュゼリア様ぁ! わしは嬉しくて嬉しくて!」
――が。
「それはそれとして……軍を動かしたことは、許しませんよ♪」
エルダンはギョッとした表情で固まり、次の瞬間、地面に頭を擦りつけた。
「冷静な判断が欠けておりましたぁぁ!! 申し訳ございませんんんん!!」
ミュゼリアはくすくすと笑い、そっと首を振る。
……平和が、戻ったように見えた。
だが、その静寂は長くは続かない。
獣人陣営の後方――。
待機していた“異形”の群れが、突如として咆哮を上げた。
次の瞬間、敵味方の区別なく牙を剥く。
「おい! あれを止めろ! 戦争は終わっただろ!」
ギルが怒鳴る。
だが獣人兵は首を振る。
「あんなの、俺らだって知らねぇ! 今日初めて見たんだ!」
「ならば指揮官のもとへ案内しろ!
これ以上、無駄な血を流させるな!」
だが返ってきたのは、さらに絶望的な言葉だった。
「レオニール様を……見てねぇんだ!
戦争中も、一度も顔を出してねぇ! どうすりゃいいんだよ!」
ギルは歯を食いしばり、拳を握る。
「くそっ……戦が終わったというのに、これでは……!」
背後からは悲鳴。
異形の群れが、再び戦場を血に染める。
前衛の兵が武器を構えれば、反射的にエルフたちも同じ動きを取る。
「静まりなさい!! 敵は異形! 目の前の獣人は敵ではないわ!!」
ミュゼリアの声は、混乱と悲鳴にかき消された。
そのとき――。
「お前らぁぁぁ!! 鎮まれぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!!」
怒号が、戦場を貫いた。
地が震え、風が裂ける。
誰もが、その声に動きを止める。
「ラグナドの兵よ!! 獣王の名の下に、誇り高き魂を示せ!!
部隊反転――神の道を外れし異形どもから、エルフを守れッ!!
俺に続け!!」
その声のする方を見ると――
ウルザールが、近衛兵を率いて異形の群れへと突撃していた。
その巨体が咆哮を上げ、
大地が鳴り、空気が震える。
獣人たちは、その背中を見て動いた。
一斉に部隊を反転させ、異形を食い止める盾となる。
ミュゼリアは拳を握りしめ、声を張り上げた。
「森の兵たちよ! 詠唱を開始しなさい!
ラグナドの勇士たちへ――支援魔法を!!」
両陣営が再び立ち上がる。
今度の敵は、憎しみではなく“狂気”。
戦場は、真の意味で――ひとつになった。
◆ ◆ ◆
異形は、一体一体が獣人を凌駕する高い身体能力と、
異常なまでの魔法耐性を持っていた。
さらに――複雑に混ざり合った種族の肉体から放たれる戦技は、もはや“戦い”ではなく“災厄”そのもの。
ウルザールでさえ、一体を足止めするのがやっと。
ギルも同じく、刃を交えるたびに地面を割りながら後退していく。
他の兵士たちは、前線が崩れた瞬間、次の者がすぐさま前へ。
それでようやく、ギリギリ陣形を保っているにすぎなかった。
エルフ側の魔法が絶え間なく降り注ぐ。
だが――動きが鈍る程度。撃退には程遠い。
エルダンは狼狽える。
「こ、これでは……このままでは…………!」
そう。
この戦況が意味するのは、獣人とエルフの共倒れだった。
ミュゼリアは、魔力切れの身体を無理やり動かし、治療と指示を繰り返す。
それでも治療を待つ者と、倒れゆく者は異常な速度で増え続ける。
ギルは歯を食いしばりながら、ウルザールを見た。
お互いが血まみれになりながら、必死に剣を振るっている。
それでも――わかっていた。
この均衡は、長くは保たない。
「だめだ……あんなの勝てるわけがねぇ……」
「もう終わりだ……」
兵士の中には、武器を落とし、膝をつく者すらいた。
ミュゼリアは祈る。
「なんでもいい……誰でもいい……どうか、助けて……!」
その瞬間――。
異形と連合軍の間に、氷壁が突如として立ち上がった。
「これは……?」
ミュゼリアが顔を上げたとき、氷壁の上から声が降る。
「目の前のゴミ共を駆逐し、主様への道を切り開くのです」
修道服の少女が、金の鎖を振るう。
鎖は光を放ちながら異形を拘束し――。
次の瞬間、フランスパンやフライパンなど、
武器と言えるのかも怪しい品々を手にした“市民軍”が異形を袋叩きにしていた。
「はぁぁぁぁっ!!」
「こっちも押せぇぇぇ!!」
「パンで殴るなっての!!」
戦場の常識が一瞬で崩壊する。
そして、その頭上を――雷光が駆け抜けた。
無数の閃光が異形を貫き、黒煙が吹き上がる。
「ん〜……あんまり美味しくないのだぁ〜」
雷の中心で、白い獣人の少女が頬を膨らませていた。
その横を、数えきれないほどのナイフが飛び交う。
刃が光を描き、その中心で、華やかなドレスを纏った少女が舞う。
「クーちゃん! なんでも食べちゃダメぇー!
それにしても……これ、キモいわねぇ!!」
エルフも獣人も、誰もが言葉を失った。
目の前の光景は、“戦争”ではない。
“神話”だった。
ギルはその中心に走り寄りながら叫ぶ。
「カナ様! 助けに来て――!!!」
次の瞬間、ギルの身体が弾丸のように吹き飛ぶ。
修道服の少女――カナは冷たい視線を向けた。
「これ如きに手こずるとは……修行が足りませんでしたか?」
「め、滅相もございませんっ!!!」
血まみれで起き上がるギルに、全員が凍りつく。
戦場に突如として現れた彼女たちは、まるで――神々の軍勢だった。
ウルザールは敵の猛追が途切れたのを確認し、膝をついた。
胸の奥が焼けるように痛い。
「……あの者たちは、一体……」
その横に、白い着物を纏った妖狐の女性が静かに並ぶ。
九尾が風に揺れ、冷気が漂う。
「あんさんらは、後ろで休んどったらええ……」
女性は淡く微笑み、扇子を開く。
「荷が、重そうやしなぁ……」
ウルザールはその言葉に、息を飲む。
次の瞬間、異形の群れが迫る。
「来るぞ! 俺の後ろに下がって──!」
だが、妖狐は一歩、前に出た。
「心配いらへん。……うちを誰と思っとるん?」
扇子がひと凪される。
氷が舞い、音もなく凍結が広がった。
目の前の異形が、一瞬で氷塊と化す。
後方まで続くその光景に、ウルザールは言葉を失う。
その直後。
ウルザールの頭上を、修道服の少女が通り過ぎた。
「邪魔です!」
手に持った銀のメイスが振り下ろされ、
氷塊ごと地面が沈み込む。
轟音と共に大地が陥没し、氷と血と肉が舞った。
「な……なっ!?」
ウルザールはその光景を、受け止めきれなかった。
修道服の少女――カナはウルザールに向き直る。
「あなたが、この場で一番強い獣人のようですが……違いますか?」
ウルザールは、喉を鳴らしながら首を縦に振る。
「そ……そうだが……」
カナは品定めするようにウルザールを見つめ、
小さく首を傾げた。
「そうですか。あまりに……あれなので、違いがいまいち分かりませんが」
ウルザールは、背筋に冷たいものが走る。
「ラグナドの王はどちらに?」
その声音には、命令とも祈りともつかぬ重さがあった。
ウルザールは唾を飲み込む。
「貴公は……何者だ?」
「申し遅れました」
少女は微笑み、胸に手を当てた。
「カナと申します。
シルヴァニア王国の国王――シュン様に仕える忠臣であり……
未来の嫁……きゃっ♡」
頬を勝手に赤らめたかと思えば、すぐに無表情に戻る。
「それで。シュン様はどちらに?」
「すまん……私にも把握はできていない。
ただ、最後の報告では――王城の地下に向かったと……」
カナはメイスを握りしめる。
「主様…………」
その一言に、氷のような殺気と熱が同居する。
そして、王城を見据えた。
「……行きます」
ウルザールが制止の声を上げるより早く、
彼女の姿は疾風のように駆け出していた。
その瞬間――
大地を揺らすほどの魔力の波動が、エルフ陣営の方角から迸る。
魔水晶が解き放たれた。




