第94話『黎明祈歌(れいめいいか)エル・ルミナリア』
エルフの軍勢は、ついにラグナド獣王国の目前へと展開した。
そして、最初に彼らの目を奪ったのは――
すでに、獣王国側の陣形が整っていたこと。
「……何だ、あれは……」
エルフ兵の一人が呟いた。
視線の先、獣人たちの後方――そこに、常識を超えた“群れ”があった。
異形。
異形の群れ。
獣人たちでさえ、背後のそれに警戒の視線を向けている。
だが、動かない。あれが“味方”である証拠だ。
「エルダン様……あれは……」
「……わからん。だが、あの姿……」
異形の中には、かつての同胞の輪郭すら見える。
腕や耳、そして肌の色。いくつもの種族が混ざり、歪に繋がれた姿。
「……あやつらめ。道を外しおったか。」
エルダンは杖を握りしめ、息を吐く。
そして、声を張り上げた。
「皆の者、よいか!」
「眼前におる敵は、生命を弄ぶ外道共だ!
情けは無用! ミュゼリア様を救い出し、この愚かなる外道に裁きを下せ!!」
軍が一斉に呼応する。
「第一、第二魔法師団――詠唱開始!」
「前衛隊、防衛の陣を張れ! 絶対に押し込ませるな!」
エルフ軍の戦法は古い。
戦技を使わず、詠唱魔法と陣形による正統戦。
外界と断絶された森の民だからこそ、その古き様式を貫いてきた。
しかし、獣王国側がそれを待つはずもない。
先頭の将が大地を踏み鳴らし、咆哮を上げる。
「カビ臭い森の民を潰せぇぇ!
我らが王国を守るのだ!
全軍、戦技使用を許可する! 喰い破れ!! 突撃ッ!!」
「「おおおおおおッ!!!」」
大地が鳴動した。
獣人たちが一斉に駆け出す。
『第三戦技《疾風》──!!』
『第四戦技《疾風斬り》!!』
刃と爪が閃き、瞬く間に距離が潰れる。
前線が激突した瞬間、衝撃波のような衝突音が戦場を包んだ。
エルフの前衛は、最初こそ耐えた。
だが、乱戦となった瞬間――その壁は、崩れ始める。
戦技。経験。身体能力。
すべてが獣人に劣る。押し込まれるのは時間の問題だった。
だが、それも計算のうち。
「……今だ。」
エルダンが杖を掲げ、詠唱を始める。
彼の声が、低く、重く、大地を揺らした。
――沈め、大地。
乾いた砂の理を棄て、腐れた水に身を委ねよ。
我が声は泥、我が息は瘴。
澄むことを忘れし黒き流れよ、いま再び満ちよ。
闇より濁りを呼び、濁りより命を蝕め。
花を腐らせ、根を縛り、空を曇らせよ。
澄みきる者を嫌い、清き者を溺れさせよ。
――輪廻は止まり、律は崩れ、全ての足は沈む。
逃れる者の息を奪え、抗う者の声を飲み込め。
世界の底を我が掌に変えん。
「泥沼よ、理を喰らい、命を沈めよ――《泥沼の詠唱・広域上級》!!」
ドウッ――!
地がうねり、前線の獣人たちの足元が一斉に沈み込む。
大地が黒い泥に変わり、足を取られ、体勢を崩す。
もがくたび、沼が喉元まで這い上がっていく。
「今だ!押し返せ!!」
エルフ前衛が反撃に転じる。
矢と魔力弾が一斉に放たれ、戦線が逆流する。
だが、エルダンはその場で膝をついた。
老いた体から、魔力が煙のように抜けていく。
「エルダン様!」
「構わん……ちと老体に無理をさせすぎただけじゃ……!」
「後方の魔道師団に詠唱を急がせろ! 戦は……まだ終わっておらん!」
その声に、軍が再び奮い立つ。
だが――戦場の向こう、異形の群れが蠢いた。
────────────
地鳴り。
鉄と血の匂い。
戦場に吹く風は熱を帯び、焼けた砂の上で歪んでいた。
ミュゼリアとギルは、激突する両軍の境に立っていた。
「……間に合わなかった……」
ミュゼリアは俯き、唇を強く噛み締める。
その横顔を見て、ギルはそっと肩に手を置いた。
「まだ……終わってなどいません。
諦めるには、まだ早い。
エルフ本陣へ戻り、撤退の命を出しましょう。」
ミュゼリアは小さく首を振った。
そして顔を上げる。
その瞳には、もはや迷いがなかった。
「いいえ。ここで終わらせます。
ギル……あなたには何度も助けられたけれど、
最後にもう一度、力を貸してちょうだい。」
ギルは小さく息を吸い、剣を抜く。
「……私は主様の剣。
ですが──騎士に二度の忠誠があってもいいでしょう。
この一瞬だけは、あなたの剣となりましょう。」
ミュゼリアはその言葉に静かに微笑み、
彼の頬にそっと唇を寄せた。
「な、なにをいきなり!?」
ギルは真っ赤になって慌てふためく。
その反応に、ミュゼリアは小さく笑った。
「ふふ……あなたも、そんな風に動揺するのね。」
「……こんな時に。いたずらが過ぎますよ。」
「これはね、エルフの国で――
一番信頼できる騎士に捧げる“無事を祈るおまじない”なの。」
ギルは頷き、ミュゼリアの前に一歩進み出る。
「安心してください。私は、折れません。」
ミュゼリアが深く息を吸う。
空気が震える。
戦場の騒音が遠ざかり、世界の色が静かに褪せていく。
「いい? 今から最上位魔術を詠唱するわ。
でも……この距離で始めれば、間違いなく気づかれる。だから――」
ギルは息を整え、低く構えた。
「……いつでもどうぞ。お姫様。」
そして――ミュゼリアは詠唱を始めた。
⸻
『……静まれ。
森よ、風よ、わたしの息に耳を澄ませなさい。
心臓の奥、いちばん深い場所でまだ光る“始まり”を呼び覚ます。
根を持たぬ者の名を冠し、光は形を持たず、
されど――祈りは形を超えて世界に染み込む。
我が名はもういらない。
ただ、“声”としてここに在る。
痛みを聞くたび、胸の奥で裂けるものがあるのだから。──────』
その瞬間、空気が張り詰めた。
前線の獣人たちの視線が一斉に彼女へ向く。
「あれは……エルフの女王だ!」
「奴を討ち取れ!」
怒号。
鉄の音。
そして、雪崩のように群がる足音。
ギルは片手で顔を覆い、天を仰いだ。
「……さぁ、存分に舞おう。」
刃が閃く。
瞬きの間に、数人の獣人の腱が断たれた。
ギルの動きは風よりも速く、音よりも鋭い。
だが数はあまりに多い。
それでも、彼の剣は止まらなかった。
むしろ、速さが上がっていく。
「いい……! 本気で剣を振るう感覚……!
さぁ、もっと来い!!」
ギルの目が赤く光る。
その声はもはや獣の咆哮。
「――第七戦技《狂化》!!」
それは彼がカナとの地獄の修行で編み出した、人ならざる領域。
剣が閃き、血飛沫が舞い、風が裂ける。
⸻
『ならば裂けてしまえ、この身ごと。
その隙間から、光を零そう。
――ああ、聞こえます。
千の呻き、百の嘆き、ひとつの小さな泣き声。
どれも同じ色をしている。
夜の底の、まだ温い涙の色。
その全てを受け止めるために、私はここに在る。
汝らの名を問わぬ。
敵も味方も、罪も功も――いまだけは解く。
咎を鎖と呼ぶなら、わたしは鍵。
痛みを刃と呼ぶなら、わたしは鞘。
心を夜と呼ぶなら、わたしは黎明。
光よ、燃やすな。包め。
焼くな、撫でよ。
断つな、繋げ。
そのすべてを“優しさ”と呼ぶのなら、
私は優しさの名を借りて、世界を覆い尽くそう。
ルクス――始まりの息。
セリア――癒しの鼓動。
アミエル――共鳴する魂。
三つの言葉、三つの響き。
それらが一つに重なったとき、世界は微睡みを取り戻す。』
ミュゼリアの声が、戦場の喧騒を呑み込んでいく。
詠唱が進むごとに、風が静まり、空気が震える。
矢が放たれた。
ギルはそれを次々と弾き落とす。
だが一本だけ――ミュゼリアの肩を掠め、赤が滲む。
それでも、彼女の唇は止まらなかった。
⸻
『聞こえるか、命たちよ。
お前たちは壊れてなどいない。
少しだけ、疲れたのだ。
だから、眠りなさい。
息をするように、安らぎを思い出しなさい。
今、風が止む。
それは沈黙ではなく、受容のしるし。
わたしは呼吸を置く。
声だけが残り、声は光に変わる。
その光が空を満たし、大地を撫でる。
――ルミナ、ルミナ、ルミナ。
反響せよ、この声。
命の奥に届くまで。
骨の奥、夢の底、涙の雫。
そこまで行け、わたしの光。
痛みよ、名を変えなさい。
それは“成長”と呼ばれるもの。
絶望よ、姿を変えなさい。
それは“休息”と呼ばれるもの。
悲しみよ、帰りなさい。
お前の居場所は、もう“過去”にある。
――いま、宣言する。
王冠は不要。聖樹もいらない。
声こそが光であり、心こそが杖。
この詠唱、その一言一息こそが、世界の書き換え。
ならば私は、ただ“呼ぶ”。』
詠唱が深まるほど、ギルの動きは速くなり、
血が飛び散るたびに、光がそれを包み込む。
戦場が、光と影の舞台と化していく。
だが数は尽きない。
ギルの体も限界を迎えつつあった。
背中に深い傷。
膝が折れかけ、それでも剣を離さない。
「ぐっ……まだ……!」
その瞬間――
ミュゼリアの足元に、巨大な魔法陣が広がった。
⸻
『黎明よ、降りよ。
光よ、還れ。
安らぎよ、世界を抱け。
命たちよ、息を合わせろ。
――この声が消えるまで。』
彼女の声が、震えながらも、確かに響いた。
「この声が止まる時、夜はもう、二度と泣かない。
……《黎明祈歌エル・ルミナリア》――」
詠唱が終わった瞬間、戦場全域に光の雨が降り注いだ。
それは剣でも、炎でもない――“祈り”そのもの。
光は天から降り、地を撫で、傷を癒し、
血を洗い流してゆく。
「なんだ……これは……」
「……暖かい……」
「俺たちは……何を……」
エルフも、獣人も、動きを止めた。
剣を下ろし、ただ光を見上げる。
心の奥に、懐かしい記憶が蘇る。
痛みも、憎しみも、ゆっくりとほどけていく。
――戦場が、静寂に包まれた。
光が世界を覆う。
涙の味が、風に混じる。
誰もが息を呑み、ただ、その瞬間を見つめていた。
まるで心ごと癒されるような、
そんな温もりが、戦場を満たしていた。
あとがき小話
──作者pyocoの勝手に解説コーナー──
どうも、作者のpyocoです。
今回はミュゼリアの詠唱が特にお気に入りなので、少しだけ解説します!
……え?求めてない?
ぶー!いいじゃん!言いたいんだもん!
──ミュゼリアの詠唱全文──
『……静まれ。
森よ、風よ、わたしの息に耳を澄ませなさい。
心臓の奥、いちばん深い場所でまだ光る“始まり”を呼び覚ます。
根を持たぬ者の名を冠し、光は形を持たず、
されど――祈りは形を超えて世界に染み込む。
我が名はもういらない。
ただ、“声”としてここに在る。
痛みを聞くたび、胸の奥で裂けるものがあるのだから。──────』
『ならば裂けてしまえ、この身ごと。
その隙間から、光を零そう。
――ああ、聞こえます。
千の呻き、百の嘆き、ひとつの小さな泣き声。
どれも同じ色をしている。
夜の底の、まだ温い涙の色。
その全てを受け止めるために、私はここに在る。
汝らの名を問わぬ。
敵も味方も、罪も功も――いまだけは解く。
咎を鎖と呼ぶなら、わたしは鍵。
痛みを刃と呼ぶなら、わたしは鞘。
心を夜と呼ぶなら、わたしは黎明。
光よ、燃やすな。包め。
焼くな、撫でよ。
断つな、繋げ。
そのすべてを“優しさ”と呼ぶのなら、
私は優しさの名を借りて、世界を覆い尽くそう。
ルクス――始まりの息。
セリア――癒しの鼓動。
アミエル――共鳴する魂。
三つの言葉、三つの響き。
それらが一つに重なったとき、世界は微睡みを取り戻す。』
『聞こえるか、命たちよ。
お前たちは壊れてなどいない。
少しだけ、疲れたのだ。
だから、眠りなさい。
息をするように、安らぎを思い出しなさい。
今、風が止む。
それは沈黙ではなく、受容のしるし。
わたしは呼吸を置く。
声だけが残り、声は光に変わる。
その光が空を満たし、大地を撫でる。
――ルミナ、ルミナ、ルミナ。
反響せよ、この声。
命の奥に届くまで。
骨の奥、夢の底、涙の雫。
そこまで行け、わたしの光。
痛みよ、名を変えなさい。
それは“成長”と呼ばれるもの。
絶望よ、姿を変えなさい。
それは“休息”と呼ばれるもの。
悲しみよ、帰りなさい。
お前の居場所は、もう“過去”にある。
――いま、宣言する。
王冠は不要。聖樹もいらない。
声こそが光であり、心こそが杖。
この詠唱、その一言一息こそが、世界の書き換え。
ならば私は、ただ“呼ぶ”。』
『黎明よ、降りよ。
光よ、還れ。
安らぎよ、世界を抱け。
命たちよ、息を合わせろ。
――この声が消えるまで。』
この声が止まる時、夜はもう、二度と泣かない。
「……《黎明祈歌エル・ルミナリア》――
」
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この魔法は、エルフ王族に伝わる癒しと再生の詠唱魔法です。
精神と肉体の両方を癒す力を持ち、
“再定義”――つまり「負の感情にも意味がある」ことをテーマにしています。
お気に入りの一節
『痛みよ、名を変えなさい。
それは“成長”と呼ばれるもの。
絶望よ、姿を変えなさい。
それは“休息”と呼ばれるもの。
悲しみよ、帰りなさい。
お前の居場所は、もう“過去”にある。』
この部分が個人的にいちばん好きです。
どんなに辛いことも、見方を変えれば意味がある――
そう思えるだけで、少しだけ前を向けますよね。
……まぁ、例えば100円落として側溝に吸い込まれた時とか、
タンスの角に小指をぶつけた時に呟いてみて下さい。
きっとほんのちょっと、楽になれるかもしれません。
以上、作者の勝手に詠唱解説コーナーでした!




