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イクセルが左手の人差し指にはめていた指輪に違和感を感じたのは、慰労会の身支度を終えたのとほぼ同時だった。
「ん?……っ!!」
全身に無数の針を刺されたような痛みが走り、イクセルは呻き声をあげながら床に崩れ落ちる。
喘ぐような息をしながら指輪に視線を向ければ、青にも銀にも見える宝石は鮮血色に染まっていた。
「ふっざけんな……よ!」
舌打ちをしながら、イクセルは気合で立ち上がる。
無様に倒れたせいで、皺ひとつなかった警護隊の正装が乱れてしまった。国王に謁見するときより遥かに気合を入れたというのにどうしてくれるんだ。
忌々しい思いを込めてもう一度指輪を睨めば、やはり宝石の色は血の色をしている。
身体中の痛みも僅かに和らいだとはいえ、これを気のせいだと思い込むのは、流石に厳しい。
認めたくない現実を受け入れた途端、イクセルの顔から血の気が引く。
フェリシアはこの指輪を足枷のように思っているが、実は違う。
アベンス家の家宝であり、本来夫婦の契りを交わした後に使われる指輪だ。契約を交わした相手の身代わりになる保護魔法がかけられている。
しかしこの世に絶対がないように、指輪の力にも限界がある。寿命を延ばす時間は限られているし、物理的攻撃に何度も耐えられるわけではない。
過保護なイクセルは、フェリシアが夕立に打たれて倒れた時に、病や怪我を請け負う魔法をかけた。フェリシアの身に何かあれば、その苦痛を代わりに引き受けられるように。
つまりフェリシアは今しがた、指輪とイクセルの魔法でギリギリ命を繋げた危機的状況に陥っている。もし次に同じようなことがあれば、指輪もイクセルも無事ではいられない。
誰がそんなことを、などと考える必要はない。イクセルの宝物に対してそんな命知らずなことをする相手は、この世でたった一人だけだ。
「エイリットの母親だからこれまで生かしておいてやったが、もう容赦しない」
親殺しは、貴族平民問わず重罪だ。だが誰にも気づかれずに人一人の命を消すことは、イクセルにとって至極簡単なこと。
しかし報復なんかより、フェリシアの身を護る方が大事だ。
イクセルは上着を乱暴に脱ぐと、.力任せにソファに叩きつける。と同時に、執務室の扉が乱暴に開いた。
「兄様、早まらないでください……!!」
転がるように飛び込んできたエイリットは、イクセルの腰にしがみついた。
「邪魔だ、どけ。今はお前と遊んでる暇はない」
「僕だって兄様と遊びたいわけじゃないです!フェリシア様の身に何かあったんですよね!?」
「ああ、そうだ。わかってるなら、さっさと離れろ。俺は忙しいんだ」
「嫌だ!!」
子供みたいにブンブンと首を横に振るエイリットに、イクセルはあからさまに溜息を吐いた。
「そうか。つまりお前は、シアがスセルの別荘にいることをあの女に密告した言い訳をしに来たというわけか」
「っ……!」
「いいぞ、聞いてやるさ。さっさと話せ」
これまで聞いたこともないほど冷たいイクセルの声に、エイリットは息を吞む。
しかし、意を決したようにグッと顔を上げると口を開いた。
「ごめん、兄様。僕……母様がどんどん不幸になっていくのを止めたかったんだ。兄様は、逃げたフェリシア嬢を追いかけまわすほど惚れこんでいるし、僕だってアベンス家の当主になんかなりたくない。いい加減諦めて、本当に欲しいものを手に入れてって母様に手紙で伝えたんだ……ごめん……」
涙声で訴えるエイリットに、イクセルは無情にもデコピンをした。
「っ!……痛い……」
「お前の気持ちはわかった。だからこれで手打ちにしてやる」
寛大な兄の手打ちに、エイリットは額を押さえながら「ありがとう」と頭を下げた。
しかし、これで会話が終わったわけではない。ここからが本題だ。
「兄様、母様がやったことは許されないことだとわかってる。ちゃんと罰を受けなきゃいけないとも思ってる。でも……僕は……」
母様に死んでほしくない。最後は俯き、黙りこくったエイリットはきっとそう言いたかったのだろう。
イクセルは一度自分の懐に入れた人間に対してはとことん甘くなる。その反面、自分の懐に入れた相手を傷つける人間に対して容赦ない。
それがわかっているエイリットだからこそ、言葉にすることができなかったのだ。
「あの女はシアを殺そうとした」
指輪と身代わり魔法がなければ、間違いなくフェリシアは死んでいた。その事実だけは覆すことができない。
淡々とイクセルが告げれば、エイリットは血がにじむほど唇をかみしめた。
「……母様は最低だ」
「ああ、その通りだ」
「一番やっちゃいけないことを……したんだね」
「そうだ」
イクセルは相槌を打ってくれてはいるが、その声音は冷たい。エイリットの願いを叶える気はまったくないようだ。
だからエイリットは──兄から授かったずる賢さを、最大限発揮することにした。
「兄様、一つ提案があります。継母殺しのリスクを負うより、もっと平和的に丸く収める方法です」
「平和的?そんなもの俺は望んで──」
「兄様は人を殺した手でフェリシア様に触れる気ですか?」
「っ……!」
鈍器で殴られたような顔をしたイクセルに、エイリットは畳みかける。
「兄様はただ携帯転移紙を2枚用意するだけでいいんです。あとは僕が全部やります」
きっぱりと言ったエイリットに、イクセルはぐしゃぐしゃと乱暴に後頭部を掻く。
「お前……携帯転移紙がどれだけ高価なものかわかってるのか?」
「フェリシア様に後ろめたさを感じず触れられると思えば、安いものでしょう?」
うっと言葉に詰まったイクセルを見て、エイリットはニコッと笑う。勝敗は決した。
「わかった、用意する。だが、もう少し詳しく話せ。ただ時間がないから、手短に頼む」
弟の要求をのんだイクセルは、チラリと視線を入り口扉に向ける。
遠くから、ものすごい勢いでこちらにやってくる複数の足音を感じる。おそらくフェリシアを救うためには、その中の一人の力を借りなくてはならないだろう。
まともに話を聞いてもらえる状況ではないのはわかっている。だが、なんとか平和的に協力してほしいと、イクセルは図々しくもそんなことを願ってしまった。




