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「……イクセル様、こ、これ……」
血の気が引いたフェリシアは、該当する書類だけを持ちイクセルの執務机に向かう。
机に到着するより、立ち上がったイクセルに報告書を取り上げられる方が早かった。
「いけない子だね。勝手に報告書を読むなんて」
「……ご、ごめんなさい」
震える声でフェリシアが謝ったと同時に、大きな手がポンと頭の上に乗った。
「事件は解決している。ただその頃、私はまだ学生で事件に関わることができなかったから、詳細を知りたいと思って部下に調べさせただけだ」
「そう……なんですか?」
「ああ。それだけだ」
雷を怖がる子供をあやすように優しく、ゆっくりとした口調で、イクセルはフェリシアに語る。けれどフェリシアの顔は青ざめたまま。
「大丈夫だ。私がいる限り、二度とこんな事件は起こさせない」
「……うん」
力強い眼差しと、ゆっくりと頭を撫でてくれるイクセルの手が暖かく、やっと安心したフェリシアはコクリと頷く。
なんだか子供に戻ってしまったみたいだと思った瞬間、我に返ったフェリシアは慌ててイクセルと距離を取る。
「ご、ごめんなさい……わたくしったら」
「いや。かわいかったよ」
「っ……!」
だからもう、不意打ちはやめてほしい。
フェリシアの青ざめた顔色が、あっという間に朱を帯びる。それを見られたくないフェリシアはイクセルに背を向けると、再びテーブルの上にある書類を移動させた。
なんとかテーブルの上で食事ができそうになった頃、ラルフが二人分の食事を運んできてくれた。
質より量を優先した味付けの昼食を食べ終え、再び作業に戻る。お腹を満たしたラルフは昼前より機敏に動いてくれる。
現在彼は、国内に点在している警護隊の詰所に勤務する隊員の日報を、日付順に並べる作業中。
調子を取り戻したフェリシアも、せっせと承認が必要な書類を選別して、イクセルに届けている。
「こちらで承認いただきたい報告書は以上です」
書類の束を受け取ったイクセルは目を丸くする。
「もう終わりか?早いな」
「ええ。ラルフ殿が頑張ってくださってるので」
上司の前で部下をほめるのは、井上莉子がよく使っていた手法だ。これで部下は3倍やる気を出す。読み通り、ラルフの手つきが速くなった。
「貴女は人を使う術に長けている。さて、私も負けてはいられないから頑張るか」
肩をぐるりと回したイクセルは、ペンを握りなおすと書類にサインをし始める。
「次は日報をお持ちしますね」
「ああ。助かる」
書類を持ったまま歯を見せて笑ったイクセルに、フェリシアも微笑み返して作業に戻る。
「ぅわっしょい! 自分、日報を日付順に並べ終えました。確認、おねがいしやっっっす!」
一人掛けのソファに腰かけた途端、変な掛け声と共にラルフから書類の束を手渡され、若干引き気味にそれを受け取る。
パラ、パラ、パラ……緊張でガチガチになるラルフに見守られながら、フェリシアは日付の順番に間違いがないか確認する。そして、最後の一枚をめくり終えて──
「はい。確認しましたけど、問題ないですわ。完璧です」
ふわりと微笑んだフェリシアに、ラルフは「よっしゃぁー」とガッツポーズを決める。
「おい、ラルフ。喜んでいる内容が限りなく低次元だということをわかってるのか?」
「あら、次元など関係ないですわ。できないことができたんですもの。喜ばしいことじゃないですか」
咎めるイクセルに反論するフェリシア。それを見て、恐縮しつつもやっぱり喜ぶラルフ。傍から見たらくだらないやり取りに、三人は同時に声をあげて笑う。
それは、どこにでもある職場の一コマだ。しかしフェリシアにとったら懐かしいとも言える光景で──すっかり薄らいでいた元の職場でも出来事を鮮明に思い出してしまった。
無論、その中には職場恋愛だった野崎俊也も含まれていた。
『さっすがリコさん!あ、職場では井上さんって呼ばなきゃいけなかったね。ごめん』
『ねえねえ、リコ……じゃなくって、井上さん。この見積りの数字を変えるのどうすれば良かったんだっけ?』
『やっぱ、井上さんに褒められるのが、俺……一番嬉しいな』
不器用で段取りが悪い俊也は、部署で怒られる回数がダントツに多かった。でもそれに反して、取引先にはとても可愛がられていた。
その理由を井上莉子は誰よりもわかっていた。俊也はとても誠実な人。相手の気持ちを慮ることができる人。
他の職場の人達が、俊也のことを冴えない男と嘲笑っていても、井上莉子は「わかってないなー」と心の中で馬鹿にしていた。
(なのに……俊也は、あの台風の夜、前世のわたくしに何を言った?)
消したいと思っても、脳裏に鮮明に刻みつけられている。一語一句、忘れることができない。自分が死ぬことになってしまった最大の原因である、あの言の葉を──。
「あ……あの、やっぱ間違いがありましたか?すんません」
ラルフの不安げな声でフェリシアは現実に引き戻される。
「あ……えっと……」
今、ここがどこで、自分が誰なのかわからなくなり、フェリシアは目を泳がせる。
「シア、少し休息を取ろう。ラルフ、お茶を持ってきてくれ」
「はっ」
椅子から立ちあがりながら指示を出したイクセルに、ラルフは弾かれたように廊下へと飛び出す。
バタンッと扉が閉まりラルフが姿を消してから、ようやくフェリシアは落ち着きを取り戻した。
「……間違った書類の差し替え方法すら知らなかったラルフ殿が、こんなに早く成長なさったことに驚いちゃって。ふふっ」
取り繕う自分をどうか見ないでと祈りながら、フェリシアは前に立つイクセルに書類を差し出す。
「ニドラが迎えに来るまで、あと少し頑張りましょう」
お願い。今は何も訊かずに黙って受け取って。前世の出来事を、伝えるわけにはいかないのだから。
「ああ。わかった」
フェリシアの祈りは神に届いたようで、イクセルは書類を受け取り執務机に戻った。




