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イクセルの呼び止めを無視して飛び込んだ馬車の中で、フェリシアは前世と同じ過ちを繰り返さなくて、あー良かった……そんなふうにほっと胸をなでおろした。
けれど、現実はこれで終わりとはいかなかった。
セーデル邸の自室に戻った瞬間、フェリシアは熱を出して寝込んでしまった。
前世の記憶が戻った衝撃と、恋い慕っていたイクセルがマザコンだったこと。自分はそういう呪いにかかっていて、一生幸せな結婚ができないかもしれない恐怖。それらが体にまとわりついて、三日三晩フェリシアは悪夢にうなされた。
4日目の朝、ようやく意識を取り戻し、5日目には食事を完食してデザートをおかわりするほど元気になったと思ったら、父であるオリディオの書斎に呼ばれ──
「フェリシア!あれだけ望んでいたアベンス卿の嫡男との見合いを断るなんて……お、お、お、お前!なんてことをしてくれたんだぁーーー!!」
と、部屋に入るなり、執務机に着席しているオリディオから頭ごなしに怒鳴りつけられたわけである。
(ま……まぁ、怒るのも当然よね)
母親のフローラが6年前に他界してから、フェリシアは父と兄に、それはそれは大切に育てられてきた。
今回のイクセルとの見合いも、フェリシアが切望したから父と兄があの手この手を使って席を設けてくれたのだ。
貴族にとってお見合いとは、9割が婚約したようなもの。残り1割は失敗に終わるけれど、断る権利は身分が上のものに限る。
セーデル家は建国当初から続く名門貴族だ。しかしアベンス家はもっと格上。過去、何度も王族との婚姻関係を結び、政治的発言力だって圧倒的に強い。
そんな超名門貴族の嫡男との見合いを強引に取り付けた挙句、一方的な断りを入れてしまった。これはアベンス家に喧嘩を売ったも同然だ。家門を揺るがす大事件である。
前世の記憶が戻ったとはいえ、フェリシアは今世の記憶も常識も忘れてなんかいない。
だから父親の怒りは甘んじて受け止める。罰も受けるし、できることがあるなら何でもする。しかし事情だけは説明できない。
「フェリシア、黙ってないで答えなさい!」
オリディオが再び声を荒げるが、フェリシアは前世の失敗談を語るわけにもいかず、まごまごすることしかできない。
そんな中、やけに嬉しそうな声が書斎に響いた。
「父上、フェリシアを責めるのは間違っています。フェリシアは正しい選択をしただけじゃないですか。ここは褒めるところでしょう」
場の空気を読まずに笑顔でそう言ったのは、書斎の壁と同化していたフェリシアの兄フレードリクだった。
軽い足取りでフェリシアの隣に立ったフレードリクは、愛する妹の肩に手を置き顔を覗き込む。
「心配するな、シア。あの男が何か言ってきても、俺がガツンと黙らせてやる」
「は、はい!お兄様、ありがとうございます」
兄の頼もしい発言に目をうるませるフェリシアだが、父親の額には青筋が浮く。
「なぁーにが褒めるところ、だ!この馬鹿者!!」
「馬鹿者?……は?まさか父上、俺に言ってるんですか?」
「お前以外に誰がいる!?」
「え?ご冗談を」
「こんな一大事に冗談なんていえるわけあるかっ」
バンッと机を叩いて立ち上がったオリディオは、足音荒くフレードリクに詰め寄る。
向かい合った父と兄の髪は、二人ともアッシュグリーン。睨み合う瞳も同じ深緑色。加えて二人とも騎士の称号を得ている鍛えた体格だから、背格好まで同じ。
「いい加減にしろ!ちょっと頭を冷やせっ。この馬鹿息子が!!」
「それはこっちの台詞です!フェリシアの幸せより大切なものなんてないっ。あんな胡散臭い奴の妻になるなら、アベンス家と全面戦争しますよ、俺は!」
「アホかっ。貴族同士の争いは禁じられているのを忘れたのか!?そんなことをすれば死罪確定だ!」
「ならば騎士として決闘を申し込みますよ。妹の名誉をかけて」
家門の存続の危機だというのにフェリシアの肩を持ちづつけるフレードリクに、とうとうオリディオが切れた。
「この愚か者!頭を冷やせ!!」
言うが早いか、オリディオは勢い良く片手を振り上げる。すぐさま本棚に並べられている書物全てが一斉にフレードリクめがけて飛んできた。
「おわっ、ちょ……父上!危ないじゃないですかっ。フェリシアに当たったらどうするんですか!?」
フェリシアを横抱きにして、バサバサッと頭上に降ってきた書物を器用によけたフレードリクは、声を荒げてオリディオに抗議する。
「はんっ。この儂がそんな愚かな真似をするわけないだろう。ちょっとは考えろ、愚息よ」
鼻で笑いながら答えるオリディオと、「確かにそうですね」と素直に頷くフレードリクを見て、フェリシアは本当に大事にされているなと改めて実感する。
そんな心優しい二人が諍いを起こしているのは、自分のせいだ。ほっといて欲しいというのが本音だけれど、傍観し続けるのはもう限界だ。
「お兄様、降ろしてくださいませ」
「ん?別にこのままでもいいじゃないか」
「良くありませんわ」
何かにつけて抱き上げる兄は、未だに自分のことを3歳児だと思っている節がある。過保護でスキンシップが多いことに不満はないけれど、今はちょっと自重してほしい。
そんな気持ちからもう一度「降ろして」と訴えれば、フレードリクは渋々ながらフェリシアをそっと床に降ろした。
足元には本の山。フェリシアはそれを踏まないよう気を付けながら、オリディオと向かい合う。
「お父様、此度の件、本当に申し訳ありません」
深々と頭を下げれば、オリディオはあからさまに狼狽える。
「あ……ああ。儂も感情的になりすぎた。怒鳴って悪かった。許してくれ」
「許すなんてそんな……怒鳴られるようなことをわたくしがしてしまったのですから、お父様は何も悪くないですわ」
ゆるく首を振れば、オリディオは顔をくしゃりと歪めた。
「そんなことを言ってくれるな、シア。儂はな、ただ理由を知りたいだけなんだ」
ニュアンス的に納得できる理由ならどうにかしてくれそうな予感がするが、ありのままを伝えれば違う意味で心配をかけてしまうだろう。
さて困った、どうしよう。縋るように窓を見つめれば、窓に自分の姿が映る。
腰まであるライムグリーンの柔らかい髪に、つぶらなスミレ色の瞳。儚げな印象を与える可憐な顔に華奢な身体。
前世の世界ならアイドルグループのセンターを狙えるほどの可愛らしさだ。
(これなら、いける)
かつて社交界で高嶺の花とうたわれた母親の容姿をそっくり受け継いだ自分を改めて認識したフェリシアは、ぎゅっとスカートの裾を握ると俯いた。