第390話 朝の日課
――まだ薄暗い明け方。
サンディ家屋敷の廊下を眠い目を擦りながら歩く角刈り頭は――ヨネシゲだ。
尿意を催して目覚めたヨネシゲは、屋敷内のトイレで用を足し、今は部屋に戻る最中だった。
(――あ〜眠い……グレース先生に睡眠を邪魔されちまったからな……全然寝た感じがしねえよ……だが……あと二、三時間は寝れそうだな。早く部屋に戻って布団に入ろう……う〜寒い……)
間もなく夏を迎えるトロイメライだが、雪の都と呼ばれる寒冷地フィーニスの早朝は、冬場並みに気温が低い。寝起きとなるとその体感温度は極寒である。
角刈りは身体が冷えないよう、自身の腕で身体を抱きしめながら、足早に廊下を移動。その最中、聞き慣れた甲高い声が彼の耳に届いてきた。
「ウホッ! そーれっ! ウホッ! ありゃあああああっ! ウホッ! そーれっ! ウホッ! ありゃあああああっ!……――」
角刈りが庭の方へ視線を移すと、マロウータンが上半身裸で扇の素振りを行っていた。空想術の実力を維持する為の白塗りの日課である。
(おっ、流石マロウータン様だ。朝から精が出るな……)
主君の鍛錬を尊敬の眼差しで見つめるヨネシゲだったが――白塗り顔と目があった。角刈りは透かさず膝を折り挨拶。
「マロウータン様、おはようございます」
「―――ほよ? なんじゃヨネシゲか。もう起きておったのか?」
「あ、はい……ちょっとトイレに行っておりまして……部屋に戻る途中、マロウータン様の声が聞こえたものですから……」
「なんじゃ、便所に行っておったのか。……まあまだ夜明け前じゃ。連日の疲れも溜まっておろう。そなたはもう少し休んでおれ」
「ありがとうございます……では、お言葉に甘えて……――」
臣下を気遣うマロウータン。一方のヨネシゲは主君の厚意を受け取り、部屋へ戻ろうとする。
――その時。
青年の勇ましい声が庭に響き渡る。
「マロウータン様! ヨネシゲ殿! おはようございます!」
「ノアさん、おはようございます!」
その声の主はサンディ家臣ノアだった。青年は二頭の馬――白馬と栗毛馬を引き連れながら庭に現れた。
「お二人共、お早いですね!」
「ウホッ。もう少し早く起きるつもりじゃったが……今日は寝坊してしもうた……」
「へへっ……俺はトイレに行ってただけです……」
「ハハッ、そうでしたか」
苦笑を浮かべて答える角刈り。今度は彼がノアに尋ねる。
「そういうノアさんも随分と早いですね」
「はい。いつもこの時間に起きて、旦那様と一緒に近くの滝まで滝行に行っているんですよ。朝の日課というやつです」
「へぇ……こんな夜明け前から滝行に……」
聞くところによると、早朝の滝行はウィンターとノアが長年継続している日課らしい。遠征や悪天候時を除いて、毎朝欠かさず滝に打たれているそうだ。
ノア曰く、ウィンターの並外れた空想術の腕前は、天性のものだけではなく、この滝行で養われた精神力によるものだと説明する。
「――旦那様はご自身のお身体が弱いことをよく理解しています。それをカバーする為に、毎日の滝行や瞑想で精神力と集中力を鍛えているのです」
「なるほど……ウィンター様の強さの秘訣は滝行にあったんですね」
「ええ。まあ……その精神力と集中力をプライベートでも活かしてくれるといいんですが……」
苦笑いを見せるノアに角刈りが言う。
「それにしてもノアさんとウィンター様は流石ですねえ。毎朝欠かさず滝行なんて……そう簡単に続けられるもんじゃないですよ?」
「まあこれも慣れですよ。確かに最初のうちはキツかったですが、気付いたらこの生活に身体が順応しちゃいました」
「確かにそうかもしれませんね……」
角刈りは思い出す。
この世界に転移後は、空想術の特訓の一貫として、毎朝ランニングを始めるようになった。最初のうちは単なる苦行であったが、身体が慣れてきた頃にはランニングは生活の一部となっていた。今では走らない日があると身体がウズウズしてくる程だ。
(何事も慣れだな……)
ヨネシゲがそんな事を考えていると、ノアが落ち着かない様子で辺りを見渡し始める。
「――旦那様が来ないですね……いつもなら俺より先に起きてきて、ここで待っているんですが……」
「そうでしたか……」
普段ならとっくに屋敷を出発している時間であるが、ウィンターは一向に姿を現さない。
角刈りと白塗りがも周囲を見渡していると、長い廊下の奥から人影が見えてきた。
「おっ! ウィンター様が来られ……いや、違う。あの人は――」
人影は彼らが待っている少年ではないようだ。
ヨネシゲは次第に鮮明になる人影を見つめながら、その名を口にする。
「貴女は……テレサさん」
角刈りたちの前に現れた、メイド服を着こなした紫髪の彼女は――エスタ専属侍女『テレサ』だ。そして彼女の腕の中には――ウィンターの愛猫『ニャッピー』の姿もあった。
テレサは角刈りたちに一礼した後、ノアにある事を願い出ようとする。
「皆様、おはようございます」
「「おはようございます」」
「お早う」
「実は……ノア様にお願いがございまして……」
「お願い?」
すると侍女の口が開かれるよりも先に、ニャッピーが要件を伝える。
「ノアよ、今日の旦那様の滝行はお休みザマスニャ!」
「お休み?」
「そうザマスニャ! 旦那様はお疲れでまだ寝てるザマスニャ!」
「まだ寝てる……だと!?」
驚いた様子の青年にテレサも願い出る。
「ノア様。私からもお願いです。滝行がウィンター様の日課である事は重々承知しておりますが……エスタ様と一緒に幸せそうに眠るお姿を見てしまったら……とても起こせません……」
一人と一匹の願い出にノアは――
「――わかった。旦那様には『今日の朝はゆっくりと過ごしてください』とお伝えしてくれ」
「畏まりました。その旨、ウィンター様にお伝えします」
「流石ノア、話がわかるザマスニャ!」
テレサとニャッピーは満足げに微笑みながらその場を後にした。
一方のノアは主君の愛馬を見つめながら言葉を漏らす。
「旦那様が滝行を休むなんて……初めてだよ……――仕方ねえ、俺一人で行くとするか……」
ここでヨネシゲが青年に申し出る。
「ノアさん、もし宜しければ俺もご一緒してもいいですか? 少しでも空想術のレベルアップに繋がるなら、俺も滝行を日課にしたい……」
角刈りの言葉を聞いたノアが嬉しそうに笑みを零す。
「はい! 大歓迎です! 是非お越しください!」
そして白塗り顔も――
「ノア殿、儂も一緒にいいかの? 久々に滝行で身を清めとうなったわ」
「はい! 喜んで!」
かくしてヨネシゲとマロウータンはノアと共に早朝の滝行へと向かうのであった。
つづく……




