第56話『蠢く闇、吠える竜、嗤う屍』
──死の大地・中間地帯
アステリオン王国&鉄峰連合・合同調査部隊野営地(数日前)
「……はぁ……はぁ……っ……くそ……」
荒れた息を吐きながら、傷だらけの身体を引きずる男が、岩陰から岩陰へと転がるように前進していく。
「ありえねぇ……魔族が手を組むなんて……誰が予想できた……!」
「話が、ちげぇじゃねえか……!!」
呻くように呟き、唇を噛みしめる。
バルディアス──アステリオン王国の三栄騎士の一人は、今や独り、国境を目指して逃げていた。
──そして時は、数日前に遡る。
「全軍、止まれ!」
「ここを本日の野営地とする!」
進軍の先頭に立つ鉄峰連合の英雄、ガリウスが、重々しく命じる。
砂利と泥にまみれた騎士たちが、次々と足を止め、緊張の糸をようやく緩めた。
連日の行軍と魔物との小競り合い。
それに加えて慣れぬ瘴気と夜の冷えが、兵の体力を容赦なく削っていた。
最前線で戦っていたガリウス自身も、ついに腰を下ろす。
だが──そのまま深く座り込むことはなかった。
「……こたえたな……だが──」
立ち上がる。呼吸を整える間もなく、彼は周囲に向けて声を張った。
「まだ動ける者は、私のもとに集まれ!」
「周辺の警戒を行う。それ以外の者は野営の準備に入れ!」
「ここは敵地だ。休息の前に、命の確保が先だ!」
その声に、連邦の兵はもちろん、アステリオンの一部騎士も自然と動いた。
疲労は限界に近かったが、**“誰よりも前に立つ男”**の背には、言葉以上の説得力があった。
だが──全員ではなかった。
「……ふん、偉そうに……山鼠の分際で……」
苛立ちと侮蔑を含んだ声を吐き捨てるのは、もう一人の指揮官──バルディアス。
「俺は明日の行軍路を確認する。俺の陣の設営を優先しろ!」
数名のアステリオン騎士が「ハッ」と答え、慌ただしく動き出す。
ガリウスは言い返すでもなく、小さく息をついた。
「……言いたいことは山ほどあるが──後回しだな」
その目はすでに、次の警戒行動へと向いていた。
◆ ◆ ◆
「ふむ……」
ガリウスは、斥候たちの報告と地形図を照らし合わせ、険しい岩場の高台から周囲を見下ろしていた。
──三陣営の境界。
すなわち、リッチ族・ドラゴン族・妖狐族が互いに干渉を避けてきた中立地帯。
そしてこの小高い丘陵地は、見晴らしがよく、四方からの接近に強い。
「拠点には適しているな……」
嘲るような口は叩くが、地形の選定は確かだった──そう、バルディアスの見立ては正しい。
「口は悪いが……頭は切れるか」
彼の一言を残し、ガリウスは野営拠点へと戻った。
そこでは、ほぼ準備が完了しつつあった。
「バルディアス殿は?」
と尋ねると、近くのアステリオン騎士が申し訳なさそうに答えた。
「……あの、お答えしづらいのですが──」
「バルディアス様は、すでにテントへ入られております」
「“重要な用件以外で近づくな”と命じられておりまして……」
「……はぁ……」
呆れ半分、諦め半分。
ガリウスは髭を掻きながら、苦笑を漏らす。
「余程、我々は“歓迎されていない”ようだな」
だが、そこで彼の語気は切り替わる。
「……まぁいい。私はこのまま見張りに立つ。そなたは休め」
「いえ──そのようなことは……!」
騎士が慌てて首を振る。
「ガリウス様が、どれだけ前線で身体を張っていたか……我々も皆、見ております!」
だが、ガリウスは笑った。
「気にするな。これ以上“倒れられる”ほうが困る」
「休め。これは“命令”だ」
騎士は、深々と頭を下げると、ようやく足を引きずって炊事場へと戻っていった。
◆ ◆ ◆
──夜。
空は晴れず、闇は深く、霧が満ちている。
遠くでは獣の遠吠えが不気味に木霊していた。
ガリウスは火のそばに腰を下ろし、大斧を膝に立てていた。
「……ここまで“順調”とは言えんが──」
「妙に静かすぎる……」
この地帯は三種族の境界であり、手出ししにくいのは確かだ。
だが──それでも、斥候の接触すらないとは。
敵の動きがなさすぎる。これは──不気味だ。
「まるで、“タイミングを伺っている”かのような……」
どれだけ考えても、結論は同じ。
──情報が、なさすぎる。
そのとき。
先ほど休息を取らせた騎士が、再び現れた。
「お疲れ様です。私は十分に休息いたしました。ここからは、私にお任せください」
ガリウスは頷く。
「……あぁ。なら、任せる」
「何かあればすぐ起こしてくれ。いいな?」
「はい、承知しております!」
騎士が姿勢を正し、周囲へ目を光らせる。
ガリウスは静かに目を閉じた。
────────────
「──ガリウス様!!」
叫びが届いた刹那。
その重い身体は、電撃のように飛び起きていた。
だが──
目に入ったのは、部下の断末魔の残骸だった。
「な……っ」
地面に倒れていた見張りの騎士は、すでに胸を喰い破られている。
顔面の皮膚は剥がれ、瞳孔は開き、口は助けを求める形のまま動かない。
その周囲には、呻きながら蠢く死肉の群れが──
「……くそッ!!」
ガリウスは地を蹴り、即座に大斧を引き抜く。
一切の躊躇なく振るい、空気ごと屍を裂いた。
『第四戦技──《疾風斬》!』
唸る斧が地を滑り、前方を覆っていた屍どもをまとめて両断する。
肉が裂け、骨が砕け、頭蓋が地面を跳ねた。
その一撃だけで、十体を超える亡者が吹き飛んだ。
だが──騎士は、もう動かない。
「……すまぬ」
戦死した騎士の胸元を、そっと閉じる。
その横顔に、悔しさと哀悼の影が走る。
(屍兵の群れ……この瘴気……)
「リッチの配下か……!」
そのとき、野営地全体に響き渡る。
──兵士たちの絶叫。
──骨が砕ける音。
──地面を這う無数の腐った手足の音。
「くそっ……このままでは各個撃破される……!」
「まずはリッチを叩く!」
「バルディアス殿に後方は──」
──その瞬間だった。
鋭く、空が割れた。
上空から降ってきたのは、鋼鉄の爪。
咄嗟に斧を頭上に構える。
衝突音。激烈な衝撃。
鉄が裂け、魔力が軋む。
「……上空──!?」
目に入ったのは、巨大な双翼と鋭い尾をもった獣──
──ワイバーン。
「……ドラゴン族、だと!?」
さらに悪いことに、ワイバーンの胴体には装甲と指示札。
──訓練された軍用個体だ。
つまり、偶然ではない。
明確な、軍の意思を持った襲撃。
「リッチに加えて……ドラゴンまで来たか……!」
「──貴様ら、共闘を……!」
『第五戦技──《空真斬》!』
蒼光が斧から放たれた次の瞬間──
空を裂き、風が鳴る。
逃げようと身を翻したワイバーンの首が、反対方向に飛んでいき
その巨体が、ガリウスの背後に地響きを立てて落ちる。
「……っは……はっ……」
息を整えながら、視線を巡らせる。
──地上では屍兵が這い回り、
──空からは竜が降り、
──全方位で、兵士たちがひとり、またひとりと沈んでいく。
(リッチの死者戦術と、ドラゴン族の空中強襲……)
(通常あり得ない連携……なぜ……)
(……魔族同士が、共闘している?)
その時──野営地の方角から、怒号が響いた。
「野営地を捨てろ!」
「前方へ突破!敵陣を突き崩す!!」
──バルディアスの号令だった。
前線の指揮を取っていた彼の部隊が、戦線突破の強行策へと移行している。
「……賭けるか……!」
ガリウスは斧を強く握り直し、闇夜の戦場を駆け出す。
剣を振るう暇もない。
今は──生き残ること。
今は──誰か一人でも多く、連れ帰ること。
叫び声、断末魔、火の粉、腐臭、濁流。
全てが混然とする中で、英雄はただ一つの信念を握って走る。
──ただ一人の男を除いて。
────────────
──魔族領・外縁域。
騎士団の野営地から、少し離れた岩山の頂にて。
その場所には、二つの“魔”が佇んでいた。
一人は、漆黒の骨で構成された法衣を纏い、背に幾重もの魂灯を灯す“死霊の王”。
もう一人は、身体全体を黄金の鱗で覆い、剣よりも鋭い眼光で地平を睥睨する“古の竜王”。
二者は、燃え上がる騎士たちの野営地を遠くから見下ろしていた。
「……馬鹿どもめ」
黄金の竜王──**古竜王**は、鼻で嗤う。
「これほど奥深くまで、のこのこと踏み入ってくるとはな」
「愚かというより──愉快、だな」
その隣で、死霊王がふふっ、と喉の奥で笑う。
「まぁ、そう言ってやるなイグセリオン」
「やつらの目論見も、まったくの的外れではなかったろう……もし“あの方”が我らを纏め上げなければ、どうなっていたか分からんぞ?」
「“協力”など、本来性に合わん」
「だが──悪くないな。あの連中が泣き喚く声は、酒の肴になる」
イグセリオンは口元を歪め、長い爪で地面を軽くなぞった。
「国境の向こうから、貴族面でこちらを見下していた連中だ……」
「地を這い、死骸に喰われるには、ちょうどいい屈辱だろうよ」
「フォフォフォ……確かにのぉ……」
死霊王──**屍帝**は、うごめく魂灯を見上げながら口を開く。
「何体か、おもしろそうな“素材”もいた……よく肥えた騎士たちは、良い“傀儡”になる」
──そこへ。
ワイバーンの翼音を響かせながら、ひとりの**伝令兵**が着地する。
「報告!」
「アステリオン王国のバルディアスが、ただ一人、逆方向へと離脱を開始!」
「アンデッドとワイバーンを差し向けましたが、止められません!!」
イグセリオンが立ち上がり、足元にヒビが走る。
「ならば、俺が直接──」
だが、その隣でマグナテスが手を翳して制する。
「待て、イグセリオン」
「……面白くしてみようではないか」
「──あの“妖狐”、軍門に下らず牙を剥いた、あの者の縄張りへ」
「……彼を、導いてやろう」
イグセリオンの表情に、愉悦の影が滲む。
「ほう……なるほどな。あの鼻持ちならない狐族の娘と、アステリオンの英雄かぶれ」
「どちらが生き残るか、見ものだな」
「両方、ボロボロになれば──それが最良よ」
「伝令!命令を改めろ!」
イグセリオンが、吼えるように指示を出す。
「バルディアスを“妖狐領”へ誘導しろ!」
「死なせるな。いい具合に“ぶつける”んだ!」
「はっ! ただちに!」
伝令は再びワイバーンに跨がり、空へと飛び立っていった。
──その直後、死霊王の腰に下げられた“通信石”が、微かに光を放つ。
「──状況はどうだ?」
聞こえてきたのは、低く鋭い──だが整った声。
その声を耳にした瞬間、屍帝マグナテスは軽く頭を垂れ、
イグセリオンは黙って片膝で地面を抉るように踏みしめた。
二者の仕草は異なれど、そこにあったのは同じ意思──絶対の忠誠であった。
「ガルザ様!作戦は、順調に進行中でございます」
「騎士たちは罠に嵌り、軍は崩壊寸前。前進は続けておりますが、もはや瓦解は時間の問題かと」
「ふん……あまり遊び過ぎるな」
「オーガ族とヴァンパイア族も“我らの側”に加えた。あとは妖狐族だけだ……」
「奴らもいずれ、屈するか、滅ぶか」
「その時、真の魔族領が完成する」
「……“魔王復活”の礎となれ」
通信は、それだけで途切れた。
──ただ、最後の一言が。
二人の心に、鋭く焼きついた。
「……魔王復活」
「フッ……いい響きだな」
「我らの世を、再び“恐怖の時代”へ」
「さぁ……残り火を潰しに行こうか」
そして二人の王は、滅びの煙が立ち上る地へ──再び、その爪と牙を向けた。
すべては、かつて恐怖が支配した“魔王の時代”を──
もう一度、呼び戻すために。




