第82話 メアリーの家(後編)
メアリーがもたれ掛かるテーブルには、赤黒い液体が一面に広がっていた。液体はメアリーを起点にして流れ出ているようだ。
間違いない。これはメアリーの血液だ。おまけにリタはソファーの上に大の字になって倒れている。
あまりにも恐ろしい光景にヨネシゲは後退りする。
「そ、そんな……! 姉さん……リタ………一体何があったんだよ!?」
2人の身に一体何があったというのか?
例え戦車に砲撃されても、例え列車にはねられたとしても、ピンピンしているであろうあのメアリーとリタが、ぐったりした様子で倒れているではないか!? いや、ひょっとしたら、彼女たちは、もう……!
受け入れがたい現実。
思考を停止させながら後退りを続けていたヨネシゲが、突然我に返る。
「た、助けを呼ばないと……!」
ヨネシゲがそう思った時である。
「うわっ!!」
ヨネシゲが助けを求めるため、走り出そうと向きを変えようとした時、床に落ちていたある物を踏み付けてしまう。その途端、ヨネシゲはバランスを崩し転倒してしまった。
ヨネシゲは直ぐに顔を上げると、目の前には、そのある物が転がっていた。ヨネシゲはそれを手に取り凝視する。
「ん? ワインの空瓶……? ま、まさか……!?」
ワインの空瓶を見たヨネシゲは、何かを勘付いた様子でメアリーに視線を向ける。と同時にメアリーからうめき声が聞こえてきた。
「うぅ〜」
「ね、姉さん!?」
「ちょっと、誰……? さっきからうるさいわよ……?」
テーブルにもたれ掛かり吐血? していたであろうメアリーが、ゆっくりと顔を上げる。
ヨネシゲはその場から立ち上がると、照明のスイッチに手を伸ばし、明かりを灯す。
やがて、ヨネシゲの視界に映し出されたのは、虚ろな目でこちらを見つめる、泥酔メアリーと、ソファーで食べかけのパンを両手に握りながら眠っている、食い倒れリタの姿だった。
そして、気になるテーブル一面に広がっていた液体は、メアリーのグラスから溢れた赤ワインだった。
なんともだらしない光景に、ヨネシゲは呆れた表情を見せるも、2人に怪我など無かったみたいで、ヨネシゲはホッと胸を撫で下ろしていた。
「まったく……ビックリさせやがって。寿命が縮まったぞ……」
独り言を漏らすヨネシゲに、メアリーがしゃっくりを混じえながら問い掛けてくる。
「あれ……? シゲちゃん、どうしてここに……? まだ明け方よ?」
「何言ってんだ、姉さん! まだ日付は変わっちゃいない。晩飯前の時間だよ!」
メアリーは相当酔っぱらっており、今の現状を把握できていない様子だ。
「まったく、姉さんは……」
ヨネシゲは呆れた表情を浮かべると、今度はリタに視線を向ける。彼女が横たわるソファーの周りには、ジュースの空瓶が散乱していた。そしてソファーの向かいのローテーブルには、食後の皿が積み重ねられており、その隣には、まだ手を付けていない料理も幾つか並べられていた。
ヨネシゲは溜め息を吐きながらローテーブルに視線を下ろすと、あるものを発見する。
「こ、これは……!?」
ヨネシゲが見たものとは、今朝カルム市場のとある肉屋で売られていた、オジャウータンの似顔絵と名前が焼印されている、あの分厚いステーキ肉だった。
肉は既に焼かれており、こんがりと焼き目が付いているが、オジャウータンの焼印はしっかりと残っていた。
「はぁ。あれを買ったのか……」
我が親族があの狡猾肉屋の売上に貢献してしまった。ヨネシゲは憤りを感じつつも、ソファーの上で眠り続けるリタを起こそうとする。
「おい! リタ! 起きろって!」
ヨネシゲは大声を出しながら、リタの体を揺さぶる。すると彼女は突然目をカッと開くと、体を起こし慌てた様子を見せる。
「ま、まずいっ! 遅刻だっ! 早く支度しないと!」
寝ぼけているリタにヨネシゲが呆れた表情で声を掛ける。
「リタ。もう夕方過ぎてるぞ?」
「え? あぁ……そうだった。今日は学校休んでたんだ。てか、おじさん。何でいるの?」
リタは突然現れたヨネシゲに首を傾げる。そんな彼女にヨネシゲはムッとした様子で返事を返す。
「姉さんがパン屋を休んだって聞いたから、心配になって様子を見に来たんだ。それにしても玄関の鍵開けっ放しだったぞ? 不用心にも程がある!」
「鍵? あぁ、トムが帰って来る頃だと思って鍵は開けっ放しにしてたけど、寝ちゃってたよ。そういや、トムはまだ帰ってきてないの? 昼間ゴリキから聞いたけど、おじさんの家に居るんでしょ?」
「まだ俺の家に居るんじゃないか? 俺も仕事終わりに直接ここへ来たからわからんな。それにしても、この有り様は何なんだ!?」
ヨネシゲは散らかったリビングを見渡しながら、リタに状況の説明を求める。するとリタはソファーの上で胡座をかくと、俯きながら口を開く。
「やけ食いだよ……」
「やけ食いだって?」
「そうだよ。私はやけ食いで、お母さんはやけ酒……食わなきゃやってらんねえっ!!」
リタはそう声を張り上げると、目の前に置かれた例のステーキにかぶり付く。無我夢中でステーキを口の中に詰め込んでいくリタをヨネシゲが制止する。
「おい、リタ! 落ち着け! 喉に詰まらすぞ!?」
ヨネシゲはリタからステーキの皿を取り上げる。
リタは不機嫌そうな表情で口の中の肉を咀嚼していたが、ここである異変が起こる。
「お、おい。リタ、どうしたんだ……?」
ヨネシゲは驚いた表情でリタの顔を見つめる。
もぐもぐと口を動かすリタの瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちていた。
心配になったヨネシゲは、リタの隣に腰掛けると、その肩に手を添える。
「大丈夫か? どうしたんだ? おじさんに話してみろ」
リタは口の中の肉を飲み込むと、その胸の内を明かす。
「お父さんが居ない未来なんて、想像したくないよ……」
「ジョナス義兄さんか……それで、やけ食いしてたのか?」
「……うん。お母さんも同じだよ……」
ヨネシゲはメアリーに視線を向けると、彼女は再びテーブルにもたれ掛かり、酔い潰れていた。
昨晩、エイド一家を襲った凶報。それは、一家の大黒柱ジョナスの身が、危険に晒されているというものだった。既に命を落としている可能性も十分考えられる。故にリタやメアリーたちに与えた衝撃と不安は計り知れないものだ。恐らくリタとメアリーはその不安を誤魔化すために、やき食いやけ酒に走ってしまったのだろう。
そんな2人を見てヨネシゲは思い出す。それはかつて、自身が妻子を失ったショックを紛らわすために、やけ酒に走ってしまった記憶だ。
(今の2人を見ていると、まるで昔の自分を見ているようだ。相当見っともない姿だったんだろうな。顔も顰めたくなることだろう。だけど、そんな俺を姉さんとリタたちは、嫌な顔一つもせずに支え続けてくれた……)
ヨネシゲはリタの肩を軽く叩きながら、優しく微笑み掛ける。
「リタ。今夜は俺が一緒に居てやる! 俺にはこれくらいしかできないが、少しは気が紛れるだろ? 姉さんの介抱もしなきゃいけないしな」
リタは顔をしわくちゃにさせながら、ヨネシゲの顔を見つめる。
「おじさん……ありがとう……少しは良いところあるじゃん……」
「ガッハッハッ! 少しは余計だぞ? リタもゴリラみたいな顔して泣くのはもうやめろ」
「ゴリラじゃねぇ……ゴリラはゴリキだよ……!」
リタは涙と鼻水を流しながらもニコっと笑みを浮かべる。そんな彼女にヨネシゲはハンカチを差し出す。
「ほら、これで顔を拭え」
「ありがとう……」
リタは顔を赤くさせながら、ヨネシゲから受け取ったハンカチで顔を拭う。それを見計らってヨネシゲがある事実を伝える。
「ああ、そのハンカチ。昼間、俺が顔拭いたやつだがな……」
リタは、急いで顔からハンカチを離すと、その顔を顰めながら大声を上げる。
「き、きったねぇっ!! もっと早くに言えよっ!」
「ガッハッハッ! ドンマイ! 気にするなってよ!
「気にするさっ! こう見えても私は年頃の女の子だよ!?」
「すまん、すまん。だが、ようやく、いつものお前らしくなってきたな」
ヨネシゲの言葉を聞いたリタは、照れた表情で返事を返す。
「まったく、少し見直してたのに。でも、せっかく使わせてもらったハンカチだから、洗って返すよ……」
「そんな、気を使わなくてもいいぞ?」
「いや、そうさせて……」
「そうか。じゃあ、頼むぞ」
リタとの会話を終えたヨネシゲはソファーから立ち上がる。
「そんじゃ、俺は一度帰らせてもらうよ。ソフィアに事情も説明しないといけないからな。それと今夜は、トムを俺の家に泊まらすぞ? 姉さんがこんなんじゃトムも不安を覚えるだろうし、ウチに居た方がルイスやゴリキも居るから、気が紛れるだろう……」
「うん。そうだね。トムはおばさんとルイスたちに任せるよ。おばさんたちに宜しく言っておいて」
「おう! わかったよ。すまんがちょっと行ってくる。直ぐに戻るからな。それとちゃんと鍵を閉めてくれよ」
「フフッ。おじさんは心配性だなぁ……」
ヨネシゲはリタにそう伝え終えると、自宅に一度帰宅するため、メアリーの家を後にした。
(ここは、現実とは異なる世界で、あの2人も俺がよく知る姉と姪ではない……だけど、あの時受けた恩を少しでも返させてくれ。今度は俺が支える番だ……!)
つづく……
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