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「すまない、ジョゼ。まだ政務が終わりそうにないんだ」


 午後のお茶のお誘いに行ったら、お兄様は執務室から顔を出し、眉を下げてわたしに言った。


「お兄様、お気になさらないでください。お仕事がんばってくださいね」

「ああ。ありがとう」


 がっかりしている顔を見せまいと無理にほほえんだら、お兄様は、ため息が出るほど美しい微笑を返してくれた。

 輝く銀色の髪に、澄んだアメシストの瞳。

 神様が特に入念にお造りになったかのような、端正なお姿。

 一瞬、思わず見とれてしまった。

 今日もお兄様は麗しい。


 ……けれど、少し顔色が悪いようにも見えた。

 いつもなら、わたしがお茶に誘うと九割九分は付き合ってくれるのに、今日はそんな暇もないほど忙しいのだろう。

 そういえば、ここのところお兄様の執務室には、大臣たちや文官、武官がひっきりなしに行き来している。今も室内には五人程が集まっていて、難しい顔を突きあわせ、机上の地図を見て議論をしていた。


 西の国境沿いが、何やらきなくさいらしい。

 広大な領地を有し、隣国とも親交の深い西の伯爵が、不穏な動きをしているのだとか……。


 なんとなく後ろ髪を引かれて執務室の前を立ち去れずにいたら、宮殿の広い廊下に直立不動で立っている近衛騎士のリシャールと目が合った。

 寡黙なリシャールは何も言わず、さりげなく視線を外した。

 顔見知りのよしみで見逃してくれているのだろうけど、王太子の執務室の前でうろうろしている人間など、彼にとっては排除の対象でしかないだろう。

 これ以上警護の邪魔をしてはいけないと、わたしは、同じ宮殿内にある自室へ戻ろうとした。


 そのとき、バン、と扉が開き、執務室の中から二人の大臣が出てきた。

 彼らはわたしに意味ありげな目を向け、軽く会釈すると、声を低めて話しながら廊下を歩いていった。


「……殿下も、いいかげんにご決断なされば……」

「ジョゼット姫を西の伯爵のもとへ嫁がせるという話ですか? ……ご冗談を。殿下は戦争にでもならぬ限り、猫かわいがりしている従妹の姫を手放しはしないでしょう」

「殿下は甘過ぎる。姫とはいえ、所詮は下民の血の混ざった娘。こんなときにこそ役立てなければ……」


 カッと、体の内側が燃えるように熱くなった。

 それなのに、肌は氷水でも浴びせられたように冷たい。


 わたしの母は王族だったけれど、父は平民だ。

 駆け落ちして下町でひっそりと暮らしていた両親が病で亡くなり、十歳で王宮に引き取られて以来、こんな陰口は何百回と言われ続けてきた。

 だから、慣れている。なんでもない。


 ……でも、そのせいでお兄様まで悪く言われるのだけは、耐えられない。


 ふと顔を上げると、ふたたびリシャールと視線が交差した。

 わたしは逃げるようにその場を離れた。




 木立の奥の古い聖堂は、今日も静寂に包まれていた。

 いつもの、右耳にかじられた痕のあるぽっちゃりとしたネズミがいないか見回してみたけれど、今日は姿が見えない。

 代わりに、首にシルクのリボンのついた茶トラの猫が、開け放したままの扉から入ってきて、わたしの足にすり寄った。


「まあ、トトじゃない。パンを食べる?」

「ミャー」


 この子はお兄様が飼っている猫のトトだ。いつもは王太子の宮殿にいるけれど、ときどき散歩のついでなのか、この聖堂にも足を延ばしているようだ。だから今日はネズミが見当たらないのかもしれない。


 わたしはしゃがんでトトの頭をなでた。目を閉じ、ぐるぐると喉を鳴らす姿が愛らしい。

 それからネズミのために持ってきたパンを差しだしたけれど、グルメなトトは、ぷいっと横を向いて拒否した。


「……そうね。宮殿でもらうごはんの方がおいしいわよね……」


 わたしは苦笑した。

 宮殿に住む猫のトトは、下町の人たちよりもずっと高級な食事を毎日食べている。

 侍女たちにしっかりと手入れされた毛並みは艶々で美しかった。

 わたしも同じように茶色い髪だけれど、トトの方がずっとふんわりとやわらかい。

 極上の手触りの毛並みをなでていると、お兄様がよくトトを抱き上げ、頭やお腹にキスしていることを思い出した。


 少し前、この聖堂で、お兄様がわたしの頭のてっぺんにキスをしたことも同時に思い出す。


 頬が熱くなった。

 ……でも、あれはきっと、トトにキスをするのと何ら変わらない、意味のない行為だったのだ。

 もしかしたら、お兄様がわたしをほんの少しでも好きなのかもしれない……恋愛感情を、抱いているのかもしれないなどと、愚かなことを考えた自分が恥ずかしい。


 この国の王太子であるお兄様が、姫と呼ばれてはいても下町育ちである異端のわたしを、本気で好きになることなどありえないのだから。


 お兄様がわたしに優しいのは、わたしが早くに両親を亡くした、かわいそうな従妹だから。

 それ以外の理由なんてない。


『貴族令嬢としての使命、それは、国の発展と安寧のために貴族の家門同士を繋ぐことにあります』


 王宮へ引き取られて以来、何度となく家庭教師たちに教え込まれた言葉が頭に浮かぶ。


 太陽が傾いてステンドグラスの光が聖堂を染めた。


 お兄様はわたしの太陽だ。

 両親を喪い、誰一人知っている人のいない宮殿で心細い思いをしていたわたしを、優しく照らしてくれた。

 ずっとお兄様のそばにいたかったけれど、最初から、それは叶わない望みだと知っていた。


 政務でやつれたお兄様の顔が脳裏をよぎる。

 西の伯爵はその土地柄もあり、長く王家に反発してきた気を許せない相手だ。虎視眈々とこの国を狙う隣国と手を組まれ、反乱からの戦争、などということにでもなれば一大事だ。


 でも、わたしが伯爵と結婚すれば、争いを回避することができる。


「……お兄様、わたし……伯爵のもとへ嫁ぎます」


 決意が鈍らないよう、口に出してそう言った。

 鉛を呑みこんだように胃がズン、と重くなった。

 けれど、仕方がない。今までが恵まれ過ぎていただけだ。わたしだってトトと同じく、宮殿で何不自由のない贅沢な暮らしをしてきたのだから。

 これが貴族令嬢としての義務であり、自分に期待されている役割なのだから。


 わたしは国王陛下に結婚の意思を伝えるために聖堂を出た。

お読みいただきありがとうございました!

第2章の終わりまでは、明日から毎日1話投稿予定です。

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