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『ジョゼット……ごめんね……愛しているわ…………』
走っている間、ずっと、流行り病で相次いで亡くなった両親の顔が頭から離れなかった。
まだ十歳だったわたしにとって、お父様とお母様は、とても大きく強く感じられた。
だけど、王都で猛威を振るっていた伝染病にかかると、二人とも、信じられないほどあっけなく逝ってしまった。
あのときの絶望と無力感が、まざまざとよみがえる。
王太子の宮殿に着くと、わたしは迷わずお兄様の私室へ向かった。
宮廷医師と従僕たちが驚いた顔でわたしを見るが、構わずベッドのそばへ駆け寄る。
わたしのあとについてきたリシャールも、息も乱さず背後に控えた。
お兄様は意識がなかった。
呼吸が浅い。
耳の後ろが腫れている。
額に触れると、火のように熱かった。
お父様とお母様がかかった病と、同じ症状だ。
あの病は今は下火になっているが、局所的には流行が繰り返されているという。
激務で疲労が溜まり体力が落ちていたため、感染してしまったのだろう。
「姫様、殿下の看病は私たちがしますので、どうかお部屋にお戻りに……」
従僕に言われて、わたしは首を横に振った。
「わたしに看病させてください。どうすればいいかは知っているから」
――あのとき、両親が病にかかって命を落としたとき、わたしは十歳の無力な子どもだった。
だけど、宮殿に引き取られて何年かすると、医療の進んだ隣国で、あの病の対処法が少しずつ確立され、死亡率も下がっているという話が耳に入った。
幸いわたしは語学が得意で、隣国の言葉を話したり、読み書きをすることができる。
マナーや歴史の授業の合間に、隣国で発行された医学の本を読んだり、隣国から来たという外交使節団の中の医師に話を聞いたりして、むさぼるようにその知識を吸収した。
そんなことをしても、亡くなった両親が帰ってこないことはわかっていた。
でも、そうせずにはいられなかったのだ。
ぽっかりと空いた空洞を何かで埋めていかなければ、わたし自身がその穴に吸い込まれてしまいそうで――
従僕たちは困惑していたが、リシャールが目だけでわたしの言う通りにしろと命じると、顔を見合わせてうなずいた。
わたしはすぐに、この国の伝統的な治療法をすぐに中止させ、氷水と清潔な布を持ってくるように頼んだ。
医療行為として広く行われている瀉血をして大量に血を抜けば、ただでさえ弱っている病人はさらに弱り果ててしまうし、高濃度のアルコールは、万能薬として発熱している人にむりやり飲ませるよりも、消毒薬として使った方がいい――というのが、隣国の医師たちによる最新の研究結果だった。
幸い、お兄様の血が二リットル抜かれる前に、リシャールにエスコートされて宮廷医師は退室した。
死ぬほど強いウイスキーも、意識のないお兄様の口に流しこまれる前に、全部下げてもらった。
そしてわたしは燃えるようなお兄様の額に氷水で冷やしたタオルを乗せ、すぐにぬるくなるそれを、何度も取りかえ続けた。
✻✻✻
いつの間にか、わたしは眠ってしまっていたようだった。
気がつけば柔らかい場所に横たわっていて、体には毛布がかけられている。
「……? ……そうだわ、わたし、お兄様の看病をしていて…………」
「おはよう、ジョゼ」
「ひゃっ!?」
ぎし、とベッドの軋む音がして、端に座っていたお兄様が、わたしの方へ身を乗り出した。
な……なぜここにお兄様が……?
というか、ここはもしかして、お兄様のベッドの上では……!?
お兄様はすっかり顔色も良くなり、いつものキラキラとした美麗な空気を纏っている。
「ジョゼが一晩中看病してくれたおかげで、この通り元気になった。ありがとう」
「……! よかったです!」
わたしは毛布を両手でぎゅっと握り、心から安堵して言った。
だけど、同時に自分がやってしまったことを思い出し、サーッと青ざめた。
「……わ、わたし、なんていうことを……バジル様との婚約を、すっぽかしてしまいました…………」
「ああ、何も問題はない。あの男なら、今は正殿の地下牢の中だ」
「………………え?」
地下牢?
なぜそんなことに??
お兄様はぽかんとするわたしの顔を見て、愉しげに説明した。
「そもそも初めから俺は伯爵を信用していなかった。黒い噂の絶えない人物だし、王家への態度も不誠実で、金に汚い。だからジョゼが陛下にあの男との婚姻を願い出たとき、同時に俺も伯爵領から何人か呼んでおいたんだ」
「呼んでおいた……とは、一体どなたを……?」
「証人だ。伯爵が毒殺した二人の妻の身内で、横暴な伯爵に積もり積もった恨みを持つ有力者たち。それから伯爵の弟」
「どくさ……」
その恐ろしい言葉を、最後まで口にすることはできなかった。
どういうこと? 伯爵の二人の妻は、病で亡くなったのではなかったの?
「伯領の有力者たちは積極的にこちらに協力してくれた。なにしろ、妻にと差し出した大事な娘や妹を、悪魔のような伯爵に殺されているのだからな。だが証拠はあっても、彼らは伯領の最高権力者である伯爵に楯突くことはできなかった。伯爵はずいぶんな浪費家で、娯楽や女に金をつぎこみ、最初の妻の所有物である多額の持参金を使いこんでいたんだ。それがバレると妻を毒殺し、二番目の妻の持参金にも手をつけた。そして、二番目の妻にも毒を盛った」
「…………ものすごい悪人ではないですか!」
わたしは開いた口が塞がらなかった。
案外常識的な人のようだ、などという第一印象を抱いたわたしの目は節穴だったのだろうか。
お兄様は、怖いほど美しい笑みを浮かべた。
「そうだ。悪人の伯爵は王宮に滞在中、夜な夜な怪しげな路地裏の店へ行き、西の伯爵領では手に入りにくい稀少な毒を買い漁っていた。もちろん違法の薬物だ。その証拠もすべて掴んでいるから、二件の殺人と合わせて、極刑は間違いない。魔塔の残党と繋がっているという情報もあったが、そこまでは掴めなかったのが残念だ」
「見事なお手並みです……!」
「ふふっ。それと、伯領はあの男の弟が継ぐことになった。弟は昔から穏健派で、今回の兄の不祥事もあり、今後フォンブリューヌ家は王家に忠誠を誓うという誓約書も受領済みだ。懸案だった西の火種も、これで沈静化するだろう」
「完璧ではないですか……!!」
やはりお兄様は聡明な深慮遠謀の方だ。
最初から伯爵を疑っていて、ひそかに伯領から人を呼びよせていたなんて。
ここのところご不在がちだったのも、そういった方々と会って話したり、伯爵が毒を入手している証拠を押さえようとしていたからだったのね。
同時に、背筋がひやりと冷たくなった。
伯爵が次にその毒を使おうとした相手は、ひょっとしなくても、わたしだ。
もしもあの人と結婚していたら、わたしは――
青くなってうつむいたわたしの頭に、ぽん、と大きな手が乗せられた。
お兄様が優しく頭をなでてくれる。
凍えそうだった心が、みるみる温まっていく。
「国のためによく頑張ったな、ジョゼ。だが、もう無理をする必要はない」
鼻の奥が熱くなった。
国のため……だけではなかったのだけど、お兄様にねぎらってもらえて、素直にうれしい。
お兄様はわたしのために、手ずから紅茶を淹れてくれた。
一口飲むと、少し気持ちが落ち着いた。
急に、お兄様がゴホゴホと咳こんだ。
まだ病から回復しきってはいないのだろう。
「大丈夫ですか、お兄様?」
「……ああ…………それをもらっても?」
「あ、はい」
反射的に、わたしは自分の持っているティーカップを差しだした。
差しだしてから気がついた。
新しいカップで、新しく紅茶を淹れるべきでは?
でも止める間もなく、お兄様は紅茶を飲んでしまった。
わたしが口をつけた同じ場所に、口をつけて。
優雅に、とても美味しそうに。
………………これは、間接キスというのではないかしら?
お兄様がカップから唇を離す。その唇から目が離せなくなる。
凝視されていることに気づいて、彼がこちらを見る。
わたしは熱湯を浴びたように真っ赤になった。
お兄様の顔が……特に口のあたりが……まともに見れない。
「ジョゼ?」
お兄様がベッドに手をつき、顔を背けるわたしの方へ、身を乗り出してくる。
「……顔が赤い。まさか、俺の病気がうつった?」
「ち、違います! 大丈夫ですので、お気遣いなく!」
横を向いたままはっきりとそう答えても、お兄様は引き下がらなかった。
「駄目だ。顔を見せて」
彼の筋張った手に腕を掴まれ、その部分が熱を帯びる。
全身の血が沸騰しそうだ。
こんな顔を見られたら――
「ミャー」
部屋の隅で眠っていたトトが起きてきてベッドに飛び乗り、お兄様に体をすり寄せた。
わたしはほっとした。
お兄様は、かわいがっているトトに興味を移すだろう。
ところが、お兄様はトトに見向きもしなかった。
手を伸ばし、かたくなに顔を隠すわたしの額に触れる。
「熱い」
「大丈夫です」
「……だったら、俺を見て?」
顔を上げることが、どうしてもできない。
お兄様の顔を見たら、何かが変わってしまいそうで怖かった。
言うことをきかないわたしに、お兄様は、覆いかぶさるように近づいた。片手と膝で体重を支え、ぎりぎり、体が触れないようにして。
「ジョゼ」
甘い響きで名前を呼ばれる。
こんな至近距離で、ベッドの上で……これではまるで……。
唐突にノックの音が響き、ガチャッと扉が開いた。
リシャールは室内の状況を見ても顔色一つ変えなかった。
お兄様も振りむきもしない。
「失礼します。西の伯爵の件で、陛下が至急殿下にお聞きしたいことがあると」
「今忙しい」
「至急、とのことでしたが」
「代わりに答えておいてくれ」
「できません」
「…………………………」
やがて鉛のようなため息を吐くと、お兄様はわたしに優しく言った。
「すまない、ジョゼ。陛下のもとへ行ってくる。君はゆっくり休んでいるといい」
「……はい」
お兄様はスッと立ち上がり、リシャールとともに行ってしまった。
扉が静かに閉まる。
わたしはしばらく動けなかった。
心臓が痛いほど跳ねている。
腕にはお兄様に掴まれた感触が残っていた。
お兄様の手は、伯爵の手とは全然違う。
ジョゼ、と呼ぶ声が、何度も耳の奥にこだまする。
なぜだろう?
お兄様のことしか考えられない。
困る。
お兄様は王太子で、わたしはただの従妹だ。昔からそうだったし、これからもそう。
お兄様はこの国にとってメリットのある結婚をしなければならないし、わたしだって同じだ。
それでも、もしかしたら――
これは、恋なのかもしれない。
お読みいただきありがとうございました!
第2章はこれで終わりです。
続きは少々お待ちいただけると幸いです。
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