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西の伯爵が王宮へ来て、わたしと顔合わせをすることになった。
「……ジョゼット、君が無理して結婚をする必要など少しもない。今からでも遅くない、伯爵にはすぐに帰ってもらおう」
「お兄様、こちらから呼びつけておいて、西の果てからはるばる王都へいらしたとたんに帰れなどと言ったら、それこそ反乱が起こるのではないでしょうか」
顔合わせの場所へ向かう途中、エスコート役のお兄様は、ずっとわたしにこの縁談を考え直すようにと説いてきた。
一歩下がって同行している近衛騎士のリシャールは何も言わないが、難しい顔をしているので、もしも伯爵がお兄様に腹を立てて剣を抜いた場合の行動パターンでも考えているのだろうか。今日、決戦の火蓋が切って落とされる――などという事態は絶対に避けなければ。
隣をそっと見ると、顎に手を当てて考えこみながら歩くお兄様は、憂いを帯びた表情がまた一段と魅力的だった。
でも、ここ最近の忙しさと心労のせいか、目の下にはクマがあり、少し痩せたようにも見える。
キュッと胸が締めつけられた。
お兄様の力になりたいけれど、わたしにできることなど、政略結婚の駒になるくらいしかない。
わたしがこの婚姻を進めようとする理由は、本当はもう一つある。
けれど、それは、お兄様に知られるわけにはいかなかった。
顔合わせの場は、正殿の廊下の一画にある開けた空間だった。分厚い絨毯の上には美しいテーブルとチェアが並べられていて、貴族同士のちょっとした会合などに使われる。
伯爵はすでに来ていた。
わたしたちは互いの数人の近衛兵たちを少し離れた場所に立たせ、テーブルのそばで自己紹介をした。
「お初にお目にかかります、王太子殿下、それにジョゼット姫。私は陛下より西端の地の伯爵を任じられている、バジル・フォンブリューヌと申します」
年齢は三十代半ばくらい。
癖のある黒髪に黒い目の、たくましく精悍だけど意外と物腰柔らかな人だ。きれいに整えられた顎髭が、大人の男性、という印象を与える。
わたしは心の中で安堵の息を吐いた。
噂では伯爵は残虐な戦闘狂と聞いていたから、案外常識的な人のようでほっとした。わたしよりもだいぶ年上ではあるけれど……。
わたしを隠すように、お兄様が前に出た。
「遠いところをご足労いただき、礼を言う。国王陛下は多忙を極めているため、今日は王太子である私がお相手する。こちらは私の従妹のジョゼットだ」
お兄様に紹介されてわたしが礼をすると、伯はさわやかな笑顔を見せた。
「想像以上にかわいらしい方だ。王宮に咲く可憐なナデシコのようなあなたを妻として迎えられるなんて、私はとんでもない幸運の持ち主ですね。しかも、ジョゼット姫は学問にも秀でた花だとか。たしか、語学が堪能とお聞きしましたが?」
「いえ、それほどのものでは……」
「まだ何も決まったわけではないのに、伯はずいぶんと楽天的なようだ。王宮の花を無断で摘むと厳罰を受けるので気をつけた方がいい」
豆粒ほども愛想の感じられない声でお兄様が釘を刺した。
わたしはヒヤリとした。
これは友好のための婚姻ではなかったの?
互いの近衛兵たちの顔つきが、一段階、厳しいものにシフトする。
リシャールは無表情だった。その落ち着きが今はありがたい。
伯は破顔した。
「あっはっはっ。いや、失礼。噂以上の仲の良さだったので、つい……そんなに殿下に大事にされている王宮の花をわが領地へ持ち帰れると思うと、感慨もひとしおですよ」
お兄様は少しも目が笑っていないほほえみを浮かべ、それを聞いていた。
わたしも笑いながらも、針のむしろにいる気分だった。
✻✻✻
そのあと、わたしたちは三人で王宮の庭園を歩いた。
そう、三人で………………ええと、こういうときは普通、二人きりで歩くものではなかったかしら?
でもお兄様は伯爵とわたしの間のポジションを堅持しつつ、伯と世界情勢や政治学などについての深い話を熱心に語り合っていた。わたしは添え物のパセリになったような気分だった。
「……では、殿下は非常時には王宮も身銭を切り、民にパンを分け与えるべきだと? それについて、姫はどう思われますか?」
「えっ? あっ……」
急に伯爵から話題を振られて、わたしはパッと顔を上げた。
非常時には、民にパンを……?
もちろんそうするべきだわ。
「はい、わたしも殿下に賛成です。何も高価な白パンを、とは言いません。雑穀パンでも十分おいしいし栄養があるのですから、可能な範囲で民に分け与えるべきかと」
下町では、宮殿で毎日出されるような精製された白パンなど、滅多にお目にかかれない。
そんな高級なものでなくてもいい。飢饉や戦などの非常時には、安価な雑穀パンを配るだけでも、蓄えなどない庶民は救われるだろう。
……と、わたしは自分が十歳まで住んでいた下町の感覚で答えてしまった。
ところが伯は、愉快そうに笑った。
「あっはっはっ! 姫はなかなか正直な方ですね。下々の者には白パンはもったいない、雑穀パンでも食べていろと」
「ち、違います! わたしは、なにも高価なものでなくてもと……」
「わかりますよ。どうせ彼らは高価なパンの味など解しませんからね。私は姫と気が合いそうだ」
「そういう意味では……!」
お兄様が口を開いた。
「バランスのいい意見だ。高価なパンでは必要な者に行き渡らない可能性があるが、安価なパンなら広範囲の民を救える。ジョゼットは聡明だな」
褒められたことと、理解されたうれしさに、体がふわりと軽くなった。
伯は鼻白んだように「そもそも、他人を助ける余裕があればの話ですがね」と呟いた。
✻✻✻
伯爵の滞在中、わたしは毎日彼と会う予定になっていたが、非常に多忙なはずのお兄様も毎日それに付き添った。
そして、伯とお兄様の仲はみるみる険悪になっていった。
なぜだろう……家門を繋ぐための婚姻のはずなのに……かえって溝を深めてしまっているような……?
「ジョゼ、やはりあの男はやめた方がいい。やたらと金の話をするし、あの年齢で妻を二人も病気で亡くしているというのも怪しい」
今日も伯爵へ会いに行こうと並んで王宮の廊下を歩いていると、お兄様がやにわに立ち止まり、真剣な顔でわたしにそう言った。
きれいな顔が、以前よりもさらにやつれている。
わたしに付き合い、過密スケジュールの中から伯爵に会う時間を捻出してくれているので、余計に負担をかけてしまっているのだ。
この国と、お兄様の役に立ちたくて決めた婚姻なのに……白紙撤回などということになれば、王家と伯爵との関係はかつてないほど最悪なものになるだろう。
わたしは唇を噛むと、お兄様を見上げた。
「……いいえ、お兄様。わたしなら大丈夫ですから、このまま話を進めてください」
お兄様は、ぴくりと眉を動かした。
「……駄目だ。絶対に認められない」
「なぜですか? この婚姻は王家の益となります」
お兄様はわたしの肩をつかんで、鼻先が触れそうなほど顔を近づけた。
「そのために君が不幸になることは許さない」
真摯な紫の瞳が、わたしを射抜く。
心臓が壊れそうなほどに高鳴った。
どうか、やめてほしい。こんな風に優しくするのは。
この婚姻は、本当はわたし自身のためでもあるのだ。
ニセ聖女オリアンヌがお兄様の婚約者になりかけたように、いつかは必ず、お兄様も他の誰かと結婚する。
それを見るのは耐えられなかった。
想像しただけでつらいのに、実際に目の当たりにしたら、わたしはどうなってしまうのだろう。
半分は、そのつらい未来から逃れるためだった。
わたしが伯爵との結婚を望んだのは。
だけどそんなことは言えないから、わたしは目をそらしてこう言った。
「……不幸になるとは限らないではないですか。伯爵領で、わたしはバジル様と幸せになれると思います」
嘘だった。
でも、そう言わないとお兄様は納得しないだろう。
お兄様はわたしの言葉を聞くと、スン……と表情を失った。
……わたしは、何かひどい失言をしてしまったのだろうか?
あんなお顔、今までに一度も見たことがない。
彼はわたしの肩から手を離すと、くるりと背中を向け、近衛騎士に命じた。
「…………リシャール、今後は俺の代わりにジョゼットに付き添ってくれ」
「承知いたしました」
お兄様はもう、こちらを一顧だにせず、足早に去っていった。
その場に取り残されたわたしは、呆然とお兄様の背中を見送ると、リシャールを見上げた。
彼は無表情で促した。
「参りましょう。時間に遅れます」
「……ええ」
その日から、わたしが伯爵と会う際に、お兄様が同行することはなくなった。