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モネがキャンディスを空中に投げたのだ。
キャンディスの体は力が入らずに、ただ下に落ちていくかと思いきや、ヴァロンタンが間一髪で支えた。
逞しい腕がキャンディスの小さな体を包み込む。
「……さっさと逃げるよっ!」
「わかってる!」
どうやらヴァロンタンに見つかったことで、二人はキャンディスをこの場に捨てて逃げることを選択したようだ。
ヴァロンタンの低い声が響く。
「捕らえろ」
「はっ……!」
どこから出てきたのか複数人の人が背後から飛び出て、凄まじい速さで二人を追いかけていく。
キャンディスは名前を呼ぼうとするものの、呼吸がうまくできずに咳き込んだ。
視界がボヤけて見えない。
安心感からか薬のせいからかポロポロと涙が溢れてくる。
口端からヨダレが伝っていく。
手が上げられたないため涙も拭うことすらできない。
するとユーゴがキャンディスにそっと触れたり、目の前で手を振って眼球の動きを確かめているようだ。
「意識はありますが何か飲まされているようです。痺れ薬かもしれません」
「……失態だぞ。ユーゴ」
「申し訳ありません。罰はあとで受けます。まずは皇女様を」
ユーゴが叱られているがキャンディスは何も言えないままだ。
気道に唾が詰まって咳き込んでしまう。
ゴホゴホとキャンディスが苦しんでいる姿をヴァロンタンの表情は変わらない。
むしろ観察するようにじっと見られていることに恐怖すら感じはじめた時だった。
「──離せっ!離して」
「嫌よ!私たちは悪くないわ!」
どうやらキャンディスを拉致しようとした二人はあっさりと捕まってしまったようだ。
腕を掴まれているのだが必死に身を捩り抵抗している。
ヴァロンタンは片手でキャンディスを抱えられながら、右手で剣を持っている。
「……死んで償え」
そんな声と共に一人の首が音もなく床に落ちた。
けたたましい悲鳴が響き渡る前にもう一人の首も落ちる。
真っ赤な血溜まりができるのを見て、キャンディスの脳内にフラッシュバックする記憶。
首を斬り落とされて処刑された自分の姿と重なって目を見開いた。
(わたくしと、同じ……)
壁にビチャリと跳ねる血を見て思いきり悲鳴をあげたかったが唇も痺れているため声は出ない。
パッと血を払って剣を納めると、ヴァロンタンは両手でキャンディスを抱え直す。
あの時と同じ、怒りを孕んだ冷たい目を見て背筋がスッと寒くなり、キャンディスは震えが止まらなくなる。
止まらない吐き気にキャンディスは息苦しさを感じていた。
ユーゴが指示を出すとすぐに複数人が現れて布のようなものをかけると死体を片付けていく。
この時ほど視界が涙でぼやけていてよかったと思ったことはない。
「情報を吐かせる前に殺さないでくださいよ。まぁ、外に不審な馬車が停まっているので拷問して吐かせるからいいんですけど」
「今すぐ各宮殿から医師を集めろ」
「はっ!」
ヴァロンタンに抱えられたままバイオレット宮殿へと足を踏み入れる。
とりあえずはギリギリのところで攫われずに済んだようだ。
キャンディスは自分の部屋のベッドよりも更に大きなベッドへと寝かされる。
恐らく宮殿中から集められた医師によって、治療を受けることになったのをぼやけた視界で見つめていた。
ヴァロンタンは椅子に腰掛けて、その様子をずっと見ている。
いつもより険しい表情に医師たちの額には大粒の汗が滲んでいた。
キャンディスが飲まされたのは即効性のある痺れ薬だったようで幸い後遺症が残ることもなく、すぐに薬は抜けて動けるようになった。
だが、キャンディスはすぐに解放されることなくホワイト宮殿に返されることはなかった。