第57話「白蓮が名前になる日」
「ねぇねぇ! 白蓮さまー、お花ってどんなどんな感じなん?」
魔族領の子供たちが、無邪気な瞳で白蓮を見上げる。
「そうねぇ……私も昔に、一度だけ見たことがあるけれど──」
白蓮はゆっくりと視線を上げ、遠い空を仰ぐように目を細めた。
「それはもう……とても美しゅうて、いろとりどりで、ほんまに儚いものやったわ」
「はかない……?」
首をかしげる子供に、白蓮はふふっと微笑んでみせる。
「ちょっと難しかったね。せやけど……そうね、見た人の心を、ふわっと元気にしてくれる──そんな不思議なもんやったんよ」
ぽかんとする子供たち。
けれど、ひとりがはっと顔を上げて言った。
「じゃあ! 白蓮さまもお花と一緒や!」
「白蓮さまとおると、うちらも元気になるもん!」
「白蓮さまー! もっとお話聞かせてー!」
「わたしもー! こんどは“お花がさいた時”の話がええ!」
「はいはい♪ じゅんばんこ、やよ?」
白蓮はくすっと笑いながら、子供たちの頭を順に撫でていく。
──白蓮の領は、魔族領の中でも人間領に最も近かった。
けれどこの“死の大地”では、空は鈍く、光は届かず、花ひとつ咲かぬ。
けれど人間領は違う。
少し進めば花が咲き、鳥がさえずり、誰も飢えず、魔物の恐怖にも怯えずに暮らせる土地が広がっている。
それでも白蓮は、決して国境を越えようとはしなかった。
魔族が人間領に大規模な進行を仕掛けぬよう、己が力と立場をもって、境を守り続けてきた。
──すべては、とある遠い日の“約束”のため。
もう、姿も声も思い出されへん。
ただ……胸の奥に残っている。
まだ小さくて、何よりも弱かった頃。
毎日泣いてばっかりで、生きることすら夢みたいやった、あの混沌の時代。
そんな私に差した、たったひとつの光。
儚く、美しく、あたたかい──
ほんの一度だけ見た、“あの花”のような記憶。
それが、私をここまで歩かせてくれた。
今もまだ、あの記憶のなかに咲いてる。
ふわっと笑う、あの人と──
あの手のぬくもりと一緒に。
──────
「魔王様万歳! 魔王様万歳!」
「魔王様に──絶対なる忠を!」
大人たちが拳を突き上げ、声を張り上げる。
そして──その周囲で、
私と同じ年頃の子供たちも、同じようにその名を叫んでいた。
この男についていけば、魔族の未来は明るい。
誰もが、心の底からそう信じて疑わなかった。
私は、魔族の中でもとりわけ貧しい家に生まれた。
“死の大地”──
食べ物は少なく、土は痩せ、陽も差さない暗い世界。
でも、力のある魔族たちは、部下を率いて、遠くの豊かな土地を治めていた。
ある日、母に聞いた。
「なんで、うちは豊かな大地に行けないの?」
母は優しく笑って、こう言った。
「豊かな場所に住むにはね……たくさんの命を踏みにじらなきゃいけないの。
私は、誰かの幸せを奪ってまで、そんな場所に住みたいとは思わないわ」
私は、幼いながらに思った。
(それって、おかしい)
私は──花を見たことがない。
絵本の中に描かれた、それはそれは綺麗なもの。
鳥も、空も、木々も──私の知っている世界には、どれもなかった。
食べるものも、着るものも足りない。
生きるだけで精一杯。
でも私は、夢を見ていた。
大きくなったら、死の大地を出て──
絵本みたいな、あったかくて美しい場所に行くんだって。
──そんなある日。
豊かな地に出た仲間たちが、傷を負って戻ってくるようになった。
「勇者」──そう呼ばれる人間が、仲間を殺しているらしい。
とても、恐ろしくて。
とても、悪い奴。
でも、魔王様ならきっと倒してくれる。
魔王様は、無敵だから。
私も早く、魔王様の力になりたかった。
──だけど。
私の夢は、あっけなく打ち砕かれた。
勇者が、仲間を連れて進軍してきた。
私たち妖狐の領に。
魔王様は言った。
「戦え」と。
やっと、魔王様のために戦える。
嬉しかった。
お父さんも、お母さんも、難しい顔をしてた。
けど、私はやる気でいっぱいだった。
──────
地獄だった。
死の大地なんて──まだ、平和だったんだと知った。
人間たちは強かった。
言葉にならないほどに、強かった。
お父さんも。
お母さんも。
おじいちゃんも、おばあちゃんも、叔父さんも──
みんな、勇者たちに敵わなかった。
「おい、まだガキが生き残ってるぞ。妖狐の子だ」
「ん〜、見逃してやれば? ちょっと可愛いし♪」
「バカ言え。そいつらがまた大きくなって、復讐に来たらどうすんだよ」
「何ですって? 可愛いのが理解できないとか、マッチョな脳筋は哀れね〜」
「んだとコラ!?」
「まあまあ、落ち着いて。……だが、見逃せないというのは理屈としては正しい。
心苦しいが──他の魔族と区別はできない」
──次の瞬間、風が走った。
誰の動きも、剣も、見えなかった。
けれど──
私たちは、全員、斬られていた。
痛い。
痛い。
痛い。
痛い。
痛い。
痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い……
──そのまま、真っ暗になった。
──────
──気がつくと、目の前には、
一匹の──大きな、大きな、白銀の狼がいた。
その横には──
……変な格好の、人間。
「──ッ、ヒィッ……!」
怖い。
逃げなきゃ。
逃げないと、逃げないと、逃げないと──
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い!
──だけど、体は動かなかった。
恐怖で力が入らない私の頬を、白銀の狼が──ぺろり、と舐めた。
「──ひゃっ」
尻もちをつく私。
その時だった。
横にいた“変な人間”が、叫んだ。
「クソがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ勇者めぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
……え?
「妖狐っつったら……異世界転生物で萌えキャラ筆頭だろぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
人間は、涙をボロボロ流しながら、膝をついた。
「サキュバスだけじゃ飽き足らず……妖狐までも……!!
あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「くそ勇者がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
もはや何を叫んでいるのか、よくわからなかった。
けれど──その叫びは、私の心にすっと入ってきた。
だって──
泣いてた。
とても、とても大きな声で叫びながら、
その人は、私のことを「萌えキャラ」って呼びながら──
心の底から、泣いてくれていた。
──これが、私と大賢者との出会いだった。
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あれから、大賢者はまだ息のある者を見つけては、治療をしてくれた。
私も助けられたひとりだった。
ある時、私は聞かずにはいられなかった。
「……なんで、大賢者さんは人間なのに、私たちに優しくしてくれるの?」
魔族以外の種族は、私たちを死の大地に追いやった存在。
そう教わっていた。
魔王様こそが正義であり、
人間やエルフやドワーフたちは、すべて“敵”だと。
お母さんもそう言っていた。
そして、そのお母さんは……勇者という人間に殺された。
──なのに。
大賢者は、キョトンとした顔のまま、答えた。
「可愛い女の子を傷つける奴は、悪だ!」
「そして! 可愛い女の子たちを救おうとしている俺は、正義だ! たぶん!」
「今はまだストライクゾーンには入ってなくても!
大きくなったら可愛くなる可能性があるお前らは!
ぜったい救われるべきだああああああああああああああああああああ!!」
──変な人だな、って思った。
でも、不思議と……怖くなかった。
悪い人じゃない。そう思えた。
それから大賢者は、村の復興を手伝ってくれた。
魔法でなんでもやってしまうその姿は、まるで魔王様みたいだった。
人こそ少ないけれど、村は少しずつ、かつての形を取り戻しつつあった。
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「こらー! また勝手につまみ食いしてー!」
「ちょっと舐めたくらいで誤魔化せると思ったの〜?」
大きな狼さんは、定期的に白米や干し肉を盗み食いしては怒られていた。
でも、その度に耳を垂らして、私たちの遊び相手になってくれた。
ある日、大賢者が言った。
「なぁお前、名前はないの? 皆“妖狐”って呼んでるけど、呼びにくいんだよな」
「……長は名前あったけど……子供には、つけちゃダメって言われてた」
「だよな〜。このでっけえ狼にも名前つけたかったけど、俺じゃ無理だったしなぁ……」
狼さんは、「それって美味しいのか?」って顔でこちらを見ていた。
「でも、ワンチャン。子供なら命名できるかもしれん……よし、お前の名前は──白蓮!
真っ白で、綺麗な花の名前だ! 今日からお前は、白蓮だ!」
──その瞬間、体がぽわっと光った。
胸の奥が、少しだけ温かくなった気がした。
「びゃくれん……? びゃくれん、びゃくれん! わたしの、なまえ……!」
「おお、気に入ってくれたか! よし、よし!」
「白蓮はなぁ、大きくなったら絶対可愛くなる! 妖狐って言ったら、ウチとか〜ですやろ〜とか言うんやろ?」
「えっ、なにそれ」
「喋り方、最高なんだよ! 俺の中でめっちゃ萌えるから!」
その日から、大賢者は私に“変な言葉”を教え始めた。
……よくわからなかったけど、
大賢者が喜んでくれるのが嬉しくて、私はがんばって練習した。
魔法も教えてくれた。
「魔法ってのはな、グーってやってボン! だ!」
「えっ……えっ? グーってなに……?」
「細けぇことはいい! 詠唱? あんなもんはいらん! 必殺技のときだけでいい!」
「ひっさつ……わざ……?」
「そーだそーだ! どうしても倒したいときだけ唱えろ!
そのときは──」
「『ラブラブキュンキュンシャイニングアロー』って叫べ!!」
「…………ダサい……やだよぉ〜」
「……だ、ダサい……だと……?」
大賢者はその場で、がっくりと膝をついた。
ちょっとだけ可哀想かなって思ったけど──
やっぱりダサいので、私は使わないことにした。
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そんな日々が数週間、続いた。
村の復興も、もうすぐ終わるという頃──
「なんで! 私も連れてってよ!」
私は、大賢者に叫んだ。
だけど彼は、いつもの調子で笑って──苦笑いして、言った。
「でもなぁ……ロリには興味ないしな〜」
「ろ、ろり……?」
「お前が大人になったら迎えにくるわ!」
「大人って、いつ!? どうなったら大人なの!?」
「ん〜……綺麗な女の人になったら、かな」
そして、彼は真顔で言った。
「それまで──絶対、死ぬなよ。
無茶もするな。いいな、白蓮」
「……うぅ……わかった……いってらっしゃい、大賢者はん……」
「おっ! いいねぇ、その語尾! 萌えるわぁ〜! またな、白蓮!」
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──こうして。
私は、彼を見送った。
そして──
早、数百年。
私は今も、大賢者との約束を守っている。
この、死の大地にて。
彼が迎えに来る、その日まで──
白蓮は、“大人しくて清楚で、ちょっぴり関西弁で可愛い女の子”になれるよう、今日も努力を続けている──




