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気まずい沈黙が続いて、フェリシアはお茶を飲み続ける。しかし華奢なデザインのティーカップにはお茶は僅かな量しか入っておらず、すぐに空になる。
(お代わりしたいけど、今、席を立つのはよろしくない気がする……)
イクセルは薄く微笑み、口を開くタイミングをうかがうように、じっとこちらを見ている。ああ……辛い。
物音ひとつ立てただけで世界が破滅するような緊迫感の中、フェリシアは空になったティーカップをソーサーに慎重に戻す。
その瞬間、イクセルの唇が動いた。
「フェリシア殿、率直にお尋ねしますがもしかして私がここに来たことは迷惑でしたか?」
「ひっ……!」
低く艶やかな彼の声音は、今のフェリシアにとって心臓をナイフで撫でられるようなものだった。
無意識に声にならない悲鳴をあげてしまった途端、イクセルはこの世の終わりのような悲しげな表情を浮かべた。
「そうですか。貴女を困らせるつもりはなかったのですが……申し訳ありません」
「い、いえ」
条件反射で首を横に振ると、イクセルの表情がわずかに変わった。
「つまり、迷惑ではないと?」
「え?……あ、いえ……その……」
現在、フェリシアの中でイクセルは、会いたくない人ランキングでぶっちぎりの一位だ。迷惑に決まっている。今すぐ帰ってほしい。
そう言えたらどんなに気持ちが楽になるだろう。
しかし父と兄が王都で家門を存続させるべく奔走している最中、別荘で避暑ライフを満喫している自分がイクセルに無礼の上塗りをすることだけは絶対に避けなければならない。
フェリシアは前世で培った社会人の対人スキルを必死に思い出す。営業補佐として働いていた時は、急なトラブルだって何とか処理してきた。
今の自分は、あの頃とは姿も年齢もまったく違うけれど、度胸だけは変わらないはずだ。
「ねえ、イクセル様。駆け引きはそろそろやめませんこと?」
頭が切れる相手に姑息な手段を使うのは愚策。無駄な探り合いを放棄して、腹を割って話をするのが解決への近道だ。
前世の自分が出した答えに従い、フェリシアはイクセルに人懐っこい笑みを向けた。しかし彼は、提案に乗ってくれなかった。
「その言い方はちょっと心外です。私はここにきて一度も貴女の気持ちを試すような真似はしてませんよ」
心底驚いた顔をするイクセルは、天性の嘘つきなのかもしれない。
「わたくしだって、貴方の気持ちを試すような真似はしてません」
「ほう。それはこの場に限ってのことですか?」
「まさか。過去一度だって、わたくしそんなことは──」
「お見合いの席でも?」
「ええ。あ……っ!」
このやり取りは誘導尋問だった。まんまとそれに嵌ってしまったフェリシアは、とりあえず口をつぐむ。
「フェリシア嬢、今一度訊きますが、あのお見合いで取った貴方の態度は、私の気持ちを試したわけじゃないということですか?」
「えっと……気持ちを試すって……何を?」
「俗に言う“男の器”を、ですよ。わざと腹を立たせるような行動を取って、私がどこで気を悪くするかどうか推し量っていたのでは?」
「わたくしがそんな馬鹿みたいな測定をして、家門を危機にさらすような女に見えますか!?」
失礼極まりないイクセルの質問に、つい噛みつくように言い返してしまったフェリシアだが、これもまた失言だった。
「そうですね。見えません。ただ、あの日の貴女の行動が駆け引きだったら……とは、今でも願っていますけど」
「あはっ……どうでしょう……ふふっ」
「ま、違うなら違うで、ちゃんと説明をしてほしいですけどね」
ふわっふわな回答で逃げようとしたフェリシアを、イクセルはしっかりと捕まえた。
「で、どうしてお見合いの途中で帰られてしまったのですか?説明をお願いします」
やっと本題に入ってくれたが、失態が続いてしまったフェリシアはアップアップになっている。まともに話せる状態ではない。
そもそもお見合いを放棄した理由は前世の自分からの警告に従っただけ。でも、そんなこと言おうものなら、イクセルの怒りを助長するだけだ。
「あ、えっと……その……お、怒らないで聞いてくださいます?」
「もちろん。私はそんな手荒な真似をする男ではありませんので安心してください」
どの口が言うんだ!と、フェリシアは心の中で叫んだ。しかしそれをぐっと押し込み、口を開く。
「まずわたくしからお見合いを望んだというのに、あのような態度を取って申し訳ございません。本当にお恥ずかしいというか情けない話なのですが……あの場から逃げたのは、わたくしにアベンス家の一員になる覚悟が足りなかったからなのです」
「つまり怖気づいてしまった、と?」
「は、はい!そうです、そうなのです!」
マザコンの男との結婚に怖気づいた。それが正しい理由だが、まぁ似たようなものだ。
感情と口から出た言葉が一致して、フェリシアは何度もコクコクと頷く。だが頷けば頷くほど、イクセルは怪訝な表情になる。
「しかしフェリシア嬢、貴女はお見合い前に私に手紙をくださいましたよね」
そう言いながらイクセルは制服の上着の内側に手を入れ、現物を取り出した。
見覚えのある薄紫色の封筒を視野に入れた途端、あ、しまったと、フェリシアはお見合い直前の記憶を思い出して冷や汗を垂らす。
すっかり忘れていたけれど、如何なる努力をしてでも公爵夫人に相応しいと思ってもらえる自分になります的な決意表明に近い手紙をイクセル宛に送っていた。
(もう、馬鹿!わたくしの馬鹿!!)
前世の記憶がなかったとはいえ、ルンルン気分でこんな男に熱烈な内容の手紙を書いていた自分を、フェリシアは心底恨んだ。