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ニドラに詳細を訊けないまま身支度が終わり、フェリシアはモネに見送られ、ニドラとともに馬車に乗り込む。
先導する馬に乗った警護隊は、本日はラルフではなく別の人だった。
「ラルフ殿は、しばらく視察で砦を離れるそうです」
「まぁ、そうだったの……」
フェリシアとラルフは、たった一日とはいえ一緒に仕事をした仲だ。警護隊の仕事とはいえ、顔を見ることができないのは少し寂しい。
「そんな顔をなさらずとも、ラルフ殿は10日程で戻ってくるそうです。すぐにお会いできますよ」
「……ニドラ、随分と砦の内情に詳しいわね」
「はい。フェリシア様が臥せっておられる間も、大陸語の講師は続けておりましたから」
「そ、そうなの!?」
てっきり休講にしていたと思っていたフェリシアは、目を丸くする。
「主からの頼まれごとですから、おろそかにはできません。夏季休暇が明けるまでに、ディオーラ様には何としても大陸語をマスターしていただきます」
反対側の席に座っているニドラの口調はきっぱりとしていて、表情は使命感に満ちていた。
「……わたくしは、貴女にふさわしい主になれているのかしら」
「まだ風邪を引いておられるのですか?」
「もうっ、ニドラったら!」
ほほを膨らませたフェリシアに、ニドラは珍しくクスクスと笑う。
「フェリシア様は、そんなことを気にされなくてもいいのです」
「嫌よ。わたくしはニドラが“あんな主人に仕えてかわいそう”だなんて、言われたくないですもの」
「ご心配には及びません。そんな輩は、二度と減らず口が叩けぬよう処分しますから」
言い終えると、ニドラはクスクス笑いからニヤリ笑いに変わった。目が本気だった。
「……やっぱりわたくし、もっと努力しますわ。手始めに大陸語を学ぼうかしら?」
「フェリシア様が、ですか?どういう風の吹き回しでしょう」
「だってできないままでいたら、ずっと嘘を吐き続けなきゃいけないでしょ?ニドラにずっと甘えるのも申し訳ないですし。なら習得してしまえば嘘にはならないし、特技にだってなるわ」
語りながらフェリシアは、自分の言葉に納得する。
甘やかされて気づいてなかったけれど、井上莉子と同じように自分も苦手なものから逃げてしまう悪い癖があった。
でもこれまでは、優秀な侍女のおかげで許されていた。きっとこれからも気にしなければ、不便なく暮らしていけるだろう。
しかし、それでは駄目だとフェリシアは思う。少しずつでも、欠点を直していきたい。そうして苦手なものを克服していけば、いつか夕立の時に出せなかった答えに辿りつけると信じている。
「そういうわけで、よろしくお願いします。ニドラ先生」
「……はぁーーーー」
背筋を伸ばして頭を下げた途端、ニドラが長い長い溜息を吐く。
「ちょっとニドラ、それは酷いんじゃありませんの?」
物覚えのいいほうではないのは自覚しているが、やる前から無理と決めつけないでほしい。
そんな気持ちでフェリシアは顔を上げて、ニドラを軽く睨む。しかし彼女の溜息は、違う意味だった。
「フェリシア様のお世話をするのが生きがいでしたのに、自立したことを言われると……なんだか寂しゅうございます」
「それは申し訳ないわ……ごめんなさい。あと、わたくしをダメ人間にしないで。あのねニドラ、大陸語ができたところで、たくさんできなかったことが、一つが減っただけよ。まだまだ貴女が傍にいてくれないと困るの、わたくし。だから寂しいだなんて言わないで」
素直な気持ちを口にすれば、ニドラは眩しそうにフェリシアを見る。
「フェリシア様は、いつの間にか大人になられたのですね」
寂しさと嬉しさを滲ませたニドラの言葉に、フェリシアは「まだまだこれからよ」と言って微笑み返した。
*
馬車は定刻通り砦に到着し、フェリシアはイクセルの上着を抱えて、ニドラは大陸語の辞書などが入った鞄を持って降りる。
夏の日差しは、午前中だというのにジリジリと照り付けている。
「ここまで熱いと、さすがに今日は外での昼食は無理そうね」
「さようですね。屋内の北側に静かな場所がございましたので、そちらに変更するのがよろしいかと」
「賛成だわ。じゃあ、わたくしがイクセル様に使っていいか許可をいただくから、ニドラはエイリットさんとディオーナ様に伝えてくれるかしら?」
「もちろんです」
砦内へと歩きながらそんな会話をしていたら、今まさに話題に出た二人が姿を現した。
「フェリシア様!ニドラ先生!お迎えにきましたぁー」
暑さなどものともしない元気の良さで、ディオーナは大きく手を振りながらこちらに駆け寄る。フェリシアも、笑顔で手を振り返す。
「10日ぶりですが、お元気でしたか?ディオーナ様」
「はい!見ての通り元気です。フェリシア様こそ、体調はもうよろしいのですか?」
「ええ。嫌というほどベッドに縛り付けられましたから」
「まぁ!さすがニドラ先生。体調管理も優秀なんですね。素晴らしいですっ。尊敬しますわ!」
「……え?」
最終的にニドラを称賛する形となり、フェリシアの笑顔が固まる。
一方、ニドラはまんざらでもない表情を浮かべている。しばらく見ない間に、ニドラとディオーナに固い師弟関係が生まれたようで何よりだ。
そんな中、少し遅れてエイリットが到着した。
「おはようございます。エイリットさん。今日も暑くなりそ……ん?」
彼は貴族令息の夏休みらしい品のある軽装姿でニコニコ顔だったが、なぜか不気味なぬいぐるみを抱えていた。




