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カリーナ姫と侍女を部屋へ連れていき、わたしの侍女にタオルを持ってきてもらった。
暖炉の火の前で髪と体を拭き、熱い紅茶を飲みながら、カリーナ姫の話を聞く。
『わたくしの父である国王は、わたくしとエドワール王太子の婚姻を望んでいます。ですが、わたくしには心に決めた方がいるのです』
『まあ。どなたなのですか?』
真剣まなざしで、カリーナ姫はお相手の方の名を口にした。
『アラン様です。エドワール王太子の従兄で、公爵令息の』
『アラン様……』
宰相閣下の嫡男である二十六歳のアラン様は、宰相の後継者となる勉強をするため、一年のほとんどを外国で過ごしている。
カリーナ姫は去年、隣国に留学中のアラン様と知り合い、恋に落ちたのだそうだ。
『わたくしは王家に生まれましたが、王女たちは、所詮政略結婚の駒でしかありません。幼い頃から籠の鳥で、ほとんど王宮の外へ出たこともありませんでした。でも、アラン様は無知なわたくしを笑ったりせず、外の世界のことをたくさん教えてくださいました。そして、いつかわたくしをあの王宮から連れ出すと約束してくださったのです』
暖炉の火に照らされたカリーナ姫の横顔は、内なる恋によって輝きを増していた。
わたしは姫のその表情から目が離せなかった。
自分の気持ちにまっすぐな彼女は、とても綺麗だったから。
『……では、あなたはアラン様に会いに行こうとしていたのですね?』
『ええ。今日の狩りで彼にお会いできると思っていたのに中止になってしまい、それならわたくしから彼のところへ行こうと思いました。ですが、道に迷ってしまって……せっかくのお茶会のお誘いを、具合が悪いなどと嘘をついてお断りしたこと、お詫びいたします』
『いいえ、どうぞお気になさらず。それから、道案内はわたしにお任せください!』
わたしは勢いよく立ち上がり、自分の胸に手を当てた。
『十歳からこの王宮で暮らしているわたしが、誰にも見つからずにアラン様の元へ行く道をご案内させていただきますね』
『まあ……ありがとうございます、ジョゼット姫』
カリーナ姫は、とてもうれしそうに顔をほころばせた。
***
『……本当にこんなところを通るのですか?』
カリーナ姫の侍女がうろんげに尋ねた。
それも無理はない。
正殿の五階の、他には誰も通らないような手すりのない古い外階段を上っているのだから。
雨は上がっていたが、濡れているので慎重に歩かなければならない。
わたしはカリーナ姫の手を取って先導しながら、侍女に返事をした。
『この階段を上れば、青年王族の方々が滞在する一角に出ます。わたしがお部屋の割り振りも手伝ったので憶えています。あ、そこ、気をつけて歩いてくださいね』
『青年王族……では、王太子殿下もそちらに?』
侍女がふたたび尋ねる。
足場の狭い場所でカリーナ姫の補助をしていたので、わたしは侍女を見もせずに答えた。
『いいえ、王太子殿下は王太子の宮殿で過ごされています。カリーナ姫、さあ、勇気を出してこちらへ!』
『わ、わかったわ……』
階段の一部分が崩れ落ち、はるか遠い地面が見えている箇所で、わたしは青ざめている姫を励ました。
姫がわたしの両手をしっかりと握り、目をつむり、えいっと足を踏みだす。
無事、こちら側へ渡れた彼女を、わたしはぎゅっと抱きしめた。
『やりましたね、カリーナ姫!』
『あ、あなた、いつもこんな道を通っているの?』
『いつもというわけではありませんが……わたしは十歳まで下町育ちだったので、王宮で暇をもてあましていたときに色々と探検しました』
『まあ』
言ったあとから、高貴なお客様に呆れられてしまうかしらと後悔した。
けれど、カリーナ姫はくすくすと笑った。
『ジョゼット姫は面白い方ね。アラン様がよくあなたのことを褒めていたから、実はちょっと嫉妬していたの。ごめんなさいね』
『え……? アラン様がわたしを?』
『ええ。かわいらしいだけではなく、とても勉強熱心で三か国語を話せる才媛の姫だと』
ろくに喋ったこともないアラン様が、外国の姫君にわたしのことをそんな風に褒めてくださっていたなんて――
ただただ驚きだった。
蔑まれていると勝手に思い込んでいた王族の方から良く思われていたと知り、うれしさに舞い上がりそうになる。
外階段からようやく屋内へ入ると、わたしはくるりと姫を振りかえった。
『奥から三番目がアラン様のお部屋です』
カリーナ姫は、ぽっと頬を染め、鼓動を鎮めようとでもするように両手を胸に当てた。
そして、わたしにほほえみかけた。
『本当にありがとう、ジョゼット姫。次は、わたくしにあなたの恋をお手伝いさせてね』
『えっ?』
『王太子殿下と恋仲なのでしょう? わたくしの国にまで噂が届くほどだもの』
『なっ……!』
『昨日の王太子殿下のあなたへの視線を見て確信したわ。噂は本当だったと』
『そっ…………』
そんなはずはない。
お兄様はただ、両親のいないわたしに優しくしてくれているだけだ。
わたしは真っ赤になって否定した。
『ち、違います! お兄様とわたしはただの従兄妹です! そもそもわたしは半分平民で、純粋な王族の血を引くお兄様とは釣り合うはずもなく…………』
『あら、そんなことを気にしているの?』
カリーナ姫は意外そうに目を見開いた。
わたしもびっくりして、彼女をまじまじと見た。
そんなこと?
わたしがこの王宮へ来てから八年間、ずっと感じていた引け目が、「そんなこと」……?
カリーナ姫は穏やかに言った。
『わたくしの母は宮廷音楽家から側妃になったわ。そのおかげで、わたくしは五つの楽器を上手に弾けるの。中でも弦楽器が一番得意ね。アラン様もわたくしの演奏をとても気に入ってくださっているわ。聴いていると心が洗われるようだと』
こんなに高貴で誇り高く見えるカリーナ姫が、宮廷音楽家の娘――
何よりも、そのことを彼女自身が自然に受け入れている様子が、わたしにはとても意外で新鮮に映った。
そういえば、自由な気風の隣国では、愛人を持つことは特に禁止されていないと聞いたことがある。
堅苦しいところのあるこの国では眉をひそめられるようなことだけれど、カリーナ姫は「愛人の子」などと蔑まれることなく、のびのびと育ったのだろう。
屈託など少しも感じられない晴れやかな表情で、カリーナ姫がわたしに語りかける。
『平民だとか王族だとか、そんなことはちっとも関係ないわ。あなたの価値を他人に決めさせては駄目。あなたの価値は、あなた自身が決めなくては』
『わたし自身が……?』
カリーナ姫は、励ますようにわたしの手を両手で握った。
その手はとても温かく、わたしの心まで温まるようだった。
それから彼女は悪戯っぽく笑い、手を離した。
『王族の血統書なんてなくても、わたくしが愛されているところをその目でご覧になってね』
彼女はアラン様の部屋の扉を叩いた。
「誰だ?」
『アラン様、わたくしです』
「カリーナ!?」
扉はすぐに開き、アラン様が出てきた。
アラン様は姫を抱きしめ、隣国の言葉で情熱的に言った。
『カリーナ、どうしてここに? 君に手紙を書いていたところだったんだ。ああ、会えてうれしいよ』
『ジョゼット姫が案内してくださったのです』
『ジョゼット姫が?』
アラン様はわたしに気づくと、何かを察したように、パチッと片目をつぶった。
「ありがとう、ジョゼット姫! 今度は僕が、君とエドワールを応援させてもらうからね」
「いっ、いえっ! ですから別に、わたしはそんな……」
カリーナ姫と同じようなことをアラン様にも言われ、あわあわと口ごもっているうちに、いつの間にか扉は閉まっていた。
気がつけば、カリーナ姫の侍女もいない。
このまま恋人たちの部屋の前に立っているのも気が引けたので、わたしは正殿を出た。