5
わたしの父は言語学者だった。
世界中のさまざまな言語を研究するのが何より好きな人で、お金はないけれど、研究するべき本があって、わたしの母がそばにいれば、それで幸せそうな人だった。
両親は、国王陛下の戴冠式で出会ったそうだ。
各国の王侯貴族が招かれた華やかな席で、父は通訳として活躍していた。
数か国語を自在に操り、会談を取り仕切る父の姿に、母は一目ぼれをしたらしい。
身分違いだと何度断っても諦めず、まっすぐに愛を告げてくる母に、とうとう父もほだされた。
そして周囲の反対を押し切って、わたしの両親は駆け落ちをした。
お父様のことは心から愛しているけれど、お父様が貴族だったらよかったのにと今までに何度思ったかわからない。
だけど――カリーナ姫は自分の母親が平民の宮廷音楽家でも、少しも引け目など感じていないようだった。
わたしもカリーナ姫のように思えたら、どんなに生きるのが楽になるだろう。
『平民だとか王族だとかは関係ないわ。あなたの価値を他人に決めさせては駄目。あなたの価値は、あなた自身が決めなくては』
そんな風に、自分で自分の価値を決められたら――
そんな風に決めてしまっても、いいの?
わたしはこのままでお兄様の隣にいていいのだと、自分で決めてしまっても、いい?
だって、わたしは頑張っているもの。
十歳で王宮に引き取られてから、お兄様に少しでも近づくために、お父様とお母様を悪く言われないために、ずっとずっと頑張ってきたもの。
わたしはわたしの努力の価値を知っている。
もしもわたしが、ありのままの自分で、お兄様に恋をしてもいいのなら――
王太子の宮殿の方向へ歩いていたわたしは、いつの間にか早足になっていた。
お兄様にこの手紙を、いいえ、直接会ってペンダントのお礼を伝えたい。
最近ずっと避けていたことも謝りたい。
それに、何より。
お兄様に会いたい。
***
王太子の宮殿に入ると、すぐにリシャールに出くわした。
まだ非番らしく、近くにお兄様はいない。
「リシャール、お兄様を見なかった?」
「おや、もう隠れんぼはおしまいですか?」
珍しく軽口を叩かれ、そういえば先日わたしはお兄様から隠れ、リシャールにかくまってもらっていたのだと思い出す。
「今度はわたしが捜す番なの。知っているなら教えて?」
「……勤務時間外ですが、まあいいか。殿下なら、地下書庫ですよ」
「ありがとう!」
彼に笑顔を向け、地下へ急ぐ。
一瞬、リシャールがわたしにほほえみ返してくれたような気がしたけれど、あれは目の錯覚かしら?
長く冷たい階段を下りると、薄暗い地下一階だ。
この階は廊下の燭台もまばらで、幽霊が出ると言われている陰気な場所だ。
最奥の地下書庫には、二百年前から受け継がれる貴重な古文書がどっさり眠っている。
物好きな学者しか来ないような場所なのだが、頭脳明晰で勉強熱心なお兄様は調べものをするとき、よくこの地下書庫を使う。
その気になって調べさえすれば、宝の山なのだそうだ。
今もきっと、何か気になることがあって文献を調べているのだろう。
お兄様の調査の邪魔にならないように足音をひそめながら、わたしは地下書庫へ通じる角を曲がった。
目に飛び込んできたのは、カリーナ姫の侍女だった。
なぜあの人がここに?
侍女はわたしに背を向け、書庫の入口に立つお兄様の近衛騎士に、何か話しかけているようだった。
お兄様の執務室の前に立ち、わたしに敬礼をしたあの近衛騎士だ。
彼は面倒くさそうに、侍女を追いはらうような仕草をした。
侍女が呟いた。
「დბაიუჟეთ」
たちまち近衛騎士は、目を見開いたまま動きを止めた。
侍女はスカートの中から取り出した短剣を、まち針を針山に刺すような自然さで、騎士の胸に突き刺した。
何も言わない近衛騎士の顔から、少しずつ生気が失われていく。
侍女は短剣を引き抜くと、傷口から血を流す騎士の体を、壁にもたれさせた。
そして、赤く濡れた短剣を持ったまま、書庫の中へ入っていく。
わたしは目を見開いてその一部始終を見ていた。
あの音韻にあの語幹。
ニセ聖女オリアンヌが使っていた呪文と同じ、魔塔の魔法使いが使用する特徴的な古代語の呪文だ。
つまり、あの侍女は魔塔の残党。
隣国の王宮に入り込み、カリーナ姫の侍女となって、この国へ来た。
魔塔を滅ぼしたお兄様に復讐するために。
即座にそう判断したわたしは、入り口のカウンターに積まれていた重く分厚い本を両手でつかむと、足音を殺して侍女の背後に忍び寄った。
だが、気づかれてしまった。
侍女がわたしを振りむく。
「დბაიუჟეთ」
ほんの一瞬、まぶたの裏で、眩しい白い光が閃いた気がした。
首元のあたりが熱い。
わたしも近衛騎士のように動けなくなったのだろうか?
だが、魔法にかけられた感覚はない。
侍女から見えない位置でわずかに指先を動かしてみたら、ちゃんと動く。
けれどもここは、魔法にかかったふりをするべきだろう。
侍女はわたしが動かなくなったことを確認した。
しかし焦っているのか、あるいはさほどの脅威ではないと判断したのか、騎士にしたように短剣を突き刺すことはせず、そのまま急いで踵を返して書庫の奥へと向かう。
今度こそ気づかれないように。
わたしは侍女の足音に自分のそれを重ね、近づいた。
そして、本を両手で頭上に掲げ、渾身の力でそれを侍女の頭に振り下ろした。
「ぎゃっ」
侍女は、どさっと音を立てて倒れた。
その向こう側に現れたのは、本棚の前に立ち、目を丸くしてこちらを見ているお兄様。
「……ジョゼ?」
「お兄様」
昏倒した侍女を挟んで、お兄様と向き合う。
恥ずかしくなって、わたしは鈍器のような本を後ろ手に隠した。
「あの……魔塔の残党のようでしたので……」
お兄様はぐるりと侍女を迂回してこちら側へ来た。
わたしの顔を両手で包み、気遣わしげにのぞきこむ。
「怪我はないか、ジョゼ?」
「はい。ですが、近衛騎士が……」
そのとき、視界の端で侍女が動いた。
短剣を握りしめ、立ち上がろうとしている。
同時に背後からバタバタと足音が近づき、リシャールの緊迫した声が聞こえた。
「殿下! 姫様! ご無事ですか!?」
でも、私の方が近い。
私は本を前に抱え直し、お兄様にお願いした。
「お兄様、少し離れていてください」
そして、もう一度侍女の頭に本を叩きこんだ。