第389話 日出る刻
サンディ家屋敷の一室。
クラフト夫妻が就寝する客間には、爆音の鼾が轟いていた。
鼾の主――ヨネシゲは、四肢を布団から放り出し、涎を流しながら爆睡中。
その隣では角刈りとは対象的に、ソフィアが静かな寝息を立てていた。
夫の鼾をものともせず、平然と睡眠を取ることができるのは、彼女の特技かもしれない。
いずれにせよ、気持ちよさそうに眠る夫妻であったが――途轍もない脅威が迫っていた。
突如として、部屋の襖がゆっくりと開かれた。と同時に床を這いながら部屋に侵入する人影。
人影は物音一つも立てず、ヨネシゲに接近――その布団の中へと入り込んだ。
ヨネシゲが異変に気が付いたのは、それから間もなくしてのことだった。
全身が火照り、寝苦しさを覚えた角刈りが、眠りの世界から帰還する。
意識を取り戻した彼が最初に感じ取った違和感は――全身に絡みつくような温もりだった。それは抱擁を受けているような感覚だ。
続けて角刈りの胸板と腹部に何か温かいものが這っていく。まるで人の手で撫でられているような擽ったさを覚える。
(一体……何が起きているんだ? いや……きっとソフィアが俺に抱きついているんだろう……)
思考を巡らせる角刈りだったが、そうこうしている間に再び睡魔が襲ってきた。――が。
(ソフィアが布団から落ちてるといけねえ……ちょっと確認するか……)
ヨネシゲは己を奮い立たせて瞳をゆっくりと開いた。
角刈りはソフィアの布団に視線を移すと――そこにはスヤスヤと気持ち良さそうに寝息を立てる愛妻の姿。
(なんだ……ちゃんと布団の上で寝てるじゃんか……――って?! そうなると……この温もりの正体は……――)
角刈りに緊張が走る。
彼は恐る恐る布団の中に視線を移した。
そこには――妖艶に微笑む美女の顔。
「ウフフ……こんばんは、ヨネさん」
「いっ?! うわあああああああっ!!」
ヨネシゲは絶叫。
それもその筈。布団の中で自分に四肢を絡める妖艶美女――グレースの姿を目撃してしまったのだから。
「――あなた……? どうしたの……?」
「ひっ!? ソ、ソフィア!?」
案の定、ヨネシゲの悲鳴でソフィアが目を覚ます。角刈りは透かさずグレースを布団の中に隠すと、引き攣った顔を愛妻に向ける。
「何か……凄い悲鳴が聞こえたような……」
「ヘアッ?! ナッハッハッ……ご、ごめんごめん……ちょっと悪い夢を見ちまってな……その……マロウータン様が褌一丁姿でキスを迫ってきてな……」
「あら……そうなの……――」
直後、寝息を立てるソフィア。
どうやら彼女も睡魔には抗えなかったようだ。
(ソフィア……ごめん……君に嘘をついてしまった……そしてマロウータン様……嘘の道具として使ってしまい本当に申し訳ありません!)
角刈りは心の中で愛妻と主君に全力土下座。
しかし最悪の展開は回避できた。
ヨネシゲは安堵の溜め息を漏らすと、布団の中に隠れたグレースに尋問する。
「――グレース先生……一体なんのつもりだ……?!」
角刈りが小声で尋ねると、グレースは悪びれた様子も見せず、色っぽい囁きで返答する。
「ウフフ……ヨネさんを癒やしに来たんですよ……」
「俺を癒やしに……?」
「ええ……ここ最近は多忙でしたからね……流石のヨネさんも疲れが溜まっていることでしょう……ですので……色々とお礼を兼ねて……私がご奉仕して差し上げましょう――」
「ダメだダメだ! 常識的に考えてそんなの無理だ!」
全力で断るヨネシゲ。
例え、グレース心からの善意であっても、倫理的に受け取ることはできない。
「グレース先生のお気持ちは十分理解した……心配してくれてありがとな……だが……こんなところをソフィアに見られたら……俺の人生は終焉を迎えることになる……さあ、早く部屋に戻るんだ――」
角刈りは身体を起こすと、彼女から布団を剥ぎ取る。
――だがしかし。
ヨネシゲの目玉が飛び出る。
「なんだその格好はっ!?」
「ウフフ……寝巻きですよ……」
「ふざけるなっ! それは単なる下着姿だろうがっ!」
ヨネシゲが再び驚愕する理由――それは、真紅の下着だけを身に着けた、極限まで肌を露出させる彼女の格好にあった。
自慢の美脚は付け根から先端までを曝け出し、ブラジャーで覆われた豊満な膨らみは今にも零れ落ちそうだった。
目のやり場に困ったヨネシゲは、再度彼女に布団を掛ける。
「グレース先生……頼むから服を着てくれよ……」
「ごめんなさいね……服は部屋に置いてきちゃったわ……」
「勘弁してくれよ……」
頭を抱えるヨネシゲ。
するとグレースが大胆な行動に出る。
「ウフフ……でもヨネさん……こういうの大好きなんでしょ?」
「――うおっ?! ちょ、ちょっと!」
突然、布団の中から飛び出すグレース。彼女は角刈りに抱きつくと、その身体を布団の中へと引きずり込む。
「おいよせっ! 離れるんだ!」
暴れるヨネシゲの耳元で妖艶美女が甘く囁く。
「ウフフ……飲んだ後だからムラムラしてるでしょう? 私がヨネさんの心と体をスッキリさせてあげますよ――」
「や、やめろっ!」
グレースの手が角刈りの下半身へと伸ばされた――
「――あなた?」
「「!!」」
角刈りが振り返ると、瞳を半開きにしながらこちらを見つめるソフィアの姿があった。
「……どうしたの? 誰かと話してたみたいだけど……?」
「ヘアッ?! ナッハッハッ……た、多分俺の寝言だ……起こしちまってすまんな……」
「なら良いんだけど……女の人の声も……聞こえた気がしたから……」
「そ、そうか? 気の所為じゃねえか……?」
「そうかも……ね……――」
瞳を閉じたソフィア――程なくすると彼女の静かな寝息が角刈りの耳に届いてきた。
そのままソフィアの様子を窺うも、起きる様子はなさそうだ。
――今回も気付かれずに済んだ。
ホッと胸を撫で下ろした角刈りは、布団の中に身を潜めるグレースに向き直る。ところが――
「――グレース先生よ……頼むから部屋に戻って――って?……あれ?」
角刈りの瞳には、気持ち良そさそうに寝息を立てるグレースの美貌が映し出されていた。
「――どうすんだよ……これ……」
心底疲れ切った表情を見せる角刈り。
その後、誰にも気付かれないように、彼女を部屋まで送り届けたことは言うまでもない。
――明るみを帯びるフィーニスの空。
長くて深い夜も間もなく明けようとしていた――が、この広大な大地を持つトロイメライ。いち早く日の出を迎えようとする街があった。
――アルプ領・サンライト。
『日出る都』と呼ばれる王国最東部のこの街は、その通称通りトロイメライで一番最初に日の出を迎える。
サンライトの街を見下ろすように聳え立つ平山城は――名門『リゲル公爵家』の居城『サニー城』だ。
サニー城の一室。
その畳が敷かれた広間の大窓からは、朝焼けの空と、間もなく朝日が顔を覗かせるトロイメライ東海の水平線、サンライトの街が一望できる。
広間の中央に敷かれた布団の上には、息子や家臣たちに見守られながら眠りに就く、つるつる頭の老年大男。彼こそが『東国の猛虎』の異名を持つトロイメライ最強のレジェンド――アルプ地方領主『タイガー・リゲル』だ。
しかし、伝説と呼ばれた男も病には抗えず。間もなく天命の時を迎えようとしていた。
タイガーが意識を失ってから五日が経過。
虎は、娘である王妃『レナ』の依頼で、犯罪の温床『ウィルダネス領』を実効支配する豪族『ノーラン・ファイター』の討伐に向かっていたが、その道中、体調が急変。二日前にこの居城に帰還した次第だ。
意識を失い続ける虎に片時も離れずに寄り添い続ける男は、彼の息子『レオ・リゲル』である。
レオは父親の手を握りながら語り掛ける。
「――父上……どうか……目を覚ましてくだされ……」
「レオ様……少しお休みになられた方が……」
父親の回復を心から願うレオ。タイガーが倒れてからはまともに睡眠を取っておらず、その顔は憔悴しきっていた。そんな後継者を気遣うように重臣『バーナード』が声を掛ける。
すると広間の外から幾つもの慌ただしい足音が轟いてきた。そして――
「「タイガー様っ!!」」
『マッスルーッ!!』
広間に雪崩込んできた筋肉集団。
その先頭に立つ老年マッスルの大男は――重臣『カルロス・ブラント』。
そして老年マッスルの隣の細マッチョは、彼の息子『ケンザン・ブラント』だ。
更に筋肉親子の後方には血相を変えたマッスルたちの姿があった。
彼らはタイガーの命を受け、改革戦士団の襲撃を受けた『カルムタウン』の復興支援の任務に当たっていた。しかし、主君が危篤状態だと知り、部隊をカルムから撤収。砲弾の如く勢いでアルプに帰還した。
重臣カルロスはタイガーの元まで歩み寄ると、今にも泣き出しそうな声で主君に呼び掛ける。
「タイガー様……朝ですぞ……筋トレの時間です……目を開けてくだされ……死ぬにはまだ早すぎですぞ……」
「コラッ! 縁起でもないことを言うなっ!」
カルロスの言葉を聞いたバーナードが透かさず同輩を叱りつける。
――その時。虎に異変が起こる。
「う……うぅ……」
「父上?!」
「「タイガー様っ!?」」
『マッスルーッ?!』
突如、主君が漏らすうめき声に、一同驚愕の表情を見せた。
そして――虎の瞳がゆっくりと開かれる。
「――……おお……レオよ……それにお前たちも……起きておったか……」
「ち、父上……よくぞお目覚めになられた……」
感激のあまり涙を流すレオ。そんな息子にタイガーは優しく微笑みかけると、力を振り絞るような掠れた声で語り始める。
「レオよ……お前は昔から……泣き虫であったのう……」
「父上……」
「儂がちょっと……叱りつけただけで……ワンワンと……犬のように泣いておった……するとレナが……儂の所へ駆け寄ってきて……レオをイジメるなと……よく怒られたものじゃ……あの頃が……懐かしいのう……」
「はい……懐かしゅう……ございます……」
「お前と……レナは……本当に良き姉弟じゃ……――レオよ……」
「はい……」
「レナをしっかりと……支えてやれ……あの娘は……少々先急いでおる……このままでは……いずれ大きな過ちを……犯すことじゃろう……」
「……っ」
レオたちは顔を俯かせる。
意識を失っていたタイガーは真実を知らない。――レナがクーデターに失敗し、新王政側の手中にあることを。
そうとは知らずに虎が言葉を続ける。
「もし……お前たちの力だけで……どうにもならなかったら……サンディを頼れ……」
「サンディを……?」
「左様……あの小僧は……救いを求めてきた者を……見捨てるような真似はしない……プライドなど捨てて……宿敵と手を組むのじゃ……」
「し、しかし……」
「よいな……?」
「はい……」
そしてタイガーは重臣たちに視線を移す。
「バーナードよ……カルロスよ……」
「「ははっ!」」
「世話の焼ける……息子と……娘を……支えてやってくれ……」
「「承知……仕りました……!」」
二名の重臣は畳に額をつけながら、主君の思いを受け取った。
重臣の返事を聞いたタイガーは安堵の表情を見せた後、息子に言い付ける。
「レオよ……身体を起こしてくれぬか……朝焼けを見たい……」
「は、はい! 只今――」
タイガーは息子に上半身を起こされると、その腕に支えられながら、正面の大窓に映る朝焼けを見つめる。
「――間に合って良かった……この城……このサンライトから見る朝焼けは……世界で一番美しい……朝焼けじゃ……」
悟ったように言葉を振り絞るタイガー。その様子を見守っていた家臣たちから涙声が漏れ出す。
――そして、その時が訪れる。
「――おお……見よ……日の出じゃ……新しい朝が……訪れたぞ……」
水平線から朝日が顔を覗かせると、まばゆい光が、薄暗かったサンライトの街を照らす。
虎が最期の声を振り絞る――
「――皆……つらい時は……天を見上げてみよ……――」
タイガーは朝日に向かって手を伸ばす。
「――これからは……天にて……あのお天道様のように……お前たちを……照らし……続け……る……――」
――その刹那。
タイガーの伸ばされていた手が、力を失い――落ちた。
「――タイガー様……御臨終でございます……」
「ち、父上……」
「「タイガー様……お疲れ様でした……!」」
『ウウウウウゥ……マッスルウウウウウゥ……』
医師が虎の臨終を告げると、広間は悲しみに包まれた。
『――逝ったわね……タイガー・リゲル……』
『ああ……良くも悪くも……タイガーの死は……俺たちの運命を大きく左右することだろう……』
サニー城の上空から大広間の様子を窺っていたのは――タキシードを身に纏った銀髪青年と赤髪の魔女っ子。
レジェンドの死を見届けた二人の表情は険しさを増していた。
「――私たちを完膚なきまで叩きのめした敵は……後にも先にもあの男だけよ……」
「敵ながらあっぱれだった。尊敬に値する――」
その男女――ソードとサラは、黙祷をもって、ささやかな敬意を表した。
――タイガー・リゲル、六十八歳。
東国の猛虎、生きる伝説などと呼ばれ、数々の伝説を残したトロイメライ最強のレジェンドは、日の出と同時にこの世を去った。
タイガーの死は、一つの時代の終焉であり、また、一つの時代の嚆矢でもある。
新たな時代の果てで待ち受けているものは『創造』か『破滅』か――?
或いは『希望』か『絶望』か――?
――それはまだ、誰にもわからない。
つづく……




